↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
PR
24/106

第23話 変わるものと変わらないもの


――気がつけば、姫様は随分と変わられていた。


リカルド・アークファイントが、

第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアと出会ってから、

八年の月日が流れていた。


五歳だった少女は、十三歳になった。

腰近くまで伸びた、緩やかに波打つ白銀の髪。

幼さを残しながらも、少しずつ整い始めた顔立ち。

紫水晶の瞳にも、

以前にはなかった落ち着きが宿るようになっている。


皇女としての立ち居振る舞いも。

言葉遣いも、幼い頃とは比べものにならないほど洗練された。

それでも、

「アークファイント!」

廊下の向こうで自分を見つければ、

クリスティは今も昔と変わらない笑顔でその名を呼ぶ。


変わったものと、変わらないもの。

その両方を、リカルドは八年間ずっと見てきた。


◇


その日、

クリスティは、

ルーファスとレオンハルトが出席する政務会議へ同席していた。

これまでにも皇族として会議を見学する機会はあった。

しかし、最近は、ただ話を聞くだけではない。


各地から届く報告書を事前に読み、

議題となる地域の情勢を調べ、

皇族として、いずれ国政を担うための学びを始めていた。


長い会議卓には、帝国各地から届いた報告書と地図が広げられている。

クリスティはルーファスの右手、レオンハルトの隣へ座り、

その斜め後ろには護衛としてリカルドが控えていた。

「北部地域の予算についてですが。」

一人の財務官が、手元の資料を開いた。


今年度は魔物被害による復旧費が増大し、

このままでは帝都周辺の街道整備に必要な予算が確保できない。

そのため、奈落門の防衛を担う騎士たちへの補給費を、

一時的に削減したいという。


装備の更新を抑え、食料と医薬品の輸送費を見直し。

人員補充も来年度以降へ延期する。

説明が進むにつれ、レオンハルトの眉が僅かに寄った。


ルーファスは何も言わない。

ただ、財務官の言葉を聞いている。

その時だった。


「それは、認められません。」

静かな声が会議室に落ち、視線が一斉にクリスティへ集まる。

幼い頃なら、突然これほど多くの目を向けられれば、

困ったように笑っていたかもしれない。

だが、今のクリスティは動じなかった。


クリスティは手元の報告書を開き、該当する数字を指先で示した。

「前線への補給費は、昨年度にも削減されています。

今年度も同じ割合で削れば、

北部砦へ届けられる医薬品は三年前の七割を下回ります。」


財務官の表情が変わった。

「殿下、その数字は……。」

「昨年度と一昨年度の決算報告書から算出しました。」

迷いのない返答に、財務官は言葉を失う。

あれだけの量を、いつ確認したのか。

財務官は報告書とクリスティを交互に見た。


「……すべて、覚えておいでなのですか?」

「一度、読みましたから。」

クリスティは、何でもないことのように次の頁をめくった。

その斜め後ろでリカルドは、僅かに目を細めた。


姫様は、昔から一度見聞きしたことを驚くほどよく覚えていた。

けれど幼い頃、その力の使い道といえば、

課題を早く終わらせることだった。

一刻も早く庭園へ遊びに行くために。

けれど、今は違う。


「街道整備が必要なことは分かります。ですが、

前線への補給を削ってまで、

今年中に進めなければならないのでしょうか。」

クリスティは、会議卓に広げられた地図へ目を落とした。

声を荒らげることはない。

誰かの意見を責めることもない。


それでも、室内にいる者たちは自然と彼女の言葉へ耳を傾けていた。

僅かな沈黙が落ちる。

やがてクリスティは、別の資料を開いた。

「帝都東部の式典広場の改修を、来年度へ延期することはできませんか?」

今年、その広場が大規模に使用される予定は建国祭だけ。

既存設備にも、安全上の問題はない。

それならば、まず命を守るための予算を残すべきではないか。


財務官は手元の資料を確認し、しばらく考えたあと深く頭を下げた。

「……仰る通りでございます。」

その間、ルーファスは一度も口を挟まなかった。


娘が資料を読み、考え、自ら出した答えを。

ただ静かに見守っていた。

隣のレオンハルトも、妹を見つめながら僅かに目を細めている。

