第11話 休まない司令官
ジェイク・マルセリア少佐が、
辺境防衛軍へ赴任してから二週間が過ぎた。
「少佐、次の非番は酒場へ行きましょう!」
「お前、先週も同じこと言ってただろ。」
「先週は緊急出動で潰れたじゃないですか。
少佐が来てから、魔獣が増えた気がしますよ。」
「人を災厄みたいに言うな。」
朝の食堂に、兵士たちの笑い声が響く。
軽口が多く、女好き。
そんな噂は、赴任して早々に広まった。
だが、任務となれば話は別だった。
訓練では誰より厳しく、前線では部隊の先頭に立つ。
撤退時には最後尾を引き受け、負傷者が出れば自ら背負って帰還する。
兵士たちはすでに、
首都から来た軽薄な男を第一部隊長として認め始めていた。
「ところで少佐。首都にいた女性とはどうなったんです?」
「どの女性の話だ?」
「聞き返す時点で駄目でしょう。」
「全員と円満に別れてきたぞ。」
「全員って言いました?」
笑い声を背に、ジェイクは朝食の盆を持って食堂を見渡した。
その視線が、隅の席で止まる。
一人の男が、食事にも手をつけず、分厚い報告書を読んでいた。
整えられた軍服。
無駄のない姿勢。
周囲がどれほど騒がしくても、
書類から視線を上げることすらない。
辺境防衛軍第二部隊長
マイク・クルトワ中佐
四十歳になる、古参の将校だった。
自ら先頭へ立ち力で戦線を切り開くジェイクとは、
まるで異なる種類の軍人である。
戦況分析と作戦立案、兵站や補給の管理。
共和国式の魔導兵器、防護障壁装置、魔導錬金術にも精通している。
部隊を率いる能力も十分に備えているが、
その本領は知識と判断によって軍全体を支えることにあった。
前司令官クラウスの時代から、辺境防衛軍の戦術と技術、
その両方を支えてきた参謀型の将校である。
「朝食くらい、書類を置いたらどうです?」
ジェイクはクルトワの向かいへ腰を下ろした。
「その言葉は、司令官へ言っていただきたい。」
クルトワは報告書から目を上げずに答える。
「あの方は、今朝も食堂へ来ていない。
昨夜の夕食も、手つかずで戻された。」
「昨日の昼は?」
「前線視察の途中で、携帯食を半分。」
ジェイクの手が止まった。
「それ、食事に入ります?」
「司令の中では入るらしい。」
クルトワは、ようやく報告書を閉じた。
その顔には、疲労と諦めが同じくらい浮かんでいる。
ジェイクは、夜明け前に見かけたルリスティの姿を思い出した。
第一部隊の巡回から戻った時、
彼女は、外壁の防護障壁装置を確認していた。
その後、負傷兵の様子を見るため治療棟へ向かう姿も見ている。
「司令って、いつ寝てるんです?」
「私も知りたい。」
即答だった。
「中佐でも止められないんですか?」
「前司令官が亡くなられてから、
以前にも増して仕事を抱え込むようになった。」
クルトワは、報告書の表紙を指で軽く叩く。
「部隊の再編、首都への報告、補給計画、前線指揮。
兵士や遺族への対応まで、すべて自分で確認しようとする。」
「誰かに任せりゃいいでしょう。」
「全員がそう言っている。」
「本人は?」
「大丈夫です、と。」
ジェイクは天井を仰いだ。
赴任してから二週間、その言葉はすでに何度も聞いていた。
大型種を二体同時に受け止めた後も。
魔力を使い果たす寸前まで、防護障壁を維持した時も。
三日続けて前線へ出た時も。
ルリスティは決まって、同じように微笑んだ。
――大丈夫です。
「全然、大丈夫じゃねえな。」
「ようやく気づいたか。」
「働きすぎだとは思ってましたけど、想像以上ですね。」
「我々が仕事を引き取れば、その分だけ別の仕事を始める。」
「止める方法は?」
