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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第25話 変わらない日々

――気づけば。

姫様は、誰もが認める第二皇女になっていた。



十五歳を目前に控えた、

クリスティ・フォン・マーヴェリアは、多忙だった。


午前は政務に同席し、

午後は地方領主との面会。


空いた時間には皇帝ルーファスから帝国史や政治を学び、

夜にはレオンハルトと共に各地から届いた報告書へ目を通す。

以前の彼女なら、

「もう無理ー……。」

そう言いながら、机へ突っ伏していたに違いない。


だが、今のクリスティは違った。

「アークファイント。」

「はい、姫様。」

「この前、北方の領主から届いた報告書って、どこに置いたっけ?」

「机の右から三番目の引き出しです。」

「ありがとう。」

迷うことなく引き出しを開け、目的の書類を取り出す。


「あとね、去年の建国祭で会った子のこと、覚えてる?」

「どなたでしょうか。」

「ほら。髪がふわふわで、お父さんがすごく緊張してた子。」

「……東部辺境伯家のご子息でしょうか?」

「そう、その子!」

クリスティは嬉しそうに笑った。

「今年も皇城へ来るんだって。楽しみだなぁ。」

相変わらず一度会った者の顔や名を忘れず、

交わした話まで驚くほどよく覚えている。


誰が何を好み、誰が何を苦手とし。

その家族が、どんな話をしていたのかまで。

気づけばクリスティは、皇城で働く者たちの家族について、

ルーファスより詳しいのではないかと思えるほどになっていた。



「第二皇女殿下は、見違えられましたな。」

地方領主との面会を終えたあと、

一人の老貴族がしみじみとそう漏らした。

「以前お会いした折には、まだ幼い皇女様という印象でございましたが、

今ではすっかり皇族としての風格がおありだ。」

老貴族は遠ざかるクリスティの背を見送り、目を細める。


先ほどまで彼と話していたクリスティは、

少し離れたところで別の貴族へ挨拶をしていた。

柔らかな笑み、相手の話へ真剣に耳を傾ける姿。

最近では、ああして彼女へ声を掛ける者も随分と増えた。

帝国を支える皇女。

頼もしい第二皇女。

そんな言葉を耳にすることも、珍しくなくなっている。


事実、今のクリスティには、

そう呼ばれるに相応しいものが少しずつ備わり始めていた。

人を惹きつける笑顔。

誰よりも人をよく見ている瞳。

そして、必要な時には自ら考え、決断する強さ。


けれど、リカルドにとってクリスティは今も昔も、

「アークファイント!」

こちらを見つければ、

満面の笑みで自分の名を呼ぶ。

そんな、一人の無邪気な少女だった。


「アークファイント。今日のお菓子、何だと思う?」

「分かりかねます。」

クリスティは得意げに人差し指を立てた。

「ヒント。甘くて、とっても美味しいもの!」

「……お菓子でしたら、大半が当てはまるのでは?」

「もう、少しくらい考えてよ。」


頬を膨らませたクリスティだったが、すぐに待ちきれなくなったらしい。

「正解は、料理長特製の季節限定アップルパイでした!」

「それは何よりです。」

「……反応、薄くない?」

「姫様が嬉しそうに召し上がるところまで、容易に想像できますので。」

「何それ。」


不満そうに唇を尖らせる。

けれど、数秒も経たないうちにクリスティは楽しそうに笑い出した。

先ほどまで、帝国の政について真剣な顔で語っていた人物と、

同一人物とは思えない。


もし皇城の外の者がこの姿を見ればきっと驚くだろう。

帝国の未来を担うと期待される第二皇女が、

十五歳を目前にして、

アップルパイ一つでこれほど一喜一憂しているなど。



夕暮れの回廊を、クリスティはゆっくり歩いていた。

差し込む西日が白銀の髪を淡く染める。

その斜め後ろを、リカルドがいつもの距離で付き従っていた。

ふと、クリスティが歩みを緩める。

「ねえ、アークファイント。」

「何でしょう。」

欄干の向こうへ目を向けたまま、

クリスティは少し考えるように首を傾げた。


「あと少しで、私の誕生日だね。」

「そうですね。十五歳になられます。」

「十五歳って、大人かなぁ?」

リカルドは僅かに目を細める。

「まだまだお若いかと。」

予想していた答えだったのだろう。

クリスティは小さく笑った。

「ふふ。アークファイントは絶対そう言うと思った。」

「事実ですので。」


「でもね……。」

そこで、クリスティは足を止めた。

先ほどまでの軽い調子とは少し違う。

何かを言い出しかねるように、

夕暮れの空へ視線を逃がした。

「そろそろ私も、大人にならなきゃいけないのかなって。」


風が吹き抜ける。

白銀の髪が、夕陽の中で静かに揺れた。

その横顔は、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。


