第29話 名前のない嫉妬
リカルド・アークファイントが、
再びクリスティの専属騎士となってから半年ほどの月日が流れた。
三年間の空白は、驚くほど自然に日常の中へ溶けていった。
朝になれば、扉の向こうから聞き慣れた声がする。
「おはようございます、姫様。」
執務室へ向かえば、数歩後ろにはいつもの騎士。
公務が長引けば休憩を勧められ、
食事を忘れれば、いつの間にか菓子や紅茶が用意されている。
そして。
「アークファイント。」
「はい、姫様。」
呼べば、返事がある。
三年前、それが失われる苦しさを知ったからこそ。
クリスティは今、以前よりもこの日常を大切に思っていた。
◇
昼過ぎ。
会議を終えたクリスティは、
執務室へ戻るなり椅子へ深く腰掛けた。
「疲れたぁ……。」
「お疲れ様でございました。」
「お茶飲む。アークファイントも飲む?」
「いただきます。」
クリスティは侍女へ声を掛ける。
「アークファイントは、砂糖二つね。」
その言葉に、リカルドの動きが僅かに止まった。
「……覚えておられたのですか。」
「何を?」
「私の好みです。」
クリスティは不思議そうに首を傾げる。
「当たり前でしょう?」
「三年間、離れておりましたが。」
「三年くらいで忘れないよ。」
何でもないことのように言ってから、
クリスティは改めてリカルドの顔を見た。
「それより、最近ちゃんと寝てる?」
「もちろんです。」
「嘘。」
「何故ですか。」
「目の下。」
即答され、リカルドが僅かに黙る。
「それに、疲れると右肩が凝るでしょう?」
「……。」
「考え事してる時は、右手を握ったり開いたりするし。」
今度こそ、リカルドは完全に言葉を失った。
三年間。
姫様の好きな花。
好きな菓子。
疲れた時に少しだけ低くなる声。
悩みがある時、一人で庭園へ向かうこと。
自分だけが覚えているのだと思っていた。
けれど、覚えていたのは自分だけではなかったらしい。
「……何故、そこまで覚えておられるのでしょう。」
クリスティは目を瞬かせた。
「何でって。」
そして、当たり前のように笑う。
「大切な人のことだもん。」
リカルドの思考が止まった。
「それに、三年会ってなくても、
アークファイントがアークファイントなのは変わらないでしょう?」
「……はい。」
「だから覚えてるよ。」
奈落門で幾度も死地を越えてきたリカルドだったが。
『大切な人』
その一言ほど、対処に困るものを他に知らなかった。
「……アークファイント?」
「何でもございません。」
「顔、ちょっと赤くない?」
「気のせいです。」
「そう?」
クリスティは不思議そうに首を傾げた。
三年経っても、
こういうところだけは何一つ変わっていない。
少なくとも、クリスティはそう思っていた。
◇
ある日の午後。
「アークファイント卿。」
聞こえてきた声に、クリスティは足を止めた。
回廊の少し先。
見慣れた赤髪の騎士が、一人の女性と話している。
栗色の髪を上品にまとめた、
落ち着いた雰囲気の侯爵夫人だった。
「先日はありがとうございました。」
「当然のことをしたまでです。」
「ですが、アークファイント卿がいらっしゃらなければ、
領内の混乱はもっと大きなものとなっていたでしょう。」
「帝国を守ることが、私の務めですので。」
穏やかな声。
丁寧な受け答え。
それだけなら、クリスティも何度となく見てきた。
なのに。
夫人が笑うと、アークファイントも僅かに表情を和らげた。
その光景から、何故か目を離すことができない。
「噂には聞いておりましたが、本当にお優しい方なのですね。」
「そのようなことは。」
「ふふ。貴族令嬢方が放っておかない理由が分かりましたわ。」
アークファイントが珍しく困ったように眉を寄せた。
「そのような噂があるのですか。」
「ご存じないのですか?」
夫人は楽しそうに笑う。
「『紅蓮の騎士』。帝国屈指の剣士であり、
第二皇女殿下の専属騎士。その上、そのお姿でしょう?」
「……。」
「まだ、ご結婚の予定は?」
その瞬間。
クリスティの胸が、大きく跳ねた。
「ございません。」
「まあ。」
「現在は、姫様へお仕えすることが私の務めですので。」
その答えに安堵した。
――何故?
クリスティ自身、
すぐには分からなかった。
夫人は何事もなかったように笑い、
やがてその場を去っていく。
アークファイントも礼をして見送った。
けれど、クリスティだけは、しばらく動くことができなかった。
――結婚。
その言葉だけが、妙に鮮明に胸へ残っている。
いつか、アークファイントが誰かと結婚する。
自分ではない誰かが、彼の一番近くに立つ。
その人の名を呼び。
今、自分へ向けているような声で話し。
穏やかに笑う。
「……嫌。」
ぽつりと零れた自分の声に、クリスティは目を見開いた。
慌てて口元を押さえる。
今。
自分は何と言った?
