第10話 十七歳の司令官
辺境防衛軍本部
「こちらが、司令官執務室です。」
案内役の兵士が、重厚な扉の前で足を止めた。
「くれぐれも、失礼のないようにお願いします。」
「分かってますって。」
本当に分かっているのだろうか。
案内役の兵士は一抹の不安を覚えながら、扉を叩いた。
「司令。ジェイク・マルセリア少佐をお連れしました。」
「どうぞ。」
扉の向こうから、鈴のように澄んだ声が返ってくる。
「失礼します。」
扉が開いた。
執務室の中央に置かれた大きな机には、黒淵周辺の戦況図が広げられている。
その向こうに、一人の少女が立っていた。
長く、真っ直ぐな白銀の髪。
曇りのない、紫水晶の瞳。
漆黒の軍服に包まれた華奢な身体と、
まだ少女らしい幼さを残した整った顔立ち。
その白銀と紫の色彩は、
共和国の古い神話画に描かれる、星と湖の女神を思わせた。
もっとも、神話の女神など、描かれた時代や土地によって姿が異なる。
ジェイクも、目の前の少女と伝承を本気で結びつけたわけではない。
ただ、その姿を見た瞬間、率直に思った。
――めちゃくちゃ美少女だ。
辺境には、美人が多いのか。
そんな軽口を叩いたばかりだったが、
まさか赴任早々、ここまで目を引く少女を目にするとは思わなかった。
だが、その容姿へ意識を奪われたのは、ほんの一瞬だった。
次にジェイクの目が捉えたのは、少女の肩と胸元に輝く徽章。
辺境防衛軍司令官であることを示す、司令官章と准将の階級章だった。
――この子が、例の十七歳の司令官か。
聞いていたとはいえ、実際に目の前にすると、やはり信じ難い。
けれど、ジェイクはその驚きを表へは出さなかった。
少女の前まで進み、姿勢を正して敬礼する。
「本日付で、辺境防衛軍第一部隊長へ着任いたしました、
ジェイク・マルセリア少佐です。」
先ほどまで案内役の兵士と軽口を交わしていた男とは、
同じ人物とは思えないほど、
声も、姿勢も、一人の軍人として、整っていた。
少女もまた、静かに敬礼を返す。
「辺境防衛軍司令官、ルリスティ・トリウリッド准将です。
遠方より、ご苦労さまでした。今後とも、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
ジェイクは軍服の内側から辞令を取り出し、ルリスティへ差し出した。
彼女はそれを受け取り、記載された内容へ素早く目を通す。
「辞令を確認しました。」
ルリスティは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「ようこそ、辺境防衛軍へ。」
「ありがとうございます。」
返された辞令を受け取りながら、ジェイクはもう一度ルリスティを見た。
長い白銀の髪に、紫水晶の瞳。
目を引くほど整った容姿であることは、間違いない。
だが、ジェイクの視線を引きつけていたのは、それだけではなかった。
まだ幼さの残る少女が、准将の階級章を身につけ。
共和国の最前線を預かる司令官として、目の前に立っている。
聞いてはいたものの、実際に見るとやはり異例の光景だった。
「何か?」
視線に気づいたルリスティが、不思議そうに尋ねる。
「いえ。」
ジェイクは、返された辞令を軍服の内側へ収めた。
「十七歳の司令官というのが、
どのような方なのか気になっていたんです。」
「そうでしたか。」
ルリスティは、素直に頷いた。
「ご期待に添えるかは分かりませんが、
司令官として必要な責務は果たすつもりです。」
「……ずいぶん真面目ですね。」
「軍務についてのお話ではないのですか?」
「いや、間違ってはいませんけど。」
ルリスティは、ますます不思議そうに首を傾げた。
ジェイクは、小さく笑う。
「軍務局長から、本人を見れば分かると言われましてね。
これから、確かめさせていただきます。」
「はい。前線へ出れば、すぐにお分かりいただけると思います。」
ルリスティは、真っ直ぐにジェイクを見返した。
「できれば、着任初日くらいは、
平和であってほしいところですけどね。」
その時。
執務室の扉が、勢いよく開かれた。
「司令!」
通信兵が、息を切らしながら飛び込んでくる。
「黒淵東部に魔獣の群れが出現!第五小隊が接触しました!」
ルリスティの表情が変わった。
穏やかさは失われていない。
けれど、紫水晶の瞳へ鋭い光が宿る。
「数と種類を。」
「小型種が三十、中型種が七!」
「後方から、大型種が二体接近しています!」
ルリスティは、すぐに戦況図へ向き直った。
