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第14話 クラウス・トリウリッド

数日後。


「失礼します。」

第一部隊の報告書を抱えたジェイクは、司令官執務室へ入った。

いつもなら執務机へ向かっているはずの、小さな姿が見当たらない。

代わりに、マイク・クルトワ中佐が、

書棚から資料を取り出し机の上へ年代順に並べていた。


「司令は?」

「辺境都市の治安維持部隊との定例会議だ。

戻るまでもう少しかかる。」

「珍しいですね。司令が仕事を置いて外へ出ているなんて。」

「別の場所で仕事をしているだけだ。」

「…ですよね。」


ジェイクは、持ってきた報告書を机の端へ置いた。

その時、書棚の上に飾られた一枚の写真が目に入った。


大きな両手剣を肩へ担いだ、二メートル近い大男。

その逞しい腕には、小さな少女が抱かれている。

長い白銀の髪。

紫水晶のような瞳。


今よりずっと幼いルリスティが、

男の首へ両腕を回し楽しそうに笑っていた。


「司令、小さいな。」

ジェイクが、写真を覗き込む。


「五歳頃のものだ。」

クルトワが答えた。

「この大男が、クラウス前司令官ですか?」

「ああ。」


ジェイクは、写真に写る二人を見比べた。

髪も。

瞳も。

顔立ちも、まるで似ていない。

体格に至っては、同じ人間とは思えないほどの差があった。


「……あまり似てませんね。」

「当然だ。」

背後から、低い声がした。


振り返ると、巡回を終えたガレス中佐が、

外套を脱ぎながら室内へ入ってきた。


辺境防衛軍第三部隊長

ウォルター・ガレス中佐


狙撃や広域索敵、魔導砲による後方支援を担う、

遠距離戦の専門家である。

自身も大型の長距離魔導銃を扱う名手であり、

前線から一歩引いた位置で、

戦場全体を見渡し味方へ迫る脅威を確実に撃ち抜く。


そして、前司令官クラウスとは、

長年にわたり黒淵前線を共に守ってきた旧友でもあった。


「あの二人に、血の繋がりはない。」

「え?」

ジェイクの表情が止まった。

「クラウス司令官は、実の父親じゃないんですか?」


「ああ。」

ガレスは扉を閉めると、廊下に人がいないことを確認し、

声を落として続けた。

「だが、そのことを司令は知らない。クラウス司令の意向だ。」


ジェイクは、写真からゆっくりとガレスへ視線を移した。

「なぜ、俺にそれを?」

「貴官は、第一部隊長だ。」


ガレスは、真っ直ぐにジェイクを見た。

「これからも、司令の傍で戦うことになる。

それに、この数週間で少なくとも、

軍務に関して口の軽い男ではないことは分かった。」


僅かに目を細める。

「褒められているんですよね?」

「今は黙って聞け。」

「はい。」

ジェイクの表情から、いつもの軽さが消える。

ガレスは、静かに続けた。

「知らずに接するより、知った上であの方を支えてほしい。」


クルトワも、手元の書類を揃えながら口を開く。

「それに貴官は、すでに司令の無茶を止める側へ回っている。

今後、司令の過去に関わる何かが起きた時。」

クルトワは、ジェイクへ視線を向けた。

「事情を知らぬまま、判断を誤られては困る」


しばらく、室内に沈黙が落ちたあと、

ジェイクは小さく息を吐いた。

「……分かりました。本人には、言いません。」

ガレスが、僅かに頷く。

「それでいい。」

ジェイクは、もう一度写真へ目を向けた。


ガレスが続ける。

「司令には、二歳より前の記憶がない。

クラウス司令官を実の父親だと信じて育った。」

「では、母親のことは?」

「幼い頃に亡くなったと聞かされている。」

ジェイクは、眉を寄せた。

「どうして、そこまで隠したんです?」


