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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第29話 名前のない嫉妬

リカルド・アークファイントが、

再びクリスティの専属騎士となってから半年ほどの月日が流れた。

三年間の空白は、驚くほど自然に日常の中へ溶けていった。


朝になれば、扉の向こうから聞き慣れた声がする。

「おはようございます、姫様。」

執務室へ向かえば、数歩後ろにはいつもの騎士。

公務が長引けば休憩を勧められ、

食事を忘れれば、いつの間にか菓子や紅茶が用意されている。


そして。

「アークファイント。」

「はい、姫様。」

呼べば、返事がある。


三年前、それが失われる苦しさを知ったからこそ。

クリスティは今、以前よりもこの日常を大切に思っていた。



昼過ぎ。


会議を終えたクリスティは、

執務室へ戻るなり椅子へ深く腰掛けた。

「疲れたぁ……。」

「お疲れ様でございました。」

「お茶飲む。アークファイントも飲む?」

「いただきます。」


クリスティは侍女へ声を掛ける。

「アークファイントは、砂糖二つね。」

その言葉に、リカルドの動きが僅かに止まった。

「……覚えておられたのですか。」

「何を?」

「私の好みです。」


クリスティは不思議そうに首を傾げる。

「当たり前でしょう?」

「三年間、離れておりましたが。」

「三年くらいで忘れないよ。」

何でもないことのように言ってから、

クリスティは改めてリカルドの顔を見た。


「それより、最近ちゃんと寝てる?」

「もちろんです。」

「嘘。」

「何故ですか。」

「目の下。」

即答され、リカルドが僅かに黙る。

「それに、疲れると右肩が凝るでしょう?」

「……。」

「考え事してる時は、右手を握ったり開いたりするし。」

今度こそ、リカルドは完全に言葉を失った。


三年間。

姫様の好きな花。

好きな菓子。

疲れた時に少しだけ低くなる声。

悩みがある時、一人で庭園へ向かうこと。

自分だけが覚えているのだと思っていた。


けれど、覚えていたのは自分だけではなかったらしい。

「……何故、そこまで覚えておられるのでしょう。」

クリスティは目を瞬かせた。

「何でって。」

そして、当たり前のように笑う。

「大切な人のことだもん。」


リカルドの思考が止まった。

「それに、三年会ってなくても、

アークファイントがアークファイントなのは変わらないでしょう?」

「……はい。」

「だから覚えてるよ。」


奈落門で幾度も死地を越えてきたリカルドだったが。

『大切な人』

その一言ほど、対処に困るものを他に知らなかった。


「……アークファイント?」

「何でもございません。」

「顔、ちょっと赤くない?」

「気のせいです。」

「そう?」

クリスティは不思議そうに首を傾げた。


三年経っても、

こういうところだけは何一つ変わっていない。

少なくとも、クリスティはそう思っていた。



ある日の午後。

「アークファイント卿。」

聞こえてきた声に、クリスティは足を止めた。


回廊の少し先。

見慣れた赤髪の騎士が、一人の女性と話している。

栗色の髪を上品にまとめた、

落ち着いた雰囲気の侯爵夫人だった。


「先日はありがとうございました。」

「当然のことをしたまでです。」

「ですが、アークファイント卿がいらっしゃらなければ、

領内の混乱はもっと大きなものとなっていたでしょう。」

「帝国を守ることが、私の務めですので。」


穏やかな声。

丁寧な受け答え。

それだけなら、クリスティも何度となく見てきた。

なのに。

夫人が笑うと、アークファイントも僅かに表情を和らげた。

その光景から、何故か目を離すことができない。


「噂には聞いておりましたが、本当にお優しい方なのですね。」

「そのようなことは。」

「ふふ。貴族令嬢方が放っておかない理由が分かりましたわ。」

アークファイントが珍しく困ったように眉を寄せた。

「そのような噂があるのですか。」

「ご存じないのですか?」

夫人は楽しそうに笑う。


「『紅蓮の騎士』。帝国屈指の剣士であり、

第二皇女殿下の専属騎士。その上、そのお姿でしょう?」

「……。」

「まだ、ご結婚の予定は?」

その瞬間。


クリスティの胸が、大きく跳ねた。

「ございません。」

「まあ。」

「現在は、姫様へお仕えすることが私の務めですので。」

その答えに安堵した。


――何故?

クリスティ自身、

すぐには分からなかった。


夫人は何事もなかったように笑い、

やがてその場を去っていく。

アークファイントも礼をして見送った。

けれど、クリスティだけは、しばらく動くことができなかった。


――結婚。

その言葉だけが、妙に鮮明に胸へ残っている。

いつか、アークファイントが誰かと結婚する。

自分ではない誰かが、彼の一番近くに立つ。

その人の名を呼び。

今、自分へ向けているような声で話し。

穏やかに笑う。


「……嫌。」


ぽつりと零れた自分の声に、クリスティは目を見開いた。

慌てて口元を押さえる。

今。

自分は何と言った?

