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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第32話 笑顔の終わり

十九歳の誕生日。


その日、皇城は朝から祝福の声に包まれていた。

「クリスティ。誕生日おめでとう。」

「ありがとうございます、お父様。」

ルーファスは、目の前で優雅に礼をする娘を静かに見つめた。


白銀の髪。

紫水晶の瞳。

そして、誰もが心を和ませる柔らかな笑顔。

気付けば腕の中へ抱き上げていた小さな娘は、

もう十九歳になっていた。


そして今日、同じように十九歳を迎えた娘がもう一人いる。

今、どこにいるのか。

どんなふうに笑うのか、何一つ分からないまま。

それでも、生きていると信じてきた。

――ルリスティも、十九歳か。

胸の奥でだけその名を呼び、

ルーファスは目の前の娘へ視線を戻した。


「……大きくなったな。」

「お父様、それは去年も仰っていました。」

「去年より大きくなった。」

「一年でそんなに変わりません。」

「そういう意味ではない。」

クリスティが笑う。

レオンハルトも、ヴィオレットも、皇城の者たちも。


次々と祝福の言葉を贈った。

今日は、自分の誕生日。

だからクリスティも、いつも以上によく笑った。



昼過ぎ。


「姫様。」

執務室へ戻ったクリスティを、リカルドが待っていた。

「アークファイント。」

いつもの濃紺の騎士服。

燃えるような赤い髪。

真っ直ぐな黒い瞳。

「お誕生日、おめでとうございます。」

「ありがとう。」

そして、リカルドは背へ隠していたものを差し出した。


一輪の薔薇。

深く鮮やかな真紅。

「……綺麗。」

思わず、クリスティの顔が綻ぶ。

リカルドはそんな彼女を見つめたあと、

少しだけ言いにくそうに口を開いた。


「花言葉は存じ上げません。」

どうやら、意味を調べて選んだわけではないらしい。

いかにも自分の騎士らしくて、クリスティは思わず笑った。

「ですが。」

リカルドは一度、手の中の薔薇へ視線を落とす。

「姫様には、この色がよくお似合いになると思いまして。」


心臓が、大きく鳴った。

真紅。

アークファイントの髪と、同じ色。

そんなこと、きっと本人は考えていない。


ただ、自分に似合うと思って選んでくれた。

それだけなのに、どうしようもないほど嬉しかった。

「……ありがとう。」

零れた声は、思っていたより少しだけ柔らかかった。

だからこそ、クリスティは溢れそうになる気持ちを、

そっと胸の奥へ押し戻した。


――言わない。

そう決めたばかりではないか。

この人を好きだという気持ちは自分の中だけに置いておく。

「姫様?」

「ううん。何でもないよ。」

そして、いつものように笑った。



夜。


クリスティの誕生日を祝う夜会には、

帝国中から多くの貴族が集まっていた。

十九歳となった第二皇女。

帝国を支える皇族の一人として。

そして、一人の令嬢としても。

彼女へ注がれる視線は、以前にも増していた。


「殿下も十九歳になられましたか。」

「そろそろ、良いお相手をお考えになる頃でしょう。」

「クリスティ殿下ほどのお方です。帝国中から名乗りが上がりましょうな。」

「ふふ。そうですね。」

クリスティは柔らかく笑う。


皇族である以上、いつか避けては通れない話だ。

誰と結婚するのか。

誰を伴侶として選び、どのような人生を共に歩むのか。

第二皇女であるクリスティの婚姻は、

決して彼女一人だけの問題ではなかった。


「そういえば」

一人の侯爵が、少し離れて控えるリカルドを見た。

「アークファイント卿も、そろそろ身を固められてはいかがかな」

クリスティの指先が止まった。

「紅蓮の騎士」

「皇女殿下の専属騎士。」

「これだけの殿方です。縁談には困っておられんでしょう。」