ガレスは、すぐには答えなかった。

棚の写真へ手を伸ばし、

僅かに傾いていた写真立てを真っ直ぐに直す。


「クラウスは、最初から何も話すつもりがなかった。」

「何も?」

「ああ。」

ガレスは、写真の中の旧友を見つめた。

「あの子を連れて戻ってきた日、俺はたまたま本部の門にいた。」


ある日突然、クラウスは二歳ほどの幼い少女を腕に抱き、

辺境防衛軍本部へ戻ってきた。

長い白銀の髪。

紫水晶の瞳。

見たこともないほど整った顔立ちを持つ、小さな少女。


クラウスは、驚く者たちへ向かって、ただ一言。

『俺の娘だ。』

そう告げた。


「それだけですか?」

ジェイクが尋ねる。

「ああ。」

「子どもを連れて帰ってきた人間の説明じゃないでしょう。」

「俺も、そう思った。」


ガレスは椅子を引き、静かに腰を下ろした。

クラウスに妻はいなかった。

恋人がいるという話も、一度として聞いたことがない。

それにもかかわらず、突然二歳の娘が現れたのだ。


「その日の夜、俺はクラウスを問い詰めた。」

「何と?」

「その子は、お前の実の娘ではないだろう?と。」


クラウスは、しばらく何も答えなかった。

否定も肯定もせず。

ただ、腕の中で眠る少女を見下ろしていた。

やがて、少女を起こさぬよう低い声で答えた。


『血が繋がっていようが、いまいが、この子は俺の娘だ。』

ガレスの声が、僅かに旧友の口調をなぞる。

『それ以上のことは聞くな。』


「それで、引き下がったんですか?」

「あいつが、あんな目をしている時に何を聞いても答えん。」

ガレスは、短く息を吐いた。

「あの子を守るためなら、仲間にさえ嘘をつくつもりだった。

実際に最後まで話さなかった。」


どこで、ルリスティを見つけたのか。

なぜ二歳以前の記憶がなかったのか。

誰から、何から、あの少女を守ろうとしていたのか。

そのすべてをクラウスは、誰にも明かさなかった。


「血が繋がっていないことを知っているのも、

当時から近くにいた者の中の、ごく一部だけだ。」

クルトワが補足する。

「クラウス司令官が明確に認めたわけではない。

だが、否定もしなかった。」


「それで十分だったということですか。」

「ああ。」

ガレスは頷いた。

「俺たちにとって重要だったのは、あの子が何者なのかではなかった。

クラウスが、命を懸けて守ろうとしている娘だということだけだ。」


クルトワは、古い記録簿を一冊取り出した。

「その後、必要な手続きをすべて済ませた。」

「戸籍上も、ルリスティ・トリウリッドは

クラウス司令官の実子として登録されている。」

「徹底してますね。」

「中途半端にする気は、初めからなかったのだろう。」


ジェイクは、もう一度写真を見た。

小さな少女を抱く大男の顔には、義務感も憐れみもなかった。

ただ、自分の娘を抱いている父親の、隠しようのない喜びが浮かんでいた。



クルトワが開いた記録簿には、

クラウスの軍人としての功績が細かな文字で記されていた。


辺境部隊の再編。

補給路の整備。

警戒網の構築。

大型種の討伐。

兵士の損耗率の、大幅な低下。


「桁違いに強かったとは聞いています。」

ジェイクが、頁をめくる。

添えられた戦闘記録へ目を通し、その手が止まった。


大型魔導剣、二本を同時に使用。


「……二本?」

ジェイクは思わず、

背中へ担いだ自分の大型魔導剣へ手をやった。


一本を振り抜くだけでも刃の重さと魔力の反動を制御し、

重心を崩さず次の動作へ移るには、

相応の筋力と技量が必要になる。

両手で扱うことを前提として設計された武器だ。


片手で持つだけならできる。

だが、十分な威力と速度を保ったまま、

実戦で振り回すとなれば話は別だった。


