第23話 変わるものと変わらないもの
――気がつけば、姫様は随分と変わられていた。
リカルド・アークファイントが、
第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアと出会ってから、
八年の月日が流れていた。
五歳だった少女は、十三歳になった。
腰近くまで伸びた、緩やかに波打つ白銀の髪。
幼さを残しながらも、少しずつ整い始めた顔立ち。
紫水晶の瞳にも、
以前にはなかった落ち着きが宿るようになっている。
皇女としての立ち居振る舞いも。
言葉遣いも、幼い頃とは比べものにならないほど洗練された。
それでも、
「アークファイント!」
廊下の向こうで自分を見つければ、
クリスティは今も昔と変わらない笑顔でその名を呼ぶ。
変わったものと、変わらないもの。
その両方を、リカルドは八年間ずっと見てきた。
◇
その日、
クリスティは、
ルーファスとレオンハルトが出席する政務会議へ同席していた。
これまでにも皇族として会議を見学する機会はあった。
しかし、最近は、ただ話を聞くだけではない。
各地から届く報告書を事前に読み、
議題となる地域の情勢を調べ、
皇族として、いずれ国政を担うための学びを始めていた。
長い会議卓には、帝国各地から届いた報告書と地図が広げられている。
クリスティはルーファスの右手、レオンハルトの隣へ座り、
その斜め後ろには護衛としてリカルドが控えていた。
「北部地域の予算についてですが。」
一人の財務官が、手元の資料を開いた。
今年度は魔物被害による復旧費が増大し、
このままでは帝都周辺の街道整備に必要な予算が確保できない。
そのため、奈落門の防衛を担う騎士たちへの補給費を、
一時的に削減したいという。
装備の更新を抑え、食料と医薬品の輸送費を見直し。
人員補充も来年度以降へ延期する。
説明が進むにつれ、レオンハルトの眉が僅かに寄った。
ルーファスは何も言わない。
ただ、財務官の言葉を聞いている。
その時だった。
「それは、認められません。」
静かな声が会議室に落ち、視線が一斉にクリスティへ集まる。
幼い頃なら、突然これほど多くの目を向けられれば、
困ったように笑っていたかもしれない。
だが、今のクリスティは動じなかった。
クリスティは手元の報告書を開き、該当する数字を指先で示した。
「前線への補給費は、昨年度にも削減されています。
今年度も同じ割合で削れば、
北部砦へ届けられる医薬品は三年前の七割を下回ります。」
財務官の表情が変わった。
「殿下、その数字は……。」
「昨年度と一昨年度の決算報告書から算出しました。」
迷いのない返答に、財務官は言葉を失う。
あれだけの量を、いつ確認したのか。
財務官は報告書とクリスティを交互に見た。
「……すべて、覚えておいでなのですか?」
「一度、読みましたから。」
クリスティは、何でもないことのように次の頁をめくった。
その斜め後ろでリカルドは、僅かに目を細めた。
姫様は、昔から一度見聞きしたことを驚くほどよく覚えていた。
けれど幼い頃、その力の使い道といえば、
課題を早く終わらせることだった。
一刻も早く庭園へ遊びに行くために。
けれど、今は違う。
「街道整備が必要なことは分かります。ですが、
前線への補給を削ってまで、
今年中に進めなければならないのでしょうか。」
クリスティは、会議卓に広げられた地図へ目を落とした。
声を荒らげることはない。
誰かの意見を責めることもない。
それでも、室内にいる者たちは自然と彼女の言葉へ耳を傾けていた。
僅かな沈黙が落ちる。
やがてクリスティは、別の資料を開いた。
「帝都東部の式典広場の改修を、来年度へ延期することはできませんか?」
今年、その広場が大規模に使用される予定は建国祭だけ。
既存設備にも、安全上の問題はない。
それならば、まず命を守るための予算を残すべきではないか。
財務官は手元の資料を確認し、しばらく考えたあと深く頭を下げた。
「……仰る通りでございます。」
その間、ルーファスは一度も口を挟まなかった。
娘が資料を読み、考え、自ら出した答えを。
ただ静かに見守っていた。
隣のレオンハルトも、妹を見つめながら僅かに目を細めている。
その表情に浮かんでいたのは、驚きよりもどこか安堵に近いものだった。
◇
昔の姫様なら、
