第27話 返事のない朝
朝が来た。
どれほど眠れない夜を過ごしても、
このまま時間が止まればいいと願っても夜は明ける。
窓から差し込む朝の光が、
薄暗い寝室を少しずつ照らしていく。
第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアは、
寝台の上で膝を抱えたまま座っていた。
一睡もしていなかった。
泣き疲れて、いつの間にか目を閉じていた時間はあったのかもしれない。
それでも、眠ったという感覚はどこにもなかった。
瞼は重く、目の奥は熱を持ち、
声を押し殺し続けた喉が、僅かに痛む。
けれど、今日も第二皇女として果たすべき役目がある。
「……起きなくちゃ。」
自分へ言い聞かせるように呟き、寝台から足を下ろす。
そして、いつものように扉の向こうへ声を掛けた。
「アークファイント。」
名前が、自然と口から零れた。
呼べば、必ず返事がある。
『はい、姫様。』
十年間、一度も変わらなかった。
けれど今朝は何も聞こえなかった。
扉の外は、静まり返っている。
「………。」
クリスティは、しばらくその場から動けなかった。
分かっていた。
もう、いない。
自分でそう決めた。
それでも、身体だけは、まだ昨日までの日々を覚えていた。
◇
第二皇女付きの侍女たちは、
いつもと同じ時刻にクリスティの部屋を訪れた。
誰もが、昨夜のことを知っていた。
閉ざされた扉の向こうから、
微かに聞こえていた泣き声。
それでも誰一人、扉を叩かなかった。
クリスティが一人で泣くことを選んだから。
やがて、侍女長が静かに扉を叩く。
「クリスティ様。朝のお支度に参りました。」
少しの間を置いて、
「……入って。」
掠れた声が返ってきた。
扉を開けば、
クリスティは窓辺に立っていた。
白銀の髪は乱れ、瞼は赤く腫れている。
それでも侍女たちを見ると、
いつものように笑おうとした。
「おはよう。」
「おはようございます、クリスティ様。」
誰も昨夜のことには触れなかった。
いつものように髪を整え、今日の予定を確認し、衣装を選ぶ。
鏡台の前へ座ったクリスティは、
映った自分の顔を見て小さく眉を下げた。
「……やっぱり、目。腫れてるね。」
「少々。」
「隠せる?」
「可能な限りは。」
「お願い。」
冷たい布が瞼へ当てられる。
「冷たい……。」
「少し我慢なさってください。」
「うん。」
目を閉じたクリスティは、
いつも人前で見せる凛とした姿が嘘のように、
年相応の幼い少女に見えた。
「本日の公務ですが…。」
侍女長が静かに切り出すとクリスティは笑顔で即答した。
「予定通り行うよ、大丈夫。」
けれど、十年以上この少女を見てきた侍女長には、
その笑顔が誰かを安心させるためのものだと分かっていた。
「……承知いたしました。」
◇
朝食室には、
ルーファスとレオンハルト、ヴィオレットが揃っていた。
扉が開きクリスティが入ってくる。
「おはようございます、お父様。」
「ああ、おはよう。」
「レオン兄様、ヴィオ姉様も、おはよう。」
いつも通りの笑顔。
けれど、三人とも一目で分かった。
泣いたのだ。
それも、誰にも助けを求めず一人で。
ルーファスは娘をしばらく見つめたあと、
静かに告げた。
「クリスティ、本日の公務は休め。」
「でも――」
「皇帝命令だ。」
有無を言わせない声だった。
クリスティは困ったように笑う。
「体調は悪くありません。大丈夫です。」
「大丈夫な者は、そのような顔をしていない。」
父の視線が、腫れた瞼へ向く。
クリスティは何も言えなくなった。
「お前が下した決断を、私は覆すつもりはない。」
リカルドを呼び戻せとも言わない。
自ら考え、自ら選んだのなら、その決断は尊重する。
「だが、その結果苦しむことまで、一人で背負う必要はない。」
その声は、皇帝ではなく一人の父親のものだった。
「今日は休め。泣きたいのなら泣けばいい。」
