第30話 太陽の笑顔
最近、クリスティは、自分でも少しおかしいと思っていた。
書類を読んでいても。
会議に出席していても。
庭園を歩いていても。
ふとした瞬間、一人の騎士を探してしまう。
「姫様。」
低く聞き慣れた声。
振り返ればいつものように、リカルドが数歩後ろにいる。
「どうかなさいましたか。」
「ううん。何でもないよ。」
クリスティは笑う。
それだけで、何故かほっとする。
近付きすぎず。
離れすぎず。
何かあれば、すぐに剣を抜ける距離。
昔から変わらない。
なのに最近は、その距離が、妙に遠く感じることがあった。
もっと近くに来てほしい。
もっと自分を見てほしい。
そんなことを考えて、クリスティは慌てて打ち消す。
――私は、何を考えているんだろう。
◇
その日の夕刻。
珍しく執務室を訪れたルーファスは、
クリスティと二人きりになると、しばらく娘の顔を見つめていた。
「……どうしました?」
「最近、お前の笑顔が少し減った気がしてな。」
クリスティの表情が止まる。
「そんなことはありません。」
「そうか。」
「はい。」
「ならば、それでいい。」
父は、それ以上追及しなかった。
窓辺へ歩き、茜色へ染まり始めた皇城を眺める。
「クリスティ。」
「はい。」
「あまり、自分ばかりを犠牲にするな。」
クリスティの肩が、僅かに揺れた。
「……何のお話ですか?」
「さてな……。」
ルーファスは小さく笑った。
「お前は昔から、人のことばかりだ。」
家族のため。
皇城の者たちのため。
帝国の民のため。
誰かが苦しんでいれば、自分にできることを探し。
誰かが悲しんでいれば、笑って元気づけてきた。
「お前の笑顔に、どれほど多くの者が救われてきたと思う?」
「分かりません。」
「私も、その一人だ。」
クリスティが、僅かに目を見開く。
「だがな、だからといって、いつも笑っている必要はない。」
ルーファスは娘へ向き直った。
「……。」
「皇城の太陽にも、夜くらいあっていい。」
大きな手が、ぽん、とクリスティの頭へ置かれる。
「お前が泣けば、今度はお前を支えたいと思う者がいる。
誰かへ頼ることも覚えろ。」
父親の顔でルーファスは続けた。
「そして、お前自身が、幸せでいられる道も考えろ」
「私の……幸せ?」
「そうだ。」
そんなもの考えたこともなかった。
皆が笑っていてくれれば、帝国が平和なら。
それで十分だと思っていた。
なのに、最近どうしても、一人の人のことばかり考えてしまう。
◇
ルーファスが去った後。
控えていたリカルドが、再び執務室へ入ってきた。
「お話は終わられましたか。」
「うん。」
クリスティは、その顔を見ただけで、
また胸が温かくなることに気付いてしまった。
「アークファイント。」
「はい。」
少し迷ってから、尋ねる。
「この前、侯爵からお話があったでしょう?」
リカルドが首を傾げる。
「令嬢とのお茶会。お受けしないの?」
「必要がございませんので。」
「必要がない?どうして?」
「今、私には姫様をお守りする役目がございます。
それ以上に、優先すべきことはございません。」
当然のことのように告げられた言葉に、胸が大きく鳴った。
嬉しい。
けれど、同時に胸の奥が苦しくなる。
「……でも。」
クリスティは、その感情を隠すように軽く笑った。
「いつかは結婚するでしょう?」
リカルドは僅かに考える素振りを見せたあと、
何でもないことのように答える。
「考えたことはございません。」
その返事に安心してしまう自分がいる。
けれど、それでは駄目だと思った。
アークファイントの人生は、
アークファイント自身のものなのだから。
「少しくらい考えた方がいいんじゃない?」
「必要となれば。」
あまりにも真面目な顔で返され、クリスティは眉を寄せた。
「必要って何?」
「必要は必要です。」
「……それ、答えになってないよ。」
リカルドが本気で困ったように眉を下げる。
その顔がおかしくて、
