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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
最終章 二つの光が照らす朝
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第103話 未来へ帰る

地上では、なおも戦いが続いていた。


星の道を守る外周防衛隊の結界へ、

黒淵から溢れ出した魔獣の群れが何度も激突する。


帝国の結界術師が維持する光の壁。

その内側には、共和国の防衛術式班が展開した補助術式が幾重にも重ねられていた。

結界が揺れるたび、射出口から共和国兵の魔導銃が光を放ち、

その合間を帝国魔術師の攻撃術式が駆け抜けていく。


最前線では帝国騎士と共和国の魔導剣兵が並び、

撃ち漏らされた魔獣を迎え撃っていた。

帝国騎士が盾と結界で攻撃を受け止め、その脇から共和国兵が魔導の刃を振るう。


さらに両翼では、

大型魔導剣を持つ共和国の重装兵と帝国の盾兵が一つの隊列を組み、

大型種の突進を食い止めていた。


だが、倒しても斬り伏せても、黒淵の奥から新たな魔獣が這い上がってくる。

兵士たちの軍服は破れ、鎧は傷つき、

魔導銃を握る腕も剣を支える手も、とうに限界へ近づいていた。


それでも、誰一人として退かない。

黒淵へ続く星の道。

突入部隊が帰ってくる、ただ一つの道。

それだけは、決して閉じさせない。


「結界左翼、損傷!」

結界班から報告が飛んだ。

「予備術式を接続します!」


「外周防衛隊、左翼射撃班を移動!」

クルトワが戦況図へ指を走らせる。

「魔力残量のある者を優先してください!

