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第12話 甘いものと困った人

それから、数日後。

夜の辺境防衛軍本部を、

ジェイクは一冊の報告書を片手に歩いていた。


窓の外は、すでに暗い。

時刻は二十二時を回っている。


当直や夜間警戒を担当する兵士を除けば、

多くの者が一日の仕事を終えている時間だった。

けれど、廊下の先にある司令官執務室からは、

今夜も明かりが漏れていた。


「……まさかな。」

ジェイクは、扉の前で足を止めた。


数日前。

クルトワ中佐と二人がかりで仕事を取り上げ、

ようやく五時間の睡眠を約束させたばかりだ。


それ以降は、以前より食堂へ顔を出すようになり。

夜も、少し早く執務室を出るようになった。

――ように見えていた。


『司令は、我々が見ていないところで仕事を増やす。』

クルトワの言葉を思い出す。

ジェイクは小さく息を吐き、扉を二度叩いた。


「司令。」

「どうぞ。」


返ってきたのは、聞き慣れ始めた穏やかな声だった。

扉を開ける。

机の上には大量の書類が積み上げられ、その向こうで、

白銀の髪の少女が、黙々と羽根ペンを走らせていた。


「……やっぱりいた。」

「マルセリア少佐?」

ルリスティが顔を上げ、不思議そうに首を傾げる。

「どうされたのですか?」

「どうされたのですか、じゃないんですよ。」

「はい?」


ジェイクは執務室へ入り、後ろ手で扉を閉めた。

「何時だと思っているんです?」

ルリスティは、壁に掛けられた時計へ目を向けた。

「二十二時十三分です。」

「正確に答えないでください。」


「尋ねられましたので。」

「そういう意味じゃないんですよね…。」

時計の針が、小さな音を立てて進む。

ジェイクは深く息を吐き、机の前まで歩み寄った。


「夕食は?」

ルリスティの視線が、僅かに横へ逸れた。

羽根ペンを持つ指だけが、所在なさげに紙の端をなぞっている。

「……。」


「食べていませんね?」

「少し、忙しかったもので。」

「昼は?」

「オリビアに捕まりました。」


医療と後方支援を預かるオリビアは、

司令官であるルリスティにも遠慮しない。

食事を抜こうとすれば、問答無用で食堂へ連れていく数少ない人物だった。


「捕まったって言うな。」

ジェイクは思わず、敬語を忘れて突っ込んだ。


ルリスティが、ぱちりと目を瞬く。

「申し訳ありません?」

「なんで疑問形なんですか。」

「怒られている理由が、あまり分かりませんので。」

「分かってください…。」


ジェイクは片手で眉間を押さえた。

どうやら、食事を取らなかったことよりも、

オリビアに捕まったという表現を注意されたと思っているらしい。


「それで」

ルリスティは、机の上の書類へ視線を戻す。

「少佐こそ、どうされたのですか?」


「第一部隊の巡回報告を持ってきました。」

「…あ。」

羽根ペンの動きが止まる。

僅かな反応だったがジェイクは見逃さなかった。


「忘れていましたね?」

「……少しだけ。」

「完全に忘れていた人の顔ですよ、それ。」


ジェイクは持っていた報告書を机の空いた場所へ置いた。

その時、積み上げられた書類の陰に小さな缶が置かれていることへ気づいた。


「何ですか、これ。」

「焼き菓子です。」

「へえ。」

「オリビアが置いていきました。」


ルリスティは、僅かに困ったような表情を浮かべた。

「『司令が食事を取らないので、せめてこちらを食べてください』と。」

ジェイクは缶へ手を伸ばす。

蓋には、まだ封を開けた形跡すらなかった。


「それで?」

「仕事に集中していて、忘れていました。」

「意味がないな。」


ジェイクは缶の蓋を開けた。

蓋を開けると、中には小さな丸い焼き菓子が綺麗に並べられている。

一枚を手に取り、口へ運ぶ。

控えめな甘さと、香ばしい香りが広がった。


「美味いです。」

「それは、よかったです。」

ルリスティが、穏やかに微笑む。