彼が誰かと結婚することが嫌?

胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。

その理由が分からないまま、クリスティはその場を離れた。



数日後。


帝国西部を治める侯爵との会談で、

その感情はさらに輪郭を持つことになった。

会談も終わりに近付いた頃、

侯爵がクリスティの斜め後ろへ控えるアークファイントへ目を向ける。


「ところで、アークファイント卿。

まだご婚約はなさっておられないとか。」

その瞬間、クリスティの手が止まった。

「現在、その予定はございません。」

「それはちょうどいい。」


侯爵の顔が明るくなる。

「実は、我が家にも年頃の娘がおりましてな。

以前より紅蓮の騎士殿へ憧れておるのです。」


冗談めいた話ではない。

家柄も申し分なく、侯爵令嬢との縁談であれば、

騎士として名を上げたアークファイントにとって、

決して悪い話ではないだろう。


「一度、茶会でもいかがかな。」

アークファイントは、すぐには答えなかった。

ほんの僅かな間。

それだけなのに。

クリスティには、妙に長く感じられた。

「アークファイントは素敵だもの。」

気付けば、口が先に動いていた。


誰もが安心する、いつもの皇女の笑顔を浮かべる。

「そのようなお話があっても、不思議ではありませんわ。」

「姫様。」

アークファイントが僅かに眉を寄せる。

「そうでしょう?」

笑顔は崩さない。

何もおかしなことは言っていない。


アークファイントの人生は、アークファイント自身のものだ。

三年前。

その選択を自分の願いで縛りたくなくて、

自分は彼を手放したのだから。


なのに。

胸の奥だけが、ひどく苦しかった。



会談を終えた帰り道。


クリスティは、珍しくほとんど口を開かなかった。

リカルドはしばらく黙って斜め後ろを歩いていたが、

やがて静かに声を掛ける。


「姫様。お疲れですか。」

「……そうかもしれない。」

それきり、再び沈黙が落ちる。

何故、あんなに胸が苦しくなったのか。

考えないようにすればするほど、先ほどの侯爵の言葉が蘇った。


年頃の娘。

茶会。

婚約。


いつか、本当にそうなる日が来るのだろうか。

「アークファイント。」

「はい。」

クリスティは前を向いたまま、ぽつりと尋ねた。

「もし……あなたが結婚したら。」

その先を口にすることが、思っていたより難しかった。

「私、ちゃんとお祝いできるかな。」

リカルドの歩みが止まる。

「姫様?」

その声に、クリスティは我に返った。


「何でもない!」

勢いよく振り返る。

「今の忘れて。」

「ですが――」

「忘れてって言ったら忘れるの!」

リカルドはしばらく彼女を見つめたあと、困ったように眉を下げた。


「……努力いたします。」

「努力じゃ駄目なの!」

思わず返してから、

クリスティは自分でもおかしくなって小さく笑った。

リカルドも、それ以上は尋ねなかった。


けれど、胸の奥に生まれたものだけは、もう消えてくれなかった。



その夜。


クリスティは一人、窓辺に座っていた。

考えてみれば、当たり前のことなのだ。

アークファイントは、帝国でも名を知られた騎士。

多くの者から信頼され、

女性たちから好意を寄せられることだってある。


いつか、誰かと家庭を持つかもしれない。

それは、喜ぶべきことのはずだった。


三年前。

彼に、自分自身の人生を選んでほしいと願ったのは、

他でもないクリスティなのだから。


「……嫌だな。」

また、同じ言葉が零れた。

誰かが、自分の知らない場所で、

アークファイントの一番近くに立つ。

それを想像すると、胸が痛い。


「何で……?」

無意識に、胸元へ手を当てる。

五歳の頃から、彼はずっと大切な人だった。

三年間離れていた時も、ずっと会いたかった。

帰ってきてくれた時は、泣くほど嬉しかった。

そういえば、少し前にも。

『何でって、大切な人のことだもん。』

自分は、何の迷いもなくそう言った。


大切な人。

それは間違いない。

けれど、これは本当にそれだけなのだろうか。

答えは、まだ出ない。

ただ一つ。

他の誰かが、アークファイントの一番近くへ立つ未来だけは。

どうしても嫌だった。


その感情に、まだ名前を付けられないまま。

クリスティは月明かりの中で、

長い間、自分の胸の鼓動を聞いていた。

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