撃ち続ける必要はありません。確実に動きを止めなさい!」


共和国の魔導銃兵が一斉に射線を移し、

青白い魔力弾が結界へ爪を立てていた魔獣の関節を撃ち抜いた。


体勢を崩した魔獣へ、リディアが駆け込む。


「退いてください!」


身の丈を超える戦斧を全身の力で振り上げ、魔力をまとった刃を外殻へ叩き込んだ。

轟音とともに巨体が結界の前から弾き飛ばされる。


「結界を閉じて!」


リディアが後方へ飛び退くと、結界班が即座に損傷箇所を塞いだ。

その頭上へ、歪な翼を持つ魔獣が急降下してくる。

リディアは戦斧を構え直したものの、まだ刃の届く距離ではない。


次の瞬間、長距離魔導銃から放たれた光が戦場を一直線に横切った。

飛行型の片翼が根元から撃ち抜かれ、巨体が結界の外側へ墜落する。


「遠距離支援群、次の目標へ移行」


離れた射撃陣地では、ガレスが照準器から目を離さないまま命じていた。


「飛行型を優先。帝国長距離魔術班は後続の進路を制限。

狙撃班は先頭個体を確実に落とす」


共和国の狙撃兵たちが新たな標的へ一斉に銃口を向け、

その後方では帝国魔術師たちの杖先へ攻撃術式が展開される。


「魔導砲隊は収束を維持。帰還を確認するまで、射線を閉じるな」

「了解!」

返ってきたのは、もはや国の違いすら感じさせない揃った声だった。


再び黒淵から瘴気が吹き出し、兵士たちの視界を覆う。

その奥で、赤い瞳がまた一つ灯った。


「次が来ます!」


帝国騎士たちが剣を構え、共和国兵が魔導銃へ魔力を収束させる。

魔導剣部隊も前へ出て、リディアも戦斧を握り直した。


その時だった。

大地の奥底から、何かが砕けるような音が響いた。


剣戟でも、魔導銃や魔導砲の轟音でもない。

もっと深い場所から、世界そのものへ響いてくるような、低く大きな音。


全員の足元が揺れる。

やがて黒淵の奥から、これまでとはまるで異なる眩い白光が昇り始めた。


「何だ……?」

一人の帝国騎士が呟く。


黒淵から這い上がろうとしていた魔獣が、突然動きを止めた。

振り上げられていた爪も、共和国兵へ向けられていた牙も、

まるで時を止められたかのように空中で静止する。


その身体へ細い亀裂が走った。

亀裂の内側から、白い光が溢れ出す。


一体。

二体。


やがて、戦場にいたすべての魔獣へ同じ光が灯った。


「共同軍全隊、警戒を継続してください!」


クルトワの声に、兵士たちは武器を下ろさない。

何が起きているのか、まだ誰にも分からなかった。


次の瞬間。

魔獣たちの身体が、音もなく崩れ始めた。


黒い外殻も、牙も爪も、歪な翼も、すべてが白い光の粒へ変わっていく。


最後まで地上へ這い上がろうとしていた巨大な魔獣も、

その赤い瞳から光を失い、無数の粒となって空へ昇った。


一体残らず、魔獣が消えた。

戦場を満たしていた咆哮が途絶える。

魔導銃の音も、剣戟も、結界へ巨体が激突する轟音も消えた。

残ったのは、信じられないほどの静寂だけだった。


兵士たちは、剣や杖を構えたまま動かない。

あまりにも長く戦い続けてきた。

だからこそ誰も、突然訪れた静けさをすぐには信じることができなかった。


◇


黒淵の縁に立っていたリディアが、ゆっくりと戦斧を下ろした。

これまで黒く渦巻いていた瘴気が、今は内側から白い光に照らされている。

その光は黒淵の壁を伝い、少しずつ地上へ向かって昇ってきた。


「クルトワ中佐」

「観測中です」


クルトワは戦況図と魔力観測盤を交互に確認する。

黒淵から発せられていた異常な魔力波は、急速に低下していた。


「核の反応は」

観測兵の声が震える。

「……ありません」


「再確認を」

「すべての観測器で確認しています」


術式を操作する手も僅かに震えていた。


「災厄の核と同一の魔力波長、完全に消失しています」


それでも、誰も歓声を上げなかった。

喜ぶには、まだ一つ足りない。


クルトワは通信術式へ手を伸ばす。


「総司令官」

返事はない。

「トリウリッド総司令官、応答してください」


雑音すら返ってこなかった。

黒淵内部へ繋がっていた魔力通信そのものが、白い光の中へ消えかけている。


「突入部隊、応答を。アークファイント卿、アレクシス殿下、ヴィオレット殿下」


それでも、誰の声も返ってこない。

リディアは黒淵の奥を見つめた。


突入部隊が進んでいった銀白色の星の道は、

すでに内側から昇る眩い光へ飲み込まれ、どこにも見えなくなっている。