「……はい。」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
「クリスティ。」
今度はレオンハルトが口を開いた。
「何故、俺に相談しなかった?」
「相談したら、レオン兄様は止めたでしょう?」
「当然だ。」
クリスティは少しだけ困ったように笑う。
けれど、レオンハルトの表情は晴れない。
「お前は以前、俺にこれからは自分もいると、
一人ですべてを背負わなくていいとそう言った。」
クリスティの笑みが消えた。
「……うん。」
「なら、何故自分のことになると一人で抱える。」
返す言葉がない。
「お前が誰かを支えようとするように、
お前だって、誰かに支えられていいんだ。」
レオンハルトの声が、僅かに和らぐ。
「苦しい時まで笑って、何もかも一人で抱える必要はない。
次からは、俺にも背負わせろ。」
クリスティは兄を見つめた。
「兄として。お前の隣に立たせろ。」
長い沈黙のあと。
「……うん。」
泣き出しそうな声で答えた。
ヴィオレットは何も言わず、
妹の前へ温かな紅茶を置いた。
「少し甘めにしてあります。」
「ありがとう、ヴィオ姉様。」
「今日は、何も話さなくて構いません。」
両手でカップを包むクリスティへ、穏やかな声が続く。
「ここにいるだけでいいです。」
その言葉に、クリスティの指先が止まった。
いつか自分が、
疲れ切ったリカルドへ掛けた言葉だった。
何も聞かず、ただ休める場所を作る。
それが今、自分へ返ってきている。
「……ヴィオ姉様。」
「はい。」
「私、間違えたのかな…。」
初めて、胸の奥に押し込めていた言葉が零れた。
ヴィオレットは、すぐには答えなかった。
「分かりません。」
「……。」
「未来のことは、今の私たちには分かりません。
けれど、もし間違いだと気付いたのならその時に正せばいいのです。」
クリスティが顔を上げる。
「一度下した決断を変えることは、恥ではありません。
間違いに気付いてなお、意地だけで進み続ける方がよほど危うい。」
クリスティは何も答えず、温かな紅茶へそっと口をつけた。
◇
朝食を終え。
クリスティが自室へ戻る途中。
ふと足を止めた。
そして、無意識に斜め後ろを振り返る。
そこには誰もいない。
昨日まで、近付きすぎず、離れすぎず。
何かあればすぐ剣を抜ける距離に、
必ず赤い髪の騎士がいた。
十年間。
当たり前のようにあった場所。
クリスティはその空白をしばらく見つめ、
やがて静かに前を向いた。
◇
それから、三日後。
マーヴェリア帝国北部。
奈落門最前線。
「右が空いてるぞ!」
怒声が訓練場へ響いた。
「隊列を崩すな! 魔獣が相手なら今ので三回は死んでる!」
「三回もですか!?」
「一度目で学ばないから増えたんだ!」
「理不尽です!」
「戦場はもっと理不尽だ! 動け!」
「はい!」
騎士たちの中心で、
次々と指示を飛ばしている青年がいた。
第二皇子アレクシス・フォン・マーヴェリア。
二十二歳。
奈落騎士団へ入団して三年。
皇子という身分に頼ることなく実力で前線へ立ち、
今では奈落騎士団副団長を務めている。
「副団長!」
訓練場へ、副官が慌ただしく駆け込んできた。
「何だ。奈落門が増えたか?」
「増えておりません!」
「大型魔獣か。」
「違います!」
「なら少し落ち着け。」
「落ち着いていられません!」
差し出されたのは、一枚の配属書類。
アレクシスは面倒そうに受け取り、
そこへ記された名を見た瞬間動きを止めた。
「……は?」
もう一度確認する。
見間違いではない。
リカルド・アークファイント。
「本人は?」
「団長執務室で、配属手続きを行っております。」
「……そうか。」
アレクシスは持っていた訓練剣を近くの騎士へ押し付け、
そのまま大股で歩き出した。
「副団長、どちらへ!?」
「本人に聞く!」
「何をですか!?」
振り返ることなくアレクシスは砦中へ響く声で叫んだ。
「何してんだ、お前!って!!」
◇