ましてや、それを二本、左右で同時に扱うなど。

同じ大型魔導剣を使うジェイクだからこそ、

その異常さがよく分かった。


「この大きさの剣を、本当に二本同時に?」

「ああ。」


ガレスは、壁へ立てかけられた訓練用の大剣を指した。

「一本の重さも、貴官が使っているものと大差はない。」

ジェイクはしばらく、自分の得物と訓練用の大剣を見比べた。

そして、真顔でガレスへ向き直る。


「……それ、人間にできるんですか?」

「クラウスにはできた。」

「魔力で軽量化したとしても、限度があるでしょう。」

「本人は『慣れればできる』と言っていた。」

「できませんよ。」

ジェイクは即座に否定した。


「一本でも、片手で刃筋を保ちながら大型種の甲殻を断つとなれば、

腕力だけじゃ足りない。身体強化と魔力制御を、

左右で別々に維持する必要がある。」


思わず、戦闘記録をもう一度確認する。

「しかも、これ。」

記録の一部を指差した。

「左右で別の敵を相手にしてるじゃないですか。」


「ああ。」

「右で大型種を止めながら、左で小型種を薙ぎ払った。」

「できませんって。」

「我々も、そう言った。」

ガレスの口元へ。

旧友を懐かしむような笑みが浮かぶ。


「本人は最後まで、慣れの問題だと言い張っていた。」

「慣れでどうにかなる領域じゃないでしょう……。」

ジェイクは呆れながらも、

記録へ向ける目には、

隠しきれない剣士としての敬意が浮かんでいた。


一度でいい。

実際に、その剣を見てみたかった。

同じ大型魔導剣を扱う者として。

どれほどの技量と力があれば、そんな戦い方が可能になるのか、

直接確かめてみたかった。


けれど、その使い手はもうここにはいない。

ジェイクは、僅かに目を伏せた。


剣士としてだけではない。

指揮官としても、クラウスは優秀だった。

戦場では、常に兵士の生還を優先し、最も危険な役目は、自ら引き受けた。

今の辺境防衛軍に残る規則や設備の多くも彼が作り上げたものだった。


だが。

記録簿の途中から、

軍務とは無関係に見える記述が混ざり始める。

ジェイクは、指先でその一文をなぞった。


「『本日の会議中、司令官が娘の成長について長時間報告』?」

「当時の書記官が、律儀な男だった。」

クルトワが答える。

「軍の会議で、何を報告してるんですか。」


「ルリが、初めて文字を読んだ。」

ガレスが、指を一本立てる。

「ルリが、一人で靴を履いた。」

もう一本。

「ルリが、自分へ花をくれた。」

三本目。


「毎日のように聞かされた。」

「親馬鹿にも、限度があるでしょう?」

「限度はなかった。」


幼いルリスティを一日中肩車し。

腰を痛めた翌日にも、再び肩へ載せた。


娘が初めて「お父さん」と呼んだ時には、泣きながら辺境中へ言いふらした。

そして、娘に近づく男は、自分を倒さなければ認めないと公言していた。


「共和国でも指折りの剣士を倒せって…、

最初から、誰にも渡す気がないじゃないですか。」

ジェイクは、記録簿から顔を上げた。


「あいつに、指摘したことがある。」

ガレスが、椅子の背へ身体を預ける。

「何と?」

「そんな条件では、娘が一生結婚できないとな。」

「返事は?」


ガレスは、写真に写るクラウスへ視線を向けた。

『それの何が問題だ』

「駄目だ、この父親。」

クルトワが、僅かに口元を緩める。

「前司令官にとっては、それでよかったのだろう。」


しばらくして、ガレスは静かに続けた。

「どれほど功績を上げても、クラウス本人は誇ろうとしなかった。

自分のことを褒められると、決まってこう言った。」

『俺の最高傑作は、ルリだ』

「最高傑作って……。」

言い方は豪快だが、そこに込められた意味は、ジェイクにも分かった。


