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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第22話 奈落の歪み

アレクシスが皇城を旅立ってから、三日が過ぎた。

第二皇子が奈落騎士団へ入団したという知らせは、

瞬く間に帝都中へ広まった。

皇城の者たちは口々に、

アレクシスなら必ず立派な騎士になると語った。


クリスティも、兄を誇らしく思っていた。

――俺は、奈落騎士になる。

――奈落門から、帝国を守る。

――二度と、悲しい思いをする人を作らない。


幼い頃から何度も聞いてきた言葉。

アレクシスは十九歳になった今も、

その決意を変えることなく、自ら危険な前線へ向かった。


だからクリスティも、笑顔で兄を送り出した。

必ず帰ってくると、約束してくれたから。

けれど、兄がそこまでして立ち向かおうとしているものを、

自分はほとんど知らない。

そのことが、急に気になった。



「ねえ、アークファイント。」

昼下がり、皇城の廊下を歩いていたクリスティは、

窓の前で足を止めた。

「何でしょう、姫様。」

「奈落門って、結局何なの?」

リカルドは、僅かに目を瞬かせた。

「随分と難しいことをお尋ねになりますね。」

「だって、アレクシス兄様が行ったでしょう?」


クリスティは窓の外へ目を向ける。

遠く、北の空。

ここから奈落門を見ることはできない。

それでも、兄が向かった場所はあの空の先にある。


「兄様は昔から、奈落門から帝国を守るって言ってた。」

アレクシスが何を守ろうとしているのか、

なぜ命を懸けてまで戦おうとするのか。

魔物が現れる危険な場所だということ以外、

クリスティは何も知らなかった。


「アークファイントは知ってる?」

「前線で必要となる知識ならば、ある程度は。」

リカルドは少し考え、慎重に答える。

「ですが、奈落門そのものが何であるのかは、

私にも分かりません。」

「アークファイントにも?」

「はい。」

意外そうに見上げてくるクリスティへ、リカルドは続けた。


「ヴィオレット殿下であれば、

私よりも遥かにお詳しいでしょう。

現在は、宮廷魔術師団の研究にも参加しておられますので。」

「じゃあ、ヴィオ姉様に聞いてみる!」


クリスティは勢いよく歩き出す。

その歩調が次第に速くなるのを見て、リカルドが口を開きかける。

「走ってないよ。」

「まだ何も申し上げておりません。」

「でも、言おうとしたでしょう?」

「歩く速度を落としていただこうとは思いました。」


クリスティは不満そうに頬を膨らませたものの、

歩調だけは少し緩めた。



ヴィオレットの研究室は、

今日も書物と資料で埋め尽くされていた。


机には、奈落門の観測記録。

魔物の生態報告書。

過去の戦闘記録。

複雑な魔法陣が描かれた羊皮紙が、幾重にも積み重なっている。


部屋の奥では、

ヴィオレットと同じ十六歳の宮廷魔術師ルシアンが、

観測用の魔石から読み取った数値を記録していた。

まだ少年と呼べる年齢ながら、

魔術の実力はすでに帝国内でも指折り。

奈落に関する解析にも長けており、

ヴィオレットの研究を手伝うことも多かった。


「ヴィオ姉様。」

呼びかけに、ヴィオレットが顔を上げる。

「クリスティ、どうしました?」

ルシアンも手を止め、静かに一礼した。

「クリスティ殿下、こんにちは。」

「ルシアンもいたのね。」

「ヴィオレット様の研究を少しお手伝いしています。」


机の上には、彼が整理したらしい資料が年代順に並べられている。

ヴィオレットが資料を探すより先に、

ルシアンは必要になりそうな記録を一冊選び、彼女の手元へ置いた。

「ありがとう、ルシアン。」

短いやり取りは、日頃から二人が共に研究していることを窺わせた。


「それで、クリスティ。今日は何を聞きに来たのですか?」

ヴィオレットは妹へ向き直る。

「奈落門について教えてほしいの。」

その言葉に、ヴィオレットの指が資料の上で止まった。

「アレクシス兄様が行ったでしょう?」

クリスティは、姉の前に置かれた椅子へ腰を下ろす。

「兄様が何と戦おうとしているのか、知っておきたいの。」

ヴィオレットはしばらく妹を見つめていた。


やがて、机に置かれた古い書物を開く。

「結論から申し上げると、

奈落門が何であるのか私たちにも分かっていません。」

「分からないの?」

「はい。」


何をきっかけに生じたのか。

どのような原理で存在しているのか。

なぜ魔物が現れるのか。

向こう側に何があるのか。

百五十年にわたり、帝国最高峰の魔術師たちが研究を続けてきた。

それでも、奈落門の正体は未だ解明されていない。


「門と呼ばれていますが、

本当にどこかへ通じる門なのかどうかも分かりません。」

ヴィオレットの言葉を引き継ぐように、ルシアンが観測記録を開いた。

「既知の魔術とは、構造も魔力の性質も異なります。」

頁には、幾重にも重なる複雑な波形が描かれていた。

「空間そのものが損傷しているという説もありますが、

それも仮説にすぎません。」

