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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第21話 旅立ち

二年後。


マーヴェリア帝国皇城は、夜明け前から慌ただしい空気に包まれていた。

厩舎では遠征用の馬が整えられ、

中庭には深い臙脂色を基調とした軍装に身を包んだ騎士たちが集まっている。


馬車へ積み込まれていくのは、武器や保存食、医薬品に防寒具。

長い旅路と、その先で待つ戦いの過酷さを示すものばかりだった。


帝国最北端。


百五十年前に出現した奈落門から、今なお魔物が現れ続ける最前線。

その地の防衛を担う、奈落騎士団。


本日、十九歳となった第二皇子アレクシス・フォン・マーヴェリアは、

長年志してきた奈落騎士団へ正式に配属され、皇城を旅立つ。


◇


アレクシスの私室は、いつになく整然としていた。


机の上に無造作に積まれていた本も、

椅子の背へ掛けられていた上着もすべて片付けられ、

部屋には主の旅立ちを待つような静けさが広がっている。


その中央で、アレクシスは腰の剣帯を締め直していた。

深い臙脂色を基調とした、奈落騎士団の軍装。

胸元には帝国の紋章と、

奈落騎士団への所属を示す黒銀の徽章が輝いている。


「忘れ物はないか。」

背後から声を掛けられ、アレクシスは鏡越しに兄を見た。

「たぶん。」

「たぶんでは困る。」


レオンハルトは部屋へ入ると、寝台の端に残されていた手袋を拾い上げた。

「これは何だ?」

「あ。」

「早速忘れているではないか。」


アレクシスは悪びれる様子もなく、兄へ手を差し出した。

「兄上が見つけてくださると思っていました。」

「俺を何だと思っている。」

「頼りになる兄上。」

「便利な兄ではない。」


呆れながら投げ渡された手袋を、アレクシスは片手で受け取った。

普段と変わらないやり取りだった。


けれど、二人とも分かっている。

同じ皇城で顔を合わせ、気軽に言葉を交わせる日々は今日でひとまず終わる。


アレクシスは手袋を鞄へしまうと、

何もなくなった机や、綺麗に整えられた寝台へ目を向けた。


生まれた時から過ごしてきた部屋。

特別な思い入れなどないつもりだったが、

いざ離れるとなると胸の奥に僅かな寂しさが残った。


「兄上。」

「何だ。」

「ヴィオレットとクリスティのことを、お願いします。」


レオンハルトの表情から、僅かに笑みが消えた。

アレクシスは窓辺へ歩み寄り、朝靄に包まれた帝都を見下ろす。


「俺は奈落門の前に立ちます。」

そこから現れる魔物を倒し、

帝都へも、この皇城へも、二度とあの災厄を近づけさせない。


「だから兄上は、ここを守ってください。」

アレクシスはそう告げると、机に残していた書類を一つにまとめた。


「お前に言われるまでもない。」

「そうでしょうね。」

小さく笑い、束ねた書類をレオンハルトの前へ差し出す。


「ヴィオレットは、放っておけば何日でも研究室へ籠もります。」

「分かっている。」

「クリスティは、周りのことばかり見て、自分のことを後回しにする。」

書類を受け取ったレオンハルトが、僅かに眉を寄せた。

「それも知っている。」


アレクシスは、さらに続けようとする。

「父上は――」

「余計な心配をする前に、自分の心配をしろ。」

ぴしゃりと遮られ、アレクシスは困ったように笑った。


「奈落門は、お前一人で背負うものではない。」

「分かっています。」

「本当に分かっている者は、家族を託すような言い方をしない。」


レオンハルトはアレクシスの軍装を掴み、真っ直ぐに弟を見た。

「守ると言うなら、自分も守れ。」

低く、強い声だった。

「お前も、俺たちの家族だ。」

