第13話 叱ってくれる人
数日後。
辺境防衛軍本部に、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
「黒淵北東部に、小規模亀裂が発生!」
通信兵が司令室へ駆け込んでくる。
「大型種一体を確認!
哨戒中の第五小隊が交戦しています!」
室内に緊張が走った。
戦況図の前に立っていたルリスティが、静かに尋ねる。
「第五小隊の状況は。」
「負傷者四名! 現在は後退しながら応戦しています!」
「即応可能な部隊は?」
マイク・クルトワ中佐が、手元の配置図を確認する。
「第一部隊第三小隊です。
出撃準備を含め、現地到着まで十二分ほど必要です。」
「十二分か。」
ジェイクは椅子から立ち上がり、
壁へ立てかけていた大型魔導剣を手に取った。
「俺が第三小隊を率いて向かいます。」
その横を、漆黒の外套を手にしたルリスティが、
音もなく通り過ぎる。
「司令?」
「私が先行します。」
「は?」
ルリスティは二丁の魔導銃を腰へ収め、外套を羽織った。
「単騎であれば、部隊より早く到着できます。」
「待ってください。」
「何でしょう。」
「何でしょう、じゃないんですよ。」
ジェイクは思わず眉をひそめた。
「司令官が毎回、一番に前線へ飛び出すのは普通なんですか?」
「大型種ですので。」
「理由になってません。」
「私の防護障壁であれば、
第五小隊が離脱するまで私一人で進行を止められます。」
ルリスティは、
まるで今日の天候でも説明するような口調で答えた。
「私が行くのが、最も被害を少なく抑えられる方法です。」
「だからって――。」
「マルセリア少佐。」
ルリスティは穏やかに微笑んだ。
「第三小隊の出撃準備を急がせ、側面からの支援をお願いします。」
それだけ告げると、
ジェイクの返事を待たずに司令室を出ていった。
「……。」
閉じた扉を、ジェイクは無言で見つめる。
「少佐。」
戦況図の前で、ガレス中佐が小さく息を吐いた。
「今は追え。話は後だ。」
「止めないんですか。」
「止まるのであれば…クラウス司令官も、
あれほど苦労はしていない。」
ガレスは、どこか遠い目をした。
「……でしょうね。」
この短期間だけでも、ジェイクには嫌というほど理解できた。
「第三小隊を動かします。」
ジェイクは魔導剣を背負い、通信兵へ向き直る。
「クルトワ中佐。後方指揮をお願いします。」
「ああ。第五小隊の退路はこちらで確保する。」
「頼みます。」
軽口はなかった。
ジェイクは司令室を飛び出すと、
第一部隊第三小隊へ緊急出動を命じた。
その頃にはすでに、
ルリスティは厩舎で最も脚の速い軍馬へ飛び乗り、
黒淵北東部へ向かっていた。
部隊の集合を待つこともなくただ一人で。
◇
黒淵北東部
戦場には、大型魔獣の咆哮が響き渡っていた。
巨大な熊にも似た体躯の全身を覆う、黒い甲殻。
太い前脚が振り下ろされるたび、
地面が砕け、土煙が舞い上がる。
「後退しろ!」
「負傷者を先に運べ!」
第五小隊は負傷した仲間を庇いながら、
必死に防衛線へ向かっていた。
だが、大型魔獣がその背後へ迫る。
「追いつかれるぞ!」
「防護班はまだか!」
巨大な腕が、兵士たちへ向かって振り上げられた。
その時。
戦場に、澄んだ声が響いた。
「――多重防護障壁、展開。」
幾重もの半透明の光が、第五小隊を包み込んだ。
直後。
巨大な腕が、光の壁へ叩きつけられる。
ドォォォォン――!
