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第15話 隣、いいですか

夕刻。


第一部隊の報告書を届けに来たジェイクは、

執務机の上へ視線を落とした。

未処理の書類が、まだいくつも積まれている。


「司令、明日は休日ですよね。」

ルリスティは羽根ペンを止め、不思議そうに顔を上げた。

「その予定です。」

「予定じゃなくて、絶対休んでくださいね。」

「ですが、こちらの書類を処理してしまわないと。」

ルリスティが一番上の束へ手を伸ばす。

その前に、ジェイクが書類へ掌を置いた。

ルリスティが引き寄せようとしても、束は動かない。


「ですが、ではありません。」

「マルセリア少佐。」

「休める時に休むのも、仕事のうちです。」

ルリスティは書類を諦め、困ったようにジェイクを見上げた。

「先日の件なら、もう十分に反省しています。」

ルリスティはそう言いながら、

ジェイクの手の下から書類を引き抜こうとした。

けれど、束はびくともしない。


「反省した人は、休日の前日に仕事を抱え込みませんよ。」

ジェイクが、机に積まれた残りの書類へ目を向ける。

「今日中に終わらせるつもりです。」

「それで、日付が変わっても終わらなかったら?」

「その時は――」

ルリスティの返答が、僅かに遅れた。

ジェイクは、その隙を逃さず顔を覗き込む。


「明日の朝まで続けないと、言い切れます?」

「……努力はします。」

「言い切れてませんね。」

ルリスティは何か言い返そうと唇を開いたものの。

書類を押さえたまま、

こちらを見つめるジェイクの顔を見て、静かに口を閉じた。


「……分かりました。」

「何が分かったんです?」

「明日は、きちんと休みます。」

「本部へ来ない」

ジェイクが、確認するように指を一本立てる。


ルリスティの眉が、僅かに下がった。

「執務室へ入らなければよいのでは?」

「本部へ来た時点で、絶対に何か仕事を見つけるでしょう。」

「そのようなことは――」

「ないと?」

問い返され、ルリスティの視線が静かに逸れる。

「……あるかもしれません。」

「でしょうね。」


ジェイクは、さらに二本目の指を立てた。

「書類を持ち帰るのも禁止です。」

「そこまでですか?」

「そこまでです。」

「厳しいですね。」

ルリスティは困ったように笑ったが。

ジェイクは、積み上がった書類を軽く指先で叩いた。

「誰のせいだと思っているんです?」

「私、でしょうか?」

「疑問形にしても駄目です。」


観念したのかルリスティは小さく息を吐き、

ようやく書類から手を離した。

「分かりました。約束します。」

「なら結構です。」

ジェイクも、ようやく書類を押さえていた手を退ける。

その瞬間、ルリスティの指先がするりと書類の束へ伸びた。

ジェイクが無言で目を細める。

すると、その手は途中で止まり、

何事もなかったように向きを変えて、

隣の紅茶のカップを持ち上げた。


「……何でしょう?」

「いえ。別に。」

ジェイクは、笑いを堪えるように口元を歪めた。



翌朝。


休日の辺境都市は、まだ静かだった。

店を開け始めた商人たちが荷物を運び、

焼きたてのパンの香りが細い通りへ漂っている。

ジェイクは、特に目的もなく町を歩いていた。

辺境へ赴任して以来、

休日らしい休日を過ごすのはこれが初めてだった。


酒場へ行くには早すぎる。

兵士たちを誘うにしても、大半はまだ眠っているだろう。

途中で立ち寄った書店では、

目についた冒険小説を一冊だけ買った。

表紙に巨大な竜と剣士が描かれていたという、

ただそれだけの理由である。

読む場所までは決めていなかった。


――司令は、本当に休んでいるのか?