「まだです。まだ、帰還を確認していません」

自分自身へ言い聞かせるように、リディアが呟いた。


「そのとおりです。俺たちの任務は、全員が戻るまで終わりません」

ガレスも長距離魔導銃を下ろすことなく、白く染まり始めた黒淵を見据えた。


クルトワも頷き、統合通信網を開く。


「共同軍全隊、現在位置を維持してください。作戦はまだ終了していません。

救護班は帰還者の受け入れ準備を。外周防衛隊は黒淵周辺の安全を確保。

遠距離支援群は引き続き周辺警戒をお願いします」


帝国兵も共和国兵も、誰一人として武器を収めなかった。

所属する国に関係なく、全員が同じ白い光の奥を見つめている。


突入部隊七名。

その全員が戻るまで、共同軍の任務は終わらない。


◇


その頃、突入部隊は崩れゆく黒淵内部を走り続けていた。


「急げ!」

アレクシスが先頭を駆ける。


足元の星の道は、進むそばから亀裂が走り、

銀白色の光の粒となって暗闇へ崩れ落ちていった。


その背後からは、聖霊王の涙が生み出した白い光が迫ってくる。


黒い霧を消し、黒淵内部に残っていた歪みを癒やしながら、

災厄に侵食されていた場所そのものを光へ変えているのだ。


「出口までの距離は!」

アレクシスが叫ぶ。


ルシアンは走りながら観測術式を広げ、黄金の光を崩れゆく道の先へ伸ばした。

「直線距離なら、もう近いはずです!」


「近いはず、では分からないわ!」

ヴィオレットもルシアンに支えられながら杖を掲げ、

紫の観測術式を黄金の光へ重ねる。


しかし、その先に地上へ続く星の道は見つからなかった。

ヴィオレットの表情が変わる。


「黒淵内部の歪みが急速に消えている。

そのせいで、来た時とは道筋そのものが変わっているわ」


「別の帰路は探せますか」

リカルドが尋ねた。

その腕にはクリスティが抱かれている。


クリスティは自分で走れると言ったものの、

祝福を使い続けた身体には、もうほとんど力が残っていなかった。


一度目の核を断った際に両腕を傷つけたリカルドも、

決して余裕があるわけではない。

それでも、クリスティを支える腕を緩めることはなかった。


「探しています!」

ルシアンが答えた直後、後方の星の道が大きく崩れた。


銀白色の光が途中から失われ、深い暗闇が口を開く。

ジェイクはルリスティの腕を支えたまま、崩れる寸前の道を蹴った。

二人の身体が亀裂を飛び越え、着地したルリスティの膝が大きく揺れた。


「司令」

「進んでください」

「あなたを支えているのですから、一緒に進みます」


ルリスティは言い返さなかった。

もう魔力はほとんど残っていない。


星導の魔導銃は胸元の銀色の星へ戻り、

聖霊王の涙があった場所には何も残されていなかった。

透明な雫は、最後の一滴まで世界を癒やす光へ変わったのだ。


黒淵に残された歪みが消えていく。

それは作戦が成功した何よりの証だった。

同時に、自分たちが帰るための道まで失われようとしている。


「止まれ!」

アレクシスの声に、全員が足を止めた。


数歩先で、星の道が完全に途切れている。

その向こうに広がっているのは、眩しいほどの白い光だけだった。


出口があるのか、その先がどこへ繋がっているのか。

観測術式を向けても何も読み取れず、

背後からは黒淵を癒やす白い光が刻一刻と迫っている。

もう、来た道を戻ることもできなかった。


「……飛び込むしかねえか」

アレクシスが白い光を見据える。


「待って」

ヴィオレットが観測術式を広げたが、紫の光は白い輝きへ触れた瞬間、

柔らかく溶けるように消えてしまった。


「敵意は感じないわ」


「安全という意味ではないでしょう」

リカルドが静かに返す。


「ええ。ただ、この光は聖霊王の涙と同じものよ」


その腕に抱かれたクリスティも、じっと白い光を見つめていた。


「……呼んでる」

「姫様?」

「分からないけど……そんな気がするの」


クリスティが胸元へ手を置く。太陽の祝福はほとんど消えかけていたが、

僅かに残った金銀の光が、白い輝きへ呼応するように静かに揺れていた。


ルリスティも胸元の銀色の星へ触れる。

小さなレリーフもまた、それに応えるように柔らかな光を返した。


「クリスティ」

「うん」


リカルドは彼女をゆっくりと下ろした。


「立てますか」

「大丈夫」


足をついたクリスティが一度よろめくと、リカルドがすぐに腕を添える。

