第26話 十年目の願い
十年前。
五歳だった少女は。
一人の少年へ、無邪気に願った。
『アークファイントは、クリスの騎士になって。』
その願いは。
一人の少年の人生を、大きく変えた。
そして、十年後。
十五歳になった少女は。
同じ騎士へ、もう一つの願いを告げようとしていた。
◇
第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリア。
十五歳の誕生日。
皇城では、朝から盛大な祝宴の準備が進められていた。
大広間には、帝国各地から届けられた花が飾られ、
高い天井からは、皇族の紋章が刺繍された旗が下がっている。
長い卓上へ並べられた料理。
美しく磨かれた銀食器。
皇女の誕生日を祝うために集まった、数多くの貴族たち。
その中心に白と紫を基調とした正装へ身を包んだクリスティが立っていた。
腰まで伸びた、緩やかに波打つ白銀の髪。
光を受けて輝く紫水晶の瞳。
幼さを残していた顔立ちも、この二年で随分と大人びた。
「第二皇女殿下。」
「十五歳のお誕生日、心よりお祝い申し上げます。」
「ありがとうございます。」
クリスティは、柔らかく微笑んだ。
「殿下は、ますます皇妃フェリシア様の面影を感じさせるようになられましたな。」
「光栄です。」
「近頃のご活躍も、帝国中へ聞こえております。」
「次代を担うお方として、これほど心強いことはございません。」
「まだまだ学ぶことばかりです。」
謙虚に答えながらも、
クリスティの姿には以前にはなかった風格が備わっていた。
誰かに見られることを意識して作られたものではない。
父から政務を学び、兄と共に帝国の未来を考え。
自ら決断する経験を重ねる中で自然と身に付いたものだった。
皇帝ルーファスは。
少し離れた場所から、娘の姿を静かに見守っていた。
隣にはレオンハルト。
その少し先にはヴィオレットがいる。
奈落騎士団に所属するアレクシスからも、
朝一番で、誕生日を祝う手紙が届いていた。
そして、クリスティの数歩後ろには、
今日も変わらず、リカルド・アークファイントが立っていた。
紺色の騎士服、白銀のマント。
赤い髪。
黒い瞳。
二十四歳となったその姿には、十四歳だった頃の面影が僅かに残っている。
だが、少年だった彼は、
今や帝国騎士団でも、指折りの剣士となっていた。
先日行われた騎士団の合同訓練では、
第一皇子レオンハルトを相手に、見事一本を取っている。
騎士たちの間では、すでに帝国最強の座へ最も近い男だと囁かれていた。
クリスティは、祝辞へ礼を返しながら。
時折、その数歩後ろへ立つ騎士の姿をそっと確認していた。
目が合えばリカルドは、いつも通り静かに頭を下げる。
それだけでクリスティは安心したように、再び前へ向き直った。
十年間。
ずっと続いてきた光景だった。
◇
祝宴は、夕刻まで続いた。
数え切れないほどの祝福を受け贈り物を受け取り。
皇族や貴族たちとの食事を終え、
ようやく最後の客を見送った頃には月が皇城の上へ昇っていた。
「疲れたぁ……。」
大広間を出た途端、クリスティは小さく息を吐いた。
「姫様。侍女たちもおりますが。」
「皆、見てないふりしてくれるよね?」
問い掛けられた侍女たちは、揃って視線を逸らした。
「ほら。」
「……今日だけですよ。」
「アークファイントは相変わらず厳しいなぁ。」
クリスティは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
リカルドの表情も僅かに和らぐ。
いつもの二人だった。
「ねえ、アークファイント。」
「はい、姫様」
「少しだけ、庭園を歩かない?」
その声に、リカルドはクリスティを見る。
笑顔は変わらない。
けれど、その瞳には静かな決意が宿っていた。
「承知いたしました。」
リカルドは、それ以上何も尋ねなかった。
◇
夜の庭園。
祝宴の喧騒は、すでに遠い。
白い花々が月明かりを受け淡い光を放っている。
風が吹くたびに木々の葉が、静かに音を立てた。
クリスティは、ゆっくりと庭園の小道を歩いていた。
その数歩後ろをリカルドがついていく。
近付きすぎず。
離れすぎず。
何かあれば、すぐに剣を抜ける距離。
出会った日から、
何一つ変わらない位置だった。
幼い頃、何度も駆け回った庭園。
