第21話 旅立ち
二年後。
マーヴェリア帝国皇城は、夜明け前から慌ただしい空気に包まれていた。
厩舎では遠征用の馬が整えられ、
中庭には紺色の軍装に身を包んだ騎士たちが集まっている。
馬車へ積み込まれていくのは、武器や保存食、医薬品に防寒具。
長い旅路と、その先で待つ戦いの過酷さを示すものばかりだった。
帝国最北端。
百五十年前に出現した奈落門から、今なお魔物が現れ続ける最前線。
その地の防衛を担う、奈落騎士団。
本日、十九歳となった第二皇子アレクシス・フォン・マーヴェリアは、
長年志してきた奈落騎士団へ正式に配属され、皇城を旅立つ。
◇
アレクシスの私室は、いつになく整然としていた。
机の上に無造作に積まれていた本も、
椅子の背へ掛けられていた上着もすべて片付けられ、
部屋には主の旅立ちを待つような静けさが広がっている。
その中央で、アレクシスは腰の剣帯を締め直していた。
紺色を基調とした軍装。
胸元には帝国の紋章と、
奈落騎士団への所属を示す黒銀の徽章が輝いている。
「忘れ物はないか。」
背後から声を掛けられ、アレクシスは鏡越しに兄を見た。
「たぶん。」
「たぶんでは困る。」
レオンハルトは部屋へ入ると、
寝台の端に残されていた手袋を拾い上げた。
「これは何だ?」
「あ。」
「早速忘れているではないか。」
アレクシスは悪びれる様子もなく、兄へ手を差し出した。
「兄上が見つけてくださると思っていました。」
「俺を何だと思っている。」
「頼りになる兄上。」
「便利な兄ではない。」
呆れながら投げ渡された手袋を、アレクシスは片手で受け取った。
普段と変わらないやり取りだった。
けれど、二人とも分かっている。
同じ皇城で顔を合わせ、
気軽に言葉を交わせる日々は今日でひとまず終わる。。
アレクシスは手袋を鞄へしまうと、
何もなくなった机や、綺麗に整えられた寝台へ目を向けた。
生まれてから十八年間を過ごしてきた部屋。
特別な思い入れなどないつもりだったが、
いざ離れるとなると胸の奥に僅かな寂しさが残った。
「兄上。」
「何だ。」
「ヴィオレットとクリスティのことを、お願いします。」
レオンハルトの表情から、僅かに笑みが消えた。
アレクシスは窓辺へ歩み寄り、朝靄に包まれた帝都を見下ろす。
「俺は奈落門の前に立ちます。」
そこから現れる魔物を倒し。
帝都へも、この皇城へも、二度とあの災厄を近づけさせない。
「だから兄上は、ここを守ってください。」
アレクシスはそう告げると、机に残していた書類を一つにまとめた。
「お前に言われるまでもない。」
「そうでしょうね。」
小さく笑い、束ねた書類をレオンハルトの前へ差し出す。
「ヴィオレットは、放っておけば何日でも研究室へ籠もります。」
「分かっている。」
「クリスティは、周りのことばかり見て、
自分のことを後回しにする。」
書類を受け取ったレオンハルトが、僅かに眉を寄せた。
「それも知っている。」
アレクシスは、さらに続けようとする。
「父上は――」
「余計な心配をする前に、自分の心配をしろ。」
ぴしゃりと遮られ、アレクシスは困ったように笑った。
「奈落門は、お前一人で背負うものではない。」
「分かっています。」
「本当に分かっている者は、家族を託すような言い方をしない。」
レオンハルトはアレクシスの軍装を掴み、真っ直ぐに弟を見た。
「守ると言うなら、自分も守れ。」
低く、強い声だった。
「お前も、俺たちの家族だ。」
アレクシスはしばらく黙っていた。
いつも父を支え、弟妹の前へ立ち、
自らの弱さを決して見せようとしない兄。
そのレオンハルトが今は、隠すことなく弟の身を案じている。
やがてアレクシスは、いつもの軽い笑みを収めた。
「はい。」
静かに頷き、兄の手へ自分の手を重ねる。
「一人で戦うつもりはありません。」
レオンハルトはその答えを聞くと、ようやく手を離した。
「それでいい。」
短い言葉、それだけで兄弟の間には十分だった。
◇
皇帝執務室。
ルーファスは、出立に関する報告書へ目を通していた。
最前線までの経路。
同行する騎士の名簿。
現地到着後に与えられる任務。
すでに何度も確認したはずの内容を、
今日に限っては一枚ずつ時間をかけて読み進めている。
