第35報 6体の死体
第7階層は、低級冒険者でも立ち入る階層だ。
ただし、安全という意味ではない。
単に、死ぬ理由がわかりやすいだけだ。
毒を持つ小型モンスター。
湿った岩床。
視界を曇らせる白い胞子。
浅い階層には、浅い階層なりの死に方がある。
だが。
──ズバッ!
モンスターを一刀両断する音が響く。
ネムハだった。
言動は珍妙で迷惑そのものだが、冒険者としての腕は一流だ。
「またつまらぬものを斬ってしまった」
「毎回言うのかそれ」
「つまるところ斬ってしまった」
「見ればわかる」
通路の奥から、水音が聞こえる。
壁には青黒い苔が張りつき、天井から細い根が垂れていた。
松明の光が、湿った石床に揺れている。
俺は鼻の下に薄く軟膏を塗った。
腐臭を消すためではない。
匂いを選ぶためだ。
黴や獣脂、古い血。
それから、薬草を焼いたような苦い匂い。
俺は屈み、床の擦れ跡を見た。
わずかだが、これは最近ついた足跡だ。
不自然に薄い。
まるで自分の存在を悟られたくないかのようだ。
「何かありました?」
「足跡がある」
「はー、相変わらずよくわかりますね」
依頼書にあった帰還地点は、この先の分岐を越えた場所だ。
同じ地点へ戻される。
姿のない声。
影の異常。
軽傷者あり。
死者なし。
未象としては、ありえない内容ではない。
だからこそ、面倒だった。
その時、通路の奥から声がした。
『──配置、確認』
俺は警戒態勢を取る。
ネムハは指示を出すまでもなく、剣を構えていた。
声は近くない。
だが、遠くもない。
壁の裏。
天井の上。
あるいは、足元の影の中。
場所を決めさせない声だった。
背後で、空気が揺れた。
振り返る。
今来たはずの通路が、黒い幕のような暗がりに変わっていた。
石壁ではない。
ただの闇でもない。
薄い布のように、ゆっくりと揺れている。
──シュッ。
空気を裂く音がした。
「──シュバッ!」
ネムハの剣が、飛来した何かを斬り落とす。
細い金属片が、石床を跳ねた。
「これは、針……?」
「近づくな」
遅かった。
針を拾い上げようとしたネムハの膝が落ちる。
「一生の……不覚……」
俺はネムハの手を取った。
刺し傷はない。
血も出ていない。
針には触れているが、皮膚は破れていない。
針じゃない。
針から漏れている気体だ。
身体を動かし、呼吸と血流が速い者ほど先に回る麻痺毒。
針が刺さっても刺さらなくても効くように作られている。
手練だ。
俺は懐から小さな丸薬を取り出し、奥歯で噛み砕いた。
苦味が舌に広がる。
続けて、腰の革袋から折り畳み式の防毒面を引き出し、鼻と口を覆う。
死体清掃員が、毒と腐臭に無防備なわけがない。
ネムハの呼吸を確認する。
脈は乱れているが、死ぬほどではない。
俺はその顔を横向きにし、鼻先に指を当てた。
「寝てろ、補佐官」
「床と……ついに親友に……」
「それはよかったな」
通路の奥から、足音が聞こえた。
1つ。
2つ。
いや、もっと多い。
黒布で顔を覆った男たちが、暗がりから現れる。
短剣。
吹き矢。
捕縛糸。
足音を殺す訓練を受けた動き。
先頭の男が、低く言った。
「剣士は止めた。残りは死体清掃員だけだ」
ネムハが倒れたまま、目だけをこちらへ向ける。
「あ、あれは、シノビマスター……未象ではなく……?」
「だから言ったろう。『そうだ』ってな」
「わ、わかってたんですか……」
「依頼書を見た時点では、怪しいと思っただけだ。ここの足跡を見て、人間が待っているとわかった」
「だったら、教えてくださいよぉ……」
「教えたら厄介なことになるだろ」
「待ち伏せするシノビマスターに、名乗りを、上げたかった……」
「ほらな」
黒布の男たちは、ぴたりと足を止めた。
