第34話 太陽が消えた場所
目に見えるものは、何一つ残っていなかった。
つい先ほどまで、そこには一人の少女がいた。
白銀の髪。
紫水晶の瞳。
自分へ向かって必死に手を伸ばしていた。
『アークファイント!!』
声も、触れた指先の温度も。
まだはっきりと覚えている。
それなのに。
今、目の前にあるのは。
濡れた土と、風に揺れる草だけだった。
「……。」
リカルドはその場へ膝をついたまま、
動くことができなかった。
剣は少し離れた場所へ落ちている。
最後に彼女へ手を伸ばすため自ら投げ捨てた剣。
帝国最強の騎士。
紅蓮の騎士。
第二皇女の専属騎士。
そんなものは、何一つ役に立たなかった。
「……姫様。」
返事はない。
「クリスティ……。」
今まで決して呼ばなかった名。
ほんの少し前、初めて叫んだ。
けれど、それすら届かなかった。
伸ばした右手をゆっくりと握る。
指先にはもう、彼女の温度は残っていなかった。
◇
孤児院の庭には誰も近付けなかった。
宮廷へ急報が送られ、残された護衛騎士たちは、
歪みが消えた地点を中心に、周囲を封鎖していた。
子どもたちは、職員と共に建物の中へ避難させられた。
それでも、窓の向こうから泣き声が聞こえていた。
「クリスティお姉ちゃん……。」
「約束したのに……。」
来年も、その次も、ずっと会いに来ると。
ほんの少し前に約束したばかりだった。
リカルドは、顔を上げることができなかった。
どれほどそうしていたのか。
やがて、静まり返った庭の向こうから、
複数の馬蹄の音が近付いてきた。
速い。
こちらへ向かっていた蹄音が、
門前で乱れるように止まった。
直後、地面を強く踏む足音。
普段なら供を待つ男が、
今日は誰より先にこちらへ歩いてくる。
「……クリスティは。」
リカルドの身体が強張った。
聞き慣れた声だった。
何度も命令を受け、何度も言葉を交わしてきた声。
けれど、これほど掠れた声を、
リカルドは一度も聞いたことがなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、
皇帝ルーファス。
その後ろには、
レオンハルトとヴィオレットの姿もあった。
「……陛下。」
声が、上手く出なかった。
ルーファスはリカルドを見る。
そして、その奥。
何もなくなった庭へ視線を向けた。
「……ここか。」
「はい。」
リカルドは、地面へ目を落とした。
「こちらで……。」
喉が詰まる。
「奈落の歪みが発生し、姫様は、
取り残された子どもを救われた後……。」
続かない。
言葉にすれば、本当に起きたことになってしまう。
けれど、報告しなければならない。
自分は彼女の騎士なのだから。
「……歪みに、飲み込まれました。」
静寂のあと、ルーファスの表情が消えた。
十七年前。
同じ絶望を、ルーファスは知っている。
皇城の庭園。
奈落の歪み。
消えた二歳の娘。
「……またか。」
誰に聞かせるでもなく声が零れた。
「また……。」
ルーファスは、ゆっくりと歪みが消えた場所へ歩いていく。
「父上。」
レオンハルトが呼ぶ。
けれど、ルーファスは止まらなかった。
そして、地面へ膝をついた。
湿った土へ手を伸ばす。
何もない。
何も、残っていない。
「……何故だ。」
掠れた声。
「何故……また私の娘なのだ。」
レオンハルトが、強く唇を噛んだ。
ヴィオレットは、何も言えなかった。
二人とも知っている。
十七年前。
ルリスティを奪われた父が、
それから一度も妹の生存を諦めず、
探し続けてきたことを。
そして今日。
同じ奈落が、もう一人の妹を奪った。
◇
「陛下。」
リカルドの声がした。
ルーファスが振り返る。
リカルドは未だ地面へ膝をついたまま、
深く頭を下げていた。
「申し訳……ございません。」
「……。」
「私は。」
拳が震える。
「姫様をお守りすると、そう誓っておきながら……。」
目の前から奪われた。
伸ばした手は届かなかった。
「守ることが……できませんでした。」
声が崩れた。
「申し訳ございません。」
深く、額が地面へ届きそうなほど頭を下げる。
「申し訳……ございません……。」
「リカルド。」
ルーファスの声。
リカルドは顔を上げられない。
「顔を上げろ。」
「……できません。」
「命令だ。」
その言葉に、ゆっくりと顔を上げる。
黒い瞳には深い絶望が浮かんでいた。
ルーファスはその顔を見つめる。
この男が、どれほど娘を大切にしていたのか知らないはずがない。
まだクリスティが幼かった頃。
「私の騎士になって」と願われたあの日から、
この男はずっと娘を大切にしてきた。
三年間離れていた時でさえ、
その想いが消えていなかったことを、
ルーファスは知っている。
そして今、自分と同じ顔をしている。
守れなかった。
