第19話 皇女クリスティ・フォン・マーヴェリア
最初は、ただよく笑う幼い皇女だと思っていた。
よく走り、よく転び。
見つけるたびに、大きな声で自分の名を呼ぶ。
「アークファイント!」
五歳のクリスティ・フォン・マーヴェリアは、
そんな少女だった。
皇城中の者たちから愛され、
父と兄姉たちから、惜しみない愛情を注がれている。
深い悲しみなど何も知らないように、
太陽のように笑う小さな第二皇女。
少なくとも、
初めて出会った頃のリカルドにはそう見えていた。
◇
あれから、五年。
正式な専属騎士となったリカルドは、
常にクリスティの数歩後ろを歩いていた。
公務の時も、
学びの時間も、
皇城の廊下を歩く時も、
庭園で花を眺める時も。
決して近づきすぎず。
離れすぎず。
何かあれば、すぐに剣を抜ける距離。
それが、専属騎士としてリカルドが自らに定めた位置だった。
その日も、
リカルドはクリスティの数歩後ろに立っていた。
皇城の一室。
窓から差し込む午後の光が、
机の上へ積み上げられた書物を照らしている。
「もう疲れたぁ……。」
十歳になったクリスティは机へ頬をつけ、
恨めしそうに目の前の課題を見つめていた。
帝国史。
外交史。
魔術理論。
帝国法。
まだ半分近く残っている。
「休憩は、先ほど取られたばかりです。」
「お茶を一杯飲んだだけだもん。」
クリスティはそう言いながら、皿に残った焼き菓子へ手を伸ばした。
その指先が届く寸前、
リカルドが皿を静かに遠ざける。
「焼き菓子も、二つ召し上がりました。」
「アークファイントは細かいー!」
クリスティは行き場を失った手を引き、不満そうに彼を見上げた。
「いちいち数えているの?」
「お側におりますので。」
クリスティは不満そうに頬を膨らませたが、
席を立とうとはしなかった。
窓の外には、よく晴れた空が広がっている。
庭園からは、アレクシスと騎士たちの声が聞こえていた。
本当なら今すぐ椅子から飛び降り、庭へ駆け出したいはずだった。
クリスティは勉強が好きではない。
長い時間、同じ場所へ座っていることも苦手だった。
難しい書物を読むより、庭園を走り、兄姉たちと話し、
皇城で働く者たちのもとを訪ねる方を好んだ。
けれど、嫌だからといって課題を投げ出したことは一度もない。
何度もため息をつき、
時折窓の外へ未練がましい視線を向けながらも、
最後には必ずすべてを終わらせた。
「終わったー!」
しばらくして、
クリスティは最後の解答を書き終え羽根ペンを机へ置いた。
そのまま椅子の背へ身体を預け、大きく両腕を伸ばす。
「これで、庭園へ行ってもいいよね?」
家庭教師が、提出された課題へ目を通した。
一枚。
また一枚。
やがて、その表情が驚きへ変わる。
「……すべて正解でございます。」
「やったー!」
「先日お教えした内容だけではありません。
以前、一度だけ扱った箇所まで正確に記されております。」
クリスティは、不思議そうに首を傾げた。
「一度習ったものは、覚えてるよ?」
まるで、誰にでもできることだと思っているようだった。
だが、リカルドは知っている。
一度見た文章を、ほとんどそのまま記憶すること。
以前に聞いた説明を、必要な時に正確に引き出すこと。
そして、蓄えた知識を結びつけて考えること。
それが、どれほど稀有な才能なのかを、
クリスティ自身だけが、まだ理解していなかった。
クリスティが覚えているのは、書物の内容だけではない。
一度会った者の顔を忘れず、一度聞いた名を忘れない。
相手が何を好み、どのような家族を持ち、
何に心を悩ませていたのか。
ほんの短い会話の中で知ったことさえ、
驚くほどよく覚えていた。
ある日。
地方から訪れた領主の一行を、
クリスティが迎えたことがある。
その中に、三年前一度だけ皇城へ来たことのある文官がいた。
男自身は、幼い皇女と言葉を交わしたことなど、
すでに忘れていたのだろう。
けれど。
「お久しぶりですね、エヴァンス卿。」
クリスティは、迷うことなく男の名を呼んだ。
「以前、お嬢さんが長く咳をしていると仰っていましたね。
もう、お元気になられましたか?」
文官は、目を見開き、やがて深く頭を下げた。
「……おかげさまで、今ではすっかり。」
「よかった。」
クリスティは心から安堵したように笑った。
なぜ相手が、
それほど驚いているのか分かっていないようだった。
一度会い、話を聞いた。
だから覚えていた。
彼女にとってはただそれだけのことだった。
けれど、その日から。
文官が第二皇女を語る声には、確かな敬意が宿るようになった。
同じような出来事は、一度や二度ではない。
クリスティは自覚のないまま、
少しずつ人の心を掴んでいった。
人のことをよく覚えているだけではない。
彼女は、目の前にいる相手の小さな変化にもよく気づいた。
誰が疲れているのか。
誰が困っているのか。
誰が無理をしているのか。
言葉にされるより先に、それを見つけた。
ルーファスが何日も十分に眠れていない時には、