凄まじい衝撃が大地を揺らした。
けれど、防護障壁は砕けなかった。
「司令!」
「司令が来たぞ!」
兵士たちの顔に安堵が広がる。
軍馬から降りたルリスティは、
防護障壁へ魔力を注ぎながら周囲を見渡した。
「負傷者は四名ですね。」
「はい!」
「動ける方は、負傷者の搬送を。
残りの方々も、防衛線まで後退してください。」
「ですが、司令は!」
「こちらは私が引き受けます。」
ルリスティは腰から二丁の魔導銃を抜いた。
銃身へ刻まれた魔術式が、青白い光を放つ。
「急いでください。」
「……了解!」
兵士たちは負傷者を支えながら、後退を始めた。
大型魔獣が咆哮し、再び防護障壁へ巨体を叩きつける。
衝撃で、ルリスティの身体が僅かに後方へ押された。
それでも、足は一歩も退かない。
右手の魔導銃が、魔獣の左目を捉える。
放たれた魔力弾が、黒い甲殻の隙間へ突き刺さった。
「グオォォォォッ!」
大型魔獣が苦痛に身体を仰け反らせる。
ルリスティは続けて、左手の銃口を前脚の関節へ向けた。
二発。
三発。
魔力弾が寸分違わず同じ一点を撃ち抜き、
分厚い甲殻に亀裂が走った。
「司令!」
後方から蹄の音が響く。
ジェイクたち第一部隊第三小隊が到着した。
「第三小隊、側面へ!」
ジェイクが声を張り上げる。
「亀裂の入った前脚を狙え! 司令の射線には入るな!」
「了解!」
兵士たちが一斉に魔導銃を構える。
側面からの集中攻撃を受け、大型魔獣の巨体が大きく揺れた。
「押し切るぞ!」
ジェイクが大型魔導剣を構え、地面を蹴る。
魔力を纏った刃が、傷ついた前脚へ叩き込まれた。
甲殻が砕け、大型魔獣が片膝をつく。
「今だ!」
兵士たちの攻撃が集中する。
これで終わる。
誰もが、そう思った。
だが、大型魔獣は最後の力を振り絞るように咆哮した。
「グオォォォォォッ!」
巨大な腕が、無差別に振り回される。
「散れ!」
ジェイクが叫ぶ。
兵士たちが一斉に距離を取った。
第五小隊も負傷者を支えながら、戦場から離脱しようとしている。
その最後尾で負傷した仲間を支えていた若い兵士が、
崩れた地面へ足を取られた。
「うわっ!」
身体が倒れ、目前には振り下ろされる巨大な腕。
「避けろ!」
ジェイクの声が響く。
だが、間に合わない。
ルリスティは一瞬の迷いもなく駆け出した。
倒れた兵士と魔獣の間へ滑り込み、片手を前へ突き出す。
「――局所防護障壁、展開!」
半透明の光が、ルリスティと兵士を包み込んだ。
直後。
大型魔獣の腕が、防護障壁へ叩きつけられる。
障壁が衝撃の大半を受け止める。
だが、完全には殺しきれなかった。
凄まじい力に押し切られ、防護障壁の表面へ亀裂が走る。
砕けた地面の破片が舞い上がり、
その一つがルリスティの額を掠めた。
次の瞬間。
ルリスティの小さな身体が、
兵士から引き離されるように宙へ投げ出された。
「司令!」
ジェイクは咄嗟に魔導剣を手放し、地面を蹴った。
落下するルリスティへ、両腕を伸ばす。
鈍い衝撃とともに、小さな身体がその腕の中へ収まった。
驚くほど軽かった。
「司令!」
「……大丈夫です。」
「大丈夫なわけあるか!」
思わず怒鳴り声が出ていた。
ルリスティが僅かに目を見開く。
「マルセリア少佐?」
「何やってるんだ!」
「第五小隊の兵士が危険でしたので。」
「だからって、自分がまともに受ける奴があるか!」
「防護障壁は間に合いました。」
「そういう問題じゃない!」
白い頬を、一筋の赤が伝っていた。
額の傷から流れた血だった。
「怪我してるじゃないですか!」
「ああ…。」
ルリスティは自分の頬へ触れ、指先についた血を見た。
「少し、掠っただけですね。」
「少しじゃない!」
「治癒術を受ければ、すぐに治ります。」
「だから、そういう問題じゃないって言ってるんですよ!」
気づけば、敬語とタメ口が完全に入り混じっていた。
「少佐。落ち着いてください。」
「落ち着けるか!」
その時。
背後から、再び咆哮が響いた。
大型魔獣が、傷ついた身体を無理やり起こしている。
