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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
最終章 二つの光が照らす朝
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102/106

第101話 十八年前の翼

重い羽音が、暗闇を震わせた。


一度。

二度。


巨大な翼が動くたび、黒淵の内部を貫く星の道が大きく揺れ、

足元を走る銀白色の光へ黒い波紋が幾重にも広がっていく。


突入部隊は足を止め、暗闇の奥を見据えた。


最初に見えたのは、二つの赤い瞳だった。

高い位置に浮かぶそれは、周囲に蠢いていた魔獣たちのものより遥かに大きい。

やがて星の光の中へ、巨大な爪が踏み出した。


黒い外殻に覆われた脚。

その先端から伸びる鋭く湾曲した爪が星の道へ深く食い込み、

暗闇の奥から巨体がゆっくりと姿を現していく。


大きく裂けた口。

頭部から背へ連なる歪な角。

鱗のような黒い外殻に覆われた身体。

そして、左右へ広げられた巨大な翼。


翼膜はところどころ裂けていたが、その傷の隙間からは黒い霧が絶えず溢れ、

失われた部分を埋めるように蠢いている。


巨体の後方では異様に長い尾が揺れ、

その先端には槍の穂先を思わせる鋭い突起があった。


アレクシスの足が止まった。

どれほど強大な魔獣を前にしても真っ先に飛び込んでいく男が、

剣を構えたまま、ほんの一瞬だけ動かなかった。


「……あれだ」

低い声が落ちる。

普段の明るさは、どこにもなかった。


ヴィオレットも観測術式を展開したまま立ち尽くし、

紫水晶の瞳で黒い翼と長い尾を捉えている。


「ええ」

静かな声だった。

けれど、術式を支えるヴィオレットの指先は僅かに震えていた。


クリスティは、普段とは明らかに様子の違う兄と姉を見比べる。

「お兄様……? ヴィオ姉様?」


アレクシスはすぐには答えなかった。

その視線は、目の前の魔獣だけへ向けられている。


十八年前。


皇城の上空を裂いて現れた奈落の亀裂から、一体の翼持つ魔獣が飛び出した。

二歳だったルリスティを爪で掴み、追いすがった母を、その尾で貫いた魔獣。


当時、アレクシスは九歳。

ヴィオレットは七歳だった。

幼すぎて、目の前で起きたことのすべてを理解することはできなかった。

それでも、あの日の光景を忘れることなどできなかった。


血に濡れた母の姿。

泣き叫ぶクリスティ。

雨の中、誰もいない空へ手を伸ばし続けた父。

そして、主を失ったまま閉ざされた幼い妹の部屋。


あの日から、家族の時間は十七年間、止まったままだった。


やがてアレクシスが、低い声で告げた。

「……こいつだ」


クリスティが息を呑む。

「え……?」


「十八年前、ルリスティを連れ去って――」

剣を握る手に、さらに力がこもった。

「母上を殺した魔獣だ」


クリスティの顔から血の気が引いた。

「この魔獣が……」

ようやく意味を理解した震える声が、暗闇へ消えていった。


ルリスティもまた、目の前の魔獣を見上げる。

自分には、あの日の記憶がない。

二歳だった自分が何を見たのか、何を感じたのか。

どのように奈落門を越え、共和国側へ辿り着いたのか。


何一つ覚えていない。

それなのに、巨大な翼が動いた瞬間、身体の奥が凍りついた。


頭では覚えていないはずなのに、心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

魔導銃を握る両手から、僅かに力が抜けた。


その時、魔獣の赤い瞳が真っ直ぐにルリスティを捉えた。


「司令」


ジェイクがすぐ前へ出る。

ルリスティと魔獣の間へ立ち、魔導大剣を構えた。


「下がってください」

「いいえ」


ルリスティは銃を握り直す。

「私は下がりません」


声は揺れていなかった。

身体の奥に残る、理由さえ分からない恐怖を押さえ込む。