かくれんぼをして植え込みから両足を出しながら、
自分は隠れるのが上手だと言い張った場所。
木に登ろうとして、リカルドから何度も止められた場所。
遊び疲れて、抱き上げてもらった場所。
そして、十年前。
『アークファイントは、クリスの騎士になって。』
そう願った場所。
クリスティは大きな木の前で、静かに足を止めた。
「アークファイント、もう十年になるんだね。」
リカルドは僅かに目を細めた。
「……そうですね。」
「覚えてる?」
「忘れるはずがございません。」
「そっか。」
クリスティは、月を見上げた。
「五歳の私が、アークファイントに
『私の騎士になって』ってお願いしてから。」
十五歳になった今。
あれから、十年の月日が流れていた。
「長かったような気もするけど、振り返るとあっという間だったなぁ。」
クリスティは小さく笑う。
「そうですね。」
リカルドも十年前の光景を思い出していた。
自分の髪へ触れ、赤い髪が好きだと笑った少女。
庭園中を駆け回り、疲れたから抱っこしてほしいと両手を伸ばした。
そして、眠そうな瞳でずっと隣にいてほしいと願った。
あの日からリカルドの人生には、常にクリスティがいた。
十四歳から二十四歳まで。
剣を学ぶ時も、騎士としての礼節を学ぶ時も、
戦う理由を考える時も。
その中心にはいつも一人の少女がいた。
「アークファイント。」
「何でしょう。」
「私ね、最近ずっと考えてたの。」
クリスティは、ゆっくりとリカルドへ振り返った。
「…十四歳のあなたに、五歳だった私は、
なんてことをお願いしたんだろうって。」
リカルドの眉が僅かに動いた。
「姫様。」
「私の騎士になって。ずっと、私のそばにいて。」
クリスティは十年前の自分を思い出すように、少しだけ目を細めた。
「五歳の私は。自分が皇女だっていうことも。
自分の願いが、誰かの人生を変えることも。何も分かってなかった。」
ただ。赤い髪の少年が気に入った。
もっと一緒にいたかった。
自分を抱き上げてくれたその人に。
これからも、そばにいてほしかった。
だから。何の迷いもなく願った。
『クリスの騎士になって。』
「ただの子どものわがまだったの。」
「そのようなことは――」
「でも。」
クリスティは、リカルドの言葉を静かに遮った。
「あなたは、受けてくれた。まだ十四歳だったのに。」
これから何を学ぶのか、どんな騎士になるのか、
どこで戦うのか。
誰と出会い、どんな人生を歩むのか。
何一つ決まっていなかった少年が。
五歳の皇女の願いを受け入れた。
「それは、私自身が望んだことです。」
リカルドは迷わなかった。
「……うん。」
クリスティもその答えを知っていた。
「知ってる。アークファイントは、ずっとそう言ってくれたから。」
その答えを疑っているわけではない。
だからこそ、クリスティには、確かめなければならないことがあった。
◇
きっかけは、少し前のことだった。
騎士団の訓練を見学した帰り、
クリスティは、騎士たちの会話を偶然耳にした。
『アークファイント卿なら、いずれ騎士団を率いてもおかしくない』
『だが、第二皇女殿下の専属だろう?』
『あれほどの剣だ。別の道を歩んでいたら、どこまで行ったんだろうな』
悪意のある言葉ではなかった。
だからこそ。
クリスティの胸に残った。
その後の夜会でも、似たような話を聞いた。
アークファイントには婚約の話がいくつもあること。
けれど、専属騎士としてほとんどの時間を皇城で過ごしていること。
そこで初めてクリスティは考えた。
アークファイントにも、自分とは別の人生があったのだ、と。
別の場所で戦う道も、別の人々と出会う未来も、いつか家族を持つ人生も。
本来ならば、すべて彼自身が選ぶものだった。
なのに自分は十年間何の疑問もなく、
アークファイントは、ずっと自分のそばにいると思っていた。
◇
「アークファイントは、今ではレオン兄様よりも強い。」
月明かりの下、クリスティは静かに口を開いた。
「騎士団の人たちも、いつか帝国一の騎士になるって言ってる。」
リカルドは何も答えない。
「そんなあなたなら、もっと色んな道を選べたかもしれない。」
奈落門の最前線へ行くことも、部隊を率いることも。
自分の知らない場所で、自分の知らない人生を歩むことも。
「でも、あなたはずっと私のそばにいた。」
十年間。
呼べば来てくれた。
