第25報 遅れてくる絶望
泥と、血と、焦燥の味がする空気を肺一杯に吸い込む。
俺は、半狂乱になっている聖騎士ザインの襟首を掴み、泥濘の中を強引に引きずって走っていた。
脳内では、カウントダウンが不気味なほど正確に刻まれている。
あと20秒。
いや、15秒か。
「放せ! 無礼者! 私は王都の……ぶべっ!」
「舌を噛むぞ、走れ!」
俺は叫ぶが、ザインの足取りは重い。
だが、止まるわけにはいかない。
俺の任務には、この無能な室長を五体満足で連れ帰ることも含まれる。
死なせれば報酬は減る。
それだけの理由で、俺は腕に力を込める。
前方、岩陰まであと50メートル。
「あ」
その時、並走していたネムハが声を上げた。
「超絶さん、あれ、どうします?」
行く手を塞ぐように、水晶の柱の陰から影の軍勢がぬらりと湧き出す。
数は5体。
ネムハが短剣に手を掛ける。
「無視しろ!」
俺は短く命令した。
「構うな! 突っ切れ!」
この空間において、戦闘は時間を浪費するだけの自殺行為だ。
ネムハは瞬時に判断を切り替え、抜こうとした短剣から手を離した。
「承知の助~」
俺たちは影たちの脇を、風のようにすり抜ける。
影が腕を伸ばしてくるが、俺たちは泥に足を取られることもなく、トップスピードで駆け抜けた。
岩陰への到達予想時刻、マイナス3秒。
間に合う。
そう確信した、直後だった。
「あっ、私の鞄が!」
ザインが頓狂な声を上げた。
彼の手から、高級そうな革鞄が滑り落ち、泥の中に沈んだのだ。
「何やってる、走れ!」
「あれには王室御用達のティーセットが入っているんです! 限定品なのですよ?!」
ザインが、ありえない馬鹿力で俺の腕を振りほどいた。
火事場の馬鹿力と言うべきか、あるいは強欲さへの執念か。
俺の手から襟首がすっぽ抜ける。
あろうことか、この男は逆走し、泥の中の鞄を拾い上げに戻ったのだ。
俺のカウントダウンは、残り2秒を指している。
俺は呆れるよりも早く、体を反転させた。
戻って、とっ捕まえて、岩陰へ放り込む。
そのプロセスをコンマ1秒で演算し、踏み出そうとした――その時だ。
ガシッ、と。
俺の腕が、華奢な指に強く掴まれた。
「急ぐんですよね?」
ネムハだ。
彼女はザインを一瞥すらしなかった。
迷いなく俺だけを掴み、人間離れした脚力で地面を爆ぜさせる。
「おい――」
俺の体は、ネムハに引っこ抜かれるようにして宙を飛んだ。
彼女は俺の手首を引いて、岩陰へと飛び込む。
ザインは鞄を抱きしめ、「よし、無事だ!」と安堵の表情を浮かべていた。
その背後で、空間が白く歪む。
ゼロ。
世界から音が消えた。
――ズドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
白い閃光と同時に、遅れてやってきた衝撃波が世界を叩き割る。
俺たちは岩盤に叩きつけられた。
凄まじい熱風。
鼓膜を破壊する轟音。
俺はネムハを抱え込み、必死に耐えた。
視界の端で、影の軍勢が熱線に焼かれ、一瞬で炭化していくのが見えた。
長い、長い数秒間が過ぎる。
やがて、轟音が遠ざかり、土煙だけが残された。
俺は咳き込みながら、重い体を起こす。
「……生きてるな、補佐官」
咄嗟に庇ったから、ネムハは俺に覆いかぶされる形になっていた。
ネムハがジトっとした顔で小さく指でバッテンをつくっている。
いつものヤツだが、控えめだ。
「情状酌量の余地ありか」
と、そんなことはどうでもいい。
俺たちは背後を振り返った。
そこには、直径100メートル近い巨大なクレーターが穿たれていた。
湖水は消滅し、赤熱した大地が溶岩のようにドロドロと波打っている。
何もかもが消し飛んでいた。
影たちも。
ティーセットも。
そして――。
「…………」
沈黙が落ちる。
ネムハが、ちらりと俺の手元を見た。
俺の左手は、まだ何かを強く握りしめていた。
「……い、た、た……」
足元から、弱々しい呻き声が聞こえた。
俺の左手が掴んでいたのは、金髪の束。
