第25話 変わらない日々
――気づけば。
姫様は、誰もが認める第二皇女になっていた。
◇
十五歳を目前に控えた、
クリスティ・フォン・マーヴェリアは、多忙だった。
午前は政務に同席し、
午後は地方領主との面会。
空いた時間には皇帝ルーファスから帝国史や政治を学び、
夜にはレオンハルトと共に各地から届いた報告書へ目を通す。
以前の彼女なら、
「もう無理ー……。」
そう言いながら、机へ突っ伏していたに違いない。
だが、今のクリスティは違った。
「アークファイント。」
「はい、姫様。」
「この前、北方の領主から届いた報告書って、どこに置いたっけ?」
「机の右から三番目の引き出しです。」
「ありがとう。」
迷うことなく引き出しを開け、目的の書類を取り出す。
「あとね、去年の建国祭で会った子のこと、覚えてる?」
「どなたでしょうか。」
「ほら。髪がふわふわで、お父さんがすごく緊張してた子。」
「……東部辺境伯家のご子息でしょうか?」
「そう、その子!」
クリスティは嬉しそうに笑った。
「今年も皇城へ来るんだって。楽しみだなぁ。」
相変わらず一度会った者の顔や名を忘れず、
交わした話まで驚くほどよく覚えている。
誰が何を好み、誰が何を苦手とし。
その家族が、どんな話をしていたのかまで。
気づけばクリスティは、皇城で働く者たちの家族について、
ルーファスより詳しいのではないかと思えるほどになっていた。
◇
「第二皇女殿下は、見違えられましたな。」
地方領主との面会を終えたあと、
一人の老貴族がしみじみとそう漏らした。
「以前お会いした折には、まだ幼い皇女様という印象でございましたが、
今ではすっかり皇族としての風格がおありだ。」
老貴族は遠ざかるクリスティの背を見送り、目を細める。
先ほどまで彼と話していたクリスティは、
少し離れたところで別の貴族へ挨拶をしていた。
柔らかな笑み、相手の話へ真剣に耳を傾ける姿。
最近では、ああして彼女へ声を掛ける者も随分と増えた。
帝国を支える皇女。
頼もしい第二皇女。
そんな言葉を耳にすることも、珍しくなくなっている。
事実、今のクリスティには、
そう呼ばれるに相応しいものが少しずつ備わり始めていた。
人を惹きつける笑顔。
誰よりも人をよく見ている瞳。
そして、必要な時には自ら考え、決断する強さ。
けれど、リカルドにとってクリスティは今も昔も、
「アークファイント!」
こちらを見つければ、
満面の笑みで自分の名を呼ぶ。
そんな、一人の無邪気な少女だった。
◇
「アークファイント。今日のお菓子、何だと思う?」
「分かりかねます。」
クリスティは得意げに人差し指を立てた。
「ヒント。甘くて、とっても美味しいもの!」
「……お菓子でしたら、大半が当てはまるのでは?」
「もう、少しくらい考えてよ。」
頬を膨らませたクリスティだったが、すぐに待ちきれなくなったらしい。
「正解は、料理長特製の季節限定アップルパイでした!」
「それは何よりです。」
「……反応、薄くない?」
「姫様が嬉しそうに召し上がるところまで、容易に想像できますので。」
「何それ。」
不満そうに唇を尖らせる。
けれど、数秒も経たないうちにクリスティは楽しそうに笑い出した。
先ほどまで、帝国の政について真剣な顔で語っていた人物と、
同一人物とは思えない。
もし皇城の外の者がこの姿を見ればきっと驚くだろう。
帝国の未来を担うと期待される第二皇女が、
十五歳を目前にして、
アップルパイ一つでこれほど一喜一憂しているなど。
◇
夕暮れの回廊を、クリスティはゆっくり歩いていた。
差し込む西日が白銀の髪を淡く染める。
その斜め後ろを、リカルドがいつもの距離で付き従っていた。
ふと、クリスティが歩みを緩める。
「ねえ、アークファイント。」
「何でしょう。」
欄干の向こうへ目を向けたまま、
クリスティは少し考えるように首を傾げた。
「あと少しで、私の誕生日だね。」
「そうですね。十五歳になられます。」
「十五歳って、大人かなぁ?」
リカルドは僅かに目を細める。
「まだまだお若いかと。」
予想していた答えだったのだろう。
クリスティは小さく笑った。
「ふふ。アークファイントは絶対そう言うと思った。」
「事実ですので。」
「でもね……。」
そこで、クリスティは足を止めた。
先ほどまでの軽い調子とは少し違う。
何かを言い出しかねるように、
夕暮れの空へ視線を逃がした。
「そろそろ私も、大人にならなきゃいけないのかなって。」
風が吹き抜ける。
白銀の髪が、夕陽の中で静かに揺れた。
その横顔は、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
