第33話 届かなかった手
雨は、夜のうちに上がっていた。
前日まで空を覆っていた雲は消え。
朝の帝都には、柔らかな陽光が差し込んでいる。
まるで、昨日の出来事など、
最初から何もなかったかのような朝だった。
◇
皇城の正門前。
帝都郊外へ向かう馬車が、出発の準備を整えていた。
本日の目的地は、
クリスティが以前から定期的に訪れている孤児院。
皇族としての慈善活動であり、
民の暮らしを直接知るための視察でもある。
クリスティ自身もまた、
そこで暮らす子どもたちへ会うことを、心から楽しみにしていた。
「おはよう、アークファイント。」
明るい声に、馬車の前で待っていたリカルドが振り返る。
「おはようございます、姫様。」
白を基調とした外出用のドレス。
緩やかに結い上げられた白銀の髪。
紫水晶の瞳。
そして、いつもと変わらない柔らかな笑顔。
昨日、涙を流しながら。
『アークファイントが好き。』
そう告げた人とは思えないほど、
クリスティは普段と変わらぬ姿でそこに立っていた。
「晴れてよかったね。」
クリスティは朝の空を見上げた。
昨日までの雨が嘘のように、淡い青空が広がっている。
「はい。ただし、地面にはまだ濡れている箇所がございます。」
リカルドの視線は空ではなく、雨を残した石畳へ向けられていた。
「分かってるよ。」
そう答えて馬車へ歩き出したクリスティの足元を、
リカルドは当然のように目で追う。
「姫様は、分かっていると仰りながら走られますので。」
「今日は走らないもん。」
クリスティが振り返る。
けれど、リカルドの表情は変わらない。
「先月も同じことを仰っておられました。」
「先月は先月。今日は今日です。」
「左様でございますか。」
あまりにも淡々と返され、クリスティは足を止めた。
「信じてないでしょう?」
「経験に基づいて判断しております。」
「もう。」
頬を膨らませながら、
差し出されたリカルドの手を取って馬車の段差へ足を掛ける。
乗り込む直前、クリスティはいつものように笑った。
変わらないやり取り、変わらない距離。
少なくとも、傍から見ればそう見えただろう。
けれどリカルドには分かっていた。
笑った拍子に細められた紫水晶の瞳。
その下には、化粧でも隠しきれない疲れが残っている。
何より、その笑顔があまりにも綺麗すぎた。
昨日、自分の前で泣いていた人と同じとは思えないほどに。
リカルドは、クリスティが馬車へ乗り込む前に声を掛けた。
「姫様。」
「何?」
いつもの調子で振り返る。
「昨日のことですが――」
その瞬間、クリスティの笑顔がほんの僅かに固まった。
けれど、それも一瞬だった。
「ストップ。」
片手を上げ、まるで話そのものを押し戻すように制する。
「ですが。」
「忘れてって言ったでしょう?」
リカルドが何かを言おうとすると、クリスティは困ったように笑った。
「最後のわがままだと思ってって。」
そして少しだけ身体を屈め、下からリカルドの顔を覗き込む。
「アークファイントは、
私のお願いを聞いてくれないの?」
幼い頃と変わらない言い方だった。
何かをねだった時。
公務から逃げ出そうとして見つかった時。
都合が悪くなると、よくこうして笑った。
けれど今、忘れてほしいと願っているものは、
菓子でも小さないたずらでもない。
昨日、自分へ告げた恋そのものだった。
「忘れることは、できません。」
リカルドは静かに答えた。
クリスティの瞳が揺れる。
「ですが、姫様が今は触れないでほしいとお望みなのでしたら、
そのご意思には従います。」
しばらくクリスティは彼を見つめていた。
「……そっか。」
そして少しだけ寂しそうに笑った。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。」
振り返りいつもの笑顔を浮かべる。