「実は我が娘も、一度お話してみたいと申しておりましてな。」

「おや。それなら我が家にも――」

冗談交じりの笑い声が広がる。


クリスティは、

手の中のグラスを、僅かに強く握った。

笑わなくちゃ。

「アークファイントは素敵な方ですもの。」

ちゃんといつものように。

「きっと、良いご縁がありますよ。」


言えた。

笑えた。

皇城の太陽らしく。


少し離れた場所から、リカルドがクリスティを見つめていた。

笑っている。

けれど、その笑顔が何故かひどく遠く見えた。



夜会の途中。

「少し、風に当たってきます。」

クリスティは賑わいを離れ、窓辺へ向かった。


視線を落とせば、

胸元には昼間リカルドから贈られた真紅の薔薇がある。

見るたび胸の奥が温かくなる。

同時に先ほどの言葉が蘇る。

――良いご縁。

いつかアークファイントは誰かと結婚する。


分かっている。

それが自然なことだ。

彼が望むなら自分は祝福するべきなのだ。


そう思って。

ふと、知らない女性の隣で笑うアークファイントを想像してしまった。

その女性へ微笑み、その人の手を取り。

いつか小さな子どもを、あの大きな腕で抱き上げる。


「――っ。」

胸が痛んだ。

息がうまくできない。

嫌だ。

またあの言葉が浮かぶ。


「……駄目。」

クリスティは、薔薇を胸元へ引き寄せた。

好きだともう知っている。

だから、言わないと決めた。

そのはずなのに、想いは消えてなどくれなかった。



その日の夜。

誕生日の夜会を終え、一人になった自室。


机の端には、小さな箱が置かれていた。

少し前に完成させた、アークファイントへの誕生日の贈り物。

銀の鷹を刺繍した、白いハンカチ。

渡そうと思っていた。

何度も。

けれど、いざ本人を前にすると、

どうしても箱を差し出すことができなかった。


『今年も、来年も、その先も。』

『ずっと、お祝いできますように。』

添えたカードの言葉が、

今の自分には、あまりにも正直すぎる気がしたから。

「……また、渡せなかった。」


クリスティは、箱の蓋へそっと指を置いた。

いつか、もう少し上手にこの気持ちを隠せるようになったら、

その時に渡せばいい。


そう思っていた。



クリスティの誕生日から数日後。


雨が降っていた。

窓を叩く雨音だけが、静かな執務室へ響いている。

ここ数日、クリスティはほとんど眠れていなかった。


昼間は笑う、いつものように。

けれど、一人になればあの夜の言葉が蘇る。

リカルドが、いつか自分ではない誰かを選ぶ未来。

「……嫌。」

ぽつりと声が零れた。

もう、自分へ嘘をつくことすら苦しくなっていた。


「姫様。」

聞き慣れた声。

クリスティが振り返る。

そこにはいつもと変わらないリカルドが立っていた。


「本日の公務はすべて終了しております。」

そして僅かに眉を寄せる。

「お顔の色が優れません。今日はもう、お休みください。」

「……うん。」

どうして、この人はこんな時まで、

自分のことばかり気にするのだろう。


「姫様?」

「どうして……。」

気付けば、声が零れていた。

「どうして、そんなに優しいの?」

リカルドの表情が変わる。

「姫様……?」


駄目。

言ってはいけない。

ずっと、そう思ってきた。

自分は皇女だ。

この人の人生を、自分の想いで再び縛ってはいけない。

だから黙っていると決めた。

なのに言葉を止めることができなかった。


「もう……、もう笑えない。」

喉が震えた。

一粒。

零れ落ちた涙が、頬を伝う。

リカルドが息を呑む。


「……私ね。ずっと、笑ってきたの。

私が笑ってると、皆が安心してくれるから。」

クリスティは泣きながら、それでも笑おうとした。

「お父様も、レオン兄様も、アレクシス兄様も、

ヴィオレット姉様も、皇城の皆も。」


昔から、誰かが悲しんでいれば笑った。