アレクシスはしばらく黙っていた。


いつも父を支え、弟妹の前へ立ち、自らの弱さを決して見せようとしない兄。

そのレオンハルトが今は、隠すことなく弟の身を案じている。

やがてアレクシスは、いつもの軽い笑みを収めた。


「はい。」

静かに頷き、兄の手へ自分の手を重ねる。

「一人で戦うつもりはありません。」


レオンハルトはその答えを聞くと、ようやく手を離した。

「それでいい。」

短い言葉、それだけで兄弟の間には十分だった。


◇


皇帝執務室。


ルーファスは、出立に関する報告書へ目を通していた。


最前線までの経路。

同行する騎士の名簿。

現地到着後に与えられる任務。


すでに何度も確認したはずの内容を、

今日に限っては一枚ずつ時間をかけて読み進めている。


「父上。」

声を掛けられ、ルーファスは報告書から顔を上げた。

扉の前には、出立の準備を整えたアレクシスが立っている。


軍装姿の息子など、これまで幾度となく見てきた。

だが今日、彼が身に纏っているのは、見慣れた帝国軍のものではない。

深い臙脂色を基調とした、奈落騎士団の軍装。


帝国皇子としてではなく、

一人の騎士として辺境へ立つことを選んだ息子の姿が、そこにあった。


ルーファスはしばし何も言わず、アレクシスを見つめる。

幼い頃から快活で、皇位にも権力にも執着せず、

自分の進む道は自分で決めてきた次男。

その彼が今、本当に自ら選んだ場所へ向かおうとしている。


よく似合っている。

そう思う一方で、父親としては胸の奥に言葉にしがたいものが残った。


「準備は終わったのか。」

「はい。兄上の確認も済んでいます。」

その言い方に、ルーファスが僅かに眉を上げる。


「何か忘れていたな。」

「……一つだけです。」

「先が思いやられる。」

呆れたように息を吐きながら、ルーファスは手にしていた報告書を机へ置いた。


そして今度は、臙脂色の軍装そのものではなく、その中に立つ息子を見た。

十年前。

母を失い、妹を奈落へ奪われたあの日。

まだ九歳だったアレクシスは、雨の中で何度も木剣を振るっていた。


自分が弱かったから守れなかったのだと。

幼い手が血に滲んでも、剣を手放そうとはしなかった。

あの日から、アレクシスは一度もその決意を曲げていない。


剣を学び、軍略を学び、魔物の生態や奈落門周辺の地形、

過去の戦闘記録を頭へ叩き込んだ。


すべては、いつか自分の力で奈落門の前へ立つためだった。


九歳の少年が握っていた木剣は、いつしか本物の剣へ変わった。

幼い肩には大きすぎた決意も、

今では一人の騎士として自ら背負えるものになっている。


そして今日、その身を包む臙脂色の軍装が、

十年前から続いてきた道の先を形にしているように見えた。

ルーファスは何も言わず、息子を見つめ続けた。

その沈黙に耐えかねたように、アレクシスが僅かに首を傾げる。


「何も言わないのですか。」

「何を言えというのだ?」

「今からでも、行くなと。」


冗談めいた口調だった。

けれど、その目は真っ直ぐに父を見ている。

ルーファスは僅かに目を細めた。


「言えば、お前は残るのか?」

「まさか。」

返事は、考える間もなく返ってきた。


「ならば、言うだけ無駄だろう。」

あまりにも父らしい答えに、

アレクシスは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。


「……父上らしいですね。」


ルーファスは椅子から立ち上がり、机を回って息子の正面へ立つ。

近くで見れば、奈落騎士団の臙脂色はさらに鮮やかだった。

胸元には、新たに所属する騎士団の徽章が輝いている。

もう、送り出す時なのだ。


「お前が奈落騎士団を志した時から、この日が来ることは分かっていた。」

