第16話 知らないはずの国
それから、いくつかの休日が過ぎた。
丘を渡る風は、今日も穏やかだった。
草原の中央に立つ、大きな一本の木。
その木陰では、ルリスティが幹へ背を預け、
静かに本を読んでいた。
やがて、草を踏む足音が近づいてきて、
ルリスティは頁から顔を上げた。
片手に本を持ち、
もう片方の手に小さな紙袋を提げたジェイクが、
木陰の手前まで来ていた。
「司令。」
「マルセリア少佐。」
ジェイクは、すでに何度か座った場所へ視線を落とした。
「今日も、隣いいですか?」
「もちろんです。」
ルリスティは答えながら、
当然のように少しだけ身体を横へずらした。
ジェイクは、その隣へ腰を下ろす。
「何度も来ているのに、毎回尋ねるのですね。」
「ここは司令の大切な場所でしょう。
勝手に座るわけにはいきませんよ。」
「そういうものですか?」
「そういうものです。」
ジェイクが木の幹へ背を預けると、
ルリスティは少しだけ考えるように彼の隣を見た。
「ですが。」
「はい?」
「少佐が座る場所は、もう空けてあります。」
ジェイクは、僅かに目を丸くした。
ルリスティは何でもないことのように、
再び本へ視線を落としている。
「……それはどうも。」
口元へ浮かびかけた笑みを隠すように、
ジェイクは持ってきた紙袋を二人の間へ置いた。
途端に、香ばしく甘い匂いが広がる。
ルリスティの視線が、文字の並ぶ頁から紙袋へ移った。
「今日は何ですか?」
「本より先に、そっちへ反応するんですね。」
「……何のことでしょう?」
「いえ。別に」
ルリスティは何事もなかったように本へ視線を戻したが、
意識が紙袋へ向いていることは明らかだった。
ジェイクは笑いを堪えながら、紙袋の口を開いた。
中に入っているのは、胡桃と蜂蜜を練り込んだ小さな焼き菓子だった。
最初に丘で休日を共にして以来。
ジェイクは町で本を買うついでに、
何かしらの菓子を持ってくるようになっていた。
食事さえ忘れてしまうルリスティも、
甘いものならこうして手を伸ばしてくれるからだ。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
ルリスティは一つ受け取り、小さく齧った。
さくりと軽い音がする。
その直後、紫水晶の瞳が、分かりやすく和らいだ。
「美味しいです。」
「でしょう? 食堂の料理人に教えてもらった店です。」
ジェイクも一つ口へ放り込む。
「最近、俺が完全に司令を餌付けしている気がするんですよね。」
「餌付け?」
ルリスティは焼き菓子を手にしたまま、真剣に首を傾げた。
「私を、何だと思っているのですか?」
「甘いものを見せれば、きちんと休憩してくれる司令官。」
「それは、餌付けではありません」
「では、次から持ってくるのをやめましょうか。」
ジェイクが紙袋を閉じようとすると、
ルリスティの手が、素早く袋の端を押さえた。
「……持ってきてくださったものを、
無駄にするのはよくありません。」
「はいはい。」
「何ですか、その返事は。」
「いえ。司令のおっしゃるとおりです。」
ジェイクは、笑いながら紙袋から手を離した。
ルリスティは僅かに不満そうな顔をしたものの。
焼き菓子をもう一つ取り、再び本へ視線を落とした。
「それで。」
ジェイクは、膝の上に置かれた分厚い本を覗き込む。
「今日は、何の本を読んでいるんです?」
ルリスティは栞を挟み、本を閉じて表紙をジェイクへ向ける。
『マーヴェリア帝国史』
古びた文字で、そう記されている。
「マーヴェリア帝国?」
ジェイクが、僅かに眉を上げた。
「はい。」
「百五十年前まで、共和国と中央街道で結ばれていた南の大国です。」
「黒淵が現れたあと、滅びたとされている国ですね。」
「ええ。」
ルリスティは本を開き、
古い地図が描かれた頁をジェイクにも見えるよう傾けた。
黒淵によって中央街道が断たれたのと同じ頃。
海には海魔が現れ、空にはドラゴンが飛来した。
帝国へ向かう陸路、海路、空路。
そのすべてが、ほぼ同時に閉ざされたのだという。
ジェイクは本から顔を上げ、遠く横たわる黒淵へ目を向けた。
大地を二つに引き裂き。
百五十年もの間、向こう側との往来を拒み続けている巨大な亀裂。
「つまり、滅亡を確認したわけではなく、
連絡が途絶えたままなんですね。」
「はい。」
当時の共和国は、何度も帝国へ使者を送ろうとした。
しかし、中央街道は黒淵に呑まれ、海路も空路も失われた。
何一つ確かめられないまま年月だけが流れ。
いつしか、帝国は滅亡したものと考えられるようになった。
「百五十年か……。」
ジェイクは小さく呟いた。
それだけの年月があれば、
町も、人も、国の形すら、大きく変わる。
たとえ黒淵の向こうに何かが残っていたとしても、
それがかつてのマーヴェリア帝国と同じ姿をしているとは限らない。