あの日の自分は、守られることしかできない幼い子どもだった。


けれど、今は違う。

共和国軍少将にして、対黒淵戦総司令官。

二つの国から集まった共同軍の全将兵を預かり、

仲間たちとともに、この場所まで来た。


ルリスティは一歩も退かなかった。


魔獣が大きく口を開く。

次の瞬間、黒淵全体を震わせる咆哮が放たれた。


空気が爆ぜ、星の道を走る銀白色の光が激しく波打つ。

突入部隊の身体が、凄まじい圧力に押されて後方へ揺らいだ。


「結界!」


ヴィオレットとルシアンがほぼ同時に術式を展開する。

紫と黄金の光が重なり、全員の前へ防壁が立ち上がった。


咆哮が結界へ激突し、光の壁が激しく震える。

表面を幾重もの亀裂が走る中、ルシアンは術式へさらに魔力を流し込んだ。


「威力が高すぎます! この個体だけ、周囲の黒淵から直接力を受けています!」


「供給経路を探して。本体へ攻撃しても、黒淵と繋がっている限り再生するわ」

ヴィオレットも結界を維持しながら答える。


その直後、星の道の後方から別の咆哮が重なった。

ルリスティが振り返る。


先ほどの衝撃に呼び寄せられたのか、

道の左右に蠢く黒い霧から無数の赤い瞳が浮かび上がっていた。

小型の魔獣たちが次々と星の道へ這い上がり、突入部隊の後方へ殺到してくる。


「後方、敵多数!」


同行していた選抜護衛兵が叫ぶ。

すぐさま帝国騎士たちが盾を並べ、その間へ共和国兵が魔導銃と魔導剣を構えた。

ジェイクを除く総司令官直衛班も、一斉に後方へ向き直る。


「総司令官!」


直衛班の一人が、迫る魔獣へ武器を向けたまま声を張った。


「こちらは我々が押さえます! 皆様はあの個体を!」

「しかし――」


ルリスティが言葉を返すより早く、帝国騎士が盾で最初の一体を受け止め、

その肩越しに共和国兵の魔導銃が火を噴いた。


「この先へは通しません!」

「後方は任せてください!」


帝国と共和国、異なる軍服の兵士たちが星の道を塞ぐように並ぶ。

前には、十八年前に家族を引き裂いた魔獣。

後ろには、彼らを信じて道を守る者たち。

ルリスティはほんの一瞬だけ彼らを見つめ、やがて小さく頷いた。


「任せます」

「はい!」


返事を背に受け、ルリスティは再び前を向いた。

巨大な魔獣が翼を広げる。

周囲の黒い霧が渦を巻き、巨体が星の道から浮き上がった。


次の瞬間、一気に高度を落とす。

狙いは、十八年前と同じ。

ルリスティだった。


「させるか!」


アレクシスが地面を蹴る。

星の道を強く踏み込み、急降下する魔獣の前へ飛び出した。


振り下ろされた巨大な爪へ剣を叩きつける。

外殻と刃が激突し、轟音が響いた。

凄まじい重圧が両腕へかかり、アレクシスの足元で銀白色の光が大きく波打つ。

それでも、一歩も退かなかった。


「あの日とは違う」


歯を食いしばり、赤い瞳を真正面から睨み返す。


「二度と――」

剣へ魔力を注ぎ込み、巨大な爪を押し返した。

「俺の妹には触れさせねえ!」


アレクシスが剣を振り抜く。

爪が大きく弾かれ、魔獣の巨体が僅かに傾いた。


そこへ白銀の軌跡が走る。

リカルドだった。

黎明の剣が、翼を覆う黒い外殻を斬り裂く。

白銀の刃が深く食い込み、表面へ長い亀裂を刻んだ。


しかし次の瞬間、黒淵の霧が傷口へ集まり、斬り裂かれた外殻を塞ぎ始める。


「再生が早い!」

クリスティが声を上げた。

「ヴィオ姉様、弱点は分からないの?」


「今、探しているわ!」

ヴィオレットは魔獣へ向けて複数の観測術式を放った。

紫の魔力線が巨体を取り囲み、翼から胸部、頭部、尾へと走りながら、

体内を巡る魔力の流れを一つずつ追っていく。


その時、魔獣が長い尾を振るった。

槍状の先端が空気を裂き、その軌跡を目にした瞬間、

ヴィオレットの中で現在の光景へ十八年前の記憶が重なった。


皇城の庭。

幼い妹へ必死に手を伸ばす母の背中と、その身体を容赦なく貫いた黒い尾。

鮮血に染まりながら崩れ落ちていく母の姿が、あの日のまま鮮明に脳裏へ蘇る。


「――っ」


ヴィオレットの指先が震え、