本人から言質は取った。

だが、ルリスティのことだ、誰もいない執務室へ忍び込み、

「少しだけです。」

と言いながら仕事をしていても不思議ではない。

様子を見に行くべきか。

しかし、休日まで上官の動向を監視するのもどうなのか。

そんなことを考えながら歩いていた時、

通りの先に、見覚えのある白銀の髪が見えた。


「……司令?」

思わず、小さく声が漏れる。

ルリスティだった。

いつもの軍服ではない。

淡い色のシャツに、

身体の線を拾いすぎない濃色の細身のパンツ。

足元には、履き慣れた革のブーツ。

長い白銀の髪も、

普段より低い位置で緩く一つに結ばれている。


飾り気は、ほとんどない。

けれど、軍服姿とは少し違う柔らかな雰囲気があった。

遠目に見れば共和国最南端の軍を率いる司令官ではなく、

休日を過ごす年若い少女にしか見えなかった。


――ちゃんと休んでる。

その事実に、なぜか少しだけ安心する。

声をかけようと、一歩踏み出した。

だが、ルリスティはそのまま町の外へ続く道へ入っていく。

本部へ戻る道ではない。

どうやら、別の目的地があるらしい。


ジェイクは足を止めた。

休日にどこへ行こうと、ルリスティの自由だ。

追いかける理由などない。

手にした本の背を指先で叩きながら、少しだけ考える。

――まあ、同じ方向へ散歩するだけなら。


本当に、少し気になっただけだった。



町を抜け、緩やかな坂道を上っていく。

ジェイクは、ルリスティから少し距離を空けて歩いていた。

ルリスティは一度も振り返らない。

けれど、歩調が乱れることもなかった。

こちらへ気づいていないのか、

気づいていて放置されているのか、

ジェイクには判断できなかった。


やがて、坂道を上り切る。

視界が開けた瞬間、ジェイクは思わず足を止めた。

一面に広がる草原。

眼下には、辺境防衛軍本部の外壁と監視塔が見える。

そのさらに向こう。

大地を裂くように、黒淵が横たわっていた。


共和国で最も危険な場所を見渡せるというのに、

丘の上には不思議なほど穏やかな風が吹いている。

草原の中央には、大きな一本の木が立っていた。


その形に、ジェイクは見覚えがあった。

先日、司令官執務室で見た写真。

幼いルリスティを抱いたクラウスの背後にも、

同じ木が立っていた。

ルリスティは木陰まで歩くと、慣れた様子で腰を下ろした。


鞄から一冊の本を取り出し、

最初の頁を開く前に静かに口を開いた。

「マルセリア少佐。」

ジェイクの肩が、僅かに跳ねた。

「……はい。」

「いつまで、そこに立っているのですか?」


ルリスティは、振り返らない。

ジェイクは諦めて木の陰から姿を現した。

「最初から気づいていました?」

「町を出る前から。」

ようやく振り返ったルリスティが、静かな目でジェイクを見る。

「そんなに早く?」

「少佐は、尾行には向いていませんね。」

「手厳しいですね……。」

ジェイクは苦笑しながら、木陰へ近づいた。


「すみません。町で偶然見かけまして。」

「ええ。」

「きちんと休んでいるのか、確認しようとしただけなんですが。」

ルリスティは、手元の本へ視線を落とした。

「確認のために、ここまで?」

「途中からは、単純にどこへ行くのか気になりました。」

正直に答えると、ルリスティは、少しだけ目を丸くした。


怒られるかもしれない。

さすがに無遠慮だったか。

そう思ったが、

「そうでしたか。」

ルリスティは、それ以上咎めなかった。

手元の本を開き、栞を挟んでいた頁を探す。

風が吹き、低い位置で結ばれた白銀の髪が、肩の上で揺れた。


ジェイクは少し離れた場所に立ったまま、

丘からの景色へ目を向ける。

ここはクラウスとの思い出が残る場所なのだろう。

あの写真が撮られた頃から、ルリスティはこの場所へ来ていた。

そう考えると、

自分が踏み込んでいい場所ではないように思えた。


「……すみません。少し、踏み込みすぎました。」

ジェイクは手にした本を持ち直し、来た道へ身体を向けた。

「俺は町へ戻ります。どうぞ、ゆっくりしてください。」

「……あの。」

その背中へ、ルリスティの声が届いた。


ジェイクが振り返る。

ルリスティは本を閉じ、

少しだけ迷うように隣の草へ視線を落とした。

「もしよろしければ。」

身体を僅かに横へずらし、木陰に一人分の空間ができた。

「景色だけでも、見ていかれますか?」

「いいんですか?」

「ええ。」


ルリスティが頷くと、ジェイクは木陰へ歩み寄った。

空けられた場所の前で足を止め、座ることなく彼女を見る。

ルリスティは一度だけ見上げると、

僅かに迷うように視線を伏せた。


「私が休日にここへ来ることは、

あまり人に話していないのですが。」

「では、なおさら俺がいるのはまずいでしょう。」