「マルセリア少佐、まだ、敵が――。」
ルリスティが、ジェイクの腕の中で魔導銃へ手を伸ばす。
「じっとしてろ。」
「ですが…。」
ジェイクはルリスティを、
第三小隊の防護陣の内側へ静かに下ろした。
「後衛二名、司令を頼む!」
「了解!」
兵士たちがルリスティを守るように前へ出る。
ジェイクは立ち上がると、
地面へ落とした大型魔導剣を拾い上げた。
「あんたは。」
低く呟く。
「人の心配ばっかりしやがって。」
魔獣が残った前脚で地面を蹴った。
ジェイクも真正面から駆け出す。
振り下ろされる巨大な腕を、紙一重でかわす。
傷ついた前脚を踏み台にし、魔獣の頭部まで跳び上がった。
「第三小隊!」
魔導剣へ、膨大な魔力が集まる。
「今だ!」
「おおおおおっ!」
兵士たちが一斉に攻撃する。
大型魔獣の動きが、一瞬だけ止まった。
ジェイクは、その隙を逃さなかった。
巨大な魔導剣が、砕かれた甲殻の隙間へ深く突き刺さる。
「これで――終わりだ!」
魔力が爆ぜ、大型魔獣の身体が大きく仰け反る。
そして、地響きを立てながら崩れ落ちた。
◇
戦闘終了後。
後続の治療班を率いて現場へ到着したのは、
辺境防衛軍本部の医療と後方支援を預かるオリビアだった。
「司令。こちらへ座ってください。」
有無を言わせぬ口調で命じると、
オリビアはルリスティを平たい岩へ座らせた。
額の傷へ治癒術を施しながら、
全身に異常がないかを手早く確認していく。
「マルセリア少佐。」
ルリスティがジェイクへ声をかける。
「先ほどは、ありがとうございました。」
「礼は結構です。」
ジェイクは腕を組み、正面からルリスティを睨んでいた。
「それより、もっと自分の身体を大事にしてください。」
「私は司令官です。皆さんを守ることが、私の役目です。」
ルリスティは、いつもの穏やかな声で答えた。
傷口へ治癒の光を当てられながら、小さく微笑む。
「だから、これくらい何ともありません。」
ジェイクの眉間へ、深い皺が刻まれた。
「…何ともなくない。」
「……。」
「今、吹き飛ばされたでしょう。」
ジェイクは、ルリスティの額に残る血の跡を指差した。
オリビアの治癒術によって傷は塞がり始めている。
それでも、軍服や白銀の髪には、
舞い上がった土埃が残ったままだった。
「防護障壁で、衝撃は軽減しました。」
ルリスティは事実を報告するように答える。
まるで、自分の身体が宙へ投げ出されたことなど、
判断材料の一つにすぎないとでもいうように。
「怪我もしてる。」
「すぐに治ります。」
オリビアが傷口へ触れると、
ルリスティは僅かに眉を寄せた。
その小さな反応を、ジェイクは見逃さなかった。
「あんた、自分の命を軽く見すぎなんだよ。」
ルリスティは、意外そうに目を瞬いた。
「そんなことはありません。」
「ある。」
「ありません。」
ルリスティは困ったように首を傾げる。
本当に理解していないらしい。
それが余計に、ジェイクの神経を逆撫でした。
「ある!」
周囲にいた兵士たちが、揃って空を見上げた。
「また始まったな。」
「始まりましたね。」
「マルセリア少佐も大変だ。」
小声が聞こえたが、ジェイクは気にしなかった。
「あんたは司令官である前に、十七歳の女の子だろ!」
辺りが、しんと静まり返った。
口にした直後、
ジェイク自身も上官へ向ける言葉ではなかったと気づいた。
しかも、大勢の部下が見ている前だ。
軍人としては、明らかに言いすぎている。
それでも、今さら引っ込めるつもりはなかった。
ルリスティは、紫水晶の瞳を大きく見開いていた。
「女の子……?」
ジェイクは呆れたように眉を寄せた。
「そこに驚くのかよ。」
「……。」
ルリスティは、しばらく何かを思い出すように黙り込んだ。
やがて、困ったように微笑む。
「父も、同じようなことを言っていました。」
「クラウス司令官が?」
「はい。」
ルリスティの声が、僅かに柔らかくなる。
「『お前は軍人である前に、俺の大切な娘だ』と。」
「……。」