クルトワは、感情の薄い目でジェイクを見た。
「あるなら、すでに試している。」
◇
その日、ジェイクは意識してルリスティの動きを追ってみた。
早朝には外壁と防護障壁装置を視察。
朝の作戦会議では、各部隊の報告を確認しながら、
補給物資の不足を指摘した。
午前中は新兵の訓練へ立ち会い。
昼前には、黒淵西部に現れた魔獣の討伐へ出動した。
帰還後、軍服の袖に血をつけたまま負傷兵を治療棟へ運ぶ。
それが本人の血ではないことを確認し、ジェイクはひとまず息を吐いた。
午後には首都へ送る報告書を作成し。
夕刻には、戦死した兵士の家族へ送る手紙を自ら書いていた。
「……あの人、何人いるんだ?」
廊下の窓から執務室を眺めながら、ジェイクが呟く。
隣にいたクルトワが、平然と答えた。
「一人だ。」
「だから問題なんですよ。」
「同感だ。」
短いやり取りの間にも、ルリスティは次の書類へ手を伸ばしていた。
◇
その夜。
第一部隊の訓練報告書を提出するため、
ジェイクは司令官執務室を訪れた。
時刻はすでに日付が変わる頃。
それでも、扉の隙間からは明かりが漏れている。
二度、扉を叩く。
「どうぞ。」
返ってきた声には、微かな疲れが滲んでいた。
扉を開けると、ルリスティは執務机へ向かっていた。
机には書類が積み上げられ、
傍らに置かれた夕食にはほとんど手がつけられていない。
「第一部隊の訓練報告です。」
「ありがとうございます。そこへ置いてください。」
ルリスティは顔を上げることなく答える。
ジェイクは書類を置いたが、その場から動かなかった。
「司令。」
「はい?」
「最後にまともに寝たの、いつです?」
羽根ペンの動きが止まる。
「昨日は、少し眠りました。」
「何時間?」
「……覚えていません。」
「それは寝たうちに入りませんよ。」
ルリスティは困ったように眉を下げた。
「ですが、まだ仕事が残っています。」
「明日に回せばいい。」
「明日には、明日の仕事が増えます。」
「だからって、今日の自分を使い潰す気ですか。」
ジェイクの声から、いつもの軽さが消えていた。
ルリスティが、ようやく顔を上げる。
目元には、はっきりと疲労が浮かんでいた。
「私は司令官です。皆さんの命を預かっています。」
「だからこそでしょう。」
ジェイクは、真っ直ぐにルリスティを見る。
「自分が倒れないように仕事を振り分けるのも、司令官の役目です。」
ルリスティは何も答えず、書棚へ視線を向けた。
「ですが、あの報告だけは今夜中に確認しなければ……」
書棚へ置かれた報告書を取りに行こうとした、その瞬間。
細い身体が、僅かに傾いた。
ジェイクは咄嗟に腕を伸ばし、ルリスティの身体を支える。
「ほら。」
「……少し、立ち眩みがしただけです。」
「それも何度目だと思ってるんです?」
「大丈夫です。」
「その台詞もです。」
その時、開いたままの扉の向こうから低い声がした。
「やはり、まだ起きておられましたか。」
クルトワ中佐が、書類を手に立っていた。
その視線が、ジェイクに支えられているルリスティへ向く。
「明日の補給会議に使う資料をお持ちしましたが、
今夜は渡さない方がよさそうですね。」
「ですが――」
「この二週間で、前線への出動は三度。
睡眠は平均三時間以下。まともに食事を取った日は二日です。」
ルリスティが僅かに目を逸らす。
「数えていたのですか。」
「必要でしたので。」
「何のために?」
「いつ倒れるかを予測するためです。」
「笑えねえ…。」
ジェイクの呟きにクルトワは真顔で返した。
「私も笑っていない。」
クルトワは机へ近づき、書類の束を確認する。