「司令は、帝国に興味があるんですか?」
「興味というより…。」
ルリスティは少し考え、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「何となく、知っておきたいと思うのです。」
「何となく?」
「はい。」
再び開かれた本には、かつての帝国領を示す地図が描かれていた。
ルリスティの指先が、黒淵より南に広がる土地を静かになぞる。
「行ったこともなく、今の私とは何の関係もない国なのですが。」
地図の上を滑っていた指が、帝都の印で止まった。
「この国の記録を読むと、なぜか少し落ち着くんです。」
「懐かしい、とか?」
ルリスティはしばらく考えたあと、ゆっくりと首を横へ振った。
「懐かしいというのも、少し違う気がします」
物心ついた頃から、故郷はこの辺境だった。
帝国の景色を見た記憶もなければ、
そこに暮らす者を知っているわけでもない。
「ですが、まったく知らない国だとも、思えないのです。」
風が吹き、開かれた頁がかすかに揺れた。
理由の分からない感覚を、無理に説明する必要はないように思えた。
ジェイクは、もう一度地図に描かれた帝国へ目を落とす。
物心ついた頃から辺境で育ったルリスティが、
遠い南の国に惹かれるようになったきっかけ。
それがあるとすれば、幼い頃からそばにいた父親なのかもしれない。
「クラウス司令官から、帝国の話を聞いたことがあるんですか?」
「父から?」
ルリスティは僅かに目を丸くしたあと、
何かを思い出したように小さく笑った。
「話というほどではありません。父は、勉強の類いが大嫌いでしたから。」
「意外でも何でもないですね。」
「ひどいですね、少佐。」
口では咎めながらもルリスティの声には笑いが滲んでいる。
ジェイクは、以前に写真で見た大男を思い浮かべた。
巨大な剣を担ぎ。
幼い娘を片腕で軽々と抱き上げていた、黒淵前線の英雄。
確かに静かな部屋で歴史書を読み込む姿は、あまり想像できなかった。
「それでも、帝国のことは話していたんですね。」
「時々ですが。」
ルリスティは、懐かしそうに目を細めた。
「父は、帝国が滅びたとは考えていませんでした。」
ジェイクは、思わず彼女へ顔を向ける。
「何か、そう考える根拠があったんですか?」
「分かりません。ただ――」
ルリスティは、本の頁をゆっくりとめくった。
「『あの国は、そんな簡単に滅びる国ではない』と、
よく言っていました。」
「まるで、実際に知っているような言い方ですね」
「私も、そう尋ねたことがあります」
「それで、何と答えたんです?」
ルリスティは、僅かに頬を緩めた。
「笑って、誤魔化されました。」
「ますます怪しいですね。」
「父は、昔から秘密の多い人でしたから。」
そう言いながらもルリスティの表情に、不信感はなかった。
すべてを知ることができなかったとしても。
クラウスが自分を愛していたことだけは、
疑ったことがないのだろう。
「それから。」
ルリスティは、一つの頁で手を止めた。
「父は、帝国はとても綺麗な国だったはずだ、と言っていました。」
「それも、見たことがあるみたいな言い方ですね。」
「本当に。」
二人の間へ、小さな笑いが落ちる。
ジェイクは、ルリスティが開いた頁を覗き込んだ。
そこには、かつての帝国に暮らしていた人々について、
僅かな記録が残されていた。
「帝国は、今の共和国よりも、ずっと彩り豊かな国だったそうです。」
「彩り?」
「髪や瞳の色です。」
ルリスティは、記述を目で追いながら答える。
「赤い髪や、金色の瞳、
青や緑の髪を持つ人も珍しくなかったとされています。」
「随分と派手ですね。」
ジェイクは、自分の黒髪を指先で摘まんだ。
共和国にも様々な瞳の色を持つ者はいるが、
髪は黒や茶など、暗い色が大半を占めている。
「司令みたいな白銀の髪も、いたんですかね。」
「どうでしょう。」
ルリスティは、自分の髪を一房だけ手に取った。
日の光を受け、白銀の髪が柔らかく輝く。
「記録には、帝国には多くの髪色が存在したとしか書かれていません。」
「いたとしても、司令ほど目立つ人はそういなかったでしょうね。」
「私が目立つのですか?」
「まだ気づいていなかったんですか?」
「はい。」
迷いのない返答だった。
ジェイクは、思わず額へ手を当てる。
「司令、辺境で一番目立っていますよ。」
「そうでしょうか。」
「遠くからでも、すぐに見つけられます。」
白銀の髪に、紫水晶のような瞳。
小柄な身体でありながら戦場の中心に立てば、誰よりも強い光を放つ。
それを本人だけが理解していない。
「少佐は、よく私を見つけますね。」
「司令が目立つからですよ。」
「それだけでしょうか。」
「……ほかに何があるんです?」
ジェイクが聞き返すと、ルリスティは答えなかった。