「ほら。今日はちゃんと笑えてるでしょう?」
リカルドは答えられなかった。
昨日。
『もう、笑えない』
そう泣いていた少女が。
今日は何事もなかったように笑っている。
それが、大丈夫である証になるはずがなかった。
「行こう、アークファイント」
「……はい、姫様」
クリスティは馬車へ乗り込む。
その背中はどこまでも堂々とした皇女のものだった。
ただ、ドレスの裾を握る指先だけが小さく震えていた。
◇
帝都郊外。
馬車が孤児院へ到着すると。
「クリスティお姉ちゃん!」
扉が開くより早く子どもたちが一斉に飛び出してきた。
「来た!」
「今日は晴れたよ!」
「昨日、みんなでお願いしたの!」
「そうだったの?」
クリスティは膝を折り。
駆け寄ってきた子どもたちを、両腕で受け止める。
「それなら、みんなのお願いがお空へ届いたのね」
「やったー!」
笑い声が広がった。
そしてクリスティも笑った。
今度は誰かを安心させるためではなく。
子どもたちに囲まれているうちに自然と零れた笑顔だった。
リカルドは、少し離れた場所からその姿を静かに見守っていた。
ここでは、帝国の第二皇女ではない。
ただ子どもたちが大好きな、クリスティお姉ちゃんだった。
「今日は何する?」
クリスティが尋ねると、
子どもたちは待ってましたとばかりに声を揃えた。
「鬼ごっこ!」
その瞬間。
「今日は走られません。」
間髪入れず、リカルドの低い声が飛んだ。
子どもたちから一斉に不満の声が上がる。
昨日の雨で庭にはまだ湿った場所が残っている。
転んで怪我をする可能性がある以上、彼が許すはずもなかった。
「アークファイントは心配性だなぁ。」
クリスティが少し唇を尖らせる。
「姫様が心配を掛けられるからです。」
あまりにも当然のように返され、子どもたちがくすくすと笑った。
そのうちの一人が、
二人を交互に見上げる。
「アークファイントお兄ちゃん、
クリスティお姉ちゃんのお父さんみたい!」
「違うよ!」
今度はクリスティが間髪入れずに否定した。
「アークファイントは、私の騎士なの。」
「きし?」
「私を守ってくれる、とっても強い人。」
胸を張るように紹介すると、子どもは少し考え込んだ。
「じゃあ、だんなさん?」
「違うってば!」
今度こそ、クリスティの顔が一気に赤くなる。
子どもたちは何がそんなにおかしいのか分からないまま、
楽しそうに笑った。
その笑い声の中で。
クリスティは、ふと隣の騎士を見上げる。
表情はいつも通りだった。
「……アークファイント。」
「何でしょう。」
「耳、赤くない?」
「気のせいです。」
視線を逸らすことなく、真顔で言い切る。
クリスティは少しだけ首を傾げた。
「そう?」
「はい。」
その返事が妙に早かったことには、気付かなかった。
◇
昼過ぎ。
クリスティは、子どもたちへ絵本を読んでいた。
物語の中では。
遠い国へ消えてしまった姫を探すため。
一人の騎士が旅へ出ようとしている。
「どうして一人で行くの?」
小さな少女が尋ねる。
「お姫様を守るのが、その騎士の役目だったから。」
「でも、一人じゃ危ないよ。」
「そうね。」
「みんなで行けばいいのに。」
クリスティは。
挿絵へ描かれた騎士を見つめた。
「きっと、大切な人を迎えに行くためなら、
一人でも怖くなかったのよ。」
そう言って柔らかく笑う。
少し離れた場所でリカルドが僅かに顔を上げた。
けれど、クリスティは気付かないまま次の頁を捲った。
◇
午後。
庭へ出た子どもたちと過ごしていた時。
一人の少年が、しばらくクリスティの顔を見つめていた。
「どうしたの?」
声を掛けると、少年はうまく言葉にできないように首を傾げる。
「今日、ちょっと元気ない?」
クリスティの笑顔が止まった。
「笑ってるのに、なんか悲しそう。」
何も返せなかった。
子どもの目は時に、大人よりも真っ直ぐに、