それまで正確に組み上げていた観測術式が大きく乱れた。

紫の光が揺らぎ、空中に展開されていた術式の一部が崩れかける。


「ヴィオ様!」


ルシアンがすぐさま彼女の隣へ滑り込み、乱れた術式へ黄金の光を重ねた。

砕けかけていた魔術式を辛うじて繋ぎ留める。

ヴィオレットは呼吸を整えようとしたが、震える指が思うように動かない。


「落ち着いてくださいとは言いません」

ルシアンは魔獣から目を逸らさないまま、静かに告げた。

「僕には、ヴィオ様があの日見たものも、失った痛みも分かりません」


黄金の魔力が、揺らぐ紫の術式を包み込み、崩れかけた形を支えていく。


「でも、僕はここにいます」


肩が触れるほど近くに立ちながら、

ルシアンは決して彼女の代わりに前へ出ようとはしなかった。


ヴィオレットが隣を見る。

金色の瞳に、普段の明るい笑顔はない。

ただ、彼女ならできると信じている揺るがない光だけがあった。


「ヴィオ様が見つけてください。僕が、その場所まで術式を通します」

ルシアンは観測術式の基礎部分へ魔力を流し続ける。


代わりに倒すのではない。怒りや悲しみを忘れさせるのでもない。

ヴィオレットが自らの目で弱点を見つけ、

自らの意思で十八年前の因縁に決着をつけられるように、

ルシアンはただ隣で支えている。


ヴィオレットは一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。


「……ええ」

再び開いた紫水晶の瞳には、もう先ほどまでの動揺はない。

「任せるわ」


その言葉とともに、ヴィオレットの紫とルシアンの黄金、二つの魔力が重なった。

崩れかけていた観測術式は、先ほどまでよりも緻密な形で再構築され、

無数の光の線が魔獣へ伸びていく。


光は外殻を透過し、翼から胸部、さらにその奥へと走りながら、

体内を巡る魔力経路を一つずつ浮かび上がらせた。


魔獣が再び翼を動かす。


周囲から黒い霧が集まり、

先ほどリカルドが斬り裂いた傷口を瞬く間に塞いでいった。


「黒淵からの魔力供給は、翼を通っています!」

ルシアンが、浮かび上がった術式を読み取りながら声を上げた。

「両翼の付け根に、魔力が集中しています!」


ヴィオレットの瞳が、術式の中に浮かび上がった二つの光点を捉える。


分厚い外殻の奥。左右の翼の付け根に、

黒淵から流れ込む魔力を受け止める核が一つずつ埋め込まれていた。


「あれが供給核ね」

ヴィオレットは即座に判断した。

「片方だけでは、残った核から再生されるわ。間を置かず、二つとも破壊して!」


「左の核は、私が撃ち抜きます」

ルリスティは両手の魔導銃を構え直した。


リカルドも黎明の剣を握り直す。

「では、左翼の外殻は私が斬り開きます」


アレクシスは魔獣の右翼を見据えた。

「なら、右は俺がこじ開ける」


「僕たちは、右翼の核を狙います」

ルシアンの言葉に、ヴィオレットが頷く。


左はリカルドが外殻を斬り開き、ルリスティが核を撃ち抜く。

右はアレクシスが外殻を砕き、ヴィオレットとルシアンが露出した核を破壊する。


二つの核を、間を置かずほぼ同時に潰す。


こちらの狙いを察したのか、魔獣は翼を大きく畳み、

両方の根元を分厚い外殻で覆った。


それを見たアレクシスが、怒りを押し殺したような笑みを浮かべる。

「なら、予定どおりこじ開ける」

そのまま魔獣へ向かって駆け出した。


「アレクシスお兄様!」


クリスティが両手を広げる。

星の道に沿って突入部隊を包んでいた金銀の光を維持したまま、

その一部が枝分かれしてアレクシスの身体を包み込んだ。


「力を貸して!」


太陽の祝福が全身へ巡り、疲労が薄れ、乱れていた魔力が整っていく。

剣を握る腕へ力が戻ると、アレクシスは魔獣の正面へ飛び込み、

振り下ろされた爪をかわして巨体の下へ潜り込んだ。


そのまま右翼の付け根へ剣を叩き込む。

硬い外殻が軋んだ。


「開け!」


一撃、二撃と同じ場所へ刃を叩きつけ、三撃目でついに外殻へ大きな亀裂が走る。