難しい話が始まって五分もすれば、椅子の上で落ち着きをなくした。
『アークファイント。お外に行きたい。』
『課題が残っております。』
『あとでやるもん。』
『昨日もそう仰いました。』
『昨日の私と、今日の私は違うの!』
理屈になっているようで、まるでなっていない。
頬を膨らませ、机へ突っ伏し、大きなため息を何度も吐く。
それでも最後には課題を終わらせ。
終わった瞬間には、椅子から飛び降りて庭園へ駆け出していた。
あの頃、姫様にとって学ぶことは、
遊びに行くまでに越えなければならない壁だった。
今でも、勉強そのものを好んでいるわけではない。
長時間机へ向かえば、書物の上へ頬をつけて。
「もう無理……。」
と呟くこともある。
外交史の講義が長引けば、こっそり窓の外を眺めてもいる。
けれど、逃げ出すことはなくなった。
知っていることが増えれば、助けられる人が増える。
学んだことを使えば、
優しい言葉を掛けるだけでは変えられなかったものを、変えることができる。
それを知った。
だから、自ら学ぶようになった。
◇
会議を終え。
扉が閉じた途端、クリスティは大きく息を吐いた。
「緊張したぁ……。」
先ほどまでの皇女らしい姿は、見る影もない。
肩の力を抜き、壁へ背を預ける。
「姫様。」
「何?」
「まだ会議室の前です。」
「もう終わったからいいの。」
「先ほどの文官が、こちらを見ております。」
「え?」
クリスティが慌てて廊下の先を見る。
確かに、会議へ出席していた文官が二人こちらへ歩いてきていた。
瞬時に背筋が伸びる。
髪を整え、先ほどまでと同じ穏やかな皇女の笑みを浮かべる。
「お疲れ様でございました。」
優雅に会釈すると、文官たちは恐縮したように深く頭を下げ、
そのまま廊下の向こうへ消えていった。
姿が完全に見えなくなったのを確認してから、
クリスティの肩がふっと落ちた。
「……疲れた。」
「お疲れ様でございました。」
その声に、クリスティがちらりとリカルドを見上げる。
「少しくらい、褒めてくれてもいいんだよ?」
「褒めていただくために発言なさったのですか?」
「違うけど……。」
「では、必要ないかと。」
「やっぱり意地悪…。」
唇を尖らせたものの、その表情はすぐに僅かな不安へ変わった。
「……変なこと、言ってなかった?」
リカルドは迷わず首を横へ振る。
「いいえ。とても、ご立派でした」
クリスティの紫水晶の瞳が、大きく瞬いた。
「……もう一回言って。」
「お断りします。」
「どうして!?」
「一度申し上げました。」
「今のは聞く準備ができてなかったの!」
「それは私の責任ではございません。」
「アークファイント!」
廊下へ響く声は、十三歳になっても昔とあまり変わらない。
リカルドは、その姿に僅かに口元を緩めた。
クリスティは変わった。
けれど、すべてが変わったわけではない。
◇
政務へ関わるようになってから、
クリスティが読む資料は、急速に増えていった。
各地の領主から届く報告書。
税収、街道、農作物、魔物被害。
以前なら、誰かが困っていることに気づけばそばへ行き、
話を聞き、自分にできることで元気づけようとしていた。
今は、なぜ困っているのかを調べる。
どうすれば、その原因を取り除けるのかを考える。
ある地方で作物の不作が続いた時も、
ただ食料を送るだけでは、翌年も同じことが起こると考え、
土地の性質と気候を調べ、皇立アカデミーの研究者へ協力を求め、
その地域に適した作物への切り替えを提案した。
幼い頃から持っていた優しさへ。
知識と、行動力が加わり始めていた。
誰かを助けたい。
それだけでは、国を動かすことはできない。
けれどクリスティは、その想いを現実へ変える方法を、
少しずつ学んでいた。
◇
ある日の夕刻。
皇帝執務室を出たところで、
クリスティはレオンハルトに呼び止められた。
「先日の北部予算の件、父上から聞いた。」
クリスティの表情が、僅かに強張る。
「……何か、間違ってた?」
「いや。よく調べていた。提案も悪くない。」
その言葉に、クリスティはほっと息を吐いた。
けれど、安心したのも束の間、今度は兄の顔をじっと見上げる。
「レオン兄様。また、ちゃんと寝てないでしょう。」
レオンハルトの表情が止まった。
「寝ている。」
「じゃあ、何時間?」
返事はなかった。
