表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
PR
24/40

第23話 変わるものと変わらないもの


――気がつけば、姫様は随分と変わられていた。


リカルド・アークファイントが、

第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアと出会ってから、

八年の月日が流れていた。


五歳だった少女は、十三歳になった。

腰近くまで伸びた、緩やかに波打つ白銀の髪。

幼さを残しながらも、少しずつ整い始めた顔立ち。

紫水晶の瞳にも、

以前にはなかった落ち着きが宿るようになっている。


皇女としての立ち居振る舞いも。

言葉遣いも、幼い頃とは比べものにならないほど洗練された。

それでも、

「アークファイント!」

廊下の向こうで自分を見つければ、

クリスティは今も昔と変わらない笑顔でその名を呼ぶ。


変わったものと、変わらないもの。

その両方を、リカルドは八年間ずっと見てきた。



その日、

クリスティは、

ルーファスとレオンハルトが出席する政務会議へ同席していた。

これまでにも皇族として会議を見学する機会はあった。

しかし、最近は、ただ話を聞くだけではない。


各地から届く報告書を事前に読み、

議題となる地域の情勢を調べ、

皇族として、いずれ国政を担うための学びを始めていた。


長い会議卓には、帝国各地から届いた報告書と地図が広げられている。

クリスティはルーファスの右手、レオンハルトの隣へ座り、

その斜め後ろには護衛としてリカルドが控えていた。

「北部地域の予算についてですが。」

一人の財務官が、手元の資料を開いた。


今年度は魔物被害による復旧費が増大し、

このままでは帝都周辺の街道整備に必要な予算が確保できない。

そのため、奈落門の防衛を担う騎士たちへの補給費を、

一時的に削減したいという。


装備の更新を抑え、食料と医薬品の輸送費を見直し。

人員補充も来年度以降へ延期する。

説明が進むにつれ、レオンハルトの眉が僅かに寄った。


ルーファスは何も言わない。

ただ、財務官の言葉を聞いている。

その時だった。


「それは、認められません。」

静かな声が会議室に落ち、視線が一斉にクリスティへ集まる。

幼い頃なら、突然これほど多くの目を向けられれば、

困ったように笑っていたかもしれない。

だが、今のクリスティは動じなかった。


クリスティは手元の報告書を開き、該当する数字を指先で示した。

「前線への補給費は、昨年度にも削減されています。

今年度も同じ割合で削れば、

北部砦へ届けられる医薬品は三年前の七割を下回ります。」


財務官の表情が変わった。

「殿下、その数字は……。」

「昨年度と一昨年度の決算報告書から算出しました。」

迷いのない返答に、財務官は言葉を失う。

あれだけの量を、いつ確認したのか。

財務官は報告書とクリスティを交互に見た。


「……すべて、覚えておいでなのですか?」

「一度、読みましたから。」

クリスティは、何でもないことのように次の頁をめくった。

その斜め後ろでリカルドは、僅かに目を細めた。


姫様は、昔から一度見聞きしたことを驚くほどよく覚えていた。

けれど幼い頃、その力の使い道といえば、

課題を早く終わらせることだった。

一刻も早く庭園へ遊びに行くために。

けれど、今は違う。


「街道整備が必要なことは分かります。ですが、

前線への補給を削ってまで、

今年中に進めなければならないのでしょうか。」

クリスティは、会議卓に広げられた地図へ目を落とした。

声を荒らげることはない。

誰かの意見を責めることもない。


それでも、室内にいる者たちは自然と彼女の言葉へ耳を傾けていた。

僅かな沈黙が落ちる。

やがてクリスティは、別の資料を開いた。

「帝都東部の式典広場の改修を、来年度へ延期することはできませんか?」

今年、その広場が大規模に使用される予定は建国祭だけ。

既存設備にも、安全上の問題はない。

それならば、まず命を守るための予算を残すべきではないか。


財務官は手元の資料を確認し、しばらく考えたあと深く頭を下げた。

「……仰る通りでございます。」

その間、ルーファスは一度も口を挟まなかった。


娘が資料を読み、考え、自ら出した答えを。

ただ静かに見守っていた。

隣のレオンハルトも、妹を見つめながら僅かに目を細めている。

