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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第30話 太陽の笑顔

最近、クリスティは、自分でも少しおかしいと思っていた。


書類を読んでいても。

会議に出席していても。

庭園を歩いていても。


ふとした瞬間、一人の騎士を探してしまう。

「姫様。」

低く聞き慣れた声。

振り返ればいつものように、リカルドが数歩後ろにいる。

「どうかなさいましたか。」

「ううん。何でもないよ。」

クリスティは笑う。


それだけで、何故かほっとする。

近付きすぎず。

離れすぎず。

何かあれば、すぐに剣を抜ける距離。


昔から変わらない。

なのに最近は、その距離が、妙に遠く感じることがあった。


もっと近くに来てほしい。

もっと自分を見てほしい。

そんなことを考えて、クリスティは慌てて打ち消す。


――私は、何を考えているんだろう。



その日の夕刻。


珍しく執務室を訪れたルーファスは、

クリスティと二人きりになると、しばらく娘の顔を見つめていた。

「……どうしました?」

「最近、お前の笑顔が少し減った気がしてな。」

クリスティの表情が止まる。


「そんなことはありません。」

「そうか。」

「はい。」

「ならば、それでいい。」

父は、それ以上追及しなかった。


窓辺へ歩き、茜色へ染まり始めた皇城を眺める。

「クリスティ。」

「はい。」

「あまり、自分ばかりを犠牲にするな。」

クリスティの肩が、僅かに揺れた。

「……何のお話ですか?」

「さてな……。」

ルーファスは小さく笑った。

「お前は昔から、人のことばかりだ。」


家族のため。

皇城の者たちのため。

帝国の民のため。

誰かが苦しんでいれば、自分にできることを探し。

誰かが悲しんでいれば、笑って元気づけてきた。


「お前の笑顔に、どれほど多くの者が救われてきたと思う?」

「分かりません。」

「私も、その一人だ。」

クリスティが、僅かに目を見開く。

「だがな、だからといって、いつも笑っている必要はない。」

ルーファスは娘へ向き直った。

「……。」

「皇城の太陽にも、夜くらいあっていい。」


大きな手が、ぽん、とクリスティの頭へ置かれる。

「お前が泣けば、今度はお前を支えたいと思う者がいる。

誰かへ頼ることも覚えろ。」

父親の顔でルーファスは続けた。

「そして、お前自身が、幸せでいられる道も考えろ」

「私の……幸せ?」

「そうだ。」


そんなもの考えたこともなかった。

皆が笑っていてくれれば、帝国が平和なら。

それで十分だと思っていた。

なのに、最近どうしても、一人の人のことばかり考えてしまう。



ルーファスが去った後。

控えていたリカルドが、再び執務室へ入ってきた。

「お話は終わられましたか。」

「うん。」

クリスティは、その顔を見ただけで、

また胸が温かくなることに気付いてしまった。

「アークファイント。」

「はい。」


少し迷ってから、尋ねる。

「この前、侯爵からお話があったでしょう?」

リカルドが首を傾げる。

「令嬢とのお茶会。お受けしないの?」

「必要がございませんので。」

「必要がない?どうして?」

「今、私には姫様をお守りする役目がございます。

それ以上に、優先すべきことはございません。」


当然のことのように告げられた言葉に、胸が大きく鳴った。

嬉しい。

けれど、同時に胸の奥が苦しくなる。

「……でも。」

クリスティは、その感情を隠すように軽く笑った。

「いつかは結婚するでしょう?」

リカルドは僅かに考える素振りを見せたあと、

何でもないことのように答える。

「考えたことはございません。」


その返事に安心してしまう自分がいる。

けれど、それでは駄目だと思った。

アークファイントの人生は、

アークファイント自身のものなのだから。

「少しくらい考えた方がいいんじゃない?」

「必要となれば。」

あまりにも真面目な顔で返され、クリスティは眉を寄せた。


「必要って何?」

「必要は必要です。」