補給計画書、魔導兵器の整備記録、防護障壁装置の稼働報告。
それらを、迷いなく手元へ引き寄せた。
「補給と魔導設備に関する書類は私が引き受けます。」
ジェイクも残った束へ手を伸ばす。
「第一部隊関連と、明日の巡回計画は俺が。」
「お二人にも、ご自分の仕事があるでしょう。」
「これも仕事です。」
クルトワは淡々と答えた。
「我々は、あなたの部下です。
命令を受けるだけの存在ではありません。
任務を分担し、あなたを支えることも我々の役目です。」
ルリスティは、二人を見つめたまま黙り込んだ。
ジェイクは、彼女の腕から手を離し少しだけ声を和らげた。
「もっと周りを頼れって、誰かに言われませんでした?」
紫水晶の瞳が、僅かに揺れた。
「前司令官が、よく仰っていましたね。」
クルトワが答える。
『お前は頑張りすぎる。』
『一人で何もかも背負おうとするな。』
『少しは周りを頼れ。』
父の言葉を思い出したのだろう。
ルリスティは、しばらく何も言わなかった。
やがて、諦めたように、細く息を吐く。
「……三時間だけ休みます。」
「五時間です。」
クルトワが即答した。
「なぜ増えるのですか?」
「食事を取った後、五時間。」
「これ以上交渉するなら、担いで治療棟へ連れていきますよ。」
ジェイクも加わると、ルリスティは二人の顔を順番に見た。
逃げ道はないと悟ったらしい。
「……分かりました。食事を取って、五時間休みます。」
「よろしい。」
クルトワが頷く。
ジェイクは、机の上で冷え切った夕食を指差した。
「それは温め直してもらいましょう。」
「そこまでしていただかなくても…。」
「食べるまで見張りますからね。」
ルリスティは、少しだけ眉を寄せた。
「マルセリア少佐。」
「何です?」
「あなたは、思っていたより面倒な方ですね。」
ジェイクは笑った。
「よく言われます。」
◇
ルリスティが食事と休息のために執務室を出た後。
ジェイクとクルトワは、残された書類を分けていた。
「司令は、いつもああなんですか?」
「ああ。前司令官が亡くなられてからは、特にな。」
クルトワは、魔導兵器の整備記録へ目を通しながら答えた。
「自分が誰より働かなければ、司令官として認められないと思っている?」
「おそらくな。」
短い返事だった。
「だが、この軍にいる者の多くは、すでにあの方を認めている。」
クルトワは書類から顔を上げる。
「前司令官の娘としてではない。
ルリスティ・トリウリッドという、一人の司令官としてだ。」
「本人だけが、それに気づいていないと。」
「そういうことだ。」
ジェイクは、ルリスティが座っていた椅子を見る。
兵士たちには今日も生きて帰ろうと言う。
一人も置いていかないと、迷いなく言い切る。
けれど、その中へ自分自身だけを入れていない。
「面倒な司令官だな。」
「貴官に言われたくはないだろう。」
「確かにそうですね。」
ジェイクは笑い、自分の分の書類を抱えた。
「まずは司令官本人にも、生きて帰る人数へ入ってもらわないとな。」
クルトワは、僅かに目を細める。
「それができるのなら…。」
淡々とした声に、ほんの少しだけ期待が滲む。
「貴官が辺境へ来たことにも、意味があったのかもしれない。」
「もう少し高く評価してくれてもいいでしょう?」
「今後の働き次第だ。」
「厳しいな、中佐殿は。」
こうして。
赴任から二週間。
ジェイクは、十七歳の司令官が抱える、もう一つの問題を知った。
魔獣よりも、黒淵よりも。
ある意味では、ずっと厄介な問題。
ルリスティ・トリウリッドは、
誰よりも多くの者を守ろうとしながら。
自分を守ることだけが、ひどく苦手な少女だった。