その表情に浮かんでいたのは、驚きよりもどこか安堵に近いものだった。



昔の姫様なら、

難しい話が始まって五分もすれば、椅子の上で落ち着きをなくした。


『アークファイント。お外に行きたい。』

『課題が残っております。』

『あとでやるもん。』

『昨日もそう仰いました。』

『昨日の私と、今日の私は違うの!』


理屈になっているようで、まるでなっていない。

頬を膨らませ、机へ突っ伏し、大きなため息を何度も吐く。

それでも最後には課題を終わらせ。

終わった瞬間には、椅子から飛び降りて庭園へ駆け出していた。


あの頃、姫様にとって学ぶことは、

遊びに行くまでに越えなければならない壁だった。

今でも、勉強そのものを好んでいるわけではない。


長時間机へ向かえば、書物の上へ頬をつけて。

「もう無理……。」

と呟くこともある。

外交史の講義が長引けば、こっそり窓の外を眺めてもいる。

けれど、逃げ出すことはなくなった。


知っていることが増えれば、助けられる人が増える。

学んだことを使えば、

優しい言葉を掛けるだけでは変えられなかったものを、変えることができる。


それを知った。

だから、自ら学ぶようになった。



会議を終え。

扉が閉じた途端、クリスティは大きく息を吐いた。

「緊張したぁ……。」

先ほどまでの皇女らしい姿は、見る影もない。

肩の力を抜き、壁へ背を預ける。


「姫様。」

「何?」

「まだ会議室の前です。」

「もう終わったからいいの。」

「先ほどの文官が、こちらを見ております。」

「え?」

クリスティが慌てて廊下の先を見る。


確かに、会議へ出席していた文官が二人こちらへ歩いてきていた。

瞬時に背筋が伸びる。

髪を整え、先ほどまでと同じ穏やかな皇女の笑みを浮かべる。

「お疲れ様でございました。」

優雅に会釈すると、文官たちは恐縮したように深く頭を下げ、

そのまま廊下の向こうへ消えていった。


姿が完全に見えなくなったのを確認してから、

クリスティの肩がふっと落ちた。

「……疲れた。」

「お疲れ様でございました。」

その声に、クリスティがちらりとリカルドを見上げる。

「少しくらい、褒めてくれてもいいんだよ?」

「褒めていただくために発言なさったのですか?」

「違うけど……。」

「では、必要ないかと。」

「やっぱり意地悪…。」


唇を尖らせたものの、その表情はすぐに僅かな不安へ変わった。

「……変なこと、言ってなかった?」

リカルドは迷わず首を横へ振る。

「いいえ。とても、ご立派でした」


クリスティの紫水晶の瞳が、大きく瞬いた。

「……もう一回言って。」

「お断りします。」

「どうして!?」

「一度申し上げました。」

「今のは聞く準備ができてなかったの!」

「それは私の責任ではございません。」

「アークファイント!」


廊下へ響く声は、十三歳になっても昔とあまり変わらない。

リカルドは、その姿に僅かに口元を緩めた。

クリスティは変わった。

けれど、すべてが変わったわけではない。



政務へ関わるようになってから、

クリスティが読む資料は、急速に増えていった。

各地の領主から届く報告書。

税収、街道、農作物、魔物被害。

以前なら、誰かが困っていることに気づけばそばへ行き、

話を聞き、自分にできることで元気づけようとしていた。


今は、なぜ困っているのかを調べる。

どうすれば、その原因を取り除けるのかを考える。

ある地方で作物の不作が続いた時も、

ただ食料を送るだけでは、翌年も同じことが起こると考え、

土地の性質と気候を調べ、皇立アカデミーの研究者へ協力を求め、

その地域に適した作物への切り替えを提案した。


幼い頃から持っていた優しさへ。

知識と、行動力が加わり始めていた。

誰かを助けたい。

それだけでは、国を動かすことはできない。


けれどクリスティは、その想いを現実へ変える方法を、

少しずつ学んでいた。



ある日の夕刻。

皇帝執務室を出たところで、

クリスティはレオンハルトに呼び止められた。


「先日の北部予算の件、父上から聞いた。」

クリスティの表情が、僅かに強張る。

「……何か、間違ってた?」

「いや。よく調べていた。提案も悪くない。」


その言葉に、クリスティはほっと息を吐いた。

けれど、安心したのも束の間、今度は兄の顔をじっと見上げる。

「レオン兄様。また、ちゃんと寝てないでしょう。」

レオンハルトの表情が止まった。

「寝ている。」

「じゃあ、何時間?」