「姫様?」
「ん?」
振り返った時には、
いつものクリスティに戻っていた。
「……いえ。何でもございません。」
「変なの。」
小さく笑い、クリスティは再び歩き出す。
リカルドも、その斜め後ろへ続いた。
胸に残った小さな違和感が何なのか。
この時のリカルドには、
まだ分からなかった。
◇
別の日。
二人で回廊を歩いていた時だった。
夕暮れの光が、床へ長い影を落としている。
「ねえ、アークファイント。」
「何でしょう?」
クリスティはしばらく前を向いたまま歩いていたが、
ふいに口を開いた。
「いま、幸せ?」
唐突な問いに、リカルドは僅かに目を瞬かせる。
「突然ですね。」
「だって、気になったから。」
そこでクリスティは足を止めた。
振り返り、真っ直ぐにリカルドを見上げる。
紫水晶の瞳に、冗談めいた色はない。
リカルドも歩みを止めた。
「姫様にお仕えできて、私は幸せです。」
迷いのない返答だった。
クリスティはその言葉を確かめるように、しばらく彼の顔を見つめる。
「……本当に?」
「はい。」
「後悔したことも?」
「一度もございません。」
今度こそ、クリスティの肩から僅かに力が抜けた。
「……そっか。」
視線を落とし、小さく息を吐く。
それから顔を上げた時には、いつもの柔らかな笑みが戻っていた。
「なら、よかった。」
けれど、その笑顔はなぜか少しだけ寂しそうに見えた。
「姫様?」
リカルドが呼ぶと、
クリスティは何でもないように首を振った。
「ううん。何でもない。」
最近。
時折、クリスティはそんな表情を見せるようになっていた。
遠くを見るような瞳、何かを考え込む横顔。
そして時々、何かを考え終えたような静かな笑み。
けれど、問い掛けても、
いつも最後には笑って誤魔化されてしまう。
◇
その日の夜。
皇帝執務室での仕事を終えたレオンハルトが、
廊下へ出ようとしていたクリスティを呼び止めた。
「クリスティ。最近、何か考え事をしているな。」
クリスティの肩が、ぴくりと揺れる。
「そんなことないよ?」
平然と返したつもりらしいが、
長年妹を見てきたレオンハルトには通用しなかった。
「お前は嘘が下手だ。」
クリスティはむっとしたように振り返る。
「レオン兄様ほどじゃないもん。」
「俺は嘘をついていない。」
「昨日の睡眠時間。」
言葉に詰まった兄を見て、
クリスティはしてやったりと笑った。
けれど、その笑みはすぐに小さくなる。
「……ただ、将来のことを考えてるだけだよ。」
「将来?」
クリスティは小さく頷いた。
それ以上は話さず、
どこか遠くを見るように視線を逸らす。
レオンハルトはしばらく妹を見つめていたが、
無理に問いただすことはしなかった。
◇
そして、十五歳の誕生日が近づいたある日。
「ねえ、アークファイント。」
クリスティが、ふいにリカルドを見上げた。
「十五歳になったらね。アークファイントにお礼をしたいんだ。」
「お気遣いには及びません。」
予想通りの返事に、クリスティはすぐ首を横へ振る。
「だめ。十年だもん。」
「十年……?」
その言葉に、リカルドが僅かに目を見開いた。
クリスティは、懐かしむようにふわりと笑う。
「五歳の私が、『私の騎士になって』ってお願いしてから。」
言われて、リカルドもようやく気づいた。
もう、そんなにも経ったのか。
「長かったような気もするし、
あっという間だったような気もするね。」
「……そうですね。」
クリスティはしばらく彼を見つめていた。
それから、いつもと変わらない柔らかな笑顔を浮かべる。
「だから、ちゃんとお礼がしたいの。」
リカルドは、その言葉を胸の内で受け止めるように、
静かに目を伏せた。
十年。
長いようで。
振り返れば、驚くほど短い時間だった。
あの日、小さな手で自分を指差し。
『この人がいい!』
そう無邪気に笑った少女。
木へ登ろうとし、勉強から逃げ。
何度叱っても、笑いながら自分の名を呼んだ。
その少女が。
今では多くの者から、
帝国の未来を担う皇女として期待されている。
時の流れとは不思議なものだ。
「楽しみにしております。」
そう答えると、クリスティは一瞬だけ目を伏せ。
「うん。」
小さく頷いた。
◇
気のせいだと思っていた。
時折見せる、寂しげな表情も。
遠くを見るような瞳も。
何かを決めたような笑みも。
すべて、十五歳を迎えることへの感慨なのだと。
来年も、
再来年も、
その先も。
変わらず、姫様の斜め後ろを歩いていく。
九年間そうしてきたように。
これから先もずっとそれが変わることなどないのだと。
リカルドは、そう信じていた。
その当たり前の日々が、あと僅かで終わることを。
まだ、知らないまま。