「父上。」
声を掛けられ、ルーファスは報告書から顔を上げた。
扉の前には、出立の準備を整えたアレクシスが立っている。
普段から見慣れた軍装姿のはずなのに、今日はどこか違って見えた。
「準備は終わったのか。」
「はい。兄上の確認も済んでいます。」
その言い方に、ルーファスが僅かに眉を上げる。
「何か忘れていたな。」
「……一つだけです。」
「先が思いやられる。」
呆れたように息を吐きながら、ルーファスは手にしていた報告書を机へ置いた。
そして改めて。
これから皇城を離れる息子の姿を、静かに見つめた。
十年前。
母を失い、妹を奈落へ奪われたあの日。
まだ九歳だったアレクシスは、雨の中で何度も木剣を振るっていた。
自分が弱かったから守れなかったのだと。
幼い手が血に滲んでも、剣を手放そうとはしなかった。
あの日から、アレクシスは一度もその決意を曲げていない。
剣を学び、
軍略を学び、
魔物の生態や、奈落門周辺の地形、
過去の戦闘記録を頭へ叩き込んだ。
すべては、この日のためだった。
ルーファスは何も言わず、軍装姿の息子を見つめていた。
その沈黙に耐えかねたように、アレクシスが僅かに首を傾げる。
「何も言わないのですか。」
「何を言えというのだ?」
「今からでも、行くなと。」
冗談めいた口調だった。
けれど、その目は真っ直ぐに父を見ている。
ルーファスは僅かに目を細めた。
「言えば、お前は残るのか?」
「まさか。」
返事は、考える間もなく返ってきた。
「ならば、言うだけ無駄だろう。」
あまりにも父らしい答えに、
アレクシスは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「……父上らしいですね。」
ルーファスは椅子から立ち上がり、机を回って息子の正面へ立つ。
「お前が奈落騎士団を志した時から、この日が来ることは分かっていた」
「はい。」
「止めるつもりはない。」
ルーファスの視線が、黒銀の徽章へ落ちる。
「だが、皇子だからといって特別扱いされると思うな。」
「望むところです。」
「魔物は、お前が何者であるかなど考慮しない。
一瞬の油断が命を奪う場所だ。」
「承知しています。」
アレクシスは、父の目を真っ直ぐに見返していた。
恐れがないわけではないだろう。
それでも覚悟を決め、自ら選んだ道へ進もうとしている。
その表情に、
ルーファスは亡き妻の面影を見た。
一度決めたことを曲げず、誰かを守るためなら、
自らの身さえ惜しまない。
だからこそ伝えなければならなかった。
「アレクシス。」
「はい。」
「私はもう二度と、子を奪われるつもりはない。」
その一言に、アレクシスの表情が変わった。
ルーファスは息子の肩へ手を置く。
「敵を倒すことより、功績を立てることより、
生き延びることを優先しろ。」
皇帝が騎士へ下す命令ではない。
これから戦場へ向かう息子に対する、父親としての願いだった。
「無謀と勇敢を履き違えるな。」
「……はい。」
「退くべき時には退け。仲間を頼れ。
一人ですべてを背負おうとするな。」
アレクシスは、ルーファスの手へ視線を落とした。
大きな手が、僅かに強く肩を掴んでいる。
「父上、俺はあなたが思っているほど無茶ではありませんよ。」
「自分でそう言う者ほど信用できん。」
「ひどいですね。」
いつものように笑いながらも、
アレクシスの声はどこか穏やかだった。
「ですが、承知しました。」
姿勢を正し、皇帝の前で深く頭を下げる。
「必ず、生きて戻ります。」
ルーファスはしばらく息子を見つめたあと、肩から手を離した。
「必ず帰れ。これは皇帝命令だ。」
「はい。謹んでお受けいたします。」
◇
やがて、出発の刻を迎えた。
皇城の正門前には、奈落騎士団へ向かう一行が整列していた。
黒銀の徽章を胸へ付けた騎士たち。
荷を載せた馬車。
旅装を整えた従騎士たち。
その先頭には、黒い軍馬の手綱を握るアレクシスの姿がある。
「アレクシス兄様!」
十二歳になったクリスティが階段を駆け下りてきた。
その数歩後ろを、リカルドが追っている。
「姫様。走らないでください。」
「今はそれどころじゃないの!」