「空間が、傷ついてるの?」


クリスティが不安そうに眉を寄せる。

「そう表現するのが、今のところは最も近いというだけです。」

ルシアンはそう答えると、再びヴィオレットへ説明を譲った。

「ただし、一つだけ、確かなことがあります。」

ヴィオレットは別の資料を開く。

「何?」

「奈落に関わる現象は、中央にある巨大な門だけではありません。」


ヴィオレットが広げた地図には。

帝国各地に、いくつもの小さな印が記されていた。

「過去百五十年の間に、各地で小規模な空間の亀裂が確認されています。」

その一つを、ヴィオレットの指が示す。

「私たちは、それを『奈落の歪み』と呼んでいます。」

「奈落の歪み……。」


発生する場所に、規則性はない。

何の前触れもなく空間に黒い亀裂が生まれ、

数秒から数分ほどで消失する。

そこから魔物が現れることもあれば、

近くにある物や人間が亀裂へ呑み込まれることもあるという。


「巻き込まれた人は、どうなるの?」

クリスティの声が、僅かに小さくなる。

ヴィオレットはすぐには答えなかった。

「分かりません。」

「帰ってきた人はいないの?」

「現在まで、生還が確認された例はありません。」

静かな声だった。

研究者として、確認されている事実だけを正確に伝える声。

クリスティは、机の上に並べられた記録へ目を落とした。


発生した年月。

場所。

巻き込まれた人数。

それらが、一件ずつ記されている。

資料の端には、ほかの記録とは異なり、

黒い封印紐で閉じられた薄い冊子が置かれていた。

表紙に記された日付は、クリスティが二歳だった年。

クリスティが冊子へ手を伸ばしかけた時、

ヴィオレットがその上へ静かに手を置いた。


「これは?」

「陛下の許可なく閲覧することのできない記録です。」

「そうなの?」

「ええ。」

ヴィオレットの声は、いつもと変わらなかった。

けれど、冊子を押さえる指先に僅かに力が込められている。

それに気づいたクリスティは、それ以上尋ねなかった。


クリスティは、机に積み上げられた資料へ視線を巡らせた。

「ヴィオ姉様は、ずっと奈落門の研究をしているの?」

「はい。」

ヴィオレットは、封印された記録から手を離す。

「奈落門を解き明かすことができれば、

これ以上巻き込まれる者を減らせるかもしれません。」


前線では、アレクシスが剣を取り魔物と戦う。

ならば自分は、研究によって災厄そのものを止める方法を探す。

「アレクシスお兄様が命を懸けて戦うのなら、

私は私にできることをします。」


ヴィオレットは、机に積み重ねられた記録へ目を向けた。

その資料の山は、

彼女がこれまで積み重ねてきた時間そのものだった。

クリスティは、封印された冊子をもう一度見つめる。


「ねえ、ヴィオ姉様。」

「何でしょう?」

「奈落の歪みに巻き込まれた人たちは、

本当にもう帰ってこられないのかな?」


ヴィオレットは、答えなかった。

研究者として語るなら、生還例は一件も存在しない。

長い年月が過ぎた事例も多く、

生存している可能性は限りなく低い。

そう答えるべきなのだろう。

それでも、奈落門について解明されたことはあまりにも少ない。

巻き込まれた者が消滅したという証拠も、

命を落としたという確証もない。


「……分かりません。」

やがて、ヴィオレットはそれだけを答えた。

「ですが、私は、可能性が完全に失われたとは考えていません。」

切れ長の紫水晶の瞳が、真っ直ぐに妹を見る。

「本当?」

「ええ。」


その傍らで、資料へ目を落としていたルシアンが、

静かに言葉を添えた。

「確認されていないことと、存在しないことは同じではありません。」

クリスティが、彼へ顔を向ける。

「帰ってきた人がいないからといって、

向こう側で生きている人がいないとは断言できません。」

「なら、帰ってくる道もどこかにあるかもしれないね。」

クリスティは少しだけ考えたあとふわりと笑った。


ヴィオレットは、僅かに目を見開いた。

生きている可能性と、帰ってくる道がある可能性。

それまで彼女は、

無意識のうちに二つを別の問題として考えていた。


「……そうですね。」

ヴィオレットは、封印された記録へ視線を落とす。

「いつか、見つけなければなりません。」

誰かを奪う亀裂ではなく、

失われた者をこちら側へ連れ戻すための道を。



奈落門。

百五十年前、突如として世界に現れた巨大な災厄。

そして、世界の各地へ不規則に現れる小さな亀裂。

奈落の歪み。


人々はまだ、

その正体を何一つ知らなかった。

なぜ存在するのか、

なぜ魔物を生み出すのか、

巻き込まれた者は、どこへ消えるのか、

そして、その向こう側に何があるのか。


十二歳の春、

第二皇女クリスティ・フォン・マーヴェリアは、

初めて奈落門の向こう側へ思いを馳せた。

そこには、失われた誰かが今も生きているかもしれない。

そしていつか、その誰かが帰ってくるための道が、

開かれるかもしれない。


そう願いながら。

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