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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第33話 届かなかった手

雨は、夜のうちに上がっていた。

前日まで空を覆っていた雲は消え。

朝の帝都には、柔らかな陽光が差し込んでいる。

まるで、昨日の出来事など、

最初から何もなかったかのような朝だった。



皇城の正門前。


帝都郊外へ向かう馬車が、出発の準備を整えていた。

本日の目的地は、

クリスティが以前から定期的に訪れている孤児院。

皇族としての慈善活動であり、

民の暮らしを直接知るための視察でもある。


クリスティ自身もまた、

そこで暮らす子どもたちへ会うことを、心から楽しみにしていた。


「おはよう、アークファイント。」

明るい声に、馬車の前で待っていたリカルドが振り返る。

「おはようございます、姫様。」


白を基調とした外出用のドレス。

緩やかに結い上げられた白銀の髪。

紫水晶の瞳。

そして、いつもと変わらない柔らかな笑顔。


昨日、涙を流しながら。

『アークファイントが好き。』

そう告げた人とは思えないほど、

クリスティは普段と変わらぬ姿でそこに立っていた。


「晴れてよかったね。」

クリスティは朝の空を見上げた。

昨日までの雨が嘘のように、淡い青空が広がっている。

「はい。ただし、地面にはまだ濡れている箇所がございます。」

リカルドの視線は空ではなく、雨を残した石畳へ向けられていた。

「分かってるよ。」

そう答えて馬車へ歩き出したクリスティの足元を、

リカルドは当然のように目で追う。


「姫様は、分かっていると仰りながら走られますので。」

「今日は走らないもん。」

クリスティが振り返る。

けれど、リカルドの表情は変わらない。

「先月も同じことを仰っておられました。」

「先月は先月。今日は今日です。」

「左様でございますか。」

あまりにも淡々と返され、クリスティは足を止めた。

「信じてないでしょう?」

「経験に基づいて判断しております。」

「もう。」

頬を膨らませながら、

差し出されたリカルドの手を取って馬車の段差へ足を掛ける。


乗り込む直前、クリスティはいつものように笑った。

変わらないやり取り、変わらない距離。

少なくとも、傍から見ればそう見えただろう。


けれどリカルドには分かっていた。

笑った拍子に細められた紫水晶の瞳。

その下には、化粧でも隠しきれない疲れが残っている。

何より、その笑顔があまりにも綺麗すぎた。

昨日、自分の前で泣いていた人と同じとは思えないほどに。

リカルドは、クリスティが馬車へ乗り込む前に声を掛けた。


「姫様。」

「何?」

いつもの調子で振り返る。

「昨日のことですが――」

その瞬間、クリスティの笑顔がほんの僅かに固まった。

けれど、それも一瞬だった。


「ストップ。」

片手を上げ、まるで話そのものを押し戻すように制する。

「ですが。」

「忘れてって言ったでしょう?」

リカルドが何かを言おうとすると、クリスティは困ったように笑った。


「最後のわがままだと思ってって。」

そして少しだけ身体を屈め、下からリカルドの顔を覗き込む。

「アークファイントは、

私のお願いを聞いてくれないの?」


幼い頃と変わらない言い方だった。

何かをねだった時。

公務から逃げ出そうとして見つかった時。

都合が悪くなると、よくこうして笑った。

けれど今、忘れてほしいと願っているものは、

菓子でも小さないたずらでもない。

昨日、自分へ告げた恋そのものだった。


「忘れることは、できません。」

リカルドは静かに答えた。

クリスティの瞳が揺れる。

「ですが、姫様が今は触れないでほしいとお望みなのでしたら、

そのご意思には従います。」

しばらくクリスティは彼を見つめていた。

「……そっか。」

そして少しだけ寂しそうに笑った。

「ありがとう。でも、大丈夫だよ。」