ジェイクはもう一枚を取り出し、今度はルリスティの前へ差し出した。

「はい、どうぞ。」

「私は、今は――」

「一枚食べるまで、報告書は渡しませんよ。」


ルリスティは、差し出された焼き菓子ではなく、

ジェイクの手元に置かれた報告書へ視線を向けた。


「なぜですか?」

「俺が、そう決めたからです。」

「横暴ですね。」

「食事を抜いて仕事を続ける司令ほどじゃありませんよ。」


ルリスティは、差し出された焼き菓子と、ジェイクの顔を交互に見た。

ジェイクが引く様子はない。

やがて、諦めたように焼き菓子を受け取った。


「……いただきます。」

小さく、一口齧る。

その瞬間。

紫水晶の瞳が、ほんの僅かに和らいだ。


「美味しいです。」

「甘いもの、好きなんですか?」

「好きですよ。」

「意外ですね。」

「何がです?」

ルリスティは、残りの焼き菓子を手にしたまま首を傾げた。


「苦い紅茶だけで生きていそうだと思っていました。」

一瞬の沈黙の後、ルリスティが小さく吹き出した。

「さすがに、それでは生きられません。」


その笑顔は、司令官として兵士たちへ向ける、

穏やかな微笑みとは少し違い年相応の、

十七歳の少女らしい笑みだった。

ジェイクも、つられるように口元を緩める。


けれど、その笑みはすぐに消え、

ルリスティは残りの焼き菓子を机へ置き、

再び羽根ペンを手に取った。


「あと少しで終わりますので。」

「……。」

ジェイクは黙って、その横顔を見つめた。


笑いかければ、笑ってくれる。

話しかければ、穏やかに答える。

誰に対しても親切で、困っている者がいれば迷わず手を差し伸べる。


けれど、誰かが自分へ手を伸ばそうとすると。

大丈夫ですと笑って、いつの間にか一歩下がっている。

近づいたと思えば、必ずその先へは踏み込ませない。

そんな目には見えない一線が、彼女の周囲にはあるように思えた。


「司令」

「はい?」

羽根ペンは、止まらない。

「一つ、聞いてもいいですか。」

「何でしょう」

「いつから、そんなふうに一人で何でも抱え込むようになったんです?」


羽根ペンの先が、紙の上で止まった。

窓の外から、夜間警戒の兵士が歩く足音が微かに聞こえる。

ルリスティは羽根ペンを持ったまま、数秒ほど考え込んだ。

やがて、本当に質問の意味が分からないというように、首を傾げる。


「別に、抱え込んではいませんよ?」

「……そうですか。」

「司令官として、必要なことをしているだけです。」


ジェイクは、机に積まれた書類へ視線を落とした。

どう見ても、一人で処理する量ではない。


「一人で?」

「一人ではありません。」

ルリスティは、すぐに否定した。


「クルトワ中佐も、各部隊の皆さんも、

本部にいる方々も、私を支えてくださっています。」

穏やかに、けれど迷いなく答える。

「私には、皆さんがいますから。」

「そういう意味じゃないんですけどね。」


ジェイクは、小さく息を吐いた。

この少女は本当に分かっていないのだ。

大勢の者に囲まれていることと、自分の弱さを誰かへ預けることが、

まったく別のものであることを。


「マルセリア少佐。」

「はい。」

「ご心配いただき、ありがとうございます。

少佐は、優しい方なのですね。」

ルリスティは、少しだけ困ったように笑った。


「普通ですよ。」

「そうでしょうか。」

「そうです。」

ジェイクは肩を竦めた。


上官が倒れそうになるまで働いているのを見れば、

さすがに放ってはおけない。

それくらいは、ごく普通のことだと思っている。


ルリスティは、机へ置いた焼き菓子を再び手に取った。

小さく齧りながら、少し考えるように視線を落とす。

「でしたら……。」

少し考えるように、視線を落とす。

「辺境防衛軍の皆さんは、優しい方ばかりなのですね。」


その言葉にジェイクは、何も返せなくなった。

自分へ向けられた心配すら、

この少女は、自分個人が案じられているからだとは受け取らない。

