第32話 笑顔の終わり
十九歳の誕生日。
その日、皇城は朝から祝福の声に包まれていた。
「クリスティ。誕生日おめでとう。」
「ありがとうございます、お父様。」
ルーファスは、目の前で優雅に礼をする娘を静かに見つめた。
白銀の髪。
紫水晶の瞳。
そして、誰もが心を和ませる柔らかな笑顔。
気付けば腕の中へ抱き上げていた小さな娘は、
もう十九歳になっていた。
そして今日、同じように十九歳を迎えた娘がもう一人いる。
今、どこにいるのか。
どんなふうに笑うのか、何一つ分からないまま。
それでも、生きていると信じてきた。
――ルリスティも、十九歳か。
胸の奥でだけその名を呼び、
ルーファスは目の前の娘へ視線を戻した。
「……大きくなったな。」
「お父様、それは去年も仰っていました。」
「去年より大きくなった。」
「一年でそんなに変わりません。」
「そういう意味ではない。」
クリスティが笑う。
レオンハルトも、ヴィオレットも、皇城の者たちも。
次々と祝福の言葉を贈った。
今日は、自分の誕生日。
だからクリスティも、いつも以上によく笑った。
◇
昼過ぎ。
「姫様。」
執務室へ戻ったクリスティを、リカルドが待っていた。
「アークファイント。」
いつもの濃紺の騎士服。
燃えるような赤い髪。
真っ直ぐな黒い瞳。
「お誕生日、おめでとうございます。」
「ありがとう。」
そして、リカルドは背へ隠していたものを差し出した。
一輪の薔薇。
深く鮮やかな真紅。
「……綺麗。」
思わず、クリスティの顔が綻ぶ。
リカルドはそんな彼女を見つめたあと、
少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「花言葉は存じ上げません。」
どうやら、意味を調べて選んだわけではないらしい。
いかにも自分の騎士らしくて、クリスティは思わず笑った。
「ですが。」
リカルドは一度、手の中の薔薇へ視線を落とす。
「姫様には、この色がよくお似合いになると思いまして。」
心臓が、大きく鳴った。
真紅。
アークファイントの髪と、同じ色。
そんなこと、きっと本人は考えていない。
ただ、自分に似合うと思って選んでくれた。
それだけなのに、どうしようもないほど嬉しかった。
「……ありがとう。」
零れた声は、思っていたより少しだけ柔らかかった。
だからこそ、クリスティは溢れそうになる気持ちを、
そっと胸の奥へ押し戻した。
――言わない。
そう決めたばかりではないか。
この人を好きだという気持ちは自分の中だけに置いておく。
「姫様?」
「ううん。何でもないよ。」
そして、いつものように笑った。
◇
夜。
クリスティの誕生日を祝う夜会には、
帝国中から多くの貴族が集まっていた。
十九歳となった第二皇女。
帝国を支える皇族の一人として。
そして、一人の令嬢としても。
彼女へ注がれる視線は、以前にも増していた。
「殿下も十九歳になられましたか。」
「そろそろ、良いお相手をお考えになる頃でしょう。」
「クリスティ殿下ほどのお方です。帝国中から名乗りが上がりましょうな。」
「ふふ。そうですね。」
クリスティは柔らかく笑う。
皇族である以上、いつか避けては通れない話だ。
誰と結婚するのか。
誰を伴侶として選び、どのような人生を共に歩むのか。
第二皇女であるクリスティの婚姻は、
決して彼女一人だけの問題ではなかった。
「そういえば」
一人の侯爵が、少し離れて控えるリカルドを見た。
「アークファイント卿も、そろそろ身を固められてはいかがかな」
クリスティの指先が止まった。
「紅蓮の騎士」
「皇女殿下の専属騎士。」
「これだけの殿方です。縁談には困っておられんでしょう。」
「実は我が娘も、一度お話してみたいと申しておりましてな。」
「おや。それなら我が家にも――」
冗談交じりの笑い声が広がる。
クリスティは、
手の中のグラスを、僅かに強く握った。
笑わなくちゃ。
「アークファイントは素敵な方ですもの。」
ちゃんといつものように。
「きっと、良いご縁がありますよ。」
言えた。
笑えた。
皇城の太陽らしく。
少し離れた場所から、リカルドがクリスティを見つめていた。
笑っている。
けれど、その笑顔が何故かひどく遠く見えた。
◇
夜会の途中。
「少し、風に当たってきます。」
クリスティは賑わいを離れ、窓辺へ向かった。
視線を落とせば、
胸元には昼間リカルドから贈られた真紅の薔薇がある。
見るたび胸の奥が温かくなる。
同時に先ほどの言葉が蘇る。
――良いご縁。
いつかアークファイントは誰かと結婚する。
分かっている。
それが自然なことだ。
彼が望むなら自分は祝福するべきなのだ。
そう思って。
ふと、知らない女性の隣で笑うアークファイントを想像してしまった。
その女性へ微笑み、その人の手を取り。
いつか小さな子どもを、あの大きな腕で抱き上げる。
「――っ。」
胸が痛んだ。
息がうまくできない。
嫌だ。
またあの言葉が浮かぶ。
「……駄目。」
クリスティは、薔薇を胸元へ引き寄せた。