「姫様?」

「ん?」

振り返った時には、

いつものクリスティに戻っていた。

「……いえ。何でもございません。」

「変なの。」


小さく笑い、クリスティは再び歩き出す。

リカルドも、その斜め後ろへ続いた。


胸に残った小さな違和感が何なのか。

この時のリカルドには、

まだ分からなかった。



別の日。

二人で回廊を歩いていた時だった。

夕暮れの光が、床へ長い影を落としている。


「ねえ、アークファイント。」

「何でしょう?」

クリスティはしばらく前を向いたまま歩いていたが、

ふいに口を開いた。

「いま、幸せ?」

唐突な問いに、リカルドは僅かに目を瞬かせる。


「突然ですね。」

「だって、気になったから。」

そこでクリスティは足を止めた。

振り返り、真っ直ぐにリカルドを見上げる。


紫水晶の瞳に、冗談めいた色はない。

リカルドも歩みを止めた。

「姫様にお仕えできて、私は幸せです。」

迷いのない返答だった。

クリスティはその言葉を確かめるように、しばらく彼の顔を見つめる。


「……本当に?」

「はい。」

「後悔したことも?」

「一度もございません。」


今度こそ、クリスティの肩から僅かに力が抜けた。

「……そっか。」

視線を落とし、小さく息を吐く。

それから顔を上げた時には、いつもの柔らかな笑みが戻っていた。

「なら、よかった。」


けれど、その笑顔はなぜか少しだけ寂しそうに見えた。

「姫様?」

リカルドが呼ぶと、

クリスティは何でもないように首を振った。

「ううん。何でもない。」


最近。

時折、クリスティはそんな表情を見せるようになっていた。

遠くを見るような瞳、何かを考え込む横顔。

そして時々、何かを考え終えたような静かな笑み。

けれど、問い掛けても、

いつも最後には笑って誤魔化されてしまう。



その日の夜。

皇帝執務室での仕事を終えたレオンハルトが、

廊下へ出ようとしていたクリスティを呼び止めた。

「クリスティ。最近、何か考え事をしているな。」

クリスティの肩が、ぴくりと揺れる。

「そんなことないよ?」

平然と返したつもりらしいが、

長年妹を見てきたレオンハルトには通用しなかった。


「お前は嘘が下手だ。」

クリスティはむっとしたように振り返る。

「レオン兄様ほどじゃないもん。」

「俺は嘘をついていない。」

「昨日の睡眠時間。」

言葉に詰まった兄を見て、

クリスティはしてやったりと笑った。


けれど、その笑みはすぐに小さくなる。

「……ただ、将来のことを考えてるだけだよ。」

「将来?」

クリスティは小さく頷いた。


それ以上は話さず、

どこか遠くを見るように視線を逸らす。

レオンハルトはしばらく妹を見つめていたが、

無理に問いただすことはしなかった。



そして、十五歳の誕生日が近づいたある日。

「ねえ、アークファイント。」

クリスティが、ふいにリカルドを見上げた。

「十五歳になったらね。アークファイントにお礼をしたいんだ。」

「お気遣いには及びません。」

予想通りの返事に、クリスティはすぐ首を横へ振る。

「だめ。十年だもん。」

「十年……?」


その言葉に、リカルドが僅かに目を見開いた。

クリスティは、懐かしむようにふわりと笑う。

「五歳の私が、『私の騎士になって』ってお願いしてから。」

言われて、リカルドもようやく気づいた。

もう、そんなにも経ったのか。

「長かったような気もするし、

あっという間だったような気もするね。」

「……そうですね。」

クリスティはしばらく彼を見つめていた。


それから、いつもと変わらない柔らかな笑顔を浮かべる。

「だから、ちゃんとお礼がしたいの。」

リカルドは、その言葉を胸の内で受け止めるように、

静かに目を伏せた。


十年。


長いようで。

振り返れば、驚くほど短い時間だった。


あの日、小さな手で自分を指差し。

『この人がいい!』

そう無邪気に笑った少女。

木へ登ろうとし、勉強から逃げ。

何度叱っても、笑いながら自分の名を呼んだ。

その少女が。

今では多くの者から、

帝国の未来を担う皇女として期待されている。


時の流れとは不思議なものだ。


「楽しみにしております。」

そう答えると、クリスティは一瞬だけ目を伏せ。

「うん。」

小さく頷いた。



気のせいだと思っていた。

時折見せる、寂しげな表情も。

遠くを見るような瞳も。

何かを決めたような笑みも。

すべて、十五歳を迎えることへの感慨なのだと。


来年も、

再来年も、

その先も。


変わらず、姫様の斜め後ろを歩いていく。

九年間そうしてきたように。

これから先もずっとそれが変わることなどないのだと。

リカルドは、そう信じていた。


その当たり前の日々が、あと僅かで終わることを。

まだ、知らないまま。


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