少なくとも、驚きはしたらしい。
だが、動揺は長くない。
訓練されている。
「気づいたところで遅い」
先頭の男が短剣を構えた。
残りの男たちが左右に散る。
通路は狭い。
包囲には向かない。
だが、逃げ道を潰すには十分だった。
俺はため息をつく。
「6体か」
「なに……?」
俺は腰の袋に指を入れた。
「これから増える死体の数だ」
男の吹き矢が動く。
俺は息を止めた。
細い針が飛ぶ。
避けない。
半歩だけ身体をずらし、袖で受けた。
袖の内側には、薄い革と樹脂を重ねてある。
死体から出る毒液や腐敗汁を防ぐための処理だ。
暗殺用の針くらいなら貫通しない。
俺は袋を握り潰した。
乾いた粉が、通路に散る。
男たちの動きが、一瞬だけ鈍る。
目を潰す粉ではない。
肺を焼く粉でもない。
ただ、死臭を濃くするための粉だ。
嗅覚のある者は、反射で呼吸を乱す。
訓練された者ほど、毒を疑って身を固める。
その一瞬でいい。
俺は前に出た。
先頭の男が短剣を突き出す。
刃筋は綺麗だ。
殺すための動きだ。
だから読みやすい。
手首を外から叩き、刃を壁へ逸らす。
踏み込んだ足の甲を踵で踏み砕く。
体勢が崩れたところで、喉に解体ナイフを入れた。
血が噴いた。
男は声も出せずに崩れる。
殺さない理由はない。
ただ、1人は残す。
誰に雇われたかを吐かせるためだ。
2人目が右から来る。
捕縛糸。
首ではなく腕狙い。
俺を殺す前に、動きを止めるつもりだ。
俺は倒れた男の身体を引き起こし、盾にした。
糸が死体の肩と首に絡む。
引いた男の体勢が、逆に崩れる。
その隙に、死体の腰から短剣を抜き取った。
投げる。
刃は、男の喉元へ吸い込まれた。
「が……っ」
短い音だけ残して、2人目が倒れた。
3人目が背後に回った。
足音は消えている。
だが、匂いは消えていない。
薬草を焼いたような苦い匂い。
針から漏れた毒と同じ匂いだ。
俺は壁の苔を掴み、後ろへ投げた。
湿った苔が、男の顔に貼りつく。
一瞬、視界が塞がる。
その一瞬で、俺は床に落ちた捕縛糸を拾った。
男の足に引っかける。
引く。
倒れた首が、壁から突き出た石の角にぶつかった。
鈍い音がした。
男は動かなくなった。
残り3人。
1人が吹き矢。
1人が短剣。
1人が退路側。
役割が決まっている。
なら、崩す順番も決まる。
俺は床に落ちていた針を、靴底で弾いた。
針は石床を滑り、吹き矢の男の足元へ飛ぶ。
男が反射で下を見る。
その顔に、小瓶を投げた。
割れる。
刺激臭が弾ける。
男が目を押さえる。
俺は踏み込んだ。
吹き矢ごと、男の口へナイフを叩き込む。
刃は浅い。
だが、吹き矢の中に残っていた毒が、喉へ流れた。
男の身体が硬直する。
次の瞬間、膝から崩れ落ちた。
短剣の男が突っ込んでくる。
速い。
ネムハなら、笑いながら斬る速度だ。
俺には無理だ。
だから、受けない。
俺は倒れた暗殺者の腕を掴み、短剣の軌道へ引き込んだ。
刃が仲間の身体に刺さる。
短剣の男が、一瞬止まる。
その一瞬で、十分だった。
俺は死体の背中越しに腕を伸ばし、男の脇腹へナイフを突き入れた。
鎧の継ぎ目。
肋骨の下。
深く入れれば、すぐには動けない。
男は短剣を落とし、石床に倒れた。
最後の1人が動いた。
逃げるためではない。
俺へ向かうためでもない。
ネムハへ向かった。
男は倒れているネムハを引き起こし、背後から首へ腕を回した。
ネムハの身体が、男の胸元へ引き寄せられる。
顔だけが、こちらを向いていた。
目は開いている。
ぼんやりとした目だ。
男は短剣をネムハの首筋へ当てた。
「動くな」
「ああ」
俺は両腕を上げる。
「わかった」
男の目が細くなる。
「やけに素直だな。そんなにこの女が大事か?」