「無理をするたびに、何度も叱られました。」
どこか懐かしそうに目を細める。
「やっぱり、少佐は父に似ていますね」
ジェイクは、それ以上何も言えなくなった。
先日。
夜遅くまで仕事を続けるルリスティから、
初めてそう言われた。
あの時は、
書類を取り上げたことが似ているのだと思っていた。
だが今度は、部下を守るためなら、
自分の身を顧みない彼女を本気で叱りつけたことで。
また、亡き父親の面影を重ねられている。
一度なら、偶然で済ませられた。
二度も言われると。
どうやらルリスティの中では、本当に似ているらしい。
軍人として尊敬していた父に重ねられることを、
喜ぶべきなのか。
十七歳の少女から、
父親と同じ立場に置かれることを複雑に思うべきなのか。
やはり、自分でもよく分からなかった。
「マルセリア少佐?」
「……その評価、まだ続いているんですか。」
「はい。」
迷いのない即答だった。
ジェイクは、深く息を吐く。
「……勘弁してください。」
「何がでしょう?」
ルリスティは、本当に分からないという顔で首を傾げる。
その様子に、周囲の兵士たちが、笑いを堪えていた。
◇
少し離れた場所で。
ルリスティは引き続き、
オリビアから治癒術を受けていた。
額を包む淡い光が、傷口をゆっくりと塞いでいく。
けれど、ルリスティの視線は自分の傷ではなく、
慌ただしく動く治療班へ向けられていた。
「司令。動かないでください。」
オリビアが、逃がさないようにルリスティの肩へ手を置く。
「ですが、第五小隊の負傷者を――。」
「すでに別の治療班が診ています。」
オリビアは傷の状態を確かめながら、淡々と答えた。
それでもルリスティは安心できないのか、
今度は第三小隊の方角へ顔を向けようとする。
「第三小隊は。」
「全員無事です。」
「念のため、私も確認を――。」
立ち上がろうとしたルリスティの肩を、
オリビアが即座に押し戻した。
「じっとしてください。」
有無を言わせない声だった。
ルリスティは、
しばらく抵抗するようにオリビアを見上げていたが、
諦めたように肩を落とした。
「……はい。」
その様子を眺めながら、ジェイクは深く息を吐いた。
「少佐。」
隣へ立ったガレス中佐が、静かに口を開く。
「司令は、昔からああなのだ。」
「でしょうね。」
「クラウス司令官が何度叱っても、
誰かが危険に晒されれば、必ず自分が前へ出た。」
ジェイクは、治療を受けながらも、
周囲の兵士たちを心配そうに見回しているルリスティを見る。
「あんなに可愛い顔してるのに、とんでもなく頑固なんですね。」
「ああ。」
ガレスは僅かに目を細めた。
「自分が盾になれば、皆を助けられる。
その信念だけは、クラウス司令官にも曲げられなかった。」
「知りたくなかったなあ。」
「だが、誰かが傍で叱ってやらなければ、
あの方はいつか無茶をしすぎる。」
ガレスはジェイクへ視線を向ける。
ジェイクは疲れたように頭を掻いた。
「勘弁してくださいよ。
俺、そういう役回りには向いてないんですけど。」
「そうか?」
「そうですよ。」
ジェイクは、いつもの軽い笑みを浮かべる。
「女の子は叱るより、笑わせる方が得意なんです。」
ガレスは、僅かに口元を緩めた。
「だが、司令を本気で叱れる者は少ない。」
「……さっき、また父親に似ていると言われましたよ。」
「また?」
「あの人が夜中まで仕事をしていた時にも、一度。」
ガレスは、治療を受けているルリスティへ視線を向けた。
「なるほどな。」
「納得しないでください。」
「無茶をするあの方を放っておけず、仕事を取り上げる。
それでも止まらなければ、誰より厳しく叱る。」
ガレスは静かに頷いた。
「確かに、その点はクラウス司令官によく似ている。」
ジェイクは、深く息を吐いた。
「……本当に、勘弁してください。」
その日。
辺境防衛軍の者たちは思った。
――司令を叱る者が、また一人増えた。
もし、クラウス・トリウリッドがその光景を見ていたなら。
きっと誰よりも、安堵したことだろう。