魔獣が苦痛の咆哮を上げ、左翼を振り下ろしてアレクシスを弾き飛ばそうとした。


その動きを、ジェイクの魔導大剣が止める。

重量と魔力による加速を重ねた大剣が翼の下から叩き上げられ、

魔獣の巨体が大きく傾いた。

同時に、長い尾がジェイクの背後から迫る。


「大佐!」


ルリスティは反射的に右手の魔導銃を振り向けた。

引き金を引く。

青白い魔力弾が槍状の尾の先端を撃ち抜き、その軌道を大きく逸らした。

尾はジェイクの肩を掠め、そのまま星の道へ深く突き刺さる。


ジェイクはすぐさま魔導大剣を返し、突き立った尾を上から押さえ込んだ。


「捕らえました!」

「そのまま押さえていてください!」

「お任せください、司令!」


魔獣は尾を引き抜こうと激しく巨体を捻るが、

ジェイクは両足を星の道へ踏み込み、大剣へ体重を乗せて押さえ続ける。


その間に、反対側ではリカルドが左翼の付け根へ踏み込んでいた。

黎明の剣へ白銀の光をまとわせ、

一撃、さらに剣を返して二撃目を同じ場所へ叩き込む。

分厚い外殻が大きく斬り開かれ、その奥に黒い心臓のような供給核が露出した。


「左翼の核が露出しました!」

ルシアンの声が飛ぶ。


ルリスティは即座に左の核へ銃口を向けた。

「撃ち抜きます!」


二丁の魔導銃へ魔力が収束する。

一発目が核を覆う残った外殻を砕き、

間髪入れず放たれた二発目が、その中心を正確に撃ち抜いた。


黒い核へ無数の亀裂が走り、内側から粉々に砕け散る。

魔獣が凄まじい絶叫を上げた。


だが、まだ右翼の核が残っている。

そこから流れ込む黒淵の魔力が左翼へ殺到し、

破壊された供給核を再生させようと蠢き始めた。


「再生が始まる!」

ヴィオレットの声が響いた。


右翼では、アレクシスが剣を振り上げた。

太陽の祝福を受けた一撃が、翼の付け根を覆う外殻へ叩き込まれる。

さらに同じ場所へ二撃目を重ねると、大きな破砕音とともに外殻へ亀裂が走り、

その奥に黒い供給核が覗いた。


「右翼の核を確認!」


ルシアンが観測術式で位置を捉え、ヴィオレットも即座に杖を構える。

紫と黄金の魔術式が、亀裂の奥に見える核へ狙いを定めた。


しかし、その瞬間。

魔獣が残された力を振り絞るように巨体を大きく捻った。


ジェイクが押さえていた尾が星の道から強引に引き抜かれ、

黒い尾が勢いよく宙を薙ぐ。

その槍状の先端が向かった先を見て、アレクシスの表情が変わった。


ルリスティ。

十八年前と、同じだった。


「ルリ!」


クリスティが叫び、反射的に妹のもとへ駆け出そうとする。

リカルドはすぐさま彼女の前へ出て黎明の剣を構え、

ジェイクもルリスティへ向かって踏み込んだ。


だが、魔獣の右翼側にいたアレクシスは、すでに尾の軌道のすぐ近くにいた。


「同じことを――」


振り返る勢いのまま大きく踏み込み、

アレクシスは両手で握った剣を尾へ叩きつけた。

太陽の祝福をまとった刃が黒い外殻へ深く食い込む。


「二度もさせるか!」


全身の力を込めて剣を振り抜くと、硬い外殻が砕け、槍状の尾が切断された。


先端はルリスティへ届く寸前で軌道を失い、

彼女のすぐ横を掠めるように星の道へ落下する。


魔獣が苦痛の咆哮を上げ、巨体を大きく仰け反らせた。


アレクシスは息をつく暇もなく右翼へ向き直り、

先ほど刻んだ亀裂へ再び剣を叩き込む。

残っていた外殻が大きく砕け、その奥に黒い供給核が完全に露出した。


「ヴィオレット!」


「分かっているわ!」


ヴィオレットが杖を構えると、

紫と黄金の魔術式が右翼の核を囲むように幾重にも重なっていく。

ルシアンは観測術式を維持しながら、

攻撃に必要な分だけ魔力を緻密に流し込み、彼女の術式を増幅した。


この先には、災厄の核そのものが待っている。

そこで完全消滅を確認するための力を残しながら、

今は目の前の一点だけを確実に破壊しなければならない。


巨大な光の輪が空中へ広がり、その中心へ露出した供給核を捉えた。

アレクシスは剣を構えたまま、目の前の魔獣を睨みつける。


「母上の仇だ」