隠しているものを見つけてしまう。
「そんなことないよ。今日は、みんなに会えて嬉しいもの。」
すぐにいつもの笑顔を作る。
けれど少年は、まだ少し心配そうに彼女を見上げていた。
やがて何かを思いついたように、小さな両腕をいっぱいに広げる。
「じゃあ、ぎゅってしたら元気になる?」
クリスティの瞳が揺れた。
ほんの少し迷ってから、その小さな身体をそっと抱き締める。
「……なるよ。」
腕の中の温もりに、張り詰めていたものが僅かに緩んだ。
「ありがとう。」
声が、ほんの少しだけ震えた。
少年は気付かなかった。
けれど、少し離れた場所で見守っていたリカルドには、
その震えがはっきりと聞こえていた。
守りたい。
ただ強くそう思った。
騎士としてなのか。
一人の男としてなのか。
もう、その境目すら。
自分には分からなくなっていた。
◇
夕刻。
別れの時間が近付くと、
子どもたちは名残惜しそうにクリスティの周りへ集まってきた。
次はいつ来るのか、また一緒に遊べるのか。
次々と尋ねられ、
クリスティは予定が決まれば必ず知らせると笑って答える。
その時。
一人の子どもが、ふと思い出したように尋ねた。
「来年も来てくれる?」
「もちろん。」
迷わず答える。
「その次も?」
その一言に、クリスティの表情がほんの僅かに止まった。
来年、その先。
昨日まで、当たり前のように続くと思っていた未来。
けれど今は、その言葉が少しだけ胸に刺さる。
それでも、クリスティは柔らかく笑った。
「来年も、その次も、ずっとみんなに会いに来るよ。」
「約束?」
差し出された小さな指へ、クリスティも自分の指を絡める。
「約束。」
子どもの顔が、ぱっと明るくなった。
その姿を、少し離れた場所からリカルドは静かに見つめていた。
昨日、自分がその想いに応えることのできなかった人が。
今日、当たり前のように来年の約束をしている。
来年も、その次も。
その未来に、自分も変わらずいるのだと信じているように。
そのことが。
何故か、胸の奥を微かに痛ませた。
◇
馬車へ戻るため。
一行が庭を横切っていた時だった。
風が止まった。
「……?」
クリスティが足を止める。
木々の葉も、鳥の声も。
まるで世界そのものが息を潜めたように静かだった。
「アークファイント?」
返事はなかった。
リカルドはすでに剣の柄へ手を置いていた。
「総員。」
低い声が響く。
「姫様と子どもたちを囲め。」
護衛騎士たちが即座に動く。
「何があったの?」
「分かりません。」
そう答えながらリカルドは庭の中央を睨んでいた。
何もなかったはずの空間。
そこだけが、熱に晒された景色のように不自然に揺らいでいる。
――ズ……ッ。
低い音。
地鳴りでも、雷鳴でもない。
世界そのものが軋むような音。
「きゃっ!」
「何!?」
子どもたちが怯える。
「全員、建物の中へ!」
リカルドの声が飛ぶ。
「急げ!」
騎士たちが、職員と子どもたちを誘導する。
そして。
歪みの中心へ細い黒い線が生まれ、
空間をゆっくりと裂いていく。
リカルドの顔から血の気が引いた。
帝国各地で、ごく稀に報告される現象。
突如として現れ、
出現場所も、規模も、持続時間も一定しない、
小規模な空間の亀裂。
そして、そこへ飲み込まれた者が帰還した記録は一つもない。
「……奈落の歪み。」
掠れた声が落ちた。
クリスティも、
ヴィオレットたちからその存在について聞いたことがある。
今、それと同じものが、
クリスティの目の前に現れている。
リカルドは剣を抜き、クリスティの前へ立った。
「姫様。決して、私の前へ出ないでください。」
振り返ることなく告げる。
いつもの声ではなかった。
鋭く、一切の余裕がない。
黒い亀裂がゆっくりと大きく広がった。
「お逃げください。」
◇
――バキッ。
空間が砕けた。
