第24話 春風のワルツ
春の訪れを告げる風が、皇城の庭園を柔らかく吹き抜けていた。
第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリア。
十四歳。
今日は、彼女にとって特別な日だった。
皇族として。
そして、一人の淑女として初めて正式に社交界へ立つ日。
デビュタント。
◇
鏡の前に立つクリスティを、侍女たちが満足そうに眺めていた。
「クリスティ様、本当にお綺麗です。」
「お顔立ちは、ますます皇妃様に似てこられましたね。」
「わたくし、少し泣いてもよろしいでしょうか。」
「最後の人、もう泣いてるよ?」
クリスティが困ったように笑う。
鏡の中にいる自分は、どこか他人のようだった。
純白のドレス。
胸元には、紫水晶を思わせる繊細な刺繍。
腰まで伸びた白銀の髪は美しく結い上げられ、
小さな皇族花を模した髪飾りが添えられている。
十四歳。
幼い少女と呼ばれる年頃を過ぎ、
それでもまだ大人になったとは言い切れない。
侍女長が、最後にドレスの裾を整えながら微笑んだ。
「本日から、正式に社交界へお立ちになります。
今夜はきっと、多くの方からお声が掛かりますよ。」
「そんなに?」
クリスティが鏡越しに振り返ると、侍女たちは揃って頷いた。
皇帝の第二皇女。
そのうえ、本人に自覚はなくとも、
十四歳になったクリスティは十分に人目を引く容姿へ成長している。
「姫様ご自身が、一番分かっておられないのが問題なのです。」
「えぇ……?」
言われて、もう一度鏡を見る。
やはり、よく分からない。
自分は昨日までと同じ自分だ。
ドレスを着て、髪を整えてもらったからといって、
突然別人になったわけではない。
そこで、ふと一人の顔が浮かんだ。
「アークファイントは?」
「はい?」
「何か言ってた? 変じゃないとか。」
侍女たちの手が、一斉に止まった。
「クリスティ様。本日に限って申し上げれば、
アークファイント卿の評価は、あまり参考になりません。」
「どうして?」
「あの方は、姫様には結局お甘いですから。」
「そんなことないよ、いつも厳しいもん。」
「ございます。」
「ございません。」
扉の向こうから即座に返され、
クリスティが勢いよく振り返った。
「アークファイント!」
「失礼いたします。」
扉が開き、リカルドが姿を現した。
どうやら、支度を終えたクリスティを迎えに来たらしい。
今日はいつもの騎士服ではない。
深い濃紺を基調とした帝国騎士団の正装。
立襟や袖口には銀糸の刺繍が施され、
胸元にはこれまでの功績を示す徽章が並んでいる。
そして、その肩を覆うのは、
皇族専属騎士にのみ着用を許された白銀のマントだった。
普段よりきちんと整えられた赤い髪。
深い濃紺の騎士服と白銀のマントが、
その色をいっそう鮮やかに見せている。
いつも見慣れているはずなのに。
今日は、なぜか少し違って見えた。
十四歳だった少年は、九年の時を経て二十三歳となり、
いつの間にかすっかり一人の青年へ成長していた。
「姫様?」
呼ばれて、クリスティは我に返る。
どうやら、少し見つめすぎていたらしい。
「ううん。何でもない。」
慌てて首を振ったあと、もう一度正装姿のリカルドを見る。
「アークファイントも、今日はすごく格好いいね。」
「ありがとうございます。」
いつも通りの返答だった。
「そろそろ、お時間です。」
「うん。」
クリスティは鏡の中の自分を最後に一度だけ確認し、
小さく息を吐いた。
「行こう。」
「はい、姫様。」
リカルドが扉を開く。
クリスティがその前を通り過ぎると、
彼はいつものように、その斜め後ろへついた。
◇
夜。
皇城の大広間には、帝国各地から多くの貴族が集っていた。
高い天井から下がるシャンデリアが眩い光を放ち、
磨き上げられた大理石の床へ幾重にも反射している。
楽団が奏でる音色。
華やかな衣装。