その隣では、ジェイクもルリスティを支えたまま、ともに道の先へ進んだ。


二人の皇女が、途切れた星の道の先へ並ぶ。

クリスティがルリスティの手を取った。


「一緒に帰ろうね」


作戦が始まる前と同じ言葉だった。

ルリスティも、繋がれた手へしっかりと力を返す。


「当然です」


二人は揃って、白い光へ一歩を踏み出した。

そこには、本来なら足を置く場所などない。

けれど二人の足が光へ触れた瞬間、水面へ雫が落ちたような透明な波紋が広がった。


太陽と星の残光に呼応するように、

聖霊王の涙が残した白い光が二人の足元へ集まり、

やがて柔らかな道を形作っていく。


それは、二人の祝福が新たに作り出したものではない。

世界を癒やした聖霊王の光が、

帰ろうとする者たちのために最後に残してくれた道だった。


「道が……」

ルシアンが息を呑む。


クリスティとルリスティは手を繋いだまま振り返った。


「行きましょう」

ルリスティが仲間たちを見渡す。

「全員で」


アレクシスが笑った。

「それ以外に選択肢はねえな」


リカルドがクリスティのすぐ後ろにつき、ジェイクもルリスティの背後へ続く。

ヴィオレットはルシアンに支えられながら、その後へ足を踏み出した。


全員が白い光の道へ足を踏み出した直後、

背後に残されていた最後の星の道が完全に崩れ落ちた。


黒淵の暗闇が白い光へ呑み込まれていく。

七人は振り返ることなく、聖霊王の光が示す道を進んだ。

帰るべき未来へ。


◇


地上では、黒淵から昇った白い光が空へ届こうとしていた。


光の柱が夕暮れの雲を押し開く。

戦いが始まったのは、まだ空が白み始める前だったというのに、

気がつけば一日は終わろうとしていた。


西へ傾いた太陽が大地を赤く染め、

黒淵の縁に立つ兵士たちの鎧から長い影を伸ばしている。


やがて、最後の轟音が止んだ。


誰もが息を呑み、帝国軍も共和国軍も剣や杖、魔導武器を構えたまま、

目の前で起きている変化を見つめていた。


黒く渦巻いていた黒淵が、音もなく白い光へ溶けていく。

大地を覆っていた瘴気は消え、冷たく湿った風も止んだ。


代わりに穏やかな風が兵士たちの頬を撫で、

最後まで残っていた黒い霧も光へ変わって夕暮れの空へ昇っていく。


そして、最後の白光が薄れた時。

百五十年間そこにあり続けた巨大な黒淵は、もうどこにもなかった。


静まり返った戦場で、誰かが小さく息を呑む。


目の前には、水があった。

空を映す、どこまでも澄んだ水。


大地を裂いていた深い亀裂は、その形を穏やかに変え、一つの湖となっていた。

波一つない水面が夕陽を受けて黄金色に輝き、

まるで何百年も前から、ずっとそこにあったかのような静けさを湛えている。


誰も言葉を発しなかった。

戦いの終わりを喜ぶことさえ忘れ、ただ生まれたばかりの景色へ見入っている。

その中で、共和国軍の隊列にいた年若い兵士が、震える唇を開いた。


「星と……湖」


隣に立つ兵士が彼を見る。

けれど若い兵士は、夕暮れの空を映す湖から目を離さなかった。


共和国へ伝わる古い神話。

その姿も、何を成した存在なのかも、ほとんど失われている。

ただ、その名と僅かな伝承だけが残された女神。


「……女神アステリア」


小さな呟きだった。

けれど静まり返った戦場の中で、その名は不思議なほど遠くまで届いた。


共和国兵たちが黄金色の湖を見つめる。

帝国兵たちには、その名が持つ意味までは分からなかったが、

それでも誰一人として問い返す者はいなかった。


その時、湖の中央へ夕陽とは異なる光が一つ灯った。


「何だ?」


黄金色の水面に浮かんだ銀白色の輝きは、最初こそ小さな星ほどだった。

それがゆっくりと岸へ向かって伸び始め、

やがて湖面の上へ一筋の光の道を描いていく。


クルトワはすぐに観測盤へ視線を落とした。

停止していた術式が、再び反応を示している。


一つ。

そして、もう一つ。

失われていた魔力反応が、湖の中央へ次々と現れた。


「反応を確認!湖上に複数の人型反応!」

観測兵の声が裏返る。


クルトワが顔を上げた。


「数は!」

「七!」


観測兵はもう一度術式を確かめ、今度は確信を込めて叫んだ。


「七名! 全員です!」


その瞬間、ガレスが構え続けていた長距離魔導銃をようやく下ろし、

リディアも戦斧を握ったまま思わず湖へ一歩踏み出した。


報告が共同軍全体へ伝わるより早く、湖の中央に人影が見え始める。