黒い亀裂が、一気に口を開く。
「きゃああっ!」
「風が!」
激しい力が、庭のすべてを亀裂へ引き寄せ始めた。
「建物へ!」
「子どもを守れ!」
騎士たちが叫ぶ。
クリスティは必死に周囲を見回した。
子どもたちは、職員たちは。
皆、避難できている。
そう思った、その時。
「……あ。」
一人。
庭の中央に、
小さな男の子が尻もちをついたまま取り残されていた。
恐怖で動くことができない。
「お姉ちゃん……。」
その声を聞いた瞬間、クリスティは走っていた。
「姫様!!」
リカルドの声が響く。
『私の前へ出ないでください。』
ほんの少し前に言われたばかりだった。
それでも助けを求める子どもを見て、立ち止まれるはずがなかった。
「大丈夫!」
男の子を抱き上げる。
「怖くないよ。目を閉じて!」
小さな身体をしっかりと抱き締める。
「お願い!」
そして、待機していた騎士へ力いっぱい押し出した。
騎士が少年を受け止める。
助かった。
そう思ったその瞬間。
「――っ!」
クリスティの身体が宙へ浮いた。
「姫様!!」
奈落の歪みが、彼女を引き寄せていた。
リカルドは地を蹴った。
剣を捨てた。
そんなものはもう必要なかった。
もはや、専属騎士としての務めだけではない。
ただ、一人の男として失いたくなかった。
昨日、好きだと告げてくれた人を。
「姫様!!」
手を伸ばす。
クリスティも、必死に腕を伸ばした。
「アークファイント!!」
あと少し。
指先が触れた。
温かい、確かにそこにいる。
なのに掴めない。
「姫様!!」
あと僅か。
もう一度、指先が届こうとした、その時。
「お願い……!」
クリスティが叫んだ。
「みんなを、お父様を、帝国を……お願い。」
「嫌です!!」
リカルドの声が庭へ響いた。
クリスティの瞳が見開かれる。
それは騎士としての返答ではなかった。
「ご自分で守ってください!!」
「アークファイント……。」
「約束したでしょう!」
声が震える。
「来年も!その次も!ここへ来ると!!」
さっき交わしたばかりの約束。
「破らないでください!!」
黒い力がさらに強くなる。
クリスティの身体が亀裂の奥へ引きずられていく。
「アークファイント!」
「姫様!!」
届かない、届いてくれ。
あと少し。
ただ、それだけなのに。
「……アークファイント。」
クリスティは、最後に不思議なくらい穏やかな顔で笑った。
「昨日のこと、忘れなくていいから……。」
リカルドの息が止まる。
「姫様……。」
「私ね。」
紫水晶の瞳が真っ直ぐに彼を見る。
「あなたに会えて、幸せだった。」
「――っ!」
何かが切れた。
「嫌だ。」
言葉が零れた。
騎士ではない一人の男の声だった。
「行かないでください。」
伸ばす手は届かない。
「嫌だ……!」
クリスティの目が揺れる。
「クリスティ!!」
初めてだった。
敬称も、立場も、騎士として守り続けてきた距離も、
何もかも忘れて、ただ一人の男として、彼女の名を叫んだ。
「……え?」
「クリスティ!!」
もう一度。
「行くな!!」
今、言わなければ一生後悔する。
「私は――!!」
その瞬間、白い光が弾けた。
「アークファイント!!」
世界が白く染まる。
そして静寂が訪れた。
◇
そこには、もう誰もいなかった。
黒い亀裂も歪んでいた空間も、何一つ残っていない。
リカルドだけが手を伸ばしたまま、
その場に立ち尽くしていた。
ゆっくりと拳を開く。
何もない指先に残っていたはずの温かささえ。
もう消えようとしている。
「……クリスティ。」
返事はない。
「……姫様。」
返事はない。
呼べば必ず。
『何? アークファイント。』
そう返してくれた人がいない。
その日。
皇城の太陽は、奈落へ飲み込まれた。
そして一人の騎士は、何よりも愛する人へ。
あと一言、想いを伝えることができなかった。