振り返りいつもの笑顔を浮かべる。

「ほら。今日はちゃんと笑えてるでしょう?」

リカルドは答えられなかった。


昨日。

『もう、笑えない』

そう泣いていた少女が。

今日は何事もなかったように笑っている。

それが、大丈夫である証になるはずがなかった。


「行こう、アークファイント」

「……はい、姫様」

クリスティは馬車へ乗り込む。

その背中はどこまでも堂々とした皇女のものだった。

ただ、ドレスの裾を握る指先だけが小さく震えていた。



帝都郊外。

馬車が孤児院へ到着すると。

「クリスティお姉ちゃん!」

扉が開くより早く子どもたちが一斉に飛び出してきた。

「来た!」

「今日は晴れたよ!」

「昨日、みんなでお願いしたの!」

「そうだったの?」

クリスティは膝を折り。

駆け寄ってきた子どもたちを、両腕で受け止める。


「それなら、みんなのお願いがお空へ届いたのね」

「やったー!」

笑い声が広がった。

そしてクリスティも笑った。

今度は誰かを安心させるためではなく。

子どもたちに囲まれているうちに自然と零れた笑顔だった。


リカルドは、少し離れた場所からその姿を静かに見守っていた。

ここでは、帝国の第二皇女ではない。

ただ子どもたちが大好きな、クリスティお姉ちゃんだった。


「今日は何する?」

クリスティが尋ねると、

子どもたちは待ってましたとばかりに声を揃えた。

「鬼ごっこ!」

その瞬間。

「今日は走られません。」

間髪入れず、リカルドの低い声が飛んだ。

子どもたちから一斉に不満の声が上がる。


昨日の雨で庭にはまだ湿った場所が残っている。

転んで怪我をする可能性がある以上、彼が許すはずもなかった。

「アークファイントは心配性だなぁ。」

クリスティが少し唇を尖らせる。

「姫様が心配を掛けられるからです。」

あまりにも当然のように返され、子どもたちがくすくすと笑った。


そのうちの一人が、

二人を交互に見上げる。

「アークファイントお兄ちゃん、

クリスティお姉ちゃんのお父さんみたい!」

「違うよ!」

今度はクリスティが間髪入れずに否定した。

「アークファイントは、私の騎士なの。」

「きし?」

「私を守ってくれる、とっても強い人。」

胸を張るように紹介すると、子どもは少し考え込んだ。


「じゃあ、だんなさん?」

「違うってば!」

今度こそ、クリスティの顔が一気に赤くなる。

子どもたちは何がそんなにおかしいのか分からないまま、

楽しそうに笑った。

その笑い声の中で。

クリスティは、ふと隣の騎士を見上げる。

表情はいつも通りだった。


「……アークファイント。」

「何でしょう。」

「耳、赤くない?」

「気のせいです。」

視線を逸らすことなく、真顔で言い切る。

クリスティは少しだけ首を傾げた。

「そう?」

「はい。」

その返事が妙に早かったことには、気付かなかった。



昼過ぎ。


クリスティは、子どもたちへ絵本を読んでいた。

物語の中では。

遠い国へ消えてしまった姫を探すため。

一人の騎士が旅へ出ようとしている。


「どうして一人で行くの?」

小さな少女が尋ねる。

「お姫様を守るのが、その騎士の役目だったから。」

「でも、一人じゃ危ないよ。」

「そうね。」

「みんなで行けばいいのに。」


クリスティは。

挿絵へ描かれた騎士を見つめた。

「きっと、大切な人を迎えに行くためなら、

一人でも怖くなかったのよ。」

そう言って柔らかく笑う。

少し離れた場所でリカルドが僅かに顔を上げた。

けれど、クリスティは気付かないまま次の頁を捲った。



午後。


庭へ出た子どもたちと過ごしていた時。

一人の少年が、しばらくクリスティの顔を見つめていた。

「どうしたの?」

声を掛けると、少年はうまく言葉にできないように首を傾げる。

「今日、ちょっと元気ない?」

クリスティの笑顔が止まった。

「笑ってるのに、なんか悲しそう。」

何も返せなかった。


子どもの目は時に、大人よりも真っ直ぐに、