ただ、どこか楽しそうに次の頁をめくる。
「これは?」
ジェイクが、頁の中央に書かれた一文を指差す。
――マーヴェリア皇族には、
代々『皇族色』と呼ばれる特有の色彩が現れた。
「皇族にだけ現れるから、そう呼ばれていたそうです。」
ルリスティは、記述を読み上げる。
「帝国皇族には、生まれながらにほかの民とは異なる、
固有の髪色と瞳色が現れた。」
「それは、皇族が聖なる加護を受けている証だと考えられていた――」
そこで、文章は途切れていた。
次の頁は欠損し、
肝心の色について記されていたと思われる箇所は失われている。
「何色だったのか、書いてないんですか?」
「共和国に残る写本では、分からないそうです。」
「一番気になるところなのに。」
ジェイクは残念そうに、欠けた頁を眺めた。
「司令みたいな色だったりして。」
「私と?」
ルリスティは、自分の髪へ触れる。
続いて不思議そうに、紫水晶の瞳を瞬かせた。
「白銀の髪と、紫色の瞳を持つ皇族ですか?」
「彩り豊かな帝国なら、ありそうでしょう。」
「そうでしょうか。」
「何となく、似合いそうじゃないですか。」
「誰にです?」
「帝国のお姫様に。」
ルリスティは数秒、
何を想像しているのか分からない顔で、ジェイクを見つめた。
やがて、小さく首を傾げる。
「お会いしたこともない方に、似合うかどうかは分かりません。」
「真面目に考えなくていいんですよ」
ジェイクは苦笑し、紙袋から焼き菓子を一つ取り出し、
そのままルリスティへ差し出す。
「はい。難しい本を読んだ分の補給です。」
「また、餌付けですか?」
そう言いながらもルリスティは、素直に受け取り一口齧った。
「すっかり覚えましたね、その言葉。」
「少佐が教えたのでしょう。」
「覚えなくてもいいことだけ、覚えるんですよね。」
「美味しいです。」
「聞いてませんね?」
ルリスティは、紫水晶の瞳を僅かに細めた。
その表情を見て、ジェイクも呆れたように笑った。
やがて、ルリスティは、読み終えた頁へ栞を挟んだ。
「もし…。」
静かに、本を閉じる。
「本当に、マーヴェリア帝国が今も存在しているのなら。」
風に揺れる草原の向こう、大地を分断する黒淵へ、視線を向けた。
「一度、行ってみたいですね。」
「帝国へ?」
「はい。」
ルリスティの声は、穏やかだった。
「今も、そこに人々が暮らしているのなら、
私たちが、共和国は滅びていなかったと伝えたいです。」
少しだけ、目を細める。
「そして、向こう側で何があったのか、話を聞いてみたい。」
戦うことでも、相手を疑うことでもなく。
まず、言葉を交わそうとする。
ジェイクは、いかにも彼女らしいと小さく笑った。
「司令らしいですね。」
「そうでしょうか。」
「普通は、相手が敵かどうかを先に考えるものですよ。」
「敵だと決まったわけではありませんから。」
ルリスティは、迷うことなく答えた。
「かつて共に街道を行き来した国です。」
「百五十年が過ぎたからといって、最初から敵だと決める理由はありません。」
「なるほど。」
ジェイクは、膝の上の本を閉じた。
「では、その時は俺もご一緒しますよ。」
「少佐も?」
「司令一人で、正体不明の国へ行かせられないでしょう?」
「それは、護衛としてですか?」
「もちろん。」
ジェイクは、軽く肩を竦める。
「司令が行きたい場所へ、無事に連れていくのも部下の仕事ですから。」
「黒淵の向こう側ですよ?」
「道さえあれば、どこへでも。」
即答すると。
ルリスティは驚いたようにジェイクを見つめた。
やがて、紫水晶の瞳が柔らかく細められる。
「ありがとうございます。」
「ただし。」
ジェイクは、紙袋に残った最後の焼き菓子へ手を伸ばした。
「百五十年前に滅びていた場合は、遺跡巡りになります。」
「その場合も、同行してくださるのですか?」
「ここまで言った以上は。」
焼き菓子を口へ放り込み、にやりと笑う。
「最後まで、お供しますよ。」
ルリスティは、僅かに目を丸くしたあと、声を立てず小さく笑った。
「少佐は、変な方ですね。」
「司令にだけは言われたくありません。」
穏やかな風が、二人の間を通り過ぎる。
閉じられた歴史書の頁が、風に煽られ再び一枚だけ開いた。
そこに記されていたのは。
百五十年前。
黒淵の向こう側へ、姿を消した南の大国。
――マーヴェリア帝国。
共和国では、その国はすでに滅びたものと考えられていた。
街道は途絶え。
海も、空も、閉ざされた。
今もなお国が存在しているのか、
それを確かめる術はどこにもなかった。
けれど。
黒淵の向こう側では、
百五十年の時を経た今も、
マーヴェリア帝国は、確かに存在していた。
そして、その国では、
ルリスティと同じ白銀の髪と紫水晶の瞳を持つ者たちが、
今もなお、失われた第三皇女の帰りを、待ち続けていた。