低く絞り出した声には、十八年間消えることのなかった怒りが滲んでいた。

母を奪われ、妹を失い、崩れていく家族を前に何もできなかった九歳の自分を、

アレクシスは今でも覚えている。


あの日の無力さを抱えたまま、十八年。

ようやく、その元凶が目の前にいる。


「……でも」


ヴィオレットの声が響いた。

アレクシスが視線を向けると、彼女が見ていたのは魔獣ではなかった。

その向こうには、クリスティとルリスティがいる。

十八年前に引き裂かれた双子が、今は同じ場所で肩を並べていた。


「これは、仇討ちだけではないわ」

ヴィオレットの瞳に宿っているのも、怒りだけではない。

「もう二度と――誰も奪わせないためよ」


その言葉とともに術式の光が強まり、

ルシアンの黄金の魔力がヴィオレットの紫を支える。

二人の魔術は幾重にも重なりながら、やがて一本の鋭い光へと収束していった。


アレクシスは妹たちを一度だけ見た。

クリスティも、ルリスティも、ここにいる。

今度は誰も奪われていない。

その事実を確かめるように、アレクシスの口元へ僅かな笑みが浮かんだ。


「ああ」

再び魔獣へ向き直り、剣を構える。

「その通りだ」


ヴィオレットが杖を振り下ろした。

「消えなさい」


紫金の光が一直線に走り、露出した右翼の供給核を貫く。

轟音とともに黒い核へ無数の亀裂が走り、次の瞬間、内側から粉々に砕け散った。


左右両方の供給核を失ったことで、

黒淵から魔獣へ流れ込んでいた魔力が完全に途絶える。

全身を覆っていた黒い霧が消え、再生を続けていた外殻も崩れ始めた。


巨大な翼が端から灰色の光へ変わっていく。

魔獣は最後の咆哮を上げた。


怒りとも苦痛ともつかない声が黒淵の奥へ長く響き、

やがてその巨体も形を保てなくなっていく。


黒い翼も、長い尾も、鋭い爪も。


十八年前に家族を引き裂いたすべてが、

無数の光の粒となって暗闇の中へ消えていった。


咆哮が途絶えると、ほんの一瞬だけ、奇妙な静けさが訪れた。


遠く後方からは、今も剣戟や魔導銃の音が聞こえている。

道を守る者たちの戦いは、まだ続いていた。


それでもアレクシスとヴィオレットは、すぐには動かなかった。


二人とも、魔獣が消えた場所を静かに見つめている。

ルシアンも何も言わず、変わらずヴィオレットの隣に立っていた。


やがてアレクシスが長く息を吐く。


「……十八年か」

「ええ」


ヴィオレットも静かに答え、それから二人の妹へ視線を向けた。


クリスティは目に涙を浮かべ、

ルリスティは胸元の銀色の星へそっと手を添えている。


十八年前とは違う。

今度は、誰も奪われなかった。

ヴィオレットが小さく息を吐く。


「今度は、守れたわ」


アレクシスは一度だけ目を閉じ、その言葉を噛み締めた。

そして目を開くと、妹たちへ向けて、いつもの笑みを浮かべる。


「ああ」

それだけで、十分だった。


◇


遠く離れた帝都。


皇城の作戦指揮室では、黒淵内部から送られてくる観測情報が、

光の盤へ途切れ途切れに映し出されていた。


黒い霧の中を貫く銀白色の星の道、その上を進む突入部隊の魔力反応。

そして、その周囲には先ほどまで存在しなかった、

強大な一つの反応が浮かび上がっている。


「新たな大型個体を確認!」

観測魔術師が声を上げた。

「反応の特徴を照合します!」


術式が皇城に残された記録を高速で読み込み、

十八年前の襲撃時に記録された翼の形状、魔力の波形、槍状の尾と、

次々に特徴を照合していく。


やがて結果が表示された瞬間、観測魔術師の顔色が変わった。

「……一致しました」


作戦指揮室の空気が、一瞬で張り詰める。

レオンハルトは光の盤を見つめたまま、動かなかった。


あの時、十一歳だった。


母を失った日、誰より年長の兄として、

自分が弟妹たちを支えなければならないと思っていた。

泣き崩れる彼らの前で、自分だけは泣いてはいけないと必死に立ち続けた。


けれど結局、何一つできなかった。


母を助けることも、連れ去られたルリスティを取り戻すことも、