隠しているものを見つけてしまう。

「そんなことないよ。今日は、みんなに会えて嬉しいもの。」

すぐにいつもの笑顔を作る。

けれど少年は、まだ少し心配そうに彼女を見上げていた。

やがて何かを思いついたように、小さな両腕をいっぱいに広げる。


「じゃあ、ぎゅってしたら元気になる?」

クリスティの瞳が揺れた。

ほんの少し迷ってから、その小さな身体をそっと抱き締める。

「……なるよ。」

腕の中の温もりに、張り詰めていたものが僅かに緩んだ。

「ありがとう。」


声が、ほんの少しだけ震えた。

少年は気付かなかった。

けれど、少し離れた場所で見守っていたリカルドには、

その震えがはっきりと聞こえていた。


守りたい。

ただ強くそう思った。

騎士としてなのか。

一人の男としてなのか。

もう、その境目すら。

自分には分からなくなっていた。



夕刻。


別れの時間が近付くと、

子どもたちは名残惜しそうにクリスティの周りへ集まってきた。

次はいつ来るのか、また一緒に遊べるのか。

次々と尋ねられ、

クリスティは予定が決まれば必ず知らせると笑って答える。


その時。

一人の子どもが、ふと思い出したように尋ねた。

「来年も来てくれる?」

「もちろん。」

迷わず答える。

「その次も?」

その一言に、クリスティの表情がほんの僅かに止まった。


来年、その先。

昨日まで、当たり前のように続くと思っていた未来。

けれど今は、その言葉が少しだけ胸に刺さる。

それでも、クリスティは柔らかく笑った。


「来年も、その次も、ずっとみんなに会いに来るよ。」

「約束?」

差し出された小さな指へ、クリスティも自分の指を絡める。

「約束。」

子どもの顔が、ぱっと明るくなった。

その姿を、少し離れた場所からリカルドは静かに見つめていた。


昨日、自分がその想いに応えることのできなかった人が。

今日、当たり前のように来年の約束をしている。

来年も、その次も。

その未来に、自分も変わらずいるのだと信じているように。

そのことが。

何故か、胸の奥を微かに痛ませた。



馬車へ戻るため。

一行が庭を横切っていた時だった。


風が止まった。

「……?」

クリスティが足を止める。

木々の葉も、鳥の声も。

まるで世界そのものが息を潜めたように静かだった。


「アークファイント?」

返事はなかった。

リカルドはすでに剣の柄へ手を置いていた。

「総員。」

低い声が響く。

「姫様と子どもたちを囲め。」

護衛騎士たちが即座に動く。

「何があったの?」

「分かりません。」


そう答えながらリカルドは庭の中央を睨んでいた。

何もなかったはずの空間。

そこだけが、熱に晒された景色のように不自然に揺らいでいる。


――ズ……ッ。


低い音。

地鳴りでも、雷鳴でもない。

世界そのものが軋むような音。


「きゃっ!」

「何!?」

子どもたちが怯える。

「全員、建物の中へ!」

リカルドの声が飛ぶ。

「急げ!」

騎士たちが、職員と子どもたちを誘導する。


そして。

歪みの中心へ細い黒い線が生まれ、

空間をゆっくりと裂いていく。


リカルドの顔から血の気が引いた。

帝国各地で、ごく稀に報告される現象。

突如として現れ、

出現場所も、規模も、持続時間も一定しない、

小規模な空間の亀裂。

そして、そこへ飲み込まれた者が帰還した記録は一つもない。


「……奈落の歪み。」

掠れた声が落ちた。

クリスティも、

ヴィオレットたちからその存在について聞いたことがある。


今、それと同じものが、

クリスティの目の前に現れている。


リカルドは剣を抜き、クリスティの前へ立った。

「姫様。決して、私の前へ出ないでください。」

振り返ることなく告げる。

いつもの声ではなかった。

鋭く、一切の余裕がない。


黒い亀裂がゆっくりと大きく広がった。

「お逃げください。」



――バキッ。


空間が砕けた。

黒い亀裂が、一気に口を開く。


「きゃああっ!」

「風が!」


