第22話 奈落の歪み
アレクシスが皇城を旅立ってから、三日が過ぎた。
第二皇子が奈落騎士団へ入団したという知らせは、
瞬く間に帝都中へ広まった。
皇城の者たちは口々に、
アレクシスなら必ず立派な騎士になると語った。
クリスティも、兄を誇らしく思っていた。
――俺は、奈落騎士になる。
――奈落門から、帝国を守る。
――二度と、悲しい思いをする人を作らない。
幼い頃から何度も聞いてきた言葉。
アレクシスは十九歳になった今も、
その決意を変えることなく、自ら危険な前線へ向かった。
だからクリスティも、笑顔で兄を送り出した。
必ず帰ってくると、約束してくれたから。
けれど、兄がそこまでして立ち向かおうとしているものを、
自分はほとんど知らない。
そのことが、急に気になった。
◇
「ねえ、アークファイント。」
昼下がり、皇城の廊下を歩いていたクリスティは、
窓の前で足を止めた。
「何でしょう、姫様。」
「奈落門って、結局何なの?」
リカルドは、僅かに目を瞬かせた。
「随分と難しいことをお尋ねになりますね。」
「だって、アレクシス兄様が行ったでしょう?」
クリスティは窓の外へ目を向ける。
遠く、北の空。
ここから奈落門を見ることはできない。
それでも、兄が向かった場所はあの空の先にある。
「兄様は昔から、奈落門から帝国を守るって言ってた。」
アレクシスが何を守ろうとしているのか、
なぜ命を懸けてまで戦おうとするのか。
魔物が現れる危険な場所だということ以外、
クリスティは何も知らなかった。
「アークファイントは知ってる?」
「前線で必要となる知識ならば、ある程度は。」
リカルドは少し考え、慎重に答える。
「ですが、奈落門そのものが何であるのかは、
私にも分かりません。」
「アークファイントにも?」
「はい。」
意外そうに見上げてくるクリスティへ、リカルドは続けた。
「ヴィオレット殿下であれば、
私よりも遥かにお詳しいでしょう。
現在は、宮廷魔術師団の研究にも参加しておられますので。」
「じゃあ、ヴィオ姉様に聞いてみる!」
クリスティは勢いよく歩き出す。
その歩調が次第に速くなるのを見て、リカルドが口を開きかける。
「走ってないよ。」
「まだ何も申し上げておりません。」
「でも、言おうとしたでしょう?」
「歩く速度を落としていただこうとは思いました。」
クリスティは不満そうに頬を膨らませたものの、
歩調だけは少し緩めた。
◇
ヴィオレットの研究室は、
今日も書物と資料で埋め尽くされていた。
机には、奈落門の観測記録。
魔物の生態報告書。
過去の戦闘記録。
複雑な魔法陣が描かれた羊皮紙が、幾重にも積み重なっている。
部屋の奥では、
ヴィオレットと同じ十六歳の宮廷魔術師ルシアンが、
観測用の魔石から読み取った数値を記録していた。
まだ少年と呼べる年齢ながら、
魔術の実力はすでに帝国内でも指折り。
奈落に関する解析にも長けており、
ヴィオレットの研究を手伝うことも多かった。
「ヴィオ姉様。」
呼びかけに、ヴィオレットが顔を上げる。
「クリスティ、どうしました?」
ルシアンも手を止め、静かに一礼した。
「クリスティ殿下、こんにちは。」
「ルシアンもいたのね。」
「ヴィオレット様の研究を少しお手伝いしています。」
机の上には、彼が整理したらしい資料が年代順に並べられている。
ヴィオレットが資料を探すより先に、
ルシアンは必要になりそうな記録を一冊選び、彼女の手元へ置いた。
「ありがとう、ルシアン。」
短いやり取りは、日頃から二人が共に研究していることを窺わせた。
「それで、クリスティ。今日は何を聞きに来たのですか?」
ヴィオレットは妹へ向き直る。
「奈落門について教えてほしいの。」
その言葉に、ヴィオレットの指が資料の上で止まった。
「アレクシス兄様が行ったでしょう?」
クリスティは、姉の前に置かれた椅子へ腰を下ろす。
「兄様が何と戦おうとしているのか、知っておきたいの。」
ヴィオレットはしばらく妹を見つめていた。
やがて、机に置かれた古い書物を開く。
「結論から申し上げると、
奈落門が何であるのか私たちにも分かっていません。」
「分からないの?」
「はい。」
何をきっかけに生じたのか。
どのような原理で存在しているのか。
なぜ魔物が現れるのか。
向こう側に何があるのか。
百五十年にわたり、帝国最高峰の魔術師たちが研究を続けてきた。
それでも、奈落門の正体は未だ解明されていない。
「門と呼ばれていますが、
本当にどこかへ通じる門なのかどうかも分かりません。」
ヴィオレットの言葉を引き継ぐように、ルシアンが観測記録を開いた。
「既知の魔術とは、構造も魔力の性質も異なります。」
頁には、幾重にも重なる複雑な波形が描かれていた。
「空間そのものが損傷しているという説もありますが、
それも仮説にすぎません。」
「空間が、傷ついてるの?」
クリスティが不安そうに眉を寄せる。