クリスティはいつものように笑った。
けれど、笑いながらも、胸の奥ではもう気付き始めていた。
自分が何を嫌がっているのか。
そして、なぜ彼の言葉一つで、こんなにも嬉しくなるのか。
笑い声が途切れると、執務室に短い沈黙が落ちた。
クリスティは、ふと窓の外へ目を向ける。
「アークファイントが幸せなら……。」
「姫様?」
「私は嬉しいよ。」
ゆっくりと視線を戻す。
「あなたには、幸せでいてほしいもの。」
それは嘘ではなかった。
心からそう願っている。
リカルドは、少し考えてから答えた。
「でしたら、私は今、十分に幸せでございます。」
クリスティが振り返る。
「再び姫様をお守りすることができる。
私が望んで戻った場所に、今こうして立っております。
それ以上に望むものはございません。」
「……そっか。」
駄目だ。
そんなことを言われたら。
嬉しくて、苦しくて、もっと欲しくなってしまう。
「それなら、よかった。」
クリスティは笑った。
誰もが安心する太陽のような笑顔で。
けれど、リカルドは、僅かに眉を寄せた。
「姫様。」
「何?」
「……いえ。」
何か、昔とは違う。
笑っているのに、その笑顔の奥に隠されたものがあるように見えた。
◇
その夜。
クリスティは、一人自室の窓辺に座っていた。
『お前自身が、幸せでいられる道も考えろ。』
父の言葉が、何度も頭へ蘇る。
自分の幸せ。
もし、何を望んでもいいのなら。
「……アークファイント。」
名前を口にすると胸が温かくなる。
五歳の頃から、彼は特別だった。
何かあれば、真っ先に名前を呼んだ。
いない三年間は、何度も振り返った。
戻ってきた時は、何よりも嬉しかった。
彼が他の女性と話していれば、胸が痛んだ。
結婚する未来を想像すれば、嫌だと思った。
そして、彼から自分の傍が幸せだと言われれば、こんなにも嬉しい。
一つずつ思い返す。
そのすべてに、ようやく同じ名前がついた。
「……私。」
声が震えた。
「アークファイントが、好きなんだ。」
初めて口にした。
ずっと胸の中にあったものを。
認めた瞬間、不思議なほどすべてが腑に落ちた。
会いたかった理由も。
他の女性が嫌だった理由も。
もっと近くにいてほしいと、思ってしまう理由も。
「そっか……。」
クリスティは、泣きそうな顔で笑った。
「好きだったんだ。」
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
自分は皇女だ。
そしてアークファイントは、自分へ忠誠を誓う専属騎士。
三年前。
自分の願いが、彼の人生を縛っていたのではないかと恐れた。
だから一度、その手を放した。
三年間離れた末に、
アークファイントは自分の意思で戻ってきてくれた。
それなのに今度は。
自分が抱いた恋心を理由に、
また彼の人生へ踏み込んでしまうのだろうか。
「……駄目。」
小さく呟く。
好きだからこそ、簡単には言えない。
自分は彼の主君だ。
もし自分が「好き」と告げたなら。
アークファイントは、
それをただ一人の少女から向けられた想いとして
受け取ることができるのだろうか。
皇女である自分の言葉を、断ることができるのだろうか。
その答えに、クリスティは自信を持てなかった。
「もう、勝手に決めないって約束したもんね……。」
彼の幸せも。
彼の人生も。
自分が良かれと思って、一人で答えを出すことはしない。
だから、この気持ちをどうするのかも、今すぐ決めなくていい。
クリスティは胸元へ手を当てた。
明日になれば、またいつものように笑おう。
第二皇女クリスティとして。
そして、アークファイントの姫様として。
いつか。
この想いを伝えても、
彼の選択を奪わないと確信できる日が来るまで。
今はまだ、胸の奥へ大切にしまっておこう。
そう決めたはずなのに。
「……好き、かぁ。」
もう一度、小さく呟くと。
胸の鼓動は、さっきよりずっと大きくなった。