最初は、白い光の中へ浮かぶ輪郭だけだった。


一人。

二人。


その後ろにも、幾つもの影が続いている。

それでも、誰もまだ声を上げなかった。


信じたい。

けれど、完全にその姿を確かめるまでは、信じることが怖かった。


人影は夕陽を背に、湖面へ伸びた光の道を歩きながら少しずつ岸へ近づいてくる。

やがて先頭に並ぶ、二人の女性の姿がはっきりと見えた。


同じ白銀の髪と、同じ紫水晶の瞳。

一人は共和国軍の漆黒の軍服をまとい、胸元に銀色の星を輝かせている。

もう一人は白銀の皇太子軍装を夕陽に染め、

消えかけた太陽の光をその身にまとっていた。


ルリスティと、クリスティ。

二歳で引き裂かれ、異なる国で育った双子が、

今は手を繋ぎ、同じ道を歩いて帰ってくる。


その後ろには黎明の剣を手にしたリカルド、

魔導大剣を背負いルリスティのすぐ後ろを歩くジェイク、

剣を肩へ担いだアレクシス。

そして、互いに支え合うヴィオレットとルシアンが続いていた。


全員が傷つき、疲れ果てている。

決して無傷ではない。

それでも、誰一人欠けることなく帰ってきた。


共和国兵の一人が、掠れた声を漏らした。

「総司令官……」


その声を聞いたルリスティが、湖の上から顔を上げた。


岸に並ぶ共同軍へ視線を巡らせる。

そこには、共和国でこれまでともに黒淵と戦ってきた兵士たちがいた。

クラウスが守り、自分が受け継いだ辺境防衛軍。


そしてその隣には、今日初めて同じ戦場へ立ち、

最後まで帰還路を守り抜いた帝国の騎士と魔術師たちが並んでいる。

誰一人として背を向けず、七人の帰りを待っていた。


「総司令官!」

今度は、はっきりとした声だった。


「トリウリッド総司令官!」

共和国兵から上がった声へ、帝国兵たちの声も次々と重なっていく。


「皇太子殿下!」

「クリスティ殿下だ!」

「アレクシス殿下も!」

「ヴィオレット殿下!」


抑え込まれていた歓喜が、一気に戦場へ広がった。


「突入部隊が戻ったぞ!」

「全員だ!」

「七名全員、生きている!」


次の瞬間、歓声が爆発した。


帝国軍も共和国軍も、どちらが先に叫び始めたのか、もう分からない。

剣が掲げられ、魔導銃が空へ向けられ、

兵士たちは隣にいる者の肩を叩きながら泣き、笑った。


もはや二つの軍が、それぞれの帰還者を迎えているのではない。

同じ道を守り抜いた共同軍が、七名全員の帰還を喜んでいた。

クリスティは驚いたように目を見開き、やがて涙を浮かべながら笑った。


「みんな、待っていてくれたね」

「ええ」


ルリスティも岸に並ぶ兵士たちを見つめる。


「帰還路を、守り抜いてくれました」


二人は手を繋いだまま、残された数歩を進んだ。


湖上を渡る白い光の道が岸へ届き、

ルリスティの靴が、かつて二つの国を隔てていた大地へ触れる。

その隣へクリスティも降り立った。


二人が振り返ると、仲間たちも次々と湖上の道を渡り終えていく。

最後にルシアンが大地へ足をつけた瞬間、

白い光の道が役目を終えたように、柔らかな粒へほどけ始めた。


銀白色の光は湖面へ沈むことなく、

星のように瞬きながら一つ、また一つと消えていく。


やがて湖には、再び夕陽の光だけが残った。


◇


クルトワがルリスティの前へ歩み出た。


軍服は土と血で汚れ、いつもの冷静な表情にも深い疲労が滲んでいる。

それでも背筋を伸ばし、共同軍地上部隊の指揮を預かった者として敬礼した。


「奈落門・黒淵消滅共同作戦、共同軍地上部隊」

その声が、僅かに震える。

「現地総指揮官を含む、突入部隊七名全員の帰還を確認しました」


ルリスティは、クルトワの後ろに立つ兵士たちへ視線を向けた。


傷ついた者もいれば、仲間へ肩を貸している者もいる。

異なる軍服をまといながら、同じ隊列の中に立つ者たち。


共和国の砦で何度も見てきた顔もあれば、

今日初めて同じ戦場へ立った帝国の人々もいた。


ルリスティはゆっくりと姿勢を正し、

疲労で僅かに震える右手を上げて敬礼を返した。


「共同軍地上部隊の任務遂行を確認しました」


それから、ほんの少しだけ表情を緩める。


「ただいま、戻りました」


クルトワの目が僅かに細められる。


「お帰りなさいませ、総司令官」


その言葉を合図に、共和国兵たちが一斉に敬礼し、帝国兵たちも剣を胸元へ掲げた。

ガレスも長距離魔導銃を背へ戻し、静かに敬礼する。


「遠距離支援群、帰還路援護任務を完了しました」