クリスティは呆れたように眉を下げる。
「お父様の仕事を手伝うのはいいけど、無理しすぎたら駄目だよ。」
「お前に言われることではない。」
「お父様にも、同じこと言われた!」
今度は、レオンハルトが黙る番だった。
クリスティはそんな兄を見て、ふわりと笑う。
「これからは、私もいるから。」
その一言に、レオンハルトは改めて十三歳になった妹を見つめた。
まだ任せられることは多くない。
それでも、以前のように何も心配しなくていいと、
頭を撫でるだけでは済まなくなっている。
妹は確かに、自分たちと共に帝国を支える者になろうとしていた。
「……分かった。今日は早く休む。」
「約束ね。」
「お前は、すぐ人に約束させるな。」
「その方が、ちゃんと守ってくれるでしょう?」
悪びれもせず笑う妹にレオンハルトは呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情はどこか穏やかだった。
◇
姫様は、私の知らないところで成長されていた。
以前、そう思ったことがある。
けれど、少し違うのかもしれない。
突然、別の人間になったわけではない。
幼い頃から持っていたものが、
年月とともに形を変え始めただけなのだ。
一度会った者の名を忘れない。
その者が話した家族のことまで覚えている。
誰かが無理をしていれば言葉にされるより早く気づく。
昔から、姫様は人を見ていた。
ただ、幼かった姫様にできたのは。
話を聞き、手を握り、そばで笑うことだった。
今は、知識を持ち、考え、自ら選び、
決断することを覚え始めている。
誰かを想う優しさを、誰かを守る力へ変えようとしている。
それが今の姫様なのだ。
◇
夕暮れ。
一日の公務を終えたクリスティは、庭園へ続く回廊を歩いていた。
西の空は茜色に染まり、
白銀の髪が夕日の光を受けて淡く輝いている。
その斜め後ろをリカルドは、いつもの距離を保って歩いていた。
出会った頃から変わらない位置。
近すぎず、離れすぎず。
何かあれば、すぐに剣を抜ける距離。
「アークファイント。」
クリスティが足を止めた。
「はい、姫様。」
振り返った顔には疲れが残っていたが、どこか嬉しそうでもあった。
「今日、お父様とレオン兄様に褒めてもらったの。」
「それは何よりです。」
「ヴィオ姉様には、まだまだ勉強が足りないって言われたけど。」
「正しいご意見かと。」
「そこは慰めてよー。」
クリスティは頬を膨らませたものの、すぐに小さく笑った。
やがて、夕暮れの庭園へ視線を向ける。
「……少しずつ、皆の役に立てるようになってるかな。」
先ほどまでとは違う、少しだけ不安の混じった声だった。
リカルドは迷わず答える。
「はい。姫様は確実に前へ進んでおられます。」
クリスティは振り返り、しばらく彼を見つめた。
「アークファイントが、そんなこと言ってくれるなんて珍しい。」
「そうでしょうか?」
「うん。」
嬉しそうに笑う。
その太陽のような笑顔だけは、
十三歳になった今も昔と何も変わらなかった。
「ねえ、アークファイント。」
「何でしょう。」
クリスティは、一瞬だけ言葉を迷った。
柔らかな風が吹き。
長い白銀の髪が、夕日の中で揺れる。
「これからも、ずっとそばにいてね。」
幼い頃、
『クリスの騎士になって。』
そう言った時と、どこか似た表情だった。
リカルドは、静かに頭を下げ真っ直ぐに答える。
「もちろんです。私は、姫様の騎士ですので。」
クリスティは、少しだけ目を細めた。
「……そうだったね。」
満足したように笑い、再び前を向いて歩き始める。
リカルドも、その斜め後ろを変わらない距離で歩いた。
最初は、無邪気によく笑う小さな皇女だった。
皇城を走り回り、何度注意しても木へ登ろうとし。
自分の名を何度も呼んだ。
今、その小さな背中は、
幼い頃よりもずっと頼もしく見える。
それでも、リカルドにとって姫様は今も変わらない。
「アークファイント!」
少し先を歩いていたクリスティが、笑いながら振り返る。
その姿は、初めて出会ったあの日と変わらない一人の少女だった。
変わっていくものも。
変わらず残るものも。
これから先も、そのすべてを姫様の斜め後ろから見届けていく。
リカルドにとって、それは決意ですらなかった。
ただ、そうすることが当然なのだと思っていた。