出掛ければついてきてくれた。
何かあれば、自分より先にクリスティを守った。
「……それを私、ずっと当たり前だと思ってた。」
「私は、自ら望んで姫様の騎士となりました。」
リカルドは迷わなかった。
「今も、その選択を後悔しておりません。」
「うん、知ってる。」
何度尋ねても、その答えだけは変わらなかった。
「でもね。もし五歳の私が、あなたにお願いしてなかったら?」
リカルドの黒い瞳が僅かに揺れる。
「きっと、今とは違う人生もあったでしょう?」
その可能性を、自分は一度も考えたことがなかった。
十五歳になるまで。
「それが、ちょっと怖くなったの。」
「……何がでしょうか。」
クリスティは一度、目を伏せた。
「去年のデビュタント、覚えてる?」
リカルドの表情が僅かに強張る。
『私と踊って。』
あの日、十年間で初めてリカルドは、
クリスティの願いを断った。
たった一曲だったのに。
苦しそうな顔で、
『できません。』
そう答えた。
「あの日から、考えるようになったの。」
自分が望めば、この人はいつまでもそばにいてくれるのではないか。
自分からは、決して離れようとしないのではないか。
「アークファイントが、私のそばにいること以外を、
もう選ばなくなってるんじゃないかって。」
「姫様。」
「あなたは優しいから、私が望み続けたら、
きっとずっといてくれるでしょう?」
クリスティは寂しそうに笑った。
本当なら、それは嬉しいはずだった。
けれど、彼が自由に選んだ末にここへいるのか。
それとも、ここにいることしか知らないのか、
今のクリスティには、分からなかった。
「私はもう、五歳の子どもじゃない。」
自分が皇女であることも、
自分の言葉が、
誰かの人生を大きく変えることがあることも、今は知っている。
「だから、私の願いだけで、
アークファイントの人生を決めたくないの。」
リカルドは、真っ直ぐにクリスティを見つめた。
「私の人生は、私自身のものです。これは、私自身が選びました。
姫様の騎士として生きることを。」
「うん、分かってる。」
クリスティは頷く。
その言葉を疑っているわけではない。
「だから、一度だけ…。」
声が震えた。
「私がいないところで、
アークファイント自身が、何を望むのか考えてほしいの。」
「姫様……。」
「十年間ずっと、私のそばにいたでしょう?」
クリスティは、寂しそうに笑った。
「だから今度は、私じゃなくて、自分のために道を選んでほしい。」
少しの沈黙の後、クリスティは深く頭を下げた。
「お願い。」
白銀の髪が、顔を隠す。
「私の専属騎士を、辞めてほしい。」
静寂が落ちた。
長い間、リカルドは答えなかった。
そして。
「お断りいたします。」
はっきりと告げた。
クリスティの肩が僅かに震える。
「姫様が私の未来を案じてくださっていることは理解しております。」
「ですが、これは私の人生です。
私は、姫様の騎士であることを望んでおります。」
予想していた答えだった。
十年間、この人はずっとそうだった。
「……そっか。」
クリスティは、ゆっくりと顔を上げる。
「なら……。」
一度、大きく息を吸った。
お願いでは、この人は離れてくれない。
だから。
「命令します。」
リカルドの表情が変わった。
「リカルド・アークファイント。」
初めて、正式にその名を呼ぶ。
「あなたを、第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアの、
専属騎士から解任します。」
「これは、第二皇女としての命令です。」
言ってしまった。
もう戻せない。
「……ご命令を、撤回していただくことはできませんか。」
「…できません。」
しばらくの沈黙のあと。
リカルドは、ゆっくりと片膝をつき胸元へ拳を当てる。
十年前。
十四歳だった少年が。
小さな皇女の願いを受け入れた時と同じように。
「……謹んで、お受けいたします。」
クリスティは唇を強く噛んだ。
「姫様のご命令であれば、私は従います。」
「……ありがとう。」
それでも、笑った。
「アークファイントなら、きっと帝国一の騎士になれるよ。」
「もっと色んな場所へ行って、もっとたくさんのものを見て、
自分で自分の進みたい道を見つけてね。」
リカルドは片膝をついたまま、顔を上げた。
「姫様。」
「何?」