「いや」
俺は、ネムハの目を見た。
瞬きが1つ返る。
「動く必要がないだけだ」
「……ッ!」
ネムハの身体が沈む。
その瞬間、鈍い音が響いた。
ネムハの剣の峰が、男の腹に食い込んでいた。
「ガハッ」
男の身体が崩れる。
短剣が音を立てて床に落ちる。
ネムハは神妙な顔で、ゆっくりと姿勢を戻した。
「またつまらぬものを斬ってしまった」
「斬ってないだろ」
「つまるところ、斬ってません」
「認めるな」
ネムハは、ふんっ、と鼻を鳴らす。
小さな黒い粒が、ころんと石床に落ちた。
途端に、鼻を刺すような強烈な臭気が広がる。
麻痺の解毒薬だ。
戦いの前に鼻につめておいた。
「これ、むちゃくちゃ臭いんですけど。麻痺の方がマシです」
「助けない方がよかったか?」
「いえ、マシの方が麻痺でした」
「何を言っているか全くわからん」
ネムハが暗殺者たちを見回し、それから俺を見た。
「てか超絶さん、めちゃくちゃ強いじゃないですか! あの暗殺者たち、完全に動きがシノビマスターでしたよ? 甲斐性なしじゃなかったんですか?」
「甲斐性は関係ない」
「じゃあ、普通に超絶強いってこと……? あたしの存在意義は……? ブシドーマスターの夢は……?」
「今回は相手が同類だったからだ。搦手を使うヤツは読みやすい。正面から強いタイプは無理だ」
「やだ……それって、あたしのこと?!」
「オルグレンのことだ」
「おのれ老戦士めーッ!」
俺はネムハを無視して、倒れた男に近づいた。
腕を取り、背中側へ捻る。
肩が外れる音がした。
「がっ……!」
男を床に押し伏せる。
黒布を剥がした。
知らない顔だ。
だが、覚えた。
「誰に雇われた」
「……」
「答えろ。黙っていれば楽に済むと思うな」
「死体清掃員、風情が……」
「ああ。このあと、お前らも掃除してやる」
男の頬が引きつった。
怒り。
屈辱。
それから、恐怖。
尋問はできる。
そう判断した瞬間。
「これで終わりだと思うなよ」
ニヤリと笑った男の喉が、奇妙に動いた。
奥歯だ。
俺は顎を押さえようとした。
だが、わずかに遅い。
硬いものが砕ける音がした。
男の目が見開かれる。
毒が回る。
早い。
自害用の即死毒だ。
男の唇が、わずかに動いた。
「──失敗」
それきり、男の目から光が消えた。
静寂が落ちる。
通路には、暗殺者たちの死体が残っている。
血の匂い。
毒の匂い。
湿った石の匂い。
俺は、男の死体から手を離さなかった。
まだ温かい。
死んだばかりだ。
死の記憶に触れるなら、今が一番いい。
だが、その前に。
死体の輪郭が、滲んだ。
「……何?」
肉が薄くなる。
血が石床へ沈むより早く、黒い染みになって崩れていく。
骨も、布も、短剣も、まるで水に溶ける紙のように形を失った。
他の暗殺者たちも同じだった。
倒れていたはずの身体が、1つずつ床へ沈む。
残るのは、濡れたような黒い跡だけ。
「死の痕跡を残さないとは、さすがシノビマスター」
「警戒しろ」
俺は解毒薬をもう1粒取り出し、ネムハへ放った。
「薬をもう1回入れておけ」
「また鼻にですか?」
「同じ毒を使う可能性がある」
「任務が終わる頃には、鼻の穴が増えてそうです」
「増えない」
ネムハは黒い粒を鼻へ押し込んだ。
俺たちは立ち上がり、通路の奥へ構える。
足音がした。
1つ。
2つ。
いや、もっと多い。
黒い幕のような暗がりから、黒布で顔を覆った男たちが現れる。
短剣。
吹き矢。
捕縛糸。
足音を殺す訓練を受けた動き。
先頭の男が、一瞬目を細めた。
「剣士が動いてる。作戦Bだ」
暗殺者だ。
また、6人。
俺は、床に残った黒い跡と、現れた男たちを見比べた。
「何……?」
どこか遠くで、乾いた音が1つ鳴った。




