第23報 見えない斬撃
第9階層、〈鏡の湖畔〉。
そこは、このダンジョンの中でも屈指の美しさを誇るエリアだ。
天井まで広がる巨大な空洞。
その中心には、波1つない静かな湖が広がり、壁面を覆う水晶の群生が、淡い青色の光を放っている。
地面もまた、磨き上げられた鏡のように周囲の景色を反射し、天地の境界を曖昧にしていた。
要するに、ツルツルだ。
「……ふん。薄汚い地下室よりは、幾分マシな場所ですね」
先頭を歩くザインが、ハンカチで鼻を覆いながら言った。
その白く輝く法衣は、薄暗いダンジョンの中ではあまりにも目立ちすぎる。
まるで、私を狙ってくれ、と言わんばかりだ。
俺とネムハは、少し離れた後方で、大量の荷物を背負ってついていく。
ザイン専用のティーセットや簡易椅子まで含まれている。
何をしに来たんだ、こいつは。
ふいに、ネムハがツルツル床を、叫びながら滑走しだした。
まるでフィギュアスケートのように。
「見てください! 超絶さん! 奇跡の三回転半オメガーッ!」
「オメガ……?」
「あーッ?!」
「失敗するなよ」
ツルツル床を盛大に転がっていくネムハ。
なぜか荷物が一切散らばっていないのは、優秀な証なのか。
ネムハに近づき、引き起こしながら、俺は周囲を見渡した。
(……なんだ、この感覚は)
現場に足を踏み入れた瞬間から、妙な据わりの悪さを感じていた。
めまい、とは違う。
だが、自分の体が、風景からわずかに浮いているような、あるいは夢の中を歩いているような、薄い被膜1枚分のズレを感じる。
(疲れか……?)
連日の激務と、地下への左遷。
精神的な疲労が感覚を鈍らせているのかもしれない。
(いや)
疲れは仮説の1つに過ぎない。
こうした違和感を安易に見過ごさない。
そうやって俺は生き延びてきた。
「おい、荷物持ち」
ザインの不機嫌な声が、静寂を破った。
彼は湖のほとりに立ち、優雅に杖を構えている。
「何をしているんですか。さっさと私のティーセットを準備しなさい。……まったく、これだから無教養な輩は困る」
「……了解した」
俺が荷物を下ろそうとした、その時。
ザインが、湖面の一点を鋭く睨みつけた。
「――む。感じますよ。この美観を損ねる、不浄な気配を」
彼は誰もいない空間に向かって語りかけると、杖の先端に強烈な光を灯した。
「隠れても無駄です。未象だか何だか知りませんが、我が聖法気の前では無力。出てくる前に、浄化して差し上げましょう」
「室長殿、まだ敵の姿も確認できていない。いきなり魔法は――」
「黙りなさい」
ザインは、俺を一瞥した。
「素人は黙って見ていなさい。これが専門家の仕事です」
俺の制止など聞く耳持たず、ザインは高らかに詠唱を開始した。
「――闇を払いし極光よ! 不浄なる影を焼き尽くせ! 〈ホーリー・バースト〉!!」
カッ!
杖の先から、目もくらむような閃光が放たれた。
キィィィィン……!
魔力が飽和する、甲高い音が響き渡る。
本来であれば、着弾と同時に轟音と衝撃波が巻き起こり、湖面を吹き飛ばすだけの大魔法だ。
だが。
光は、放たれた瞬間に、ブラックホールに吸い込まれたかのように消失した。
「……は?」
ザインが、間の抜けた声を上げる。
爆発も、衝撃も、煙さえもない。
水面は鏡のように静まり返っている。
ただ、不発に終わった魔力の残滓だけが、虚しく明滅していた。
「な、なぜです? 不発? 馬鹿な、私の魔法構築は完璧なはず……」
彼は振り返り、顔を真っ赤にして杖を振り回した。
「貴様ら! 何かしたでしょう! 私の神聖な儀式を邪魔するために、小細工を――」
ザインが俺たちを怒鳴りつけようとした、その時だった。
――ズドォォォォォォォォォン!!