その下には、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったザインの頭皮が繋がっていた。
「が、髪が……私の美しい髪がぁ……」
ザインは生きていた。
爆発の瞬間、ネムハに引っ張られた俺が、とっさに手を伸ばして彼の自慢の長髪を掴み、無理やり引きずり込んでいたのだ。
首の骨が折れなかったのが奇跡といっていい。
「死に損ねましたね」
「おい」
不穏なことを口走るネムハをたしなめる。
もうザインには興味を失ったようで、虫型モンスターを指で突っつきながら「お前は今日からダンごろう……いや、ダンギガバインか……?」などとブツブツ言っている。
おっと。
そういえば。
「室長殿、生きててなによりだ」
俺は掴んでいた髪の毛をパッと離す。
「……こ、これは……一体……」
ザインは震える手で、更地になった湖畔を見つめている。
「何が起きたんです……? 私のティーセットは……」
「あんたがやったんだろ、室長殿」
俺は体についた煤を払いながら、淡々と告げた。
「さっき撃った極大魔法だ。あれが、今になって着弾したんだ」
「な……?」
ザインは理解できないという顔をする。
「で、ですが! あれは不発でした! 何も起きなかったはずです!」
「不発じゃない。遅刻していただけだ」
俺は足元に落ちていた手頃な石を拾うと、ザインに見えるように放り投げた。
石を殴る。
手ごたえはある。
だが、石は何事もなかったかのように地面に落ちた。
バゴッ。
数秒後、何もない空間で打撃音が鳴った。
地面に落ちている石は無傷のままだ。
「見た通りだ」
俺は解説する。
「ここでは、何かをしても、すぐには結果が出ない」
「……結果?」
「斬る。撃つ。治す。全部、遅れてくる」
ザインが、呆然とした顔で俺を見る。
「しかも、結果は本人についてくるんじゃない。やった場所に残る」
俺はクレーターを一瞥した。
「さっきの治癒魔法も同じだ。あんたが傷を治そうとした場所に、後から治癒の結果だけが出た。そこにいたのが、影の残骸だった」
ネムハが納得したように手を打つ。
「なるほど! だから影たちは、斬られても平気で動いてたんですね」
「ああ」
そこまで言って、ネムハがふと首をかしげた。
「でも超絶さん、質問です」
「なんだ」
「その石ころは数秒で音が鳴りましたけど、あの魔法は遅すぎませんか? それに……」
そこでネムハはチラりとザインを見る。
「あんな強いわけないですよね」
その通り。
ザインの唱えた魔法であの威力が出るのはおかしい。
「原理はわからないが」
俺はクレーターを指差して答える。
「この空間では、小さな動きなら数秒で済む。だが、大技ほど遅れる」
俺は、へたり込んでいるザインを一瞥した。
「そして、遅れた分だけ、威力が膨れ上がる」
石を蹴飛ばす程度ではほんの違和感レベルだが、熟練冒険者の斬撃や、ましてや切り札となれば、このありさまというわけだ。
熟練の冒険者ほどこの仕組みに飲み込まれる。
皮肉な未象だ。
その会話を聞いていたザインが、ハッと顔を上げた。
恐怖に染まっていた彼の表情が、みるみるうちに変わっていく。
「……そうか。つまり私の魔力は、この未象の許容量さえも凌駕し、時間をねじ曲げるほどに強大だったということなのですね!」
ザインが立ち上がり、高笑いを始める。
「はーっはっは! 見なさい黒き穢れども! これが選ばれし者の力なのです!」
ザインが上司でよかった。
コイツが補佐官だったら見殺しにしていたかもしれない……。
ネムハを見ると、放り投げた石ころを連続パンチしていた。
「見てください! これが必殺の、セルフ肩たたたき!」
「『た』が多いぞ」
「いまだっ!……うぎゃーっ!」
失敗して後頭部に連続打撃を受け、ネムハが盛大に転がっていく。
「ま、まさか、これが伝説の、9回転半オメガッ!」
「だからなんなんだよオメガは」
バゴォーーーン!
そのとき、クレーターの中心が、突然大崩落を起こした。