「転ばれては、なおさら出立が遅れます。」
「転ばないもん!」
言った直後にドレスの裾を踏みかけたが、何とか体勢を立て直す。
アレクシスの前へ辿り着くと、クリスティは息を整えながら兄を見上げた。
「ほら」
アレクシスが片眉を上げる。
「今にも転びそうじゃないか。」
「転んでいないから、大丈夫です!」
「誰に似て、そんな屁理屈を覚えたんだ?」
「アレクシス兄様です。」
間髪を入れず返され、アレクシスは言葉に詰まった。
クリスティは、してやったりと小さく笑う。
けれど、その笑みはすぐに消え、
視線が兄の身を包む軍装へ落ちる。
見慣れているはずの姿なのに、
今日はその服が、
兄を遠い場所へ連れていってしまうもののように見えた。
クリスティは軍服の袖を、そっと指先で摘まむ。
「……本当に行くの?」
「ああ。」
「いつ帰ってくる?」
アレクシスはすぐには答えず、妹の小さな手へ目を落とした。
「まだ、分からない。」
「……そう。」
クリスティは袖を掴んだまま、静かに視線を伏せた。
それでも泣かなかった。
自分が泣けば、兄を困らせてしまうと分かっていたから。
「奈落騎士団は、危険なところなんでしょう?」
「そうだな。帝国で、一番危険な場所かもしれない。」
アレクシスは誤魔化さなかった。
クリスティの指先が、ドレスの裾を小さく握る。
アレクシスはその前へ膝をつき、妹と視線の高さを合わせた。
「でも、誰かが守らなければならない。」
奈落門から、どれほど多くの魔物が現れても、
この皇城へ、家族のいる場所へ、
二度とあの災厄を近づけさせない。
「そのために行くんだ。」
クリスティは、兄の顔をじっと見つめた。
「アレクシス兄様、約束して。」
小さな手が、軍装の袖を掴んだ。
「魔物を全部倒す約束ではありません。
奈落門をどうにかする約束でもない。」
紫水晶の瞳が、真っ直ぐに兄を見つめる。
「ちゃんと、私たちのところへ帰ってきてね。」
アレクシスは僅かに目を見開いた。
兄が何を背負い、何を覚悟して旅立とうとしているのか。
すべては分からなくても、
クリスティなりに感じ取っているのだろう。
アレクシスは困ったように笑い、
妹の白銀の髪をくしゃりと撫でた。
「分かった。」
「本当に?」
「ああ。必ず帰る。約束する。」
アレクシスは真っ直ぐに妹を見返すと、
ようやくクリスティの表情に、いつもの笑みが戻った。
「うん。」
袖を掴んでいた手を離し、胸元で両手を握る。
「行ってらっしゃい、アレクシス兄様。」
「ああ、行ってくる。」
アレクシスも笑顔で答えた。
◇
ルーファス、
レオンハルト、
ヴィオレット、
クリスティ、
そして、皇城に仕える者たちが見守る中。
アレクシスは黒い軍馬へ跨がった。
手綱を握り、正門の先へ続く道を見る。
その道は帝国の北、奈落門の最前線へ続いている。
「第二皇子アレクシス・フォン・マーヴェリア。出立の準備は。」
一行を率いる隊長が声を上げた。
「できています。」
答えたあと、アレクシスはもう一度だけ振り返った。
父。
兄。
妹たち。
自分が守りたいものが、そこにある。
レオンハルトと目が合う。
言葉はなかったけれど、
兄は弟へ向かって静かに頷いた。
ここは自分が守る。
だからお前は前へ進め。
その意志は言葉にせずとも伝わった。
アレクシスも頷き返し、正面へ向き直る。
「出発する!」
号令とともに、騎士たちが馬を進めた。
蹄の音が朝の帝都へ響き。
紺色の外套が、冷たい風にはためく。
アレクシスの背中は少しずつ遠ざかり、
やがて正門の向こうへ見えなくなった。
それでもクリスティは、長い間その場を動かなかった。
その斜め後ろには、リカルドが静かに控えている。
さらに後方では、残された家族が同じ道を見つめていた。
奈落門。
百五十年前、世界を引き裂き、
北方へ続く道を断った災厄。
帝国では、その向こう側にあった国は、
とうに滅びたものと考えられている。
そして、十年前。
その奈落はアレクシスから母を奪い、幼い妹を呑み込んだ。
その妹が、奈落の向こう側で今も生きていることを、
アレクシスはまだ知らない。
失ったものを、二度と繰り返さないため。
一人の皇子が、
奈落門の最前線へ旅立った。