何の前触れもなく、ザインの背後が爆ぜた。
「えっ」
ザインが目を見開く。
突然発生した衝撃波が、目に見える空気の塊となって、ザインの背中を直撃した。
「ぶべラァッ!?」
カエルの潰れたような悲鳴と共に、白亜のエリート祓魔師は、見えない巨人に殴られたかのように吹き飛んだ。
そして、ゴロゴロと縦に回転したあと、頭から豪快に、ちょうど泥の混じった浅瀬へと突っ込んだ。
「あれは、伝説の五回転半オメガ……ッ!」
「だからなんなんだよオメガは」
そう言いながら、すぐさま戦闘態勢を整える。
「……ボハッ」
泥まみれになったザインが、顔を泥から上げる。
自慢の金髪はワカメのように張り付き、純白の法衣はドブのような色に染まっている。
「な……ななな、なんだ今のわぁぁぁぁっ!?」
パニック状態だ。
「室長殿、我々が調査するので静かにお待ち――」
「き、貴様ら……! 笑ったな!? 今、笑いましたね!?」
ザインが激昂し、こちらへ歩み寄ろうとした、その時。
ズブブブブブブ……。
辺りから、黒い塊が次々と生えてきた。
「影……?」
黒は、やがて人の形を成す。
みな、歴戦の冒険者のような姿形だ。
まるで、先ほどまで戦っていたかのよう。
「ひっ……!」
ザインが腰を抜かす。
その1体が、スローモーションのように走り寄る。
そして、黒い剣をゆっくりと振り上げた。
「室長殿! 気をつけろ!」
俺が叫ぶ。
ザインは、我に返ったように杖を構え直した。
「お、おのれ下等な亡霊が……! この私に泥を塗った罪、万死に値しますよ!」
ザインの身体から、再び聖法気が溢れ出す。
怒りで顔を真っ赤にした彼は、影の攻撃に対し、完璧な反応を見せた。
「遅いですね!」
ザインが、影の剣を紙一重で回避する。
その動きは洗練されており、確かに速い。
彼はそのまま、流れるような動作で影の胴体を薙ぎ払った。
ヒュンッ!
杖が風を切る鋭い音が響く。
だが、杖は影の体をすり抜け、空を切った。
「なっ……!?」
ザインが目を見開く。
「なんだ、脅かしやがって……やはりただの幻影――」
ザインが、安堵の息を吐き、悪態をつこうとした。
その瞬間。
――ドスッ。
ザインの肩から、鮮血が噴き出した。
「――あ、が……?」
ザインは、自分の肩に深々と突き刺さった見えない刃の感触に、呆然と立ち尽くした。
(……何が起きている)
ザインは避けたはずだ。
距離も十分にあった。
影の剣は空を斬っていた。
「ぎ、ぎゃあああああああっ!?」
遅れて、ザインの絶叫が響き渡る。
「い、痛いぃぃぃ! おかしい! この場所、何かがおかしいぞぉぉぉぉ!」
ザインの叫びに、俺は心の中で静かに反論する。
(違うな、室長殿)
ザインを一瞥する。
(この世界に、おかしくないことなんて1つもないんだ)
そう。
俺はこの常識の通じない死地を、いつも通り切り抜ける。
それだけだ。
俺は目でネムハに合図を出す。
ネムハが、ザインのもとへ駆け応急処置を施す。
同時に、俺は周囲の影から目を離さないまま、短く指示を出した。
「補佐官、下手に動くな」
「……」
「……まばたきはしていいからな」
「はぁー!」
ネムハが必要以上に目をパチパチさせながら、ザインの肩に布を押し当てる。
黒い影たちは、ただ、ゆっくりとこちらを見つめていた。