「私を選んでくださった十年間を。
私は一度たりとも後悔したことはございません。」
クリスティの瞳が揺れる。
「姫様の騎士であったことは、私の生涯の誇りです。
それだけは、どうか忘れないでください。」
「……うん。」
笑顔が、僅かに崩れた。
「忘れない。絶対に、忘れないよ。」
十年間。
あまりにも近くにいた。
だからこそ、二人とも別れの言葉だけは見つけられなかった。
◇
数日後。
リカルド・アークファイントは、正式に第二皇女専属騎士の任を解かれた。
皇帝ルーファスは、最後まで、娘の決定へ口を挟まなかった。
レオンハルトは、クリスティへ何度か何かを言い掛けた。
だが、妹の決意が変わらないことを悟り最後には何も言わなかった。
ヴィオレットも、ただ静かに妹の傍へ立っていた。
皇城の正門前。
旅装へ身を包んだリカルドが小さな荷物を持ち、城を後にしようとしている。
十年前。
平民の少年として、初めて足を踏み入れた皇城。
五歳の皇女に選ばれ、専属騎士見習いとなり、
正式な帝国騎士となり、十年を過ごした場所。
クリスティは、皇城の階段の上へ立っていた。
白銀の髪を風に揺らしながら、
いつものように柔らかく笑っている。
「アークファイント。」
「はい、姫様。」
専属騎士ではなくなっても、
その呼び方だけは何も変わらなかった。
クリスティは、少しだけ迷ってからいつものように笑った。
「いってらっしゃい。」
さようならとはどうしても言えなかった。
リカルドの黒い瞳が、僅かに揺れる。
それでも彼はいつもの騎士のように、静かに頭を下げた。
「……行ってまいります。」
そして前を向いた。
クリスティは、その背中を見送る。
呼び止めなかった。
戻ってきてとも、言わなかった。
自分で決めたことだった。
彼に自分ではない道を選んでほしいと願ったのは自分なのだから。
やがてその背中が、皇城の正門の向こうへ消える。
完全に見えなくなってから、クリスティは小さく呟いた。
「……行っちゃった。」
その声に答える者は、もういなかった。
◇
その夜、クリスティは一人で寝台へ座っていた。
いつもなら扉の向こうにはアークファイントがいる。
何かあれば、呼ぶより早く気付いてくれる。
けれど今夜は違った。
「……アークファイント。」
返事はない。
十年間、呼べば必ず返ってきた。
『はい、姫様。』
ただ、それだけのことが、
こんなにも当たり前になっていたのだと、
いなくなって初めて気づいた。
「……アークファイント。」
もう一度呼ぶ。
やはり、返事はなかった。
クリスティは膝を抱えた。
今日まで堪えていた涙が、一粒頬を伝う。
「ごめんね……。」
自由にしてあげたかった。
自分ではない道も、自分ではない未来も、
彼自身に選んでほしかった。
それなのに本当は、ずっとそばにいてほしかった。
その願いだけは、最後まで口にできなかった。
◇
同じ頃、皇城を離れた宿の一室で、
リカルドは一人窓辺に立っていた。
椅子の背には白銀のマントが、丁寧に畳まれている。
机の上には、専属騎士の徽章を外した濃紺の騎士服。
そして、その傍らには、
五年前、クリスティから贈られた小さなハンカチが置かれていた。
銀糸で刺された、不格好な鷹。
皇族専属騎士であることを示す白銀のマントも、
第二皇女の騎士であることを示す徽章も、
もう、身につけることはできない。
けれど、このハンカチだけは誰にも返す必要のないものだった。
リカルドは、それを静かに手に取る。
「……自由、か。」
姫様は、自分の未来を選んでほしいと言った。
けれど、自由になった今。
何を望めばいいのか、すぐには思い浮かばなかった。
姫様を守ることも、
その数歩後ろを歩くことも、
命じられたから続けてきたのではない。
自分で選び、何より大切にしてきたものだった。
だからこそ。
今はただ、その場所がなくなったことだけが。
ひどく痛かった。
◇
五歳の願いは、
一人の少年を、少女の騎士にした。
十五歳の願いは、
その騎士を、少女の隣から送り出した。
どちらも、相手を大切に思って生まれた願いだった。
だから二人はまだ知らなかった。
離れることで初めてその人が、
自分の人生にとってどれほど大きな存在だったのかを知ることになる。
十年間。
当たり前だった数歩の距離は、
この日、初めて途切れた。




