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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第20話 春の日差しのような人

その日は、朝から皇城全体がどこか静かだった。

普段なら早朝から響く騎士たちの掛け声も、

廊下を行き交う侍女たちの話し声も、

いつもより控えめに聞こえる。

誰もが、この日だけは何かを慎むように過ごしていた。


皇妃フェリシア・フォン・マーヴェリアの命日。

あの日から、八年が経っていた。


クリスティは、毎年この日の皇城が苦手だった。

皆が悲しんでいるからではない。

誰も、その悲しみを口にしようとしないからだった。


朝。

クリスティが皇帝執務室を訪れると、

ルーファスはいつものように机へ向かっていた。

目の前には、処理を待つ書類が積み上げられている。

羽根ペンを動かす手も、側近へ指示を出す声も、

普段と何も変わらない。

ただ、机の傍らには、白い花が一輪置かれていた。

壁に飾られたフェリシアの肖像画へ向けられたものだった。


「おはようございます、お父様。」

「ああ。おはよう、クリスティ。」

ルーファスは娘へ目を向け、穏やかに微笑んだ。

その表情も、いつもと同じように見えた。

けれど、書類を持つ指先に、

普段より僅かに力が込められていることを、

クリスティは見逃さなかった。


「今日は、忙しい?」

「いつも通りだ。」

「そう。」

それ以上は尋ねなかった。

肖像画へ視線を向けることも、母の名を口にすることもせず、

「無理をしては駄目ですよ。」

それだけを告げる。

ルーファスは一瞬だけ目を見開いたあと、静かに頷いた。

「ああ。」

クリスティはにっこりと笑い、執務室を後にした。



レオンハルトは、普段以上に仕事へ没頭していた。

父の負担を減らそうとするように、

朝から会議と書類の山を行き来している。

机の端には、小さな箱が置かれていた。

母の命日にだけ取り出される、誰にも中を見せない箱。

「レオンお兄様。お昼は、ちゃんと食べてね。」

書類を追っていた手が、僅かに止まった。

「……分かった。」

それだけ聞いて、クリスティは部屋を出た。


アレクシスは、朝から訓練場にいた。

普段よりも激しい音を立てて、何度も剣を振るっている。

母の命日になると、アレクシスは決まって訓練場へ籠もった。

まるで八年前に守れなかったものを、

今度こそ何があっても守り抜こうとするように。


「アレクシスお兄様。」

声をかけると、振り下ろされかけた剣が止まった。

アレクシスが額の汗を拭い、クリスティへ顔を向けた。

「どうした、クリス。」

クリスティはすぐには答えず、兄の腕や足元へ目を走らせる。

「怪我、してない?」

「してない。」

即答しながら、アレクシスはいつものように笑った。

けれど、その笑みが僅かに硬いことくらい、クリスティには分かる。

「本当に?」

「ああ。本当だ。」


クリスティはしばらく兄の顔を見つめていたが、

それ以上は追及しなかった。

「なら、よかった。」

ほっとしたように笑ってから、付け加える。

「夕食は、一緒に食べようね。」

「……それを言いに来たのか?」

「うん。」

アレクシスは、しばらく妹の顔を見つめた。

やがて、いつもより少しだけ優しい声で答える。

「ああ。必ず行く」



ヴィオレットは、皇城の礼拝堂にいた。

祭壇の前へ白い花を供え、祈るように目を閉じている。

普段なら、クリスティが近づけばすぐに気づくはずだった。

だが、その日は足音がすぐそばへ来るまで振り返らなかった。

「ヴィオ姉様。」

「……クリスティ。」

ヴィオレットはゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整えた。

「もう祈りは終わりました。」

「そう。」

祭壇には、白い花と揺れる蝋燭。

その奥には、

穏やかに微笑むフェリシアの小さな肖像画が飾られている。

聞こうと思えば、聞くことはできた。

母はどのような人だったのか。

どのような声で笑い、どのように自分を抱き締めてくれたのか。

けれど、ヴィオレットの指先が僅かに震えていることに気づいた。

「ヴィオ姉様。」

「何でしょう?」

「午後のお茶、一緒に飲まない?」

ヴィオレットの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

「……ええ。そうしましょう。」

それで十分だった。



クリスティは、母の話を家族へ尋ねたことがなかった。

記憶にないからといって、興味がないわけではない。

肖像画の中で優しく微笑む女性が、

どのような声をしていたのか。

何を好み、何を苦手として、