「何でクリスの隣にいないんだ!」
副団長執務室へ連行されたリカルドは、
真正面から飛んできた問いにも表情を変えなかった。
「姫様のご命令により、第二皇女専属騎士の任を解かれました。」
「……は?」
「正式な辞令も受けております。」
アレクシスは数秒、黙ってリカルドを見つめた。
冗談を言う男ではない。
ましてや、こんなことで嘘をつく男でもない。
「待て。」
こめかみを押さえながら、もう一度頭の中で言葉を整理する。
「クリスティが、自分からお前を専属騎士から外したのか?」
「はい。」
「……お前が辞めたいと言ったわけじゃないんだな?」
「ございません。」
アレクシスは深く息を吐いた。
「……何があった。」
先ほどまでの勢いが消えた声に、
リカルドは僅かに目を伏せた。
「姫様は、五歳の頃のご自分の願いによって、
私の人生の選択肢を狭めたのではないかとお考えになりました。」
もっと広い世界を見て、自ら進む道を選んでほしい。
そのために、専属騎士の任を解いた。
説明を聞き終えると、アレクシスは深いため息をついた。
「……あの馬鹿…。」
怒りではなかった。
妹がどんな顔でその命令を下したのか、想像できてしまったからだ。
「お前は何て答えた。」
「お断りいたしました。」
「そこまでは正しい。」
当然だ、とアレクシスは思った。
十年間、クリスティの騎士であることを自ら選び続けてきた男だ。
妹に自由になれと言われたからといって、素直に頷くはずがない。
だが、リカルドの返答はそこで終わらなかった。
「ですが、姫様は第二皇女として正式に命令を下されました。」
アレクシスの表情が変わる。
願いでも、頼みでもない。
皇女として、臣下であるリカルドへ命じたのだ。
そこまでしなければこの男が自分から離れないと、
クリスティ自身分かっていたのだろう。
「……そこまでしたのか。」
「はい。」
アレクシスは深く息を吐いた。
妹がどんな思いでその命令を口にしたのか、
想像すればするほど、頭が痛くなる。
だが、もう一つ。
それとは別に、どうしても理解できないことがあった。
「……で、何で奈落騎士団なんだ?」
専属騎士を解かれたことと、
目の前の男が帝国最北端の砦にいることは、まったく別の話である。
「自ら進みたい道を見つけるように、と仰せでしたので。」
「それは聞いた。」
リカルドは至極真面目な顔で続けた。
クリスティのそばを離れた以上、これからどこで、
何のために剣を振るうのか、改めて考えたのだという。
そして選んだのが、
帝国で最も多くの命を守ることのできる場所。
「奈落門最前線であれば、これまで培った剣を最も有効に使うことができます。」
「……。」
理屈は分かる。
実にリカルドらしい選択でもある。
だが、アレクシスはしばらく無言で彼を見つめ、
――とうとう耐えきれなくなった。
「お前……世界を広げろと言われて、
結局クリスティの兄貴の部下になってるじゃねぇか!」
「アレクシス殿下は、帝国でも屈指の指揮官であられますので。」
「褒めても誤魔化されんぞ!」
「事実を申し上げただけです。」
あまりにも真顔で返され、アレクシスの眉間に深い皺が寄った。
分かっている。
リカルドに誤魔化す意図などない。
本気でそう思っているだけだ。
だから余計に腹が立つ。
「お前、昔から真面目すぎて面倒くさいな!」
「姫様からもよく言われました。」
アレクシスのこめかみが、ぴくりと動いた。
「……何でもクリスに結び付けるな。」
「話題の中心が姫様ですので。」
「そういうところだよ!」
思わず声を荒らげてから、アレクシスは額を押さえた。
世界を見てこいと送り出した妹も妹なら、
送り出された先に奈落騎士団を選び、
よりにもよって妹の兄を上官にするこいつもこいつだ。
「……お前ら、本当に面倒くさいな。」
「お前ら、とは?」
「そこで聞き返すな!」
その時、執務室の外から何かを堪えるような気配がした。
アレクシスの眉が跳ねる。
「……聞こえてるぞ!」