「確認しました。最後まで道を守ってくれたことに感謝します」

「それが、残った者の役目です」


短く答えたガレスの表情にも、隠しきれない安堵が浮かんでいた。


ルリスティは、その光景を静かに見渡す。

自分が生まれた国。

自分を育てた国。

その二つが、今は同じ場所に立っていた。



少し離れた場所では、

リディアがアレクシスの姿を見つけるなり、思わず数歩駆け寄っていた。

けれど途中で足を止める。

奈落騎士団副団長としての立場を思い出したように姿勢を正し、深く頭を下げた。


「団長。ご帰還を確認しました!」


アレクシスは疲れの滲む顔で、それでもほっとしたように笑う。


「ああ。帰ったぞ」


その声を聞いて、リディアが顔を上げた。

琥珀色の瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。

それでも口元には笑みが浮かび、

泣きそうなのか笑っているのか分からないような顔のまま、彼女は言った。


「……お帰りなさい!」


アレクシスはその泣き笑いを見つめ、一瞬だけ目を細める。

そんな二人を見守っていた帝国騎士たちの間から、

堪えきれないように歓声が湧き起こった。



ヴィオレットとルシアンのもとへは待機していた魔術師たちが走り寄り、

リカルドの前には帝国騎士団員たちが集まっていく。

誰もが、それぞれ大切な仲間の帰還を確かめていた。


それでも、人々はもう二つの輪には分かれなかった。


共和国兵が帝国騎士のために救護班を呼び、

帝国の治癒術師が共和国兵と突入部隊の傷を分け隔てなく確認する。


共和国の整備兵は帝国騎士の損傷した鎧を外すのを手伝い、

帝国の魔術師は魔力を使い果たした共和国兵へ肩を貸していた。


名前すら知らない者同士が、互いの無事を喜び、自然に支え合っている。


かつて二つの国を隔てていた場所で、人々はもう、

自分が境界のどちら側に立っているのかを意識することもなく行き交っていた。


◇


帝都。

皇城の作戦指揮室では、誰一人として椅子へ座っていなかった。


黒淵の魔力反応が消失した直後から前線との通信は完全に途絶え、

観測盤に映っているのは一面の白い光だけだった。


ルーファスはその光から目を離さない。


レオンハルトも中央の机へ片手をつき、

もう一方の手には報告を書き留めるためのペンを握ったまま、

ただ次の情報を待っていた。


「奈落門の反応、消失を確認」

観測魔術師が告げる。

その声に、まだ喜びはない。


「共和国側の黒淵観測器からも、同様の情報が届いています」

「地形は」

レオンハルトが問う。


「現在、確認中です」

「突入部隊は」

その問いには、誰も答えられなかった。


室内へ重い沈黙が落ちる。


ルーファスは前線を映す観測盤を見つめ続けていた。

クリスティ、ルリスティ、アレクシス、ヴィオレット。

そして、子どもたちとともに黒淵へ入ったリカルド、ジェイク、ルシアン。


今も生きているのか。

無事に地上へ帰ることができたのか。

何一つ分からない。


「通信、復旧しません」

魔術師の報告に、レオンハルトは机へついた指へ僅かに力を込めた。


「再接続を続けろ」

「はい」

「前線から報告が届くまで、作戦終了とは認めない」


声は冷静だった。

長男として、帝国の後方を預かる者として、

誰よりも落ち着いていなければならない。


それでも、机へついた手の下では一枚の書類が僅かに皺を作り、

もう一方の手に握られたペンにも無意識のうちに力がこもっていた。


ルーファスも何も言わない。

ただ、観測盤を満たす白い光を見つめている。


長い沈黙が続いた。

一秒が、一分よりも長く感じられる。

やがて、停止していた通信術式の一つが小さく明滅した。


「通信反応!」

魔術師が叫ぶ。


室内にいた全員が一斉に振り返った。

途切れた音と激しい雑音の向こうから、ようやく前線の声が届く。


『――皇城作戦指揮室、応答してください』

「こちら皇城!」

魔術師が術式へ飛びついた。


「前線、状況を報告せよ!」


一度、通信が大きく乱れる。

そして次に届いた声は、今度こそはっきりしていた。


『奈落門および黒淵の完全消滅を確認』

室内の空気が揺れた。

『跡地には、湖が形成されています』


誰かが小さく息を呑む。

だが、レオンハルトもルーファスもまだ動かなかった。

本当に聞きたい報告は、その先にある。