父や兄姉たちと、どのように過ごしていたのか。

知りたいと思ったことは何度もあった。


けれど、父は母の肖像画を見ると少しだけ悲しそうな目をする。

レオンハルトは、母の話題になると口数が減った。

アレクシスは、何も言わず剣を振るう。

ヴィオレットは、命日になると長い祈りを捧げる。

その姿を見れば、気軽に尋ねてよいことではないように思えた。


自分が聞けば、家族はきっと答えてくれる。

無理にでも笑い、優しい思い出を選び、

母がどれほど素晴らしい人だったのかを話してくれるだろう。

そして、一人になった時にまた悲しむ。

それが分かっていたから、クリスティは、何も尋ねなかった。



夕刻。

命日のために執り行われた追悼の祈りが終わり、

皇城はゆっくりと夜へ沈み始めていた。


西の空には、まだ茜色が残っている。

庭園を渡る風が、咲き始めた春の花を静かに揺らしていた。

クリスティは一人、

皇帝執務室へ続く廊下の途中で足を止めていた。

壁には、フェリシアの肖像画が飾られている。


柔らかな金色の髪。

オリーブグリーンの瞳。

白を基調としたドレスを纏い、

穏やかに微笑む姿はとても美しい。

どこか、現実に生きていた人ではないようにも見えた。


クリスティは、しばらく肖像画を見上げていた。

その数歩後ろでは、リカルドがいつも通り静かに控えている。

近すぎず。

遠すぎず。

何かあれば、すぐに手を差し伸べられる距離で。


「アークファイント。」

「はい、姫様。」

クリスティは、肖像画から目を離さなかった。

「今日はね。お父様も、お兄様たちも、

ヴィオ姉様も……皆、いつもより寂しそうだった。」

リカルドは何も答えず、少女の言葉を待った。

「毎年、この日はそうなの。

だから、聞かない方がいいと思っていたの。」

「何をでしょう。」

分かっていながら、リカルドは静かに尋ねた。

「お母様のこと。」

小さな声だった。


「皆、お母様のことが大好きだったから、

私が聞いたらきっともっと寂しくなるでしょう?」

クリスティは胸の前で、そっと指を組んだ。

「……そうかもしれません。」

「でしょう?」

困ったように笑う。

けれど、その視線は肖像画から離れなかった。


「でも、今日は少しだけ知りたくなったの。」

そして、クリスティはゆっくりと振り返った。

「アークファイントは、お母様に会ったことがあるのでしょう?」

リカルドは僅かに目を見開いた。

「……一度だけございます。」

「どんな方だった?」



十年前。

リカルドが、まだ九歳だった頃。


剣の稽古で偶然レオンハルトと手合わせをしたことをきっかけに、

二人は少しずつ言葉を交わすようになっていた。

ある日、そのレオンハルトに招かれ、

リカルドは初めて皇城を訪れた。


磨き上げられた床。

壁に掲げられた帝国旗。

整然と行き交う騎士や侍女たち。

平民の少年にとって、何もかもが物語の中の光景のようだった。

やがてレオンハルトに案内され、庭園へ足を踏み入れた時。

「レオン。」

優しい声に呼ばれ、

振り返ると白いドレスを纏った女性が立っていた。


金色の髪と、穏やかなオリーブグリーンの瞳。

その腕には、まだ生まれて間もない幼子が抱かれている。

少し離れたところでは、

皇帝ルーファスが、もう一人の幼子を抱いていた。

皇女が生まれたらしいという話は、リカルドも耳にしていた。

だが、当時はまだ正式なお披露目もされていない。

皇帝夫妻を前に緊張していた少年に、

腕の中の幼子たちへ意識を向ける余裕などなかった。


「お母様。」

レオンハルトが母のもとへ歩み寄る。

フェリシアは微笑みながら、息子の髪を優しく撫でた。

「その子が、レオンのお友達?」

「はい。リカルドです。」

紹介され、リカルドは慌てて姿勢を正し深く頭を下げた。

「は、初めまして。皇妃様。」

緊張のあまり、声が僅かに裏返る。

失礼だったのではないかと、顔を上げられずにいると、

頭上から、柔らかな笑い声が聞こえた。

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。」

恐る恐る顔を上げると、フェリシアは穏やかに笑っていた。


皇妃という身分を忘れてしまいそうなほど、

優しく温かな笑顔だった。

「レオンと仲良くしてあげてね。」

「はい!」

「この子は少し、真面目すぎるところがありますから。」

「お母様。」

レオンハルトが、恥ずかしそうに眉を寄せる。

フェリシアは、楽しそうに笑った。

「良いお友達ができて、安心したわ。」

その時、少し離れた場所にいたルーファスが、

抱いていた幼子を侍女へ預け、こちらへ歩いてきた。


「フェリシア。」

「陛下。」

「その子が、レオンの話していた少年か。」

「ええ。」

ルーファスの視線が、リカルドへ向けられる。