廊下から複数の足音が一斉に遠ざかっていった。
「ったく……。」
吐き捨てるように呟き、アレクシスは乱暴に椅子へ腰を下ろした。
正直、頭が痛い。
妹も、目の前の男も。
◇
その日の夜。
歓迎の席を早々に抜けたリカルドは、砦の外壁に立っていた。
遠くには巨大な奈落門。
不気味な光が、
薄暗い空を照らしている。
「こんなところにいたのか。」
振り返らなくても分かった。
「アレクシス殿下。」
「今は副団長だ。」
「承知しました、アレクシス副団長。」
「……やっぱり殿下でいい。」
アレクシスが隣へ立つ。
しばらく二人は何も言わなかった。
やがて、アレクシスが口を開く。
「クリスは、お前を見送る時どんな顔をしてた。」
「笑っておられました。」
「だろうな。」
迷いのない即答だった。
「最後まで、いつも通りに。」
アレクシスは遠くを見たまま息を吐く。
「なら、今頃は泣いてるな。」
リカルドの黒い瞳が僅かに揺れた。
「何故、そう思われるのですか?」
「俺は、あいつの兄だぞ。」
皇城の正門前。
明るく手を振っていた少女の姿が、リカルドの脳裏に蘇る。
『いってらっしゃい、アークファイント。』
「あいつは、本当に辛い時ほど笑う。」
誰も心配しないように、自分の痛みなど、何でもないことのように。
リカルドは目を伏せた。
「お前は、自由になりたかったのか?」
「いいえ。」
迷いはなかった。
「姫様の騎士であることは、私自身が選んだ道です。」
「そう言ったんだろうな。」
「申し上げました。」
「それでも、解任された…と。」
「はい。」
アレクシスは欄干へ腕を置いた。
「お前ら、変なところだけよく似てるんだよ。」
「姫様と、私がですか?」
「ああ。」
アレクシスは奈落門の方を見たまま、低く続ける。
「相手のためだと思ったら、自分のことを勝手に後回しにするところがな。」
リカルドは黙った。
「クリスは、お前を手放せばお前のためになると思った。
お前は、あいつの命令に従うことがあいつのためだと思った。」
一度、息を吐く。
「……どっちも、相手が本当にそれで幸せかまでは分かってない。」
リカルドは何も答えなかった。
反論できなかった。
「今すぐ戻れとは言わん。」
アレクシスの声が、少しだけ穏やかになる。
「クリスも覚悟を決めて下した命令なんだろう。
それを今すぐ覆したら、あいつは自分を許せなくなる。」
「……はい。」
「だから今は、あいつの言う通り自分の道を歩け。」
広い世界を見て、自分自身が何を望むのか。
「今度こそ、自分で考えろ。」
リカルドが顔を上げる。
「その上で、お前が本当に望むものが見つかったなら。
今度は、自分でそれを選べ。」
アレクシスは真っ直ぐに彼を見る。
リカルドの黒い瞳が揺れた。
「姫様は、それを望まれないかもしれません。」
「その時は断られろ。」
「……。」
「一度断られたくらいで、自分の人生まで諦めるな。」
そして、僅かに笑う。
「お前は、クリスティの騎士であることを自分で選んだんだろう?」
「はい。」
「なら、次に選ぶ時も自分の口で言え。」
長い沈黙のあと、リカルドは静かに頭を下げた。
「……承知しました。」
再び、奈落の風だけが二人の間を通り抜ける。
しばらくして、リカルドが小さく口を開いた。
「アレクシス殿下。」
「今度は何だ?」
「姫様は……お元気でしょうか。」
「……。」
アレクシスはしばらく彼を見つめ、深く深く息を吐いた。
「お前ら。本当に馬鹿だな。」
「申し訳ございません。」
「そこを謝るな。」
◇
その日、皇城ではクリスティが初めて、返事のない朝を迎えた。
そして三日後、奈落の最前線では、リカルドが彼女のいない道を歩き始めた。
十年間、当たり前のように隣にいた二人は。
初めて互いのいない場所へ立った。
それが相手のためだと信じて。
そして。
それぞれが自ら選んだ道の先で、
何を見つけることになるのか。
この時の二人は、まだ知らなかった。




