第20報 白い部屋
古い木造アパートの薄壁の向こうから、規則正しい寝息が聞こえてくる。
セラは眠った。
市場で買ってきた肉を使った煮込み料理は、あいつの胃袋に綺麗に収まり、今は台所の鍋の底にわずかな匂いだけを残している。
安物の香辛料と、獣肉の脂の匂い。
それはこの狭い部屋を満たす生活の証明であり、俺が今日、死の淵から持ち帰った確かな成果だった。
日常は守られた。
明日の食費も、当面の薬代も確保した。
だから俺も、泥と死臭を洗い流して、眠りにつけばいい。
だが、俺は暗い居間の椅子に座ったまま、動けずにいた。
解体糸は捕まえた。
標本にした。
報告書にまとめた。
終わった仕事だ。
だが、13階層は違う。
あの幾何学模様は、まだダンジョンにいる。
それ以上に、不協和音も、甘い匂いも、俺の中に残ったままだ。
目を閉じれば、幼馴染たちの最期と、崩落する階段の脇にへたり込んでいたディーナの青ざめた顔が浮かぶ。
コン、コン。
控えめだが、妙に遠慮のないノック音が扉を叩いた。
こんな深夜に訪ねてくる相手の心当たりは、1人しかいない。
俺は無言で立ち上がり、音を立てないように扉を開けた。
「こんばんは。可愛い妹さんは寝たかな?」
月明かりを背にして立っていたのは、エリフィアだった。
上等な外套の裾を揺らしながら、彼女はどこか食えない笑みを浮かべている。
「……何の用だ」
「いい知らせだよ」
「お前の言ういい知らせで、ろくな目に遭った記憶がないんだが」
「ひどい言われようだね。聖女様の面会許可が下りたよ」
思わず、俺は眉をひそめた。
「……頼んだ覚えはないぞ」
「ギルドの報告で、あいつは無事だって言い切ったじゃないか。なら、自分の目で確かめたいだろうと思ってね。重要参考人として、無理やりねじ込んだのさ」
「何を企んでる」
「好意だよ。半分はね」
「もう半分は?」
「ライバルに恩を売っておきたくてね」
エリフィアはくすりと笑い、首を傾げた。
「行くかい?」
俺は答えなかった。
だが、気づけば傍らの外套を手に取っていた。
内ポケットの中に、解体用ナイフと、あの銀色のチャームが入っているのを確認し、静かに扉を閉める。
***
夜の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
下層の住宅区画を抜ける間は、どこの家からも夕餉の残り香や、くすぶる生活の匂いがした。
だが、緩やかな坂を上り、石造りの神殿区画へと近づくにつれ、空気は急激に冷たく、無機質なものへと変わっていく。
「それにしても、相変わらず神殿は嫌いみたいだね。顔に出てるよ」
隣を歩くエリフィアが、ふと尋ねてきた。
「俺にはキレイすぎる」
「ああ。この不自然なくらいの清浄さが、連中の執着の表れさ。なにせ、中にいる聖女様はこの街の希望だからね。金にも政治にも、民衆のガス抜きにも使える。だからこそ、あんな無菌室みたいな場所で、腫れ物みたいに大事に扱うのさ」
事実だ。だからこそ、俺は関わるべきじゃない。
俺は、死体の山を漁って生きている人間だ。幼馴染だからと言って、聖女と関わっていい人間ではない。
だが。
「面会時間は5分。それ以上は一切認められません」
神殿の裏門で待機していた神官が、浮浪者を見るような露骨な嫌悪感を隠さずに告げた。
エリフィアは「わかってるさ。では、せいぜい楽しんでくれよ」と壁に寄りかかり、目をつむった。
***
白い部屋だった。
壁も、天井も、シーツも、すべてが神経質なまでに白い。
生命の匂いも、死の匂いも、ここでは徹底的に漂白されている。
部屋の中央のベッドに、ディーナが横たわっていた。