深い悲しみの中へ沈んでいく父を救うこともできず、

ただ長男としてその場に立っていることしかできなかった。


「殿下」

文官の声に、レオンハルトは現実へ引き戻された。

光の盤では、アレクシスとヴィオレットの魔力反応が巨大魔獣へ接近している。


「前線の統合指揮所へ、照合結果を最優先で送れ」

「はい」

「帝国の後方支援網から供給できる魔力を、星の道の入口周辺へ振り向ける。

結界維持班が即応できるよう準備させろ」


文官が資料へ手を伸ばしかけ、念のために確認した。


「帝国側から、前線の配置変更を命じるのですか?」

「違う」

レオンハルトは即座に否定する。


「現地総指揮権はルリスティ・トリウリッド少将にある。

突入後の地上共同軍は、クルトワ中佐が預かっている」


帝国皇城から前線の命令系統を上書きしてはならない。

そんなことをすれば、

二つの国の軍を一つの指揮系統へまとめた意味そのものが失われる。


「こちらは、使用可能な支援と観測情報を統合指揮所へ提示する。

現地での配分と部隊運用は、クルトワ中佐の判断に従わせろ」

「承知しました」


「それから、星の道へ流れ込む魔獣を減らす必要がある。

ガレス中佐の遠距離支援群へ、

入口へ接近する飛行型と大型種の排除を優先すべきだと共有しろ」


「遠距離支援群には、共和国の狙撃兵と魔導砲隊だけでなく、

帝国の長距離魔術師も参加しています」


「ああ。だからこそ、国別に連絡を分けるな」

レオンハルトは戦況図へ指を置いた。


「統合通信網を通じて、遠距離支援群全体へ伝えろ。

正式な攻撃命令は、クルトワ中佐から出してもらえ」

「承知しました!」


指示を受けた者たちが動き、情報と支援が次々と前線へ送り出されていく。

レオンハルト自身は戦場にはいない。母を奪った魔獣へ剣を向けることもできない。


それでも、弟妹たちに十八年前と同じ思いをさせないために、

今の自分だからこそできることがある。


「内部では、アレクシスとヴィオレットが、あの個体と向き合っている」

レオンハルトは光の盤を見据えたまま、低く告げた。

「ならば外は、共同軍が支えろ」


帝国の騎士も、共和国の兵士も、

今は同じ指揮のもとで黒淵の内側へ進んだ者たちの帰還路を守っている。


「突入部隊が、目の前の敵だけへ集中できる状況を作れ」

「はい!」


その少し後ろでは、ルーファスが光の盤を見つめたまま、何も言わずに立っていた。

槍状の尾という報告を聞いた瞬間から、胸の奥には十八年前の光景が蘇っている。


幼い娘を掴んだ魔獣へ、フェリシアが必死に手を伸ばす。

その身体を、振るわれた黒い尾が貫いた。


ルーファスは、爪が掌へ食い込むほど強く拳を握り締めた。

それでも皇帝として、そして父として、観測盤から目を逸らさない。


やがて光の盤の中で、巨大魔獣の反応が大きく揺れた。

一つ目の魔力核が消失する。


続いて、強い紫と黄金の魔力反応が重なった。

そして、二つ目の核も消えた。


巨大魔獣の反応が完全に途絶える。


「対象の消滅を確認!」

観測魔術師の声が作戦指揮室へ響いた。

「突入部隊、全員生存しています!」


室内のあちこちから、抑えていた息を吐き出すような安堵の声が漏れる。


レオンハルトもほんの一瞬だけ目を閉じた。

机の下で強く握っていた拳が、僅かに震えている。


ルーファスはゆっくりと、壁に掛けられたフェリシアの肖像へ視線を向けた。


金色の髪と、オリーブ色の瞳。

そこには、穏やかに微笑む愛した妻の姿がある。


「あの子たちは、もう守られるだけの子どもではないらしい」

ルーファスは肖像の中のフェリシアへ、噛み締めるように告げた。


「今度は――」

頬を、一筋の涙が伝う。

「全員で守ったぞ」


◇


黒淵内部。


アレクシスは剣を肩へ担ぎ直した。


「よし。感傷に浸るのは、帰ってからだ」

その声には、少しずついつもの明るさが戻り始めていた。


ヴィオレットも杖を構え直す。

「言われなくても分かっているわ」


「本命は、この先だ」


後方では、選抜護衛兵と直衛班の者たちが、