交わされる笑い声。
やがて、大広間の扉が開いた。
「第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリア殿下、ご入場」
その瞬間、
広間にいた者たちの視線が一斉に入口へ集まった。
純白のドレスを纏ったクリスティが、
皇女らしい穏やかな微笑みを浮かべて歩み出す。
白銀の髪が、シャンデリアの光を受けて柔らかく輝いた。
その斜め後ろには、
濃紺の騎士正装に白銀のマントを纏ったリカルドが、
いつもと変わらない距離を保って付き従っている。
純白の皇女と、その背後を守る白銀のマントの騎士。
一目見ただけで、彼が誰の騎士なのかは明らかだった。
「あれが、クリスティ殿下か。」
「なんとお美しい……。」
「皇妃様の面影がおありになる。」
周囲の囁きを耳にしても、
クリスティは足を止めなかった。
九年間、振り返ればいつもそこにいた。
今夜も、リカルドは変わらず斜め後ろを歩いている。
それなのに。
なぜか、その姿がいつもより少し遠く感じられた。
◇
最初にダンスを申し込んだのは、公爵家の嫡男だった。
クリスティは差し出された手を取り、
楽団の奏でるワルツに合わせて踊り始める。
幼い頃から何度も教え込まれてきたステップ。
姿勢を崩さず、会話を途切れさせず、
相手へ失礼のない笑みを向ける。
皇女としてのデビュタントは、順調だった。
一曲目が終われば、すぐに次の相手が現れる。
二曲。
三曲。
やがて休憩を挟まなければならないほど、
若い貴族たちから声を掛けられるようになった。
それでも、踊りながら、話しながら。
クリスティの視線は、何度も同じ場所へ戻っていた。
大広間の壁際、赤い髪の騎士は変わらずそこにいる。
自分が誰と踊ろうと、誰に声を掛けられようと。
いつものように周囲へ目を配り、自分を守っている。
誰よりも近くにいる人なのに、
今夜は自分だけが大勢の中へ進み、
彼だけが、いつもの場所に残っている。
そのことが、なぜだか少しだけ寂しかった。
◇
舞踏会も半ばを過ぎた頃。
クリスティは頃合いを見て、大広間を抜けた。
庭園へ続く扉を開けば、春の夜風が火照った頬を優しく撫でていく。
人気のない場所まで歩いたところでようやく肩の力を抜いた。
「……疲れたぁ。」
途端に、背後から聞き慣れた声がした。
「姫様。」
クリスティは振り返りもせず笑う。
「やっぱり来た。」
「護衛ですので。」
白銀のマントを揺らしながら、リカルドが追いついてくる。
大広間ではあれほど遠く感じたのに。
こうして二人きりになれば。
いつものように、すぐそばにいる。
リカルドはクリスティの様子を確かめるように、
僅かに顔を覗き込んだ。
「ご気分でも?」
「大丈夫。踊りすぎただけ。」
久しぶりに自然な声を出せた気がした。
クリスティは庭園へ目を向ける。
遠くからは、今もワルツが聞こえていた。
その時、肩へふわりと温かなものが掛けられた。
「え?」
肩には、いつの間にか白銀のマントが掛けられていた。
振り返ると、リカルドは濃紺の騎士服姿で立っている。
「夜風で冷えます。」
「でも、これ……。」
クリスティはマントの端を、そっと摘まんだ。
皇族専属騎士の証。
五年前、自分の手で初めて彼の肩へ掛けたマントだった。
「アークファイントの、大事なマントでしょう?」
「姫様がお風邪を召されるよりは。」
当然のことのように返される。
クリスティはしばらく白銀のマントを見つめたあと小さく笑った。
「……ありがとう。」
その温もりへ身を預けたまま、
しばらく何も言わず庭園を眺めていた。
春の夜風。
月明かり。
遠くから届くワルツ。
いつもと同じように、自分の騎士がそばにいる。
なのに、大広間で感じた小さな違和感が、まだ胸に残っていた。
白銀のマントに包まれたまま、
クリスティは遠くから流れてくるワルツへ耳を澄ませた。
今日だけで、何人もの人と踊った。