豪奢な聖女の装束ではなく、簡素な白い病衣。
案内役の神官が退室し、重い扉が閉まると、部屋には俺と彼女の2人だけになった。
俺は、ベッド脇に用意されていた丸椅子には座らなかった。
立ったまま、ただ彼女の顔を見下ろす。
胸が、ゆっくりと上下している。
顔色は抜けるように白いが、命の芯は、確実にそこにある。
「……無事か」
俺は一度だけ、声に出して問うた。
当然、返事はない。
ダンジョンで俺が彼女の腕を掴んだとき、そこには確かな質量と、汗と、泥と、むせ返るような死臭があった。
だが今の彼女は、ひどく清潔で、静かで、ただ微かな温度だけを残してそこに在る。
神殿の連中は、こいつを聖女と呼ぶ。
街の連中も、希望と呼ぶ。
だが俺が覚えているのは、泥だらけの膝で笑っていた、ただのディーナだ。
その落差が、俺の腹の底に居心地の悪いしこりを作っていた。
俺は無意識に、ポケットの中のチャームを強く握り込んでいた。
冷たい銀の感触。
「……ディーナ」
呼ぶつもりはなかった。
だが、声は漏れていた。
その瞬間だった。
シーツの上に投げ出されていたディーナの右手の指先が、ぴくりと動いた。
俺は息を止めた。
痙攣ほど大きくはない。
だが、偶然と決めつけるには、何かに反応したような生々しい動きだった。
俺は思わず身を乗り出したが、彼女の瞼は閉じたままで、呼吸も変わらず浅い。
ただの反射か。
俺の気のせいか。
わからない。
だが、わかる必要はない。
コンコン、と短いノックの音がして、「お時間です」という神官の冷ややかな声が響いた。
俺は最後にもう一度だけディーナを見下ろし、返事のない別れを置いて踵を返した。
***
病棟を出ると、深夜の冷たい外気が火照った肺を刺した。
エリフィアは、先ほどと同じ壁際で待っていた。
「で? 顔は見れたのかい?」
「寝顔だけな」
「それは残念だったね。起きていれば、聖女様から直々に感謝の言葉くらい聞けたかもしれないのに」
「クソを塗りたくった恨みかもしれんな」
俺が歩き出すと、エリフィアも小さく肩をすくめて並んで歩き始めた。
「明日、朝からギルドが騒がしくなるよ」
「ゴードンが何かやらかすのか」
「それもある。けど、君にとっては〈鋼鉄の獅子〉の連中の方が厄介かもね。何せ、有望な若手を救出したヒーローだからね」
「仕事をしただけだ」
「君にとってはね。彼らにとっては違う」
「俺は感謝されるために行ったわけじゃない」
「知っているよ。でも、救われた側はそう思わない。特に、〈鋼鉄の獅子〉はね」
俺は盛大にため息をついた。
「礼ならメグとベスから受け取ってる」
「本当に、君は頑固だね」
「事実だ」
「その事実だけで、あの老戦士が納得すると思うかい?」
「しないだろうな」
「わかっているじゃないか」
「だから面倒なんだろ」
エリフィアは楽しそうに笑った。
「せいぜい、今夜くらいはゆっくり休むといい。嵐の前の静けさってやつさ」
「できると思うか?」
「さあね。君次第さ」
エリフィアは分岐路で足を止め、軽く手を振って闇に紛れていった。
一人になった俺は、再び家への道を歩き出す。
ポケットの中のチャームを、無意識に指で弄ぶ。
熱はない。
いつもの冷たい銀だ。
だが、病室で見たあのわずかな指先の動きだけが、妙に鮮明に頭に残っている。
家の前まで来て、足を止めた。
窓の向こうは暗い。
セラは、もう眠っている。
ここが俺の帰る場所だ。
だが、白い部屋で聞いた、かすかな呼吸も耳に残っている。
俺は小さく息を吐き、冷たい夜気を一度肺の奥まで吸い込んでから、音を立てないように扉を開けた。