「第五小隊へ、東部第二防衛線まで後退を指示。」
細い指が、戦況図の上を迷いなく滑る。
「第六小隊は南側から迂回し、小型種の退路を塞いでください。」
「魔導砲部隊は、第五小隊が防衛線を越えるまで待機。」
「了解!」
「大型種二体は、私が防護障壁で止めます。」
ルリスティは、机の横に置かれていた二丁の魔導銃を手に取った。
その迷いのない動きにジェイクは、
彼女が自ら前線へ出るつもりなのだと悟る。
「俺も同行します。」
ルリスティが振り返った。
「まだ、着任されたばかりです。」
「だからこそ、現場を見ておきたい。」
ジェイクの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「第一部隊長として、この土地の戦い方を知る必要があります。」
背負っていた大型魔導剣の位置を確かめる。
「それに、司令だけを前線へ行かせるわけにもいかないでしょう?」
ルリスティは、一瞬だけジェイクを見つめた。
軽薄な笑みは、すでに消えている。
そこにいるのは、
状況を理解し自分の役目を果たそうとする一人の軍人だった。
「分かりました。前線では、私の指示に従ってください。」
ルリスティは、静かに頷いた。
「了解、司令。」
◇
黒淵東部
第二防衛線
第五小隊は、小型魔獣の群れを相手に後退を続けていた。
その背後から。
二体の大型種が、地面を揺らしながら迫ってくる。
「大型種が来るぞ!」
「防衛線まで、あと少しだ!」
巨大な魔獣が速度を上げた。
その突進が、第五小隊を正面から捉える。
「間に合わない!」
次の瞬間。
「――多重防護障壁、展開。」
幾重もの半透明の光が、兵士たちの前へ広がった。
二体の大型種が、ほとんど同時に光の壁へ激突する。
ドゴォォォォン――!
凄まじい轟音。
大地が、激しく揺れた。
それでも光の壁は、僅かに軋んだだけだった。
「司令!」
兵士たちの声が上がる。
軍馬から飛び降りたルリスティは、
二体の大型種を防護障壁で受け止めたまま二丁の魔導銃を構えた。
「第五小隊は、そのまま後退。
第六小隊との合流後、反転してください。」
「了解!」
大型種が再び、防護障壁へ巨体を叩きつける。
白銀の髪が、衝撃で激しく揺れた。
華奢な身体が、僅かに後方へ押される。
それでもルリスティは、一歩も退かなかった。
右手の魔導銃が、一体目の片目を撃ち抜く。
ほとんど同時に左手の銃口が、もう一体の脚の関節を正確に穿った。
二体の大型種が、同時に体勢を崩す。
「魔導砲部隊は、そのまま待機。」
短い指示が飛ぶ。
まだ、第五小隊が射線から抜け切っていない。
大型種を倒すことよりも先に、味方を安全な位置まで退かせる。
その判断に、一瞬の迷いもなかった。
ジェイクは、その光景を見つめていた。
二体の大型種を同時に押さえ込む防護障壁。
左右の魔導銃で、それぞれ異なる標的を正確に牽制する技量。
自ら戦いながらも、戦場全体を見渡し、
必要な指示だけを、最小限の言葉で兵士たちへ伝えている。
この場にいる兵士たちは、誰一人として彼女の命令を疑っていない。
それどころか、司令官が来たというだけで、
崩れかけていた隊列が立て直されていく。
ジェイクは、軍務局長の言葉を思い出した。
――本人を見れば分かる。
なるほど、確かに見れば分かった。
「マルセリア少佐!」
ルリスティの声が飛ぶ。
「右側から、中型種が七体来ます!」
ジェイクが視線を向ける。
防衛線の側面から回り込み、第五小隊の退路を断とうとする魔獣の群れ。
「第五小隊の側面を守ってください。」
「了解、司令!」
ジェイクの表情が、瞬時に軍人のものへ変わった。
背負っていた大型魔導剣を抜き放ち、魔獣の群れへ駆け出す。
先頭の一体が、鋭い牙を剥いて飛びかかる。
ジェイクは足を止めることなく、大型魔導剣を横薙ぎに振り抜いた。
迷いのない一閃が、先頭の魔獣と、
その後ろに続いていた一体をまとめて薙ぎ払う。
残る五体が、左右へ分かれた。
「そう来ると思ったよ。」
ジェイクは、口元を上げる。
右から迫った二体の攻撃を、剣の腹で受け流す。
その勢いを利用して身体を回転させると、
魔力を纏った刃が弧を描き、一体の胴を切り裂いた。
背後から迫る気配。
ジェイクは振り返ることなく、柄頭を後方へ鋭く突き出した。
鈍い衝撃音とともに飛びかかってきた魔獣の顎が、大きく跳ね上がる。
動きに無駄はない。
大型魔導剣の重量を感じさせない鋭く正確な剣技だった。
「中型種、残り三体!」
兵士の声が飛ぶ。
