第27報 バグる天才、思考する凡人
ズズズ、と。
足元の岩盤が、また数メートルほど沈み込んだ。
巨大な蟻地獄だ。
周囲の瓦礫も土砂も、ゆっくりと、しかし確実に中心の停止領域へと引きずり込まれていく。
タイムリミットは刻一刻と迫っていた。
カサ、カサ、カサ……。
その絶望的な斜面を、蜘蛛型の影どもが這い上がってくる。
物理法則を無視したカクつく動きで、奴らは俺たちの退路を塞ぐように展開した。
数はざっと50以上。
(……不味いな)
俺は瞬時に状況を演算する。
この程度の斜面なら、俺1人なら駆け上がれる。
ザイン1人を担いで逃げることだって可能だ。
隣にいるネムハなら、ザインを小脇に抱えて、鼻歌交じりに岩場を飛び回って脱出できるだろう。
だが――。
「シュシュっと解決!」
俺が指示するよりも早く、ネムハが飛び出した。
彼女は長剣を構え、自信満々に蜘蛛型の影の群れへと踏み込む。
その初速は完璧だった。
A級冒険者の身体能力。
これならいける――。
そう見えた、直後だった。
「せいっ! ……あ、れ?」
ネムハの軸足が、何もない場所でカクリと折れた。
まるで、自分の足に躓いたかのように盛大にバランスを崩し、顔面から岩盤に突っ込む。
グシャッ、と鈍い音がした。
「……え、なんですかこれ?」
ネムハは顔を上げると、きょとんとした顔で自分の足を見た。
「足が、動かない?」
(……やはり、そうなるか)
俺は舌打ちと共に、懸念が現実になったことを悟った。
こいつは天才すぎたのだ。
ネムハの強さは、思考を挟まない超高速の反射神経にある。
地面を蹴る感触。
足を前に出したときの空気抵抗。
あるいは、脳から伝わる電気信号。
凡人なら気にならない誤差でも、無意識下で最適解を連発する彼女にとって、そのズレは致命的なノイズになる。
ハイスペックゆえの機能不全。
今の彼女は、歩くことすらままならない赤子同然だ。
「この足が悪いんか、この足が悪いんかーっ!」
「……」
自分の足を泣きながら叩くネムハ。
それを見て、ザインが苛立ちながら叫ぶ。
「ええい、役立たずですね! ならば私が焼き払ってやりましょう! 神聖魔法〈セイクリッド・レイン〉――ッ!」
ザインが杖を掲げ、高らかに叫ぶ。
「…………あれ?」
ザインが間の抜けた声を出す。
杖の先からは、何の反応もない。
沈黙。
ただ気まずい空気が流れるだけだ。
「な、なぜです!? 私の魔法が……発動しない!?」
どう見ても魔力切れだ。
だが、それはそれで好都合だ。
下手に動かれても困る。
「そうだ! 私の魔法は完璧すぎて、この空間では遅れるのでしたね! ははは!」
「足め、足めーっ!」
「……」
俺は盛大にため息をつく。
蜘蛛型の影どもは既に、包囲網を狭めてきているのに、呑気にもほどがある。
「さて、どうするか」
ヒュッ。
蜘蛛型の影の鋭い爪が、俺の鼻先を掠める。
俺はそれを半歩下がって避けた。
(……問題ないな)
俺の体は、ネムハのように速くない。
俺の才能は、ザインのように鋭くない。
俺はいつだって、見て、考えて、それから体を動かすマニュアル操作の凡人だ。
だからこそ。
この遅れてくる世界に、俺は適応できる。
右から来る。
一、二、三。
避ける。
左から来る。
当てにいくんじゃない。
数秒後、敵が通る場所に、斬撃の結果を置く。
俺は蜘蛛型の影の動きを予測し、その未来の位置に向かって短剣を振るう。
ザシュッ。
数秒後、空間を移動してきた蜘蛛型の影の胴体が、遅れて発生した斬撃と交差し、弾け飛んだ。
当てられる。
理屈さえわかれば、攻撃は通じる。
「何ッ?! ドブネズミのくせにやるではないですか!」
ザインが感嘆の声を上げる。
「はぁ……?」
そして地面に転がったままのネムハは、信じられないものを見る目で俺を見ていた。
「さすが超絶有能さん! 超絶有能すぎます! こんなバグった状況で、普通に動けるなんて、キモ……尊敬に値します!」
「本音が出てるぞ」
「キモ尊敬に値します!」
「正式にくっつけるな」
俺としては、ただ計算して、間に合う場所へ刃を置いただけだ。
だが――火力が足りない。
俺の短剣では、1体を処理するのに数秒かかる。
敵は50を超える。
しかも、足場は沈み続けている。
(間に合うか……?)
打開策はある。
だが、それにはまとわりついてくる影どもをさっさと片付けないとならない。
「補佐官、剣を貸せ」
俺は蜘蛛型の影を牽制しながら手を伸ばした。
「俺の獲物じゃリーチも威力も足りない。お前の持っている一番いいやつをよこせ」
「一番いいやつ、ですね!」
「ああ」
「おまかせあれ!」
ネムハは仰向けのまま、左手をすっと俺の方へ差し出した。
エスコートを求める令嬢のように。
あるいは、これから出荷される荷物のように。
「どうぞ、お使いください!」
「…………」
俺は差し出された華奢な手首を見て、数秒固まった。
だがすぐ理解した。
こいつめ。
そういうことか。
「だから、〈剣〉は比喩だろうが」
「え……あたしはこの長剣以下ってこと……? ショック……これでもAランク冒険者級なのに……」
なぜか落ち込むネムハ。
そういう問題じゃないだろ。
人間を分回して鈍器にでもしろっていうのか。
(――いや、待て)
俺は彼女の手首を見つめ、思考を走らせる。
ネムハは、自分で動こうとするとバグる。
なら、自分で動かさなければいい。
俺が掴む。
俺が引く。
俺が振る。
その物理的な入力に対し、彼女の筋肉は反射的にバランスを取ろうとするはずだ。
そこには余計な判断が入り込まない。
俺が脳になる。
こいつは剣になる。
俺がこのAランクの肉体を、出力装置として制御する。
馬鹿げた話だ。
だが、できる。
人間の身体は、嫌というほど見てきた。
壊れた関節も、裂けた筋肉も、潰れた腱も、死後間もない身体も、山ほど扱ってきた。
どこを引けば重心が崩れるか。
どこを捻れば関節が逃げるか。
どこに力を入れれば、身体が反射で踏ん張るか。
俺にはわかる。
「……まさか比喩じゃなくなるとはな」
俺は短剣を腰に戻し、差し出された華奢な手首をガシリと掴んだ。
皮膚越しに伝わる、温かな脈動。
そして、鋼のような芯の強さ。
「右手の長剣を落とすなよ」
「死ぬ気で頑張ります!」
俺は全身のバネを使い、ネムハという名の人剣を一気に引き上げた。




