第3報 死体清掃員の仕事
胃液の酸っぱい匂いが、鼻腔の奥にこびりついて離れない。
アレンの死の記憶が、幻覚のように脳裏をちらついては消える。
自分の腕が、自分の首を絞める、あの絶対的な恐怖。
近づくな。
逃げろ。
本能が、けたたましく警鐘を鳴らしている。
(仕事、だからな)
それでも足は、通路の奥に転がるカイルの影へ向かっていた。
俺は『死体清掃員』。
死体を回収し、そこから価値あるものを剥ぎ取って、金に換える。
それが、俺の仕事だ。
カイルは、通路の中央で膝を折っていた。
背筋は、不自然なほどまっすぐだった。
両手は膝の上に置かれ、顔はわずかに伏せられている。
祈っているように見えた。
ただ、その身体には、無数の矢が突き刺さっていた。
彼が愛用していた矢筒から抜き取られたであろう矢が、1本、また1本と、その肉体を貫いている。
まるで、聖人の殉教図のようだった。
どの矢も、美しい角度で突き立っている。
雑に射込まれたものではない。
何か見えない手によって、丁寧に配置されたように見えた。
そのうちの1本は、彼の心臓を正確に射抜いていた。
(……カイル)
喉の奥が、ひくりと震える。
もし、さっきの現象が偶然でないなら。
この死体に触れれば、俺はまた、他人の死を視ることになる。
吐くほどの恐怖。
他人の死が、自分の死として脳に焼き付く感覚。
もう一度、あれを味わうのか。
(冗談じゃない)
そう思った。
心の底から、そう思った。
だが、確かめる必要がある。
これは手掛かりだ。
そして、俺の仕事でもある。
俺は、カイルの肩へ震える指先でそっと触れた。
――ッ!
世界が、沈む。
***
やはり、カイルの記憶だ。
アレンが、目の前で、自らの腕に首を絞められて死んだ。
パニック。
恐怖。
混乱。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
メリルか。
ディーナか。
わからない。
俺――カイルは、ただ、がむしゃらに走り出した。
斥候としての本能が、この場から1秒でも早く離れろと叫んでいる。
その瞬間、脳内に、言葉ではないイメージの濁流が流れ込んできた。
――万華鏡を覗き込んだかのような、無数の幾何学模様。
――ぐにゃりと歪み、溶け落ちていく懐中時計。
――蜂の巣の断面。その六角形の部屋の1つ1つが、蜂蜜ではなく、鈍色に光る水銀で満たされている。
――耳元で、無数のガラス玉が硬い床に一度にぶちまけられるような、甲高く乾いた音が鳴り響く。
――何にも接続されず、ただ虚空でゆっくりと回り続ける、1つだけの錆びた歯車。
時計。
水銀。
ガラス玉。
歯車。
脈絡のないイメージの洪水に、思考が麻痺する。
なんだ、これは。
何を見せられている?
その時、意思とは無関係に、手が背中の矢筒へ伸びた。
そして、1本の矢を抜き取る。
「やめろ……やめろっ!」
脳が拒絶する。
だが、体は止まらない。
まるで操り人形のように、ゆっくりと、しかし正確に、その矢を自分の肉体へ向けていく。
指が震えない。
狙いがぶれない。
息の乱れさえ、勝手に整えられていく。
1本。
また、1本。
矢が、俺の肉体へ入り込んでいく。
なぜ。
どうして。
脳裏を、先ほどの溶けた時計と錆びた歯車のイメージがよぎる。
わからない。
何も、わからない。
あのイメージと、今のこの行動に、何の関係がある?
ただ、抗うことのできない絶対的な力が、俺の体を操っている。
痛みは、なかった。
冷たい鉄が肉を裂き、骨の隙間を通り、心臓へ近づいていく感触だけが、やけに生々しく伝わってくる。
それが、逆に恐ろしかった。
(ああ……なんで、俺が……)
後悔。
絶望。
理不尽。
そして、死。
***
「――はっ、はぁっ……!」
現実へと意識が引き戻される。
嘔吐はしなかった。
だが、全身から噴き出した汗で、装備がぐっしょりと濡れている。
立っているのがやっとだった。
同じだ。
アレンの時と。
いや、死に方はまるで違う。
アレンは自分の腕で首を絞め、カイルは自分の矢で肉体を貫いた。
なのに、同じだとわかる。
あの幾何学模様。
あの意味不明なイメージの洪水。
そして、自分の体が、自分のものではなくなる感覚。
理屈ではない。
死体が、その記憶が、そう告げていた。
(……仕事をしないとならない)
俺はしばらくその場で荒い呼吸を繰り返したあと、腰のホルスターから解体用のナイフを抜き取った。
彼らは死んだ。
そして、俺は生きている。
生きている俺には、やらなければならないことがある。
まず、アレンの死体へ戻った。
首に絡みついた腕を引き剥がし、握りしめていた長剣を抜き取る。
指輪と腰のポーチも回収し、状態を確認してから背嚢へ収めた。
長剣と指輪。
この二つが特に貴重な装備。
魂魄装備だ。
魂魄装備は、持ち主の魂魄器官と紐付けることで強大な効果を発揮する。
持ち主が死んでも、その紐付けは勝手には外れない。
解除には、持ち主の魂魄器官が必要になる。
これが『死体清掃員』がA級パーティに付いていく最も大きな理由だ。
俺はアレンの胸へナイフを入れた。
死後の魂魄器官は崩壊が始まり、傷もつくようになる。
崩壊する前に、専用の回収袋へ収めなければならない。
刃を滑らせ、肋骨の隙間から胸を開く。
周囲の組織を切り離し、乳白色の器官を取り出した。
布で包み、腰の魂魄回収袋へ収める。
袋の口を閉じると、表面に刻まれた術式が淡く光った。
次はカイルだ。
愛用していた弓と装飾品を回収する。
弓も魂魄装備だった。
胸に刺さった矢の位置を確認し、邪魔になるものだけを抜く。
残りは短く切り、動かないよう固定した。
胸を開き、矢の先端を避けながら魂魄器官を取り出す。
布で包む。
魂魄回収袋へ収める。
袋の口を閉じる。
確認。
梱包。
記録。
いつも通りの仕事だった。
かつて、ともに笑い合ったはずの幼馴染だった者たちの体が、今はもう、ただの「素材」と「肉塊」にしか見えなかった。
そのほうがいい。
人間に見えているうちは、手元が鈍る。
素材に見えた瞬間、仕事は早くなる。
死んだ仲間から、貴重な装備と臓物を抜き去り、自分は高給を得る。
これが、『死体清掃員』が最も忌み嫌われる理由でもあった。
回収した品を確かめ、背嚢の紐を締め直す。
ずしり、と重い。
(残るは、2人か)
魔術師のメリルと、聖女のディーナ。
彼女たちは、どこへ逃げた?
無事なのか?
それとも、すでに何かの餌食になったのか。
ディーナの顔が脳裏をよぎる。
無意識に、彼女からもらったチャームに手を添えていた。
だが、この異常な状況で二人を探しに行くのは危険だ。
それに、死体がないのなら俺の仕事はない。
俺は、来た道とは別の、地上へ続くはずの避難経路へ静かに歩き出した。
今は脱出する。
この荷物と情報をギルドへ持ち帰り、金に換える。
それが、今の俺にできる唯一のことだった。
その時、避難経路の奥から、子供のような鼻歌が聞こえた。