その表情に浮かんでいたのは、驚きよりもどこか安堵に近いものだった。


◇


昔の姫様なら、

難しい話が始まって五分もすれば、椅子の上で落ち着きをなくした。


『アークファイント。お外に行きたい。』

『課題が残っております。』

『あとでやるもん。』

『昨日もそう仰いました。』

『昨日の私と、今日の私は違うの!』


理屈になっているようで、まるでなっていない。

頬を膨らませ、机へ突っ伏し、大きなため息を何度も吐く。

それでも最後には課題を終わらせ。

終わった瞬間には、椅子から飛び降りて庭園へ駆け出していた。


あの頃、姫様にとって学ぶことは、

遊びに行くまでに越えなければならない壁だった。

今でも、勉強そのものを好んでいるわけではない。


長時間机へ向かえば、書物の上へ頬をつけて。

「もう無理……。」

と呟くこともある。

外交史の講義が長引けば、こっそり窓の外を眺めてもいる。

けれど、逃げ出すことはなくなった。


知っていることが増えれば、助けられる人が増える。

学んだことを使えば、

優しい言葉を掛けるだけでは変えられなかったものを、変えることができる。


それを知った。

だから、自ら学ぶようになった。


◇


会議を終え。

扉が閉じた途端、クリスティは大きく息を吐いた。

「緊張したぁ……。」

先ほどまでの皇女らしい姿は、見る影もない。

肩の力を抜き、壁へ背を預ける。


「姫様。」

「何?」

「まだ会議室の前です。」

「もう終わったからいいの。」

「先ほどの文官が、こちらを見ております。」

「え?」

クリスティが慌てて廊下の先を見る。


確かに、会議へ出席していた文官が二人こちらへ歩いてきていた。

瞬時に背筋が伸びる。

髪を整え、先ほどまでと同じ穏やかな皇女の笑みを浮かべる。

「お疲れ様でございました。」

優雅に会釈すると、文官たちは恐縮したように深く頭を下げ、

そのまま廊下の向こうへ消えていった。


姿が完全に見えなくなったのを確認してから、

クリスティの肩がふっと落ちた。

「……疲れた。」

「お疲れ様でございました。」

その声に、クリスティがちらりとリカルドを見上げる。

「少しくらい、褒めてくれてもいいんだよ?」

「褒めていただくために発言なさったのですか?」

「違うけど……。」

「では、必要ないかと。」

「やっぱり意地悪…。」


唇を尖らせたものの、その表情はすぐに僅かな不安へ変わった。

「……変なこと、言ってなかった?」

リカルドは迷わず首を横へ振る。

「いいえ。とても、ご立派でした」


クリスティの紫水晶の瞳が、大きく瞬いた。

「……もう一回言って。」

「お断りします。」

「どうして!?」

「一度申し上げました。」

「今のは聞く準備ができてなかったの!」

「それは私の責任ではございません。」

「アークファイント!」


廊下へ響く声は、十三歳になっても昔とあまり変わらない。

リカルドは、その姿に僅かに口元を緩めた。

クリスティは変わった。

けれど、すべてが変わったわけではない。


◇


政務へ関わるようになってから、

クリスティが読む資料は、急速に増えていった。

各地の領主から届く報告書。

税収、街道、農作物、魔物被害。

以前なら、誰かが困っていることに気づけばそばへ行き、

話を聞き、自分にできることで元気づけようとしていた。


今は、なぜ困っているのかを調べる。

どうすれば、その原因を取り除けるのかを考える。

ある地方で作物の不作が続いた時も、

ただ食料を送るだけでは、翌年も同じことが起こると考え、

土地の性質と気候を調べ、皇立アカデミーの研究者へ協力を求め、

その地域に適した作物への切り替えを提案した。


幼い頃から持っていた優しさへ。

知識と、行動力が加わり始めていた。

誰かを助けたい。

それだけでは、国を動かすことはできない。


けれどクリスティは、その想いを現実へ変える方法を、

少しずつ学んでいた。


◇


ある日の夕刻。

皇帝執務室を出たところで、

クリスティはレオンハルトに呼び止められた。


「先日の北部予算の件、父上から聞いた。」

クリスティの表情が、僅かに強張る。

「……何か、間違ってた?」

「いや。よく調べていた。提案も悪くない。」


その言葉に、クリスティはほっと息を吐いた。

けれど、安心したのも束の間、今度は兄の顔をじっと見上げる。

「レオン兄様。また、ちゃんと寝てないでしょう。」

レオンハルトの表情が止まった。

「寝ている。」

「じゃあ、何時間?」