けれど、自分が一番長くそばにいる人とは一度も踊ったことがない。
「ねえ、アークファイント。」
「はい。」
クリスティは彼へ向き直った。
白銀のマントが、春の風に僅かに揺れる。
「一曲だけ…。」
リカルドが、僅かに眉を上げた。
紫水晶の瞳が、真っ直ぐに彼を見つめる。
「私と踊って。」
遠くで、ワルツが静かに流れていた。
◇
「私と踊って。」
その言葉に、リカルドはすぐには答えられなかった。
春の風が庭園を抜けていく。
白銀のマントに包まれたクリスティの髪が、風に揺れた。
そのマントは、皇族専属騎士である自分の証だ。
今はそれが、自分ではなく彼女の肩を覆っている。
リカルドは、濃紺の騎士服のまま立ち尽くした。
遠くでは、大広間から漏れるワルツが今も途切れることなく続いている。
九年間。
リカルドは、クリスティのそばにいた。
木へ登ろうとすれば止め。
勉強から逃げようとすれば机へ戻し。
無茶をすれば叱り。
それでも、彼女が本当に望むことならば、
できる限り叶えてやりたいと思ってきた。
けれど、今、目の前の少女が口にした願いだけは、
素直に頷くことができなかった。
「……できません。」
ようやく出た言葉にクリスティが目を瞬かせる。
「え?」
断られるとは、思っていなかったらしい。
リカルドにも、その顔を見ればすぐに分かった。
「どうして?」
問いかけられ、リカルドは一度視線を伏せた。
「今夜の私は、姫様の護衛です。」
「うん。」
「お相手を務める立場ではございません。」
クリスティの肩では、白銀のマントが春風に静かに揺れていた。
それは、自分が彼女の騎士であることを示すもの。
そしてリカルドの腰には、護衛として帯びた剣がある。
今夜ここにいる理由は、それだけのはずだった。
それは嘘ではない。
護衛としてここへいる以上、
本来ならば持ち場を離れて踊るべきではない。
けれど、それだけでもなかった。
「でも、一曲だけだよ?」
クリスティは、遠くに聞こえるワルツへ耳を澄ませる。
「今日は皆と踊ったのに。」
少しだけ笑って、何でもない願いのように続けた。
「アークファイントとも、踊ってみたい。」
リカルドは、言葉を失った。
今夜、迎えに行った先でクリスティを見た瞬間、
ほんの僅かに呼吸を忘れた。
五歳だった少女は、
いつの間にかこんなにも美しく成長していた。
その事実を、自分は知っていたはずだった。
毎日、誰より近くで見てきたのだから。
それでも、純白のドレスを纏い、
大広間で一人の淑女として踊る彼女を見つめるうちに。
リカルドは、認めざるを得なくなった。
今夜、自分は、
姫様を一人の女性として意識している。
だからこそ、その手を取ることが怖かった。
たった一曲。
騎士という立場を離れ、
一人の男として彼女の手を取ってしまえば。
もう、今までと同じ場所には戻れないような気がした。
「アークファイント?」
心配そうな声にリカルドは我に返る。
「……お願いです。」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
「今夜は、それ以上仰らないでください。」
クリスティの表情から、笑みが消えた。
「私……何か悪いこと言った?」
「いいえ。姫様は何も悪くありません。」
それだけは、迷わず否定した。
「じゃあ、どうして?」
答えられなかった。
あなたを、
守るべき姫君ではなく、
一人の女性として見てしまったからです。
そんなことを、口にできるはずがない。
「……申し訳ございません。」
リカルドは、一歩だけ後ろへ下がった。
濃紺の騎士服に身を包み、腰には剣を帯びている。
今夜の自分は、彼女の護衛だ。
何かあれば、すぐに剣を抜ける。
九年間、変わらず守り続けてきた――いつもの距離へ戻る。
けれど。
今のクリスティには、その一歩が拒絶されたように見えた。
「……そっか。」
小さな声が落ちる。