返事はなかった。

クリスティは呆れたように眉を下げる。


「お父様の仕事を手伝うのはいいけど、無理しすぎたら駄目だよ。」

「お前に言われることではない。」

「お父様にも、同じこと言われた!」

今度は、レオンハルトが黙る番だった。


クリスティはそんな兄を見て、ふわりと笑う。

「これからは、私もいるから。」

その一言に、レオンハルトは改めて十三歳になった妹を見つめた。

まだ任せられることは多くない。

それでも、以前のように何も心配しなくていいと、

頭を撫でるだけでは済まなくなっている。

妹は確かに、自分たちと共に帝国を支える者になろうとしていた。


「……分かった。今日は早く休む。」

「約束ね。」

「お前は、すぐ人に約束させるな。」

「その方が、ちゃんと守ってくれるでしょう?」

悪びれもせず笑う妹にレオンハルトは呆れたように息を吐いた。

けれど、その表情はどこか穏やかだった。



姫様は、私の知らないところで成長されていた。

以前、そう思ったことがある。

けれど、少し違うのかもしれない。


突然、別の人間になったわけではない。

幼い頃から持っていたものが、

年月とともに形を変え始めただけなのだ。


一度会った者の名を忘れない。

その者が話した家族のことまで覚えている。

誰かが無理をしていれば言葉にされるより早く気づく。


昔から、姫様は人を見ていた。

ただ、幼かった姫様にできたのは。

話を聞き、手を握り、そばで笑うことだった。


今は、知識を持ち、考え、自ら選び、

決断することを覚え始めている。

誰かを想う優しさを、誰かを守る力へ変えようとしている。

それが今の姫様なのだ。



夕暮れ。

一日の公務を終えたクリスティは、庭園へ続く回廊を歩いていた。

西の空は茜色に染まり、

白銀の髪が夕日の光を受けて淡く輝いている。

その斜め後ろをリカルドは、いつもの距離を保って歩いていた。

出会った頃から変わらない位置。

近すぎず、離れすぎず。

何かあれば、すぐに剣を抜ける距離。


「アークファイント。」

クリスティが足を止めた。

「はい、姫様。」

振り返った顔には疲れが残っていたが、どこか嬉しそうでもあった。

「今日、お父様とレオン兄様に褒めてもらったの。」

「それは何よりです。」

「ヴィオ姉様には、まだまだ勉強が足りないって言われたけど。」

「正しいご意見かと。」

「そこは慰めてよー。」


クリスティは頬を膨らませたものの、すぐに小さく笑った。

やがて、夕暮れの庭園へ視線を向ける。

「……少しずつ、皆の役に立てるようになってるかな。」

先ほどまでとは違う、少しだけ不安の混じった声だった。

リカルドは迷わず答える。

「はい。姫様は確実に前へ進んでおられます。」


クリスティは振り返り、しばらく彼を見つめた。

「アークファイントが、そんなこと言ってくれるなんて珍しい。」

「そうでしょうか?」

「うん。」

嬉しそうに笑う。

その太陽のような笑顔だけは、

十三歳になった今も昔と何も変わらなかった。


「ねえ、アークファイント。」

「何でしょう。」

クリスティは、一瞬だけ言葉を迷った。

柔らかな風が吹き。

長い白銀の髪が、夕日の中で揺れる。


「これからも、ずっとそばにいてね。」

幼い頃、

『クリスの騎士になって。』

そう言った時と、どこか似た表情だった。


リカルドは、静かに頭を下げ真っ直ぐに答える。

「もちろんです。私は、姫様の騎士ですので。」

クリスティは、少しだけ目を細めた。

「……そうだったね。」

満足したように笑い、再び前を向いて歩き始める。

リカルドも、その斜め後ろを変わらない距離で歩いた。


最初は、無邪気によく笑う小さな皇女だった。

皇城を走り回り、何度注意しても木へ登ろうとし。

自分の名を何度も呼んだ。


今、その小さな背中は、

幼い頃よりもずっと頼もしく見える。

それでも、リカルドにとって姫様は今も変わらない。

「アークファイント!」

少し先を歩いていたクリスティが、笑いながら振り返る。

その姿は、初めて出会ったあの日と変わらない一人の少女だった。


変わっていくものも。

変わらず残るものも。


これから先も、そのすべてを姫様の斜め後ろから見届けていく。

リカルドにとって、それは決意ですらなかった。

ただ、そうすることが当然なのだと思っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