「第五小隊、第二防衛線を通過しました!」
ルリスティが、戦場全体へ視線を巡らせる。
「魔導砲部隊、射撃準備。
第六小隊は反転。小型種を包囲してください。」
「了解!」
防護障壁の向こうで、大型種が再び動き出した。
一体が身を低くし光の壁を押し破ろうと全身へ力を込める。
ルリスティは、その動きを見逃さなかった。
「マルセリア少佐!」
ジェイクは、最後の中型種を斬り伏せながら顔を上げた。
「右側の大型種の脚を、止められますか?」
ジェイクは、大型種までの距離を測る。
「二十秒ください。」
「十五秒でお願いします。」
「着任初日から、厳しい上官だな!」
口ではそう言いながらもジェイクは、すでに走り出していた。
ルリスティが、防護障壁の形状を変える。
右側の大型種を押さえていた光の壁に、
人一人が通れるほどの僅かな隙間が開いた。
ジェイクは迷うことなく、その隙間へ飛び込んだ。
大型種の前脚が、頭上から振り下ろされ、
身体を横へ滑らせ巨大な爪を避ける。
そして、全身の力と魔力を大型魔導剣へ込め脚の関節へ叩きつけた。
硬い甲殻が砕ける。
大型種の巨体が、大きく傾いた。
「右脚、止めた!」
追撃の爪を避けながら、ジェイクは開かれた通路へ向かって一気に駆け戻る。
防護障壁の内側へ滑り込んだ、その直後。
ルリスティが通路を閉じた。
光の壁が再びつながり、体勢を崩した大型種を封じ込める。
「十四秒です。」
ルリスティは、戦場から目を逸らさずに告げた。
ジェイクが得意げに笑う。
「厳しい注文にも、間に合わせたでしょう?」
「はい。上出来です。」
ルリスティは右手を上げ、そのまま鋭く振り下ろした。
「魔導砲部隊、撃ってください。」
後方の魔導砲が、一斉に火を噴いた。
眩い魔力の奔流が、体勢を崩した大型種へ直撃する。
轟音とともに巨大な身体が、地面へ崩れ落ちた。
「大型種一体、撃破!」
兵士たちの声が上がる。
ジェイクはルリスティの隣へ立ち、再び大型魔導剣を構えた。
「残る一体も、同じように?」
「いいえ。」
ルリスティは、残る大型種の動きを見つめる。
「第五小隊と第六小隊が、すでに配置についています。」
左右から、二つの部隊が動き出す。
「今度は、全員で仕留めます。」
第五小隊と第六小隊が、残る大型種へ左右から攻撃を仕掛けた。
ルリスティの魔導銃が、目元と脚を正確に撃ち抜く。
体勢を崩した巨体へ、ジェイクの大型魔導剣が深く食い込んだ。
最後に放たれた魔導砲の一撃が、大型種を地面へ沈める。
ほどなく第六小隊に退路を断たれた小型種も、
兵士たちの集中攻撃によって殲滅された。
「東部戦線、鎮圧完了!」
歓声が上がる中、
ルリスティは、二丁の魔導銃を腰のホルスターへ戻した。
「負傷者を確認してください。」
「軽傷者、九名!」
「重傷者、死亡者ともにありません!」
報告を聞きルリスティは、小さく息を吐いた。
「そうですか。皆さんが無事で、何よりでした。」
ようやく、その表情が僅かに和らぐ。
ジェイクは、そんな彼女の横顔を見つめた。
十七歳。
華奢な少女。
けれどこの戦場において、
その年齢も容姿も、何の意味も持たなかった。
彼女は、誰よりも早く状況を把握し、
誰よりも前で兵士を守り、
一人も失うことなく戦いを終わらせた。
前司令官の娘だから、あの席にいるのではない。
十七歳で准将となった理由も、
辺境防衛軍の兵士たちが迷いなく彼女へ命を預ける理由も、
すでに十分すぎるほど分かった。
――この人の下で戦うのは、悪くない。
「マルセリア少佐。」
呼ばれ、ジェイクは顔を上げた。
「先ほどは、助かりました。」
「着任初日から、随分働かされましたけどね。」
「平和な一日を、ご希望でしたものね。申し訳ありません。」
ルリスティは、申し訳なさそうに眉を下げた。
どうやら、皮肉ではなく本気で謝っているらしい。
ジェイクは、思わず笑った。
「冗談ですよ、司令。」
大型魔導剣を肩へ担ぐ。
「思っていたより、ずっと悪くない着任初日でした。」
ルリスティは、その言葉の意味を測りかねたように首を傾げた。
けれど、すぐに穏やかに微笑んだ。
「それなら、よかったです。」
首都から来た少佐と、
十七歳の辺境防衛軍司令官。
この時二人の間にあったのは、
上官と部下というただそれだけの関係だった。
けれど、この最初の戦いを境に、
二人は幾度も互いの背中を預け。
やがて、
命さえ託せるほどの強い絆で結ばれていくことになる。
まだ二人はその未来を知らなかった。