「普段であれば、そうですね。」

「普段であれば?」

ジェイクが聞き返すと、ルリスティは僅かに笑った。

「ここへ誰かを招くことは、ほとんどありません。」

それから、空けた隣の場所へ目を落とす。

「ですが、少佐でしたら構いません。」


一瞬、返す言葉が見つからなかった。

大げさな意味は、きっとない。

共に前線へ立つ部下として、

無茶を止める少し面倒な少佐として、

ルリスティなりに信頼している。

それだけなのだろう。

それでも、彼女が大切にしてきた場所。

ここにいてもいいと言われたことが、胸の奥へ小さく残った。


「父が。」

ルリスティは、もう一度丘の景色へ目を向けた。

「辛いことがあったら、

ここへ来なさいと言っていたのです。」

「クラウス司令官が?」

「はい。」

ルリスティは、木の幹へ背を預けた。


『この丘から見えるものは、すべてお前の故郷だ。』

『辺境は、お前と共にある。』


幼い頃。

クラウスは、何度もそう言ってくれたという。

「嬉しい時も。」

ルリスティの指が、閉じた本の縁をゆっくりとなぞる。

「悲しい時も。」

一度、言葉を止める。

「どうしても、父に会いたくなった時も。」

指先が、本の表紙へ静かに重なった。

「ここへ来ると、

父が今も隣にいてくれるような気がするんです。」


声は穏やかだった。

けれど、その横顔には、

普段のルリスティが人前では見せない淡い寂しさがあった。


ジェイクは何も言わず、

ただルリスティの傍らに立っていた。

無理に慰めるより、

今はそれでいいように思えた。


しばらく遠くを見つめていたルリスティが、

ふと隣の空いた場所へ目をやる。

「少佐。立ったままでは、疲れませんか?」

ジェイクは一拍遅れてその意味に気付き、

口元を緩めた。

「それ、隣へ座れって言っています?」

「そのつもりでしたが。」

ルリスティは、不思議そうに首を傾げた。

まるで、ほかにどんな意味があるのかと尋ねているようだった。


「……いや、合っています。」

「では、なぜ確認を?」

「念のためですよ。」

ジェイクが肩をすくめても、

ルリスティの疑問は晴れないらしい。

紫水晶の瞳が、ますます不思議そうに瞬く。


「司令。そういうところ、天然だって言われません?」

「天然?」

真剣に聞き返され、ジェイクは額へ手を当てた。

「……そこからですか。」

それから、木陰の手前で改めて足を止める。

空けられた場所を指し。

今度は、きちんと尋ねた。


「では――隣、いいですか?」

「もちろんです。」

ジェイクは、ルリスティの隣へ腰を下ろした。

二人の間には、肩が触れない程度の距離がある。

近すぎず。

遠すぎもしない。

今の二人には、ちょうどいい距離だった。


「少佐も、本をお持ちなのですね。」

ルリスティが、ジェイクの手元へ目を向ける。

「さっき町で買いました。」

「冒険小説ですか?」

「そうみたいです。表紙だけで選びました。」


ルリスティは、

表紙に描かれた巨大な竜をしばらく眺めた。

「少佐らしいですね。」

「どういう意味です?」

「深い意味はありません。」

そう答えながら、ルリスティは自分の本を開いた。

「絶対あるでしょう。」

ジェイクが追及しても返事はない。


けれど、頁へ落とされた紫水晶の瞳には、

僅かな笑みが残っていた。

ジェイクも諦めて、買ったばかりの本を膝へ置く。

風が、二人の間を通り抜けた。

草が揺れ、遠くで鳥の声がする。


時折。

頁をめくる音だけが、静かな木陰に響いた。

言葉を交わしたのは、ほんの数回。

ルリスティが読んでいる歴史書について尋ね。

ジェイクの冒険小説が、

表紙から想像していたより面白かったと話した。

それだけだった。


けれど。

沈黙が気まずいとは思わなかった。

ただ隣に座り、同じ風景を見て、それぞれの本を読む。

そんな時間が、不思議なほど心地よかった。

しばらくして。

ジェイクは、本から目を上げた。

ルリスティは木の幹へ背を預けたまま、

静かに頁を追っている。


普段の軍服ではなく。

膝の上にあるのも、決裁を待つ書類ではなく一冊の本だった。

司令官ではなく、

十七歳の一人の少女として休日を過ごしている横顔。

それを見て、ジェイクは小さく息を吐いた。


――ちゃんと、休めてるじゃないか。

今度は、声には出さなかった。


その日、二人が丘を下りたのは、日が傾き始めた頃だった。


そして次の休日。

ジェイクは、また一冊の本を持って丘へ向かった。

ルリスティがいるかどうかは分からなかった。

ただ、もし彼女がいたなら、

もう一度、隣へ座ってもいいかと尋ねよう。

そう思っただけだった。

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