通信の向こうで声が一度詰まり、

喜びを押さえきれないような僅かな震えが混じった。


『突入部隊――』

作戦指揮室の全員が息を止める。

『七名全員の生存および帰還を確認しました』


作戦指揮室が、息を止めたように静まり返った。

その言葉の意味が室内へ行き渡るまで、ほんの僅かな時間が必要だった。


レオンハルトの指から、握っていたペンが滑り落ちる。

硬い床を、小さな音を立てて転がっていった。


普段ならすぐに拾っただろう。

けれど今は、それを見る余裕さえない。

レオンハルトはゆっくりと息を吐き、机へついていた手を離した。

そして、ほんの僅かに俯く。


長男として、皇族として、ずっと胸の奥へ押し込めていた安堵が、

ようやくその肩から力を抜いていった。


作戦指揮室のあちこちから歓声が上がる。

泣き出す者もいれば、隣に立つ者と抱き合う者、

張り詰めていた力が抜けて椅子へ崩れ落ちる者もいた。


それでもルーファスだけは、観測盤の前に立ったままだった。

ゆっくりと目を閉じる。


クリスティ。

ルリスティ。

アレクシス。

ヴィオレット。

リカルド。

ジェイク。

ルシアン。


全員が、生きて帰った。

十八年前、どれほど願っても叶わなかった。

連れ去られた娘を取り戻すことも、愛する妻を守ることもできなかった。

あの日から何度、もう二度と家族を失いたくないと願ったことか。


それでも皇帝である限り、

子どもたちをすべての危険から遠ざけ続けることはできない。

今回、父としてできたのは、彼らを信じ、帰る場所を守ることだけだった。


ルーファスは、壁に掛けられたフェリシアの肖像へ顔を向ける。

金色の髪とオリーブ色の瞳。

そこには、今も変わらない穏やかな笑顔があった。


「あの子たちは――全員、生きて帰ったぞ」


掠れた声とともに、目尻から一筋の涙が流れる。

ルーファスは、前線の向こうにいる子どもたちへ。

そして、もう触れることのできない妻へ。

静かに告げた。


「……よく帰ってきてくれた」


◇


湖の向こうへ、夕陽が沈もうとしていた。


黄金色だった水面は少しずつ深い青へ変わり、

空には最初の星が一つ、小さく輝き始めている。

その星は湖の水面にも映り、空と湖、二つの輝きが向かい合うように瞬いていた。


共和国兵の一人が、再び古い女神の名を口にする。


「アステリア……」


その名を聞いた兵士たちは、まだ知らない。

古い神話に女神として名を残すアステリアが、実在した聖霊王であったことを。

初代皇帝レオン一世とともに戦い、愛し合い、

一人の人間として生涯をともにしたことを。


そして、その血と力が今も受け継がれ、

湖のほとりに立つ二人の白銀の皇女へ繋がっていることを。


クリスティとルリスティは、並んで湖を見つめていた。

二人の少し後ろには仲間たちがいる。

さらにその向こうには、帝国軍と共和国軍。


二つの国の人々が、今は同じ湖を見ていた。


百五十年前、この場所に生まれた傷は二つの国を隔て、

互いの声を届かなくし、向こう側の国は滅びたのだと信じ込ませた。

けれど、その傷は今、空を映す静かな湖へ姿を変えている。


人々を拒み、分断するための裂け目から。

同じ空と、同じ星を映す場所へ。


ルリスティは湖の向こうに広がる帝国側の大地を見つめた。

クリスティもまた、

自分の知らない年月をルリスティが生きてきた共和国側へ視線を向ける。


二人には、それぞれ守るべき国があり、そこで歩んできた人生がある。

二つの国が、一つの国になるわけではない。

これからも異なる文化を持ち、異なる方法で、それぞれの未来を歩んでいく。


それでも、もう互いの存在を失うことはない。

声を届けることができる。手を伸ばすことができる。

会いたいと願えば、同じ道を歩いて会いに行ける。


クリスティが、隣に立つ妹へ手を差し出した。

ルリスティはその手を見つめ、静かに握る。


二人の間を優しい風が通り抜け、白銀の髪を同じ方向へ揺らした。

その向こうでは、帝国と共和国の軍旗もまた、同じ風を受けている。


一つの国になったのではない。


失われた歴史を取り戻し、閉ざされていた道を取り戻し、

そして互いの存在を取り戻した。


二つの国は、異なる国のまま。

再び、同じ世界を歩き始める。


失われた世界は――

再び一つとなった。

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