誰かが苦しんでいれば、笑って手を差し伸べた。

それが自分にできることだと思っていた。


「でも……最近ね。」

涙が、次々と零れていく。

「どうしても、笑えない時があるの。」

リカルドは何も言わなかった。

ただ、クリスティの言葉を遮らぬよう、静かにその場へ立っている。


「アークファイントが他の女性と話してると、嫌なの。」

リカルドの瞳が揺れた。

「縁談の話を聞くのも嫌。

誰かと結婚するところなんて、想像したくない。」


心臓が、強く脈打つ。

聞き間違いではない。

姫様は今、自分が他の誰かの隣へ立つことを嫌だと言った。

それが何を意味するのか、考えてしまいそうになって、

リカルドは僅かに拳へ力を込めた。

――まだだ。

彼女が何を言おうとしているのか。

自分の願望で、先に答えを決めてはいけない。

リカルドは何も言わず、ただ続きを待った。


「私ね。」

クリスティは胸元を強く握った。

「もっと、皆を守れる人になりたいの。」

それは、幼い頃から変わらない。

「お父様みたいに。困っている人がいたら手を差し伸べて、

誰かの幸せを、心から願える人でいたい。」

皇族として。

クリスティ・フォン・マーヴェリアとして。

ずっと、そうありたいと思ってきた。


「でも……。」

涙の中で、小さく笑う。

「アークファイントのことになると、ただのクリスティになっちゃうの。」

リカルドの拳が、更に強く握られた。

「姫様……。」

クリスティは、涙を拭った。

もう止められなかった。


「幼い頃から、ずっと大切だった。」

嬉しいことがあれば、真っ先に名前を呼んだ。

苦しい時も。

寂しい時も。

振り返れば、いつもそこにいてくれた。


「離れてた三年間は、ずっと会いたかった。」

「帰ってきてくれた時、本当に嬉しかった。」

「あなたが他の人の隣に立つのは、嫌だった。」


「そして、最近やっと分かったの。」

いつから、その大切が恋へ変わったのかは、自分にも分からない。

けれど今は。

「私……。」

紫水晶の瞳が真っ直ぐに黒い瞳を見つめた。

「アークファイントが好き。」


雨音だけが響いた。

「一人の騎士としてじゃなくて。」

声が震える。

「一人の人として……大好き。」


リカルドは動けなかった。

ずっと、望んではいけないと思っていた言葉だった。

嬉しかった。

今すぐ抱き締めたいほどに。

自分も同じように、この人を愛している。

けれど、だからこそ。

その手を取ることができなかった。


リカルドはゆっくりと片膝をついた。

「……身に余るお言葉にございます。」

声は僅かに震えていた。

「ですが、私は、姫様の騎士です。」

胸元へ拳を当てる。


クリスティの瞳がゆっくりと伏せられた。

分かっていた。

この人なら、きっとそう言うと思っていた。

「姫様はこれからも、皇族として多くの責務を担っていかれるお方です。」


リカルドは、一度言葉を止めた。

本当は、誰にも渡したくない。

その隣に立つのが自分でありたい。

皇女としてではなく、一人の女性として笑う彼女を自分だけが知りたい。

そんな願いをとうの昔に抱いている。

けれど口にすることはできなかった。


「そのお隣には――」

僅かに喉が詰まる。

「姫様と共に、同じ未来を背負うことのできる方が相応しいかと存じます。」

黒い瞳がほんの一瞬だけ揺れた。

「私は、騎士として姫様をお守りすることができれば、それで十分でございます。」


嘘だった。

十分なはずなどなかった。

それでも、今の自分が口にできるのはそれだけだった。


「……そっか。」

クリスティは小さく笑った。

涙で濡れた顔のまま。

「私、振られちゃった。」

「姫様。」

「ごめんね、アークファイント」

クリスティは首を横へ振った。

「困らせるつもりじゃなかったの。」


ずっと言わないつもりだった。

この想いは自分の中だけにしまっておくつもりだった。