自分が守った辺境より、築き上げた軍より。

娘が育ち、笑い、生きていることの方が、

クラウスにとっては、はるかに大切だったのだ。


「良い父親だったんですね。」

ジェイクが言う。

ガレスは、ゆっくりと頷いて写真の中で笑う二人を見つめる。


「ああ。」

「血が繋がっているかなど、クラウスにとっては一度も問題ではなかった。」



廊下から、足音が近づいてきた。

クルトワが、素早く記録簿を閉じる。

ガレスも先ほどまでの柔らかな表情を消した。

その変化に気づきジェイクも、口を閉ざす。


扉が開いた。

「戻りました。」

会議を終えたルリスティが、資料を抱えて入ってくる。

「ガレス中佐と、クルトワ中佐もいらしたのですね。」

「巡回報告を届けに来ました。」

「こちらは、過去の資料整理です。」

二人は何事もなかったように答えた。


ルリスティの視線が、棚の写真へ向く。

「父の写真を、ご覧になっていたのですか?」

ジェイクは、一瞬だけガレスを見る。

その表情には余計なことは言うなと、はっきり書かれていた。


「ええ。少し、武勇伝を聞いていました。」

「そうですか。」

ルリスティは写真立てへ近づき。

幼い自分と父親を、懐かしそうに見つめた。

「父は、世界で一番格好良かったんですよ。」


大きくて。

強くて。

優しくて。

少しだけ、泣き虫だった。


ルリスティは、そう言って、楽しそうに笑った。

「私が初めて『お父さん』と呼んだ時も、一日中泣いていたそうです。」

「一週間、辺境中へ言いふらしていた。」

ガレスが訂正する。


「一週間もですか?」

「覚えていないのか。」

「私は、まだ小さかったので。」

「勤務記録にも残っている。」

クルトワが、閉じた記録簿を軽く叩く。


ルリスティは僅かに頬を赤らめた。

「父は、そういう方でした。」

困ったように言いながらも、その声には、隠しきれない愛情が滲んでいた。


ジェイクは、三人の顔を順に見る。

誰も彼女へ真実を告げようとはしない。

けれど、それはルリスティを欺きたいからではなかった。

クラウスが命を懸けて守ろうとしたものを、今も守り続けているのだ。


「ところで。」

ルリスティが、机の上に置かれた報告書へ手を伸ばす。

「第一部隊の報告ですね。すぐに確認します。」


「会議から戻ったばかりでしょう。少しくらい、休んでください。」

ジェイクは、先に書類を押さえた。

「ですが。」

「急ぎではありません。」


クルトワが報告書を引き取り、自分の資料の下へ重ねる。

「後ほど、こちらからお渡しします。」

「クルトワ中佐まで……。」

ルリスティは、助けを求めるようにガレスを見る。


だが、ガレスは窓辺へ歩きカーテンを開けた。

午後の光が、室内へ差し込む。

「前司令官から、無理をしている時は仕事を取り上げろと言われている。」

「その命令は、まだ有効なのですか?」

「期限を聞いていない。」


ルリスティは、三人を順番に見て、やがて、諦めたように小さく息を吐く。

「……では、少しだけ休みます。」

窓辺の長椅子へ腰を下ろし、もう一度、父親の写真を見上げる。

「父に似た方が、増えてしまいましたね。」


ジェイクは、複雑そうに眉を寄せた。

「さすがに俺は、十七歳の娘を持てる年齢じゃないんですけど。」

ルリスティが、小さく笑う。

ジェイクも笑い返しながら棚の上の写真へ目を向けた。


クラウス・トリウリッド。

黒淵前線を守った英雄。

辺境防衛軍を立て直した名将。


そして、ルリスティが、

世界で一番格好良かったと慕い続けるただ一人の父親。


そのすべてが、

確かに、同じ一人の男だった。

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