その一つだけで、自分自身を許せなくなっている顔。
十七年前。
自分も、同じ顔をしていたのだろう。
「お前の責任ではない。」
リカルドの瞳が揺れる。
「ですが――」
「違う。」
ルーファスは、はっきりと言った。
「クリスティが自ら、子どもを救うために動いたのだろう。」
「……はい。」
「ならば、止められなかっただろう。」
目を閉じる。
あの子はそういう娘だ。
目の前で、誰かが助けを求めていれば、
自分の危険などきっと考えもしない。
「それでも私は――」
「リカルド。」
ルーファスは静かに、だが強く告げた。
「まだ、クリスティを失ったと決まったわけではない。」
「……。」
「死を確認した者はいるか。」
「……おりません。」
「ならば。」
クリスティと同じ紫水晶の瞳が真っ直ぐに騎士を見る。
「あの子は生きている。」
根拠などない。
十七年前。
同じように娘を奪われたあの日から、
ルーファスは何度も自分自身へそう言い聞かせてきた。
そして今日まで、ルリスティが生きているという信念を、
一度たりとも手放したことはない。
ならば、今回も同じだ。
死を確認していない。
どこかにいる。
ならば探すだけだ。
「立て、リカルド。」
「陛下……。」
「お前は、あの子の騎士なのだろう。」
その言葉に。
リカルドの息が止まる。
ルーファスは娘が消えた場所を見た。
「なら、泣くのも、自分を責めるのも、
すべて連れ戻してからにしろ。」
長い沈黙。
やがてリカルドの右手が地面へついた。
力を込め、震える脚で立ち上がった。
「……御意。」
声はまだ掠れていた。
それでももう一度。
「必ず」
黒い瞳へ僅かに光が戻る。
「姫様を、お迎えに参ります。」
◇
「ヴィオレット。」
ルーファスが呼ぶ。
「はい。」
ヴィオレットは、すでに歪みが存在した場所へ視線を向けていた。
「調べられるか。」
「……分かりません。」
いつもの彼女なら、もっと明確に答えただろう。
けれど今だけは、目の前から妹を奪われた一人の姉だった。
「ですが、調べます。」
一歩前へ出る。
魔力を静かに地面へ流す。
僅かな違和感を辿るように、
意識を空間へ広げていく。
――何かが、残っている。
「閉じた直後です。」
ヴィオレットの表情が引き締まる。
「痕跡が残っている可能性があります。」
「魔術師団を総動員しろ。」
「はい。」
「使える資料も、術式も、人間もすべて使え。」
「承知いたしました。」
妹を取り戻す。
そのためなら、使えるものは何でも使う。
ヴィオレットは、もう一度地面へ手を伸ばした。
「レオンハルト。」
「はい、父上。」
第一皇子は、すでにいつもの冷静な顔へ戻っていた。
「現場を完全に封鎖しろ。目撃者の保護、魔力残滓の保存、
過去の奈落の歪みに関する全記録を集めろ。」
「すでに手配を始めています。」
ルーファスが僅かに息を吐く。
「……そうか。」
レオンハルトは妹が消えた場所を見る。
胸の奥では叫びたいほどだった。
また妹を奪われた。
十七年前は、何もできなかった。
けれど、今は。
「父上、クリスティは生きています。」
迷わず言う。
ルーファスの瞳が息子へ向いた。
「必ず連れ戻します。」
レオンハルトは強く言い切った。
「……ああ。」
◇
孤児院の窓の向こう。
泣き疲れた子どもたちが寄り添っていた。
その中の一人、クリスティに助けられた少年が、
職員の服を掴んだまま庭を見ている。
「クリスティお姉ちゃん戻ってくる?」
小さな声。
誰もすぐには答えられなかった。
やがてリカルドがその声へ振り返った。
少年と目が合う。
「……戻られます。」
静かに。
それでも迷わず答えた。
「本当?」
「はい。」
胸元へ拳を当てる。
「必ず。」
それは、子どもへ向けた言葉であり。
皇帝へ、家族へ、そして。
自分自身へ向けた誓いだった。
「私が、必ずお迎えに参ります。」
◇
それから。
陽が落ち始めても、
ルーファスたちはその場所を離れようとはしなかった。
魔術師たちは歪みの痕跡を採取し、騎士たちは周囲を捜索する。
レオンハルトは次々と指示を出し、
ヴィオレットはその場で残留魔力の解析を続けていた。
ルーファスは、しばらく娘が消えた場所を見つめ続けていた。
リカルドもまた、何度も空になった右手を握った。
あと少しだった。
指先は確かに触れた。
次は必ず掴む。
「……姫様。」
小さく呼ぶ。
返事はない。
それでも今度は俯かなかった。
「待っててください。」
暗くなり始めた空の下。
一人の騎士は静かに誓った。
「必ず、見つけます。」
その夜。
皇帝は、娘を奪われた父として。
兄と姉は、妹を取り戻す家族として。
そして、一人の騎士は、
何よりも大切な人を、
もう一度その手で迎えに行くために。
同じ場所から、それぞれの戦いを始めた。