それでも今日だけは、皆を安心させる第二皇女でも、

皇城を照らす太陽でもなく。

ただのクリスティとして、好きな人の前で泣きたかった。


「今日のことは、忘れて。」

リカルドの黒い瞳が揺れる。

「それは――」

「お願い。」

クリスティは泣きながら笑った。

「最後のわがままだと思って。」

「……」

「明日からは、またちゃんと笑うから」

頬に残った涙を拭う。

その言葉にリカルドの胸が強く締め付けられた。


違う。

そんなことを望んでいるわけではない。

彼女に無理をして笑ってほしいわけではない。

まして、自分のせいで。

こんな顔をさせたかったわけではなかった。


「姫様。」

名前を呼ぶ。

けれど、その先に続ける言葉が見つからない。

騎士としてならいくらでも言葉は出てくる。

お守りします。

お支えします。

何があろうと、お側におります。


けれど一人の男として。

泣いている好きな人へ何を言えばいいのか、リカルドには分からなかった。


「もう遅いね。」

クリスティは静かに背を向けた。

「今日は休もう。」

「姫様……。」

「大丈夫。」

 振り返らないままいつもの声で答える。

「おやすみなさい、アークファイント。」

長い沈黙の後。

「……おやすみなさいませ、姫様。」

扉が閉じ、足音が少しずつ遠ざかっていった。


◇ 


一人になった部屋で、

クリスティはしばらく動かなかった。

やがて力が抜けたように机へ手をつく。

「……振られちゃった。」

もう一度、今度は誰にも聞こえない声で呟いた。


涙がまた一粒。

机の上へ落ちた。

その時、視界の端に小さな箱が映った。

「……。」

クリスティの手が止まる。

机の引き出しを開く。

そこには、ずっと渡せないままになっていた、

アークファイントへの贈り物があった。


白いハンカチ。

その隅には、銀糸で刺繍した一羽の鷹。

そして小さなカード。

『お誕生日おめでとう、アークファイント。』

『今年も、お祝いできて嬉しい。』

『来年も、その先も。』

『ずっと、お祝いできますように。』


「……馬鹿だなぁ、私。」

箱を抱き上げる。

今さら渡せるはずがない。

好きだと告げて振られたばかりなのに。

こんなにも好きだという気持ちが詰まったものを。

「渡せなくなっちゃった。」

泣きながら少しだけ笑った。

「せっかく、今度はちゃんと鷹に見えるのに。」


十歳の頃。

猫と間違えられた刺繍。

あの時は何の迷いもなく渡せた。

ただ大好きな騎士へ、ありがとうを伝えたかっただけだったから。


今は、同じことができない。

好きという気持ちを知ってしまったから。

クリスティはそっと箱の蓋を閉じた。

「……いつか。」

一度、言葉を止める。

「いつか、ちゃんと笑って渡せるようになったら。」

その時にありがとう、と。

何でもない贈り物のように渡せばいい。

そう思って、箱を大切に引き出しの奥へしまった。


銀の鷹が蓋の閉じる直前。

ほんの僅かに淡い光を放ったことには気付かなかった。


◇ 


その夜。

皇城の太陽は初めて、一人の男の前で、

笑顔の奥へ隠していた想いをすべて零した。

そして、明日になればまた笑おうと思っていた。


いつものように。

家族のために。

皇城の皆のために。

帝国の民のために。


そして、変わらず数歩後ろを歩いてくれる、

大切な騎士のために。


来年も。

その先も。

ずっと。

そんな日々が続くのだと信じていた。


けれど、翌日。

その約束が果たされるより先に、

第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアは、

リカルドの目の前から姿を消すことになる。


机の引き出しには、渡されることのなかった、

一枚のハンカチだけを残して。


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