周囲の者たちが優しいからだと。

そう考えて、終わらせてしまう。


――ああ。

ジェイクは、ふと思った。

この人はきっと、誰よりも他人へ優しい。

だから、自分のことだけはいつも最後になるのだ。


「司令。」

「はい?」

「その書類、俺にもできるものを分けてください。」

「え?」

ジェイクは、机に積み上げられた書類へ手を伸ばした。


「確認が必要な箇所だけ、印をつけてください。」

束の厚さを確かめるように、軽く持ち上げる。

「整理と下読みは、俺がやります。」

ルリスティの手が、書類を守るように束の端へ添えられた。


「ですが、これは司令官が確認すべき書類です。」

「最終確認は、司令がしてください。」

ジェイクは、書類から手を離さない。

「その前段階まで、全部一人でやる必要はないでしょう。」


「マルセリア少佐にも、明日の任務があります。」

「司令にもありますよね?」

「それは……。」


初めてルリスティの返答が詰まった。

ジェイクは口元へ笑みを浮かべたまま、僅かに声を強める。

「半分。」


ルリスティは、抵抗するように書類の束を見つめていた。

けれど、ジェイクが引くつもりはないと悟ったのだろう。

やがて、自分が確認しなければならない箇所を示しながら、

半分ほどの書類を差し出した。


「……お願いします。」

「はい。確かに。」

ジェイクは書類を受け取り、近くの椅子を机の前まで引き寄せた。

そのまま腰を下ろし、最初の一枚へ目を通し始める。

ルリスティは少しだけ懐かしそうな目で、その姿を見つめていた。


「少佐は。」

「何です?」

「亡くなった父に、少し似ています。」


「ぶふっ。」

口へ運びかけていた二枚目の焼き菓子を、

危うく吹き出すところだった。


「何です、急に!」

「父も、私が無理をするとよく怒っていましたので。」

ルリスティの視線が、ジェイクの抱えた書類へ向く。


「こうして書類を取り上げられたこともあります。

……なんだか、懐かしいです。」

その表情が、僅かに和らぐ。


ジェイクは、言葉を失った。

女性から誰かに似ていると言われたことなら、

これまでにもあった。


過去の恋人。

好きだった俳優。

飼っていた大型犬。


けれど、父親に似ていると言われたのは人生で初めてだった。

しかも、相手はまだ出会って間もない十七歳の上官である。

喜ぶべきなのか、複雑に思うべきなのか。

どう反応するのが正解なのか、まるで分からなかった。


「少佐?」

「……勘弁してください。」

「何がでしょう?」

「何でもありません。」


ルリスティは、不思議そうに首を傾げる。

その姿が少しだけ可笑しくて、

ジェイクは思わず笑ってしまった。

ルリスティも、理由は分からないまま小さく笑う。


今は、それでいいのかもしれない。

無理をしていることさえ、本人はまだ気づいていない。


ならば、一人で抱え込もうとするたびに、

こうして書類を半分奪えばいい。

食事を忘れるなら、焼き菓子の一枚でも食べさせればいい。


いつか、この少女が、

大丈夫ではない時に、大丈夫ではないと言えるようになるまで。


「司令。」

「はい?」

「それを食べ終わったら、残りも俺がもらいます。」


ルリスティの手が止まった。

次の瞬間、焼き菓子の缶を素早く自分の方へ引き寄せる。

「これは、私の分です。」

ジェイクは目を丸くし、それから、声を上げて笑った。


「甘いもの、好きなんじゃないですか。」

「好きだと言いました。」

「なら、最初から素直に食べればいいでしょう。」

「仕事中でしたので。」

「今も仕事中ですよ。」


ルリスティは答えず缶を守るように片手を添えたまま、

もう一枚焼き菓子を手に取った。

その様子にジェイクは再び笑いながら、

手元の書類へ視線を戻した。


その夜。

司令官執務室の明かりが消えたのは。

いつもより、少しだけ早かった。

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