今も星の道へ入り込もうとする魔獣を食い止めている。


翼持ちの魔獣が消滅したことで周囲の圧力は僅かに弱まったものの、

黒淵から現れる魔獣が完全に途絶えたわけではない。


帝国騎士が盾で一体を受け止め、その脇から共和国兵の魔導銃が火を噴く。

さらに後方では、負傷した仲間へ肩を貸しながら戦線を維持する者の姿もあった。

ルリスティはその様子を確認すると、後方へ声を張った。


「選抜護衛班、直衛班!」

呼びかけに、兵士たちが戦いながら視線を向ける。

「ここから地上へ撤退してください!」


「総司令官?」

直衛班の一人が思わず聞き返した。


ルリスティは暗闇のさらに奥へ視線を向ける。


「皆さんの任務は、私たちをここまで送り届け、帰還路を守ることです。

その任務は十分に果たしていただきました」

「ですが、この先も――」

「この先にいるのは、災厄の核です」


ルリスティは静かに言葉を重ねた。


「星導の魔導銃、黎明の剣、観測術式。そして聖霊王の涙。

ここから先は、それらを扱う私たちでなければできない戦いになります」

兵士たちの間に、僅かな沈黙が落ちる。

「それに、帰還路を完全に失うわけにはいきません」


ルリスティは彼らをまっすぐに見た。


「負傷者を連れて地上へ戻り、クルトワ中佐へ伝えてください。

突入部隊七名は、これより災厄の核へ向かう、と」


護衛班の隊長はしばらくルリスティを見つめていたが、やがて姿勢を正した。


「……承知しました」

周囲の兵士たちも、次々と頷く。


「必ずお伝えします!」

「地上は我々が守ります!」


「ですから――」

最後尾にいた共和国兵が、ほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた。

「必ず帰ってきてください、総司令官!」


その声に、帝国騎士たちも視線を向ける。

ルリスティは迷わず頷いた。


「ええ。必ず帰ります」

それは命令への返答ではなく、未来へ戻るという約束だった。


護衛兵たちは負傷者を支えながら隊列を組み直し、

互いに援護しつつ星の道を引き返していく。


ジェイクだけは、動かなかった。

当然のようにルリスティのすぐ後ろへ立ったまま、魔導大剣を構えている。

ルリスティが僅かに振り返る。


「大佐は」

「俺は司令の直衛ですので。最後まで、ここにいます」


ルリスティは一瞬だけ彼を見つめ、それ以上は何も言わなかった。

やがて護衛兵たちの姿が暗闇の向こうへ遠ざかり、

戦闘音も少しずつ小さくなっていく。


星の道に残ったのは、七人だけになった。

ルリスティ。

クリスティ。

アレクシス。

ヴィオレット。

そして、ジェイク、リカルド、ルシアン。


ここから先は、災厄そのものとの戦いだった。


その時。

星の道のさらに奥から、巨大な鼓動のような音が響いた。


一度。


足元を走る銀白色の光が大きく揺れる。


二度。


今度は左右に蠢いていた黒い霧が一斉に噴き出し、

道の奥で巨大な何かが目覚めようとしているかのように、

周囲の空間そのものが震え始めた。


因縁の魔獣に遮られていたその先から、

これまでとは比較にならないほど強大な魔力反応が浮かび上がる。


ヴィオレットとルシアンの観測術式が、同時に赤い警告光を放った。


「この反応……」

ルシアンが息を呑む。


ヴィオレットは術式を見つめたまま、ゆっくりと暗闇の奥へ視線を上げた。

「間違いないわ」


ルリスティは胸元の銀色の星へ手を添える。


その隣ではクリスティの太陽の光が静かに輝きを増し、

リカルドも黎明の剣を握り直した。


ジェイクは変わらず、ルリスティのすぐ後ろに立っている。


アレクシスも剣を肩から下ろし、再び正面へ構えた。


百五十年間、世界の奥深くに眠り続けていた災厄。

今、その中心が動き始めていた。

ヴィオレットの声が、張り詰めた暗闇へ静かに響く。


「核が、目を覚ます」

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