好きだともう知っている。
だから、言わないと決めた。
そのはずなのに、想いは消えてなどくれなかった。
◇
その日の夜。
誕生日の夜会を終え、一人になった自室。
机の端には、小さな箱が置かれていた。
少し前に完成させた、アークファイントへの誕生日の贈り物。
銀の鷹を刺繍した、白いハンカチ。
渡そうと思っていた。
何度も。
けれど、いざ本人を前にすると、
どうしても箱を差し出すことができなかった。
『今年も、来年も、その先も。』
『ずっと、お祝いできますように。』
添えたカードの言葉が、
今の自分には、あまりにも正直すぎる気がしたから。
「……また、渡せなかった。」
クリスティは、箱の蓋へそっと指を置いた。
いつか、もう少し上手にこの気持ちを隠せるようになったら、
その時に渡せばいい。
そう思っていた。
◇
クリスティの誕生日から数日後。
雨が降っていた。
窓を叩く雨音だけが、静かな執務室へ響いている。
ここ数日、クリスティはほとんど眠れていなかった。
昼間は笑う、いつものように。
けれど、一人になればあの夜の言葉が蘇る。
リカルドが、いつか自分ではない誰かを選ぶ未来。
「……嫌。」
ぽつりと声が零れた。
もう、自分へ嘘をつくことすら苦しくなっていた。
「姫様。」
聞き慣れた声。
クリスティが振り返る。
そこにはいつもと変わらないリカルドが立っていた。
「本日の公務はすべて終了しております。」
そして僅かに眉を寄せる。
「お顔の色が優れません。今日はもう、お休みください。」
「……うん。」
どうして、この人はこんな時まで、
自分のことばかり気にするのだろう。
「姫様?」
「どうして……。」
気付けば、声が零れていた。
「どうして、そんなに優しいの?」
リカルドの表情が変わる。
「姫様……?」
駄目。
言ってはいけない。
ずっと、そう思ってきた。
自分は皇女だ。
この人の人生を、自分の想いで再び縛ってはいけない。
だから黙っていると決めた。
なのに言葉を止めることができなかった。
「もう……、もう笑えない。」
喉が震えた。
一粒。
零れ落ちた涙が、頬を伝う。
リカルドが息を呑む。
「……私ね。ずっと、笑ってきたの。
私が笑ってると、皆が安心してくれるから。」
クリスティは泣きながら、それでも笑おうとした。
「お父様も、レオン兄様も、アレクシス兄様も、
ヴィオレット姉様も、皇城の皆も。」
昔から、誰かが悲しんでいれば笑った。
誰かが苦しんでいれば、笑って手を差し伸べた。
それが自分にできることだと思っていた。
「でも……最近ね。」
涙が、次々と零れていく。
「どうしても、笑えない時があるの。」
リカルドは何も言わなかった。
ただ、クリスティの言葉を遮らぬよう、静かにその場へ立っている。
「アークファイントが他の女性と話してると、嫌なの。」
リカルドの瞳が揺れた。
「縁談の話を聞くのも嫌。
誰かと結婚するところなんて、想像したくない。」
心臓が、強く脈打つ。
聞き間違いではない。
姫様は今、自分が他の誰かの隣へ立つことを嫌だと言った。
それが何を意味するのか、考えてしまいそうになって、
リカルドは僅かに拳へ力を込めた。
――まだだ。
彼女が何を言おうとしているのか。
自分の願望で、先に答えを決めてはいけない。
リカルドは何も言わず、ただ続きを待った。
「私ね。」
クリスティは胸元を強く握った。
「もっと、皆を守れる人になりたいの。」
それは、幼い頃から変わらない。
「お父様みたいに。困っている人がいたら手を差し伸べて、
誰かの幸せを、心から願える人でいたい。」
皇族として。
クリスティ・フォン・マーヴェリアとして。
ずっと、そうありたいと思ってきた。
「でも……。」
涙の中で、小さく笑う。
「アークファイントのことになると、ただのクリスティになっちゃうの。」
リカルドの拳が、更に強く握られた。
「姫様……。」
クリスティは、涙を拭った。
もう止められなかった。
「幼い頃から、ずっと大切だった。」
嬉しいことがあれば、真っ先に名前を呼んだ。
苦しい時も。
寂しい時も。
振り返れば、いつもそこにいてくれた。
「離れてた三年間は、ずっと会いたかった。」
「帰ってきてくれた時、本当に嬉しかった。」
「あなたが他の人の隣に立つのは、嫌だった。」
「そして、最近やっと分かったの。」
いつから、その大切が恋へ変わったのかは、自分にも分からない。
けれど今は。
「私……。」
紫水晶の瞳が真っ直ぐに黒い瞳を見つめた。
「アークファイントが好き。」
雨音だけが響いた。
「一人の騎士としてじゃなくて。」
声が震える。
「一人の人として……大好き。」
リカルドは動けなかった。
ずっと、望んではいけないと思っていた言葉だった。
嬉しかった。
今すぐ抱き締めたいほどに。
自分も同じように、この人を愛している。
けれど、だからこそ。
その手を取ることができなかった。
リカルドはゆっくりと片膝をついた。
「……身に余るお言葉にございます。」
声は僅かに震えていた。
「ですが、私は、姫様の騎士です。」