「はい。」

「止めるつもりはない。」


ルーファスの視線が、その徽章へ落ちる。

「だが、皇子だからといって特別扱いされると思うな。」

「望むところです。」

「魔物は、お前が何者であるかなど考慮しない。一瞬の油断が命を奪う場所だ。」

「承知しています。」


アレクシスは、父の目を真っ直ぐに見返していた。

恐れがないわけではないだろう。

それでも覚悟を決め、自ら選んだ道へ進もうとしている。


その表情に、ルーファスは亡き妻の面影を見た。

一度決めたことを曲げず、誰かを守るためなら、自らの身さえ惜しまない。

だからこそ、伝えなければならなかった。


「アレクシス。」

「はい。」

「私はもう二度と、子を奪われるつもりはない。」


その一言に、アレクシスの表情が変わった。

ルーファスは息子の肩へ手を置く。

掌の下にあるのは、もう九歳の少年の細い肩ではない。

それでも、父にとっては変わらず息子だった。


「敵を倒すことより、功績を立てることより、生き延びることを優先しろ。」


皇帝が騎士へ下す命令ではない。

これから戦場へ向かう息子に対する、父親としての願いだった。


「無謀と勇敢を履き違えるな。」

「……はい。」

「退くべき時には退け。仲間を頼れ。一人ですべてを背負おうとするな。」


アレクシスは、ルーファスの手へ視線を落とした。

大きな手が、僅かに強く肩を掴んでいる。


「父上、俺はあなたが思っているほど無茶ではありませんよ。」

「自分でそう言う者ほど信用できん。」

「ひどいですね。」


いつものように笑いながらも、アレクシスの声はどこか穏やかだった。

「ですが、承知しました。」

姿勢を正し、皇帝の前で深く頭を下げる。

「必ず、生きて戻ります。」

ルーファスはしばらく息子を見つめたあと、肩から手を離した。


「必ず帰れ。これは皇帝命令だ。」

「はい。謹んでお受けいたします。」


◇


やがて、出発の刻を迎えた。

皇城の正門前には、奈落騎士団の軍装に身を包んだ一行が整列していた。

深い臙脂色を基調とした軍装。

胸元には、黒銀の徽章。


荷を積んだ馬車の傍では、

同じく旅支度を整えた従騎士たちが馬の手綱を確かめている。

普段の帝国軍とは異なる色が皇城の前へ並ぶ光景は、

それだけで彼らがこれから向かう場所の遠さを感じさせた。


その先頭には、黒い軍馬の手綱を握るアレクシスの姿がある。

深い臙脂色の軍装。

白銀の髪と紫水晶の瞳には、その色がよく映えていた。


「アレクシス兄様!」

十二歳になったクリスティが階段を駆け下りてきた。

その数歩後ろを、リカルドが追っている。


「姫様。走らないでください。」

「今はそれどころじゃないの!」

「転ばれては、なおさら出立が遅れます。」

「転ばないもん!」


言った直後にドレスの裾を踏みかけたが、何とか体勢を立て直す。

アレクシスの前へ辿り着くと、クリスティは息を整えながら兄を見上げた。


「ほら、今にも転びそうじゃないか。」

アレクシスが片眉を上げる。

「転んでいないから、大丈夫です!」

「誰に似て、そんな屁理屈を覚えたんだ?」

「アレクシス兄様です。」


間髪を入れず返され、アレクシスは言葉に詰まった。

クリスティは、してやったりと小さく笑う。


けれど、その笑みはすぐに消えた。

視線が、兄の身を包む深い臙脂色の軍装へ落ちる。

軍装姿のアレクシスなら、これまでにも何度も見てきた。

だが、奈落騎士団の色を纏った兄を見るのは初めてだった。


見慣れた白銀の髪も、いつもの穏やかな表情も何も変わっていない。

それなのに、臙脂色の軍装だけが、

兄がこれから自分たちの知らない場所へ行くのだと告げているように見える。

クリスティは、軍装の袖をそっと指先で摘まんだ。


「……本当に行くの?」