「……それ、答えになってないよ。」

リカルドが本気で困ったように眉を下げる。

その顔がおかしくて、

クリスティはいつものように笑った。


けれど、笑いながらも、胸の奥ではもう気付き始めていた。

自分が何を嫌がっているのか。

そして、なぜ彼の言葉一つで、こんなにも嬉しくなるのか。

笑い声が途切れると、執務室に短い沈黙が落ちた。

クリスティは、ふと窓の外へ目を向ける。


「アークファイントが幸せなら……。」

「姫様?」

「私は嬉しいよ。」

ゆっくりと視線を戻す。

「あなたには、幸せでいてほしいもの。」


それは嘘ではなかった。

心からそう願っている。

リカルドは、少し考えてから答えた。

「でしたら、私は今、十分に幸せでございます。」

クリスティが振り返る。

「再び姫様をお守りすることができる。

私が望んで戻った場所に、今こうして立っております。

それ以上に望むものはございません。」

「……そっか。」


駄目だ。

そんなことを言われたら。

嬉しくて、苦しくて、もっと欲しくなってしまう。


「それなら、よかった。」

クリスティは笑った。

誰もが安心する太陽のような笑顔で。

けれど、リカルドは、僅かに眉を寄せた。


「姫様。」

「何?」

「……いえ。」


何か、昔とは違う。

笑っているのに、その笑顔の奥に隠されたものがあるように見えた。



その夜。


クリスティは、一人自室の窓辺に座っていた。

『お前自身が、幸せでいられる道も考えろ。』

父の言葉が、何度も頭へ蘇る。

自分の幸せ。

もし、何を望んでもいいのなら。


「……アークファイント。」

名前を口にすると胸が温かくなる。

五歳の頃から、彼は特別だった。

何かあれば、真っ先に名前を呼んだ。

いない三年間は、何度も振り返った。

戻ってきた時は、何よりも嬉しかった。


彼が他の女性と話していれば、胸が痛んだ。

結婚する未来を想像すれば、嫌だと思った。

そして、彼から自分の傍が幸せだと言われれば、こんなにも嬉しい。


一つずつ思い返す。

そのすべてに、ようやく同じ名前がついた。

「……私。」

声が震えた。

「アークファイントが、好きなんだ。」

初めて口にした。

ずっと胸の中にあったものを。


認めた瞬間、不思議なほどすべてが腑に落ちた。

会いたかった理由も。

他の女性が嫌だった理由も。

もっと近くにいてほしいと、思ってしまう理由も。

「そっか……。」

クリスティは、泣きそうな顔で笑った。

「好きだったんだ。」


けれど、その笑顔はすぐに消えた。

自分は皇女だ。

そしてアークファイントは、自分へ忠誠を誓う専属騎士。


三年前。

自分の願いが、彼の人生を縛っていたのではないかと恐れた。

だから一度、その手を放した。

三年間離れた末に、

アークファイントは自分の意思で戻ってきてくれた。


それなのに今度は。

自分が抱いた恋心を理由に、

また彼の人生へ踏み込んでしまうのだろうか。

「……駄目。」

小さく呟く。

好きだからこそ、簡単には言えない。


自分は彼の主君だ。

もし自分が「好き」と告げたなら。

アークファイントは、

それをただ一人の少女から向けられた想いとして

受け取ることができるのだろうか。


皇女である自分の言葉を、断ることができるのだろうか。

その答えに、クリスティは自信を持てなかった。

「もう、勝手に決めないって約束したもんね……。」


彼の幸せも。

彼の人生も。


自分が良かれと思って、一人で答えを出すことはしない。

だから、この気持ちをどうするのかも、今すぐ決めなくていい。


クリスティは胸元へ手を当てた。

明日になれば、またいつものように笑おう。

第二皇女クリスティとして。

そして、アークファイントの姫様として。


いつか。

この想いを伝えても、

彼の選択を奪わないと確信できる日が来るまで。

今はまだ、胸の奥へ大切にしまっておこう。

そう決めたはずなのに。


「……好き、かぁ。」

もう一度、小さく呟くと。

胸の鼓動は、さっきよりずっと大きくなった。

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