クリスティは少しだけ俯いたあと、
いつものように笑おうとした。
「ごめんね。困らせちゃって。」
「姫様――」
「大丈夫。」
すぐに顔を上げる。
けれど、その笑顔がいつもより少しだけぎこちないことを、
リカルドは見逃さなかった。
クリスティは、もう一度ワルツへ耳を傾ける。
「じゃあ……。」
少し考えて、今度こそ柔らかく笑った。
「また今度ね。」
春風が吹き。
クリスティの肩を包む白銀のマントが、僅かに揺れた。
その言葉が、リカルドの胸へ静かに残った。
また今度。
そんな日は来てはいけないと思った。
それなのに。
いつか本当に、彼女の手を取る日が来ればいいと、
心のどこかで願ってしまった。
リカルドは、ほんの僅かに目を伏せる。
「……はい。」
それ以上は何も言えなかった。
◇
その夜。
リカルドは、なかなか眠りにつくことができなかった。
窓の外では春の風が静かに木々を揺らしている。
目を閉じれば、何度でも蘇った。
『アークファイントとも、踊ってみたい。』
月明かりの下。
純白のドレスを纏い、自分を見上げていたクリスティ。
そして。
『また今度ね。』
リカルドは寝台の端へ腰掛けたまま、深く息を吐いた。
「……馬鹿だ。」
相手は主君だ。
幼い頃から守り続けてきた何より大切な姫君。
自分が彼女へ抱いてよい感情など、最初から決まっている。
忠誠。
敬愛。
彼女を守り抜くという意志。
それだけでいい。
それだけでなければならない。
なのに、今夜。
あの手を取りたいと思った。
ほんの一曲、何も考えず、
彼女と同じ音楽に合わせて踊ることができたなら――。
そんなことを考えてしまった。
リカルドは、両手を組み、そこへ視線を落とす。
自分は騎士だ。
彼女は皇女。
何より、自分は彼女を守るためにそばにいる。
それ以上を望む権利などない。
今夜芽生えた感情に、名を与えてはいけない。
誰にも知られず。
クリスティ本人には、なおさら知られず。
胸の奥へ沈めてしまえばいい。
そうすれば、明日からも。
いつもと同じ騎士でいられる。
リカルドは、そう信じようとした。
◇
けれど、翌日から少しだけ変わったものがあった。
「姫様。こちらの資料を。」
「あ……ごめん。何だっけ?」
クリスティが珍しく聞き返す。
ここ数日、そんなことが何度か続いていた。
政務の最中に窓の外へ目を向け。
本を開いても、同じ頁からなかなか先へ進まない。
レオンハルトやヴィオレットも気づいていたが、
クリスティは尋ねられるたび。
「ちょっと考え事。」
と笑うだけだった。
思い出すのは、あの夜のアークファイントの顔。
困ったような。
苦しそうな。
今まで見たことのない表情だった。
どうして、あんな顔をしたのだろう。
何度考えても答えは出ない。
ただ、一つだけ。
クリスティの中に残ったものがあった。
――自分が、困らせたのかもしれない。
アークファイントは昔から厳しい。
駄目なものは駄目だと言うし、無茶をすれば容赦なく叱る。
けれど、あの夜の「できません」はそれとは違った。
怒っていたわけでも呆れていたわけでもない。
ただ、ひどく苦しそうだった。
その顔を思い出すたび、クリスティの胸の奥が僅かに痛んだ。
自分はアークファイントを困らせたくて、
あんなことを言ったわけではない。
ただ、一曲くらい一緒に踊りたかっただけなのに。
なぜ、それがこれほど心に残るのか。
十四歳のクリスティにはまだ分からなかった。
◇
あの夜のワルツは、もうとっくに終わっている。
叶わなかった一曲が、
この先どんな意味を持つことになるのか。
この時の二人は、まだ知らなかった。
そして一年後。
十五歳になったクリスティのそばから、
長年当たり前のように斜め後ろを歩いていた騎士が離れることになる。
あの夜。
「また今度ね」
何気なく交わされたその言葉が。
六年後、思いもよらない形で叶うことも。
二人はまだ、知らない。