「ああ。」

「いつ帰ってくる?」


アレクシスはすぐには答えず、妹の小さな手へ目を落とした。

「まだ、分からない。」

「……そう。」


クリスティは袖を掴んだまま、静かに視線を伏せた。

それでも泣かなかった。

自分が泣けば、兄を困らせてしまうと分かっていたから。


「奈落騎士団は、危険なところなんでしょう?」

「そうだな。帝国で、一番危険な場所かもしれない。」

アレクシスは誤魔化さなかった。


クリスティの指先が、兄の袖を僅かに強く握る。

アレクシスはその前へ膝をつき、妹と視線の高さを合わせた。


「でも、誰かが守らなければならない。」

奈落門から、どれほど多くの魔物が現れても、

この皇城へ、家族のいる場所へ、二度とあの災厄を近づけさせない。

「そのために行くんだ。」


クリスティは、兄の顔をじっと見つめた。

「アレクシス兄様、約束して。」

小さな手が、軍装の袖を掴んだ。

「魔物を全部倒す約束ではありません。奈落門をどうにかする約束でもない。」

紫水晶の瞳が、真っ直ぐに兄を見つめる。

「ちゃんと、私たちのところへ帰ってきてね。」


アレクシスは僅かに目を見開いた。

兄が何を背負い、何を覚悟して旅立とうとしているのか。

すべては分からなくても、クリスティなりに感じ取っているのだろう。

アレクシスは困ったように笑い、妹の白銀の髪をくしゃりと撫でた。


「分かった。」

「本当に?」

「ああ。必ず帰る。約束する。」


アレクシスは真っ直ぐに妹を見返すと、

ようやくクリスティの表情に、いつもの笑みが戻った。

「うん。」


袖を掴んでいた手を離し、胸元で両手を握る。

「行ってらっしゃい、アレクシス兄様。」

「ああ、行ってくる。」

アレクシスも笑顔で答えた。


◇


ルーファス、レオンハルト、ヴィオレット、クリスティ、

そして、皇城に仕える者たちが見守る中。


アレクシスは黒い軍馬へ跨がった。

手綱を握り、正門の先へ続く道を見る。

その道は帝国の北、奈落門の最前線へ続いている。


「殿下、出立の準備は。」

一行を率いる隊長が声を上げた。

「できています。」


答えたあと、アレクシスはもう一度だけ振り返った。


父。

兄。

妹たち。


自分が守りたいものが、そこにある。

レオンハルトと目が合う。

言葉はなかったけれど、兄は弟へ向かって静かに頷いた。


ここは自分が守る。

だからお前は前へ進め。

その意志は言葉にせずとも伝わった。

アレクシスも頷き返し、正面へ向き直る。


「出発する!」


号令とともに、騎士たちが馬を進めた。

蹄の音が朝の帝都へ響き、深い臙脂色の外套が冷たい風を受けて大きくはためく。

見慣れた帝国軍とは異なる色の一団が、

皇城を離れ、奈落門のある辺境へ向かっていく。


その先頭を進むアレクシスの背中も、少しずつ遠ざかっていった。

風に揺れる臙脂色。

その上で、結ばれた白銀の髪が朝の光を受けて煌めく。


やがて、その姿は正門の向こうへ消えていった。

それでもクリスティは、長い間その場を動かなかった。

その斜め後ろには、リカルドが静かに控えている。

さらに後方では、

残された家族もまた、アレクシスたちが去った道を見つめ続けていた。



奈落門。

百五十年前、世界を引き裂き、

北方へ続く道を断った災厄。

帝国では、その向こう側にあった国は、

とうに滅びたものと考えられている。


そして、十年前。

その奈落はアレクシスから母を奪い、幼い妹を呑み込んだ。

その妹が、奈落の向こう側で今も生きていることを、

アレクシスはまだ知らない。

同じ喪失を、二度と繰り返さないため。


一人の皇子が、奈落門の最前線へ旅立った。

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