返事はなかった。

クリスティは呆れたように眉を下げる。


「お父様の仕事を手伝うのはいいけど、無理しすぎたら駄目だよ。」

「お前に言われることではない。」

「お父様にも、同じこと言われた!」

今度は、レオンハルトが黙る番だった。


クリスティはそんな兄を見て、ふわりと笑う。

「これからは、私もいるから。」

その一言に、レオンハルトは改めて十三歳になった妹を見つめた。

まだ任せられることは多くない。

それでも、以前のように何も心配しなくていいと、

頭を撫でるだけでは済まなくなっている。

妹は確かに、自分たちと共に帝国を支える者になろうとしていた。


「……分かった。今日は早く休む。」

「約束ね。」

「お前は、すぐ人に約束させるな。」

「その方が、ちゃんと守ってくれるでしょう?」

悪びれもせず笑う妹にレオンハルトは呆れたように息を吐いた。

けれど、その表情はどこか穏やかだった。


◇


姫様は、私の知らないところで成長されていた。

以前、そう思ったことがある。

けれど、少し違うのかもしれない。


突然、別の人間になったわけではない。

幼い頃から持っていたものが、

年月とともに形を変え始めただけなのだ。


一度会った者の名を忘れない。

その者が話した家族のことまで覚えている。

誰かが無理をしていれば言葉にされるより早く気づく。


昔から、姫様は人を見ていた。

ただ、幼かった姫様にできたのは。

話を聞き、手を握り、そばで笑うことだった。


今は、知識を持ち、考え、自ら選び、

決断することを覚え始めている。

誰かを想う優しさを、誰かを守る力へ変えようとしている。

それが今の姫様なのだ。


◇


夕暮れ。

一日の公務を終えたクリスティは、庭園へ続く回廊を歩いていた。

西の空は茜色に染まり、

白銀の髪が夕日の光を受けて淡く輝いている。

その斜め後ろをリカルドは、いつもの距離を保って歩いていた。

出会った頃から変わらない位置。

近すぎず、離れすぎず。

何かあれば、すぐに剣を抜ける距離。


「アークファイント。」

クリスティが足を止めた。

「はい、姫様。」

振り返った顔には疲れが残っていたが、どこか嬉しそうでもあった。

「今日、お父様とレオン兄様に褒めてもらったの。」

「それは何よりです。」

「ヴィオ姉様には、まだまだ勉強が足りないって言われたけど。」

「正しいご意見かと。」

「そこは慰めてよー。」


クリスティは頬を膨らませたものの、すぐに小さく笑った。

やがて、夕暮れの庭園へ視線を向ける。

「……少しずつ、皆の役に立てるようになってるかな。」

先ほどまでとは違う、少しだけ不安の混じった声だった。

リカルドは迷わず答える。

「はい。姫様は確実に前へ進んでおられます。」


クリスティは振り返り、しばらく彼を見つめた。

「アークファイントが、そんなこと言ってくれるなんて珍しい。」

「そうでしょうか?」

「うん。」

嬉しそうに笑う。

その太陽のような笑顔だけは、

十三歳になった今も昔と何も変わらなかった。


「ねえ、アークファイント。」

「何でしょう。」

クリスティは、一瞬だけ言葉を迷った。

柔らかな風が吹き。

長い白銀の髪が、夕日の中で揺れる。


「これからも、ずっとそばにいてね。」

幼い頃、

『クリスの騎士になって。』

そう言った時と、どこか似た表情だった。


リカルドは、静かに頭を下げ真っ直ぐに答える。

「もちろんです。私は、姫様の騎士ですので。」

クリスティは、少しだけ目を細めた。

「……そうだったね。」

満足したように笑い、再び前を向いて歩き始める。

リカルドも、その斜め後ろを変わらない距離で歩いた。


最初は、無邪気によく笑う小さな皇女だった。

皇城を走り回り、何度注意しても木へ登ろうとし。

自分の名を何度も呼んだ。


今、その小さな背中は、

幼い頃よりもずっと頼もしく見える。

それでも、リカルドにとって姫様は今も変わらない。

「アークファイント!」

少し先を歩いていたクリスティが、笑いながら振り返る。

その姿は、初めて出会ったあの日と変わらない一人の少女だった。


変わっていくものも。

変わらず残るものも。


これから先も、そのすべてを姫様の斜め後ろから見届けていく。

リカルドにとって、それは決意ですらなかった。

ただ、そうすることが当然なのだと思っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。