それだけで、リカルドの背筋が再び強張った。


その様子に気づいたフェリシアが、

夫の袖をそっと引いた。

「陛下。あまり怖い顔をなさらないでください。

リカルドが驚いています。」

「普通にしているだけだが。」

「陛下の普通は、子どもには少し怖いのですよ。」

「そうなのか?」

ルーファスが僅かに眉を寄せる。

その姿を見て、フェリシアはまた楽しそうに笑った。


皇帝と皇妃。

本来なら、平民の少年が気軽に見つめてよい方々ではない。

それでも、二人が言葉を交わす姿は、

どこにでもいる仲の良い夫婦のように見えた。

互いへ向ける眼差しは優しく、

二人の間に流れる空気は、春の日差しのように温かかった。


リカルドがフェリシアと言葉を交わしたのは、

それが最初で最後だった。



「とても、お優しい方でした。」

リカルドは、肖像画の中で穏やかに微笑む皇妃を見上げた。

「私のような平民の子どもにも、

身分を気になさることなく、自然に声をかけてくださいました。」

クリスティも隣に並び、母の面影を探すように肖像画を見つめる。

「そうなんだ……。」

「陛下とも、とても仲睦まじくいらっしゃいました。」

その言葉に、クリスティがリカルドへ顔を向けた。

「お父様と?」


「はい。陛下が少し怖い顔をなさると、

皇妃様がすぐに窘めておられました。」

リカルドの脳裏に、幼い頃に見た二人の姿が蘇る。

厳しい表情を浮かべた皇帝の袖を、

皇妃が困ったように引いていた。


「お父様、昔から怖い顔だったのね。」

「今よりも、少し――」

答えかけたリカルドは、しばらく考え込む。

「……いえ。今と、あまり変わらなかったかもしれません。」

クリスティは一度目を瞬かせたあと、

堪えきれないように小さく笑った。

その声が、静かな廊下へ柔らかく響いた。


「皇妃様が笑われると、その場にいた者も自然と安心できました。」

リカルドは、十年前の光景を思い返す。

「春の日差しのように、温かい方でした。」

「……そうなんだ。」


クリスティは、もう一度肖像画を見上げた。

「お父様は、今でもお母様のことが好きなのかな。」

リカルドは少しだけ考えた。

「今でも、という言葉では足りないのかもしれません。」

「え?」

「陛下にとって皇妃様は、今も変わらず大切なお方なのでしょう。」

クリスティは目を瞬かせて、それからゆっくりと微笑んだ。

「そっか。」


胸の前で重ねられた手に、僅かに力がこもる。

「私、お母様のことをほとんど覚えていないの。」

「はい。」

「声も、抱いてもらったことも、

何を話したのかも、何も覚えていない。」

悲しそうな声ではなかった。

ただ、自分の中に存在しないものを、

一つずつ確かめるような声だった。


「でも、皆がお母様のことを大好きだったのは分かる。」

クリスティは、肖像画へ向けて微笑んだ。

「お父様も、お兄様たちも、ヴィオ姉様も、皇城の皆も。」

命日になると、誰もが少しだけ寂しそうになる。

「だから、きっと、とても素敵な人だったんだね。」

「はい。本当に、素晴らしい方でした。」

リカルドは、迷わず答えた。


しばらく二人は何も言わなかった。

肖像画の中で、フェリシアは変わらず穏やかに微笑んでいる。

やがて、クリスティが、ぽつりと尋ねた。

「ねぇ、アークファイント。」

「はい、姫様。」

「私、お母様に似てる?」


リカルドは、少女の横顔を見つめた。

白銀の髪。

紫水晶の瞳。

母とはまったく異なる、皇族の色。

けれど、相手を安心させる笑顔。

誰かが困っていることへ、誰より早く気づくところ。

立場に関係なく、誰にでも自然に声をかけるところ。


十年前。

緊張して顔を上げることもできなかった自分へ、

優しく笑いかけてくれた女性。

そして今、目の前にいるその娘。


リカルドは静かに頷いた。

「ええ。笑われた時の雰囲気が、とてもよく似ておられます。」

「本当?」

「はい。」

「……そっか。」

クリスティは、嬉しそうに笑った。

その笑顔を見た瞬間、リカルドの脳裏に十年前の春の日が蘇る。


『レオンと仲良くしてあげてね。』


優しく、温かく、

誰かの心を自然と和らげる笑顔。

確かに、よく似ていた。


「ありがとう、アークファイント。」

「何がでしょう。」

「お母様のことを教えてくれて。」

クリスティは、もう一度肖像画を見上げた。

「少しだけ、お母様に会えた気がした。」

リカルドは何も答えなかった。

ただ、いつも通り小さな皇女の数歩後ろに立っていた。


クリスティは、最後まで涙を流さなかった。

ただ、その日はいつもより少しだけ長く、

母の肖像画の前に立っていた。


春の日差しのように笑う母の前で。

よく似た笑顔を浮かべながら。

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