胸元へ拳を当てる。
クリスティの瞳がゆっくりと伏せられた。
分かっていた。
この人なら、きっとそう言うと思っていた。
「姫様はこれからも、皇族として多くの責務を担っていかれるお方です。」
リカルドは、一度言葉を止めた。
本当は、誰にも渡したくない。
その隣に立つのが自分でありたい。
皇女としてではなく、一人の女性として笑う彼女を自分だけが知りたい。
そんな願いをとうの昔に抱いている。
けれど口にすることはできなかった。
「そのお隣には――」
僅かに喉が詰まる。
「姫様と共に、同じ未来を背負うことのできる方が相応しいかと存じます。」
黒い瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
「私は、騎士として姫様をお守りすることができれば、それで十分でございます。」
嘘だった。
十分なはずなどなかった。
それでも、今の自分が口にできるのはそれだけだった。
「……そっか。」
クリスティは小さく笑った。
涙で濡れた顔のまま。
「私、振られちゃった。」
「姫様。」
「ごめんね、アークファイント」
クリスティは首を横へ振った。
「困らせるつもりじゃなかったの。」
ずっと言わないつもりだった。
この想いは自分の中だけにしまっておくつもりだった。
それでも今日だけは、皆を安心させる第二皇女でも、
皇城を照らす太陽でもなく。
ただのクリスティとして、好きな人の前で泣きたかった。
「今日のことは、忘れて。」
リカルドの黒い瞳が揺れる。
「それは――」
「お願い。」
クリスティは泣きながら笑った。
「最後のわがままだと思って。」
「……」
「明日からは、またちゃんと笑うから」
頬に残った涙を拭う。
その言葉にリカルドの胸が強く締め付けられた。
違う。
そんなことを望んでいるわけではない。
彼女に無理をして笑ってほしいわけではない。
まして、自分のせいで。
こんな顔をさせたかったわけではなかった。
「姫様。」
名前を呼ぶ。
けれど、その先に続ける言葉が見つからない。
騎士としてならいくらでも言葉は出てくる。
お守りします。
お支えします。
何があろうと、お側におります。
けれど一人の男として。
泣いている好きな人へ何を言えばいいのか、リカルドには分からなかった。
「もう遅いね。」
クリスティは静かに背を向けた。
「今日は休もう。」
「姫様……。」
「大丈夫。」
振り返らないままいつもの声で答える。
「おやすみなさい、アークファイント。」
長い沈黙の後。
「……おやすみなさいませ、姫様。」
扉が閉じ、足音が少しずつ遠ざかっていった。
◇
一人になった部屋で、
クリスティはしばらく動かなかった。
やがて力が抜けたように机へ手をつく。
「……振られちゃった。」
もう一度、今度は誰にも聞こえない声で呟いた。
涙がまた一粒。
机の上へ落ちた。
その時、視界の端に小さな箱が映った。
「……。」
クリスティの手が止まる。
机の引き出しを開く。
そこには、ずっと渡せないままになっていた、
アークファイントへの贈り物があった。
白いハンカチ。
その隅には、銀糸で刺繍した一羽の鷹。
そして小さなカード。
『お誕生日おめでとう、アークファイント。』
『今年も、お祝いできて嬉しい。』
『来年も、その先も。』
『ずっと、お祝いできますように。』
「……馬鹿だなぁ、私。」
箱を抱き上げる。
今さら渡せるはずがない。
好きだと告げて振られたばかりなのに。
こんなにも好きだという気持ちが詰まったものを。
「渡せなくなっちゃった。」
泣きながら少しだけ笑った。
「せっかく、今度はちゃんと鷹に見えるのに。」
十歳の頃。
猫と間違えられた刺繍。
あの時は何の迷いもなく渡せた。
ただ大好きな騎士へ、ありがとうを伝えたかっただけだったから。
今は、同じことができない。
好きという気持ちを知ってしまったから。
クリスティはそっと箱の蓋を閉じた。
「……いつか。」
一度、言葉を止める。
「いつか、ちゃんと笑って渡せるようになったら。」
その時にありがとう、と。
何でもない贈り物のように渡せばいい。
そう思って、箱を大切に引き出しの奥へしまった。
銀の鷹が蓋の閉じる直前。
ほんの僅かに淡い光を放ったことには気付かなかった。
◇
その夜。
皇城の太陽は初めて、一人の男の前で、
笑顔の奥へ隠していた想いをすべて零した。
そして、明日になればまた笑おうと思っていた。
いつものように。
家族のために。
皇城の皆のために。
帝国の民のために。
そして、変わらず数歩後ろを歩いてくれる、
大切な騎士のために。
来年も。
その先も。
ずっと。
そんな日々が続くのだと信じていた。
けれど、翌日。
その約束が果たされるより先に、
第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアは、
リカルドの目の前から姿を消すことになる。
机の引き出しには、渡されることのなかった、
一枚のハンカチだけを残して。