彼が誰かと結婚することが嫌?
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
その理由が分からないまま、クリスティはその場を離れた。
◇
数日後。
帝国西部を治める侯爵との会談で、
その感情はさらに輪郭を持つことになった。
会談も終わりに近付いた頃、
侯爵がクリスティの斜め後ろへ控えるアークファイントへ目を向ける。
「ところで、アークファイント卿。
まだご婚約はなさっておられないとか。」
その瞬間、クリスティの手が止まった。
「現在、その予定はございません。」
「それはちょうどいい。」
侯爵の顔が明るくなる。
「実は、我が家にも年頃の娘がおりましてな。
以前より紅蓮の騎士殿へ憧れておるのです。」
冗談めいた話ではない。
家柄も申し分なく、侯爵令嬢との縁談であれば、
騎士として名を上げたアークファイントにとって、
決して悪い話ではないだろう。
「一度、茶会でもいかがかな。」
アークファイントは、すぐには答えなかった。
ほんの僅かな間。
それだけなのに。
クリスティには、妙に長く感じられた。
「アークファイントは素敵だもの。」
気付けば、口が先に動いていた。
誰もが安心する、いつもの皇女の笑顔を浮かべる。
「そのようなお話があっても、不思議ではありませんわ。」
「姫様。」
アークファイントが僅かに眉を寄せる。
「そうでしょう?」
笑顔は崩さない。
何もおかしなことは言っていない。
アークファイントの人生は、アークファイント自身のものだ。
三年前。
その選択を自分の願いで縛りたくなくて、
自分は彼を手放したのだから。
なのに。
胸の奥だけが、ひどく苦しかった。
◇
会談を終えた帰り道。
クリスティは、珍しくほとんど口を開かなかった。
リカルドはしばらく黙って斜め後ろを歩いていたが、
やがて静かに声を掛ける。
「姫様。お疲れですか。」
「……そうかもしれない。」
それきり、再び沈黙が落ちる。
何故、あんなに胸が苦しくなったのか。
考えないようにすればするほど、先ほどの侯爵の言葉が蘇った。
年頃の娘。
茶会。
婚約。
いつか、本当にそうなる日が来るのだろうか。
「アークファイント。」
「はい。」
クリスティは前を向いたまま、ぽつりと尋ねた。
「もし……あなたが結婚したら。」
その先を口にすることが、思っていたより難しかった。
「私、ちゃんとお祝いできるかな。」
リカルドの歩みが止まる。
「姫様?」
その声に、クリスティは我に返った。
「何でもない!」
勢いよく振り返る。
「今の忘れて。」
「ですが――」
「忘れてって言ったら忘れるの!」
リカルドはしばらく彼女を見つめたあと、困ったように眉を下げた。
「……努力いたします。」
「努力じゃ駄目なの!」
思わず返してから、
クリスティは自分でもおかしくなって小さく笑った。
リカルドも、それ以上は尋ねなかった。
けれど、胸の奥に生まれたものだけは、もう消えてくれなかった。
◇
その夜。
クリスティは一人、窓辺に座っていた。
考えてみれば、当たり前のことなのだ。
アークファイントは、帝国でも名を知られた騎士。
多くの者から信頼され、
女性たちから好意を寄せられることだってある。
いつか、誰かと家庭を持つかもしれない。
それは、喜ぶべきことのはずだった。
三年前。
彼に、自分自身の人生を選んでほしいと願ったのは、
他でもないクリスティなのだから。
「……嫌だな。」
また、同じ言葉が零れた。
誰かが、自分の知らない場所で、
アークファイントの一番近くに立つ。
それを想像すると、胸が痛い。
「何で……?」
無意識に、胸元へ手を当てる。
五歳の頃から、彼はずっと大切な人だった。
三年間離れていた時も、ずっと会いたかった。
帰ってきてくれた時は、泣くほど嬉しかった。
そういえば、少し前にも。
『何でって、大切な人のことだもん。』
自分は、何の迷いもなくそう言った。
大切な人。
それは間違いない。
けれど、これは本当にそれだけなのだろうか。
答えは、まだ出ない。
ただ一つ。
他の誰かが、アークファイントの一番近くへ立つ未来だけは。
どうしても嫌だった。
その感情に、まだ名前を付けられないまま。
クリスティは月明かりの中で、
長い間、自分の胸の鼓動を聞いていた。