「そう表現するのが、今のところは最も近いというだけです。」
ルシアンはそう答えると、再びヴィオレットへ説明を譲った。
「ただし、一つだけ、確かなことがあります。」
ヴィオレットは別の資料を開く。
「何?」
「奈落に関わる現象は、中央にある巨大な門だけではありません。」
ヴィオレットが広げた地図には。
帝国各地に、いくつもの小さな印が記されていた。
「過去百五十年の間に、各地で小規模な空間の亀裂が確認されています。」
その一つを、ヴィオレットの指が示す。
「私たちは、それを『奈落の歪み』と呼んでいます。」
「奈落の歪み……。」
発生する場所に、規則性はない。
何の前触れもなく空間に黒い亀裂が生まれ、
数秒から数分ほどで消失する。
そこから魔物が現れることもあれば、
近くにある物や人間が亀裂へ呑み込まれることもあるという。
「巻き込まれた人は、どうなるの?」
クリスティの声が、僅かに小さくなる。
ヴィオレットはすぐには答えなかった。
「分かりません。」
「帰ってきた人はいないの?」
「現在まで、生還が確認された例はありません。」
静かな声だった。
研究者として、確認されている事実だけを正確に伝える声。
クリスティは、机の上に並べられた記録へ目を落とした。
発生した年月。
場所。
巻き込まれた人数。
それらが、一件ずつ記されている。
資料の端には、ほかの記録とは異なり、
黒い封印紐で閉じられた薄い冊子が置かれていた。
表紙に記された日付は、クリスティが二歳だった年。
クリスティが冊子へ手を伸ばしかけた時、
ヴィオレットがその上へ静かに手を置いた。
「これは?」
「陛下の許可なく閲覧することのできない記録です。」
「そうなの?」
「ええ。」
ヴィオレットの声は、いつもと変わらなかった。
けれど、冊子を押さえる指先に僅かに力が込められている。
それに気づいたクリスティは、それ以上尋ねなかった。
クリスティは、机に積み上げられた資料へ視線を巡らせた。
「ヴィオ姉様は、ずっと奈落門の研究をしているの?」
「はい。」
ヴィオレットは、封印された記録から手を離す。
「奈落門を解き明かすことができれば、
これ以上巻き込まれる者を減らせるかもしれません。」
前線では、アレクシスが剣を取り魔物と戦う。
ならば自分は、研究によって災厄そのものを止める方法を探す。
「アレクシスお兄様が命を懸けて戦うのなら、
私は私にできることをします。」
ヴィオレットは、机に積み重ねられた記録へ目を向けた。
その資料の山は、
彼女がこれまで積み重ねてきた時間そのものだった。
クリスティは、封印された冊子をもう一度見つめる。
「ねえ、ヴィオ姉様。」
「何でしょう?」
「奈落の歪みに巻き込まれた人たちは、
本当にもう帰ってこられないのかな?」
ヴィオレットは、答えなかった。
研究者として語るなら、生還例は一件も存在しない。
長い年月が過ぎた事例も多く、
生存している可能性は限りなく低い。
そう答えるべきなのだろう。
それでも、奈落門について解明されたことはあまりにも少ない。
巻き込まれた者が消滅したという証拠も、
命を落としたという確証もない。
「……分かりません。」
やがて、ヴィオレットはそれだけを答えた。
「ですが、私は、可能性が完全に失われたとは考えていません。」
切れ長の紫水晶の瞳が、真っ直ぐに妹を見る。
「本当?」
「ええ。」
その傍らで、資料へ目を落としていたルシアンが、
静かに言葉を添えた。
「確認されていないことと、存在しないことは同じではありません。」
クリスティが、彼へ顔を向ける。
「帰ってきた人がいないからといって、
向こう側で生きている人がいないとは断言できません。」
「なら、帰ってくる道もどこかにあるかもしれないね。」
クリスティは少しだけ考えたあとふわりと笑った。
ヴィオレットは、僅かに目を見開いた。
生きている可能性と、帰ってくる道がある可能性。
それまで彼女は、
無意識のうちに二つを別の問題として考えていた。
「……そうですね。」
ヴィオレットは、封印された記録へ視線を落とす。
「いつか、見つけなければなりません。」
誰かを奪う亀裂ではなく、
失われた者をこちら側へ連れ戻すための道を。
◇
奈落門。
百五十年前、突如として世界に現れた巨大な災厄。
そして、世界の各地へ不規則に現れる小さな亀裂。
奈落の歪み。
人々はまだ、
その正体を何一つ知らなかった。
なぜ存在するのか、
なぜ魔物を生み出すのか、
巻き込まれた者は、どこへ消えるのか、
そして、その向こう側に何があるのか。
十二歳の春、
第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアは、
初めて奈落門の向こう側へ思いを馳せた。
そこには、失われた誰かが今も生きているかもしれない。
そしていつか、その誰かが帰ってくるための道が、
開かれるかもしれない。
そう願いながら。