激しい力が、庭のすべてを亀裂へ引き寄せ始めた。

「建物へ!」

「子どもを守れ!」

騎士たちが叫ぶ。


クリスティは必死に周囲を見回した。

子どもたちは、職員たちは。

皆、避難できている。

そう思った、その時。


「……あ。」


一人。

庭の中央に、

小さな男の子が尻もちをついたまま取り残されていた。

恐怖で動くことができない。

「お姉ちゃん……。」

その声を聞いた瞬間、クリスティは走っていた。

「姫様!!」

リカルドの声が響く。


『私の前へ出ないでください。』

ほんの少し前に言われたばかりだった。

それでも助けを求める子どもを見て、立ち止まれるはずがなかった。

「大丈夫!」

男の子を抱き上げる。

「怖くないよ。目を閉じて!」

小さな身体をしっかりと抱き締める。

「お願い!」

そして、待機していた騎士へ力いっぱい押し出した。


騎士が少年を受け止める。

助かった。

そう思ったその瞬間。

「――っ!」

クリスティの身体が宙へ浮いた。

「姫様!!」

奈落の歪みが、彼女を引き寄せていた。


リカルドは地を蹴った。

剣を捨てた。

そんなものはもう必要なかった。

もはや、専属騎士としての務めだけではない。

ただ、一人の男として失いたくなかった。

昨日、好きだと告げてくれた人を。


「姫様!!」

手を伸ばす。

クリスティも、必死に腕を伸ばした。

「アークファイント!!」

あと少し。

指先が触れた。

温かい、確かにそこにいる。

なのに掴めない。


「姫様!!」

あと僅か。

もう一度、指先が届こうとした、その時。

「お願い……!」

クリスティが叫んだ。

「みんなを、お父様を、帝国を……お願い。」

「嫌です!!」

リカルドの声が庭へ響いた。


クリスティの瞳が見開かれる。

それは騎士としての返答ではなかった。

「ご自分で守ってください!!」

「アークファイント……。」

「約束したでしょう!」

声が震える。

「来年も!その次も!ここへ来ると!!」

さっき交わしたばかりの約束。

「破らないでください!!」


黒い力がさらに強くなる。

クリスティの身体が亀裂の奥へ引きずられていく。

「アークファイント!」

「姫様!!」

届かない、届いてくれ。

あと少し。

ただ、それだけなのに。


「……アークファイント。」

クリスティは、最後に不思議なくらい穏やかな顔で笑った。

「昨日のこと、忘れなくていいから……。」

リカルドの息が止まる。

「姫様……。」

「私ね。」

紫水晶の瞳が真っ直ぐに彼を見る。

「あなたに会えて、幸せだった。」

「――っ!」


何かが切れた。

「嫌だ。」

言葉が零れた。

騎士ではない一人の男の声だった。

「行かないでください。」

伸ばす手は届かない。

「嫌だ……!」

クリスティの目が揺れる。


「クリスティ!!」

初めてだった。

敬称も、立場も、騎士として守り続けてきた距離も、

何もかも忘れて、ただ一人の男として、彼女の名を叫んだ。

「……え?」


「クリスティ!!」

もう一度。

「行くな!!」

今、言わなければ一生後悔する。

「私は――!!」

その瞬間、白い光が弾けた。

「アークファイント!!」


世界が白く染まる。

そして静寂が訪れた。



そこには、もう誰もいなかった。

黒い亀裂も歪んでいた空間も、何一つ残っていない。

リカルドだけが手を伸ばしたまま、

その場に立ち尽くしていた。


ゆっくりと拳を開く。

何もない指先に残っていたはずの温かささえ。

もう消えようとしている。

「……クリスティ。」

返事はない。

「……姫様。」

返事はない。

呼べば必ず。

『何? アークファイント。』

そう返してくれた人がいない。


その日。

皇城の太陽は、奈落へ飲み込まれた。

そして一人の騎士は、何よりも愛する人へ。

あと一言、想いを伝えることができなかった。


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