何気ない顔で父を庭園へ連れ出した。
レオンハルトが重圧を一人で抱えている時には、
いつも以上に明るく兄へ話しかけた。
アレクシスが訓練中の怪我を隠している時には、
何も問い詰めず、治癒魔術師を連れてきた。
ヴィオレットが研究へ没頭し、食事を忘れている時には、
自分も食べたいからという理由をつけて菓子を運んだ。
それは、リカルドに対しても同じだった。
剣術訓練と護衛任務が重なり、
疲労を隠しきれなかった日のこと。
普段なら次々と話しかけてくるはずのクリスティが、
その日は不思議なほど静かだった。
庭園の長椅子へ腰を下ろすと、隣の空いた場所を指し示す。
「今日は、ここで休んでていいよ。」
「私は護衛です。」
「だから、ここで私を護衛しといて。」
「……承知いたしました。」
リカルドが隣へ腰を下ろすと、
クリスティは、それ以上何も尋ねなかった。
何があったのか、なぜ疲れているのか、
無理に聞き出そうとはしない。
ただ本を開き、静かな時間を共に過ごした。
よく甘え、無邪気に笑い、
自分の願いを、まっすぐ口にする。
けれど、相手が本当に嫌がることは決して強要しなかった。
どこまで近づいてもよいのか、
どこから先へは、踏み込むべきではないのか。
誰かに教えられることなく、
クリスティは、相手ごとに異なる距離を理解していた。
リカルドが自ら触れようとはしないことにも、
おそらく気づいている。
それでも、なぜ触れてくれないのかと責めたことは一度もなかった。
自分から腕へ抱きつくことはあっても、
リカルドが自ら抱き返そうとしないことを、不満には思わない。
それが、彼の定めた距離なのだと、
いつの頃からか理解しているようだった。
◇
第二皇女、クリスティ・フォン・マーヴェリア
――皇城の太陽
誰もが、彼女をそう呼んだ。
彼女が笑えば、その場にいる者の表情まで明るくなる。
彼女が歩けば、自然と人が集まる。
けれど、クリスティはただ明るいだけの皇女ではない。
聡明で、記憶力に優れ、何より人の心をよく見ている。
そして、その力を自分のためではなく、
誰かを支えるために使うことができた。
自らの優秀さを示すためでも、
相手を思いどおりに動かすためでもない。
誰かが一人で苦しまないように。
皆が、少しでも穏やかに過ごせるように。
幼いながらに考え、
必要な時に自然と手を差し伸べていた。
ある日の夕刻。
訓練場から戻る途中、レオンハルトがふと歩みを緩めた。
前方では、クリスティが侍女たちと話しながら歩いている。
楽しそうに笑ったかと思えば、
次の瞬間には相手の言葉へ真剣に耳を傾けていた。
「気づいたか?」
クリスティを見つめたまま、レオンハルトが尋ねる。
リカルドもその視線を追った。
「何にでしょう?」
レオンハルトは、小さな妹の背中を見つめたまま答える。
「クリスティは、ただ賑やかなだけではない」
「……はい。」
「あの子は、人をよく見ている。」
前を歩く妹へ、レオンハルトは目を向けた。
「誰かが困っていれば気づく。
あの子が笑えば、周りまで少し明るくなる。」
それは剣術や学問とは違う。
誰かに教えられて身につけたものでもない。
「きっと、あれもクリスティの力なんだろうな。」
「姫様はいずれ、多くの方を導かれるのでしょうか。」
「そうかもしれない。」
レオンハルトは、僅かに目を伏せた。
「だが、どの道を選ぶのかはクリスティ自身が決めることだ。」
皇女として、一人の人間として、どのような未来を望むのか。
それを選ぶのは、クリスティ自身でなければならない。
「俺たちがすべきなのは、その時まで選択肢を守ることだ。」
まだ十歳の少女へ、未来を決めつけることではない。
誰かの望む道を、無理に歩かせることでもない。
クリスティが自ら選び取った未来へ進めるように、
それまで彼女を守り、支えること。
レオンハルトは兄として、そうするつもりなのだろう。
「お前も、そうではないのか。」
問いかけられ、リカルドは前を歩く小さな背中を見つめた。
「はい。そのために、私は姫様の騎士となりました。」
その答えに、迷いはなかった。
◇
最初は、ただよく笑う幼い皇女だと思っていた。
けれど、五年もの間その数歩後ろを歩き続けた今なら分かる。
彼女の明るさは、何も知らないからではない。
その優しさも、ただ無邪気なだけのものではない。
人を見て、言葉を覚え、心へ寄り添い。
必要な時には、迷わず手を差し伸べる。
クリスティの笑顔が人を惹きつけるのは、
彼女自身が、誰よりも人を大切にしているからだった。
第二皇女、クリスティ・フォン・マーヴェリア。
――皇城の太陽。
人の心を照らし、
その者が持つ力を、自然と引き出す少女。
リカルドは今日も、その背中から数歩離れた場所を歩く。
近づきすぎず。
離れすぎず。
何があっても、必ず守れる距離で。
彼女がいつか、自らの意志で未来を選び。
その道を、笑って歩いていけるように。
それを守ることが、
クリスティの騎士となったリカルドの役目だった。




