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第19報 女の匂い

 市場で、妹の好物である果実のタルトを買った。

 ついでに、分厚いステーキ肉も買い込んだ。


 今日は少し、食卓が豪華になる。

 ボーナスが入ったのだ。

 たまにする贅沢。

 まさに俺が望む日常だ。


 そして、馴染みの魔法具店で、報酬の一部を〈賢者の石〉の定期購入契約に変えた。

 これで、向こう半年は、妹の発作を完全に抑えられるはずだ。


 金貨はきれいに減った。

 最高の使い道だ。


 夕闇が迫る路地を抜け、自宅の扉の前に立つ。

 ふう、と深く息を吐き、ダンジョンで染み付いた死と緊張の空気を、意識的に払い落とす。

 表情筋を緩め、いつもの「お兄ちゃん」の顔を作る。


 ガチャリ。


「ただいま」


 扉を開けると、暖かい光と、シチューの匂いが俺を出迎えた。


「おかえりなさい、お兄ちゃん!」


 リビングから、パタパタとスリッパの音を立てて、セラが駆け寄ってくる。

 その顔色は、今朝よりも少し良いように見えた。


「早かったね! 仕事なくなっちゃった?」

「あのなぁ。むしろボーナスが出たぞ。ほら」


 俺は、買ってきたタルトの箱を掲げて見せる。

 セラの瞳が、ぱあっと輝いた。


「わあ! 『銀の匙亭』のタルトだ! すごーい! お兄ちゃん大好き!」


 無邪気に喜ぶ妹の姿。

 それを見るだけで、ダンジョンでの疲れも、ゴードンの不快な視線も、全てがどうでもよくなっていく。


 俺は、この瞬間のために生きている。

 そう確信できる時間だ。


「しかも、今日は肉もある」

「えっ、ほんとに?! ステーキ?!」

「ああ」

「やったー! お兄ちゃん、今日は大勝利だね!」

「まあな」


 セラが笑う。

 それだけで、今日の仕事は黒字だった。


「さ、手洗ってきて。すぐご飯にするから」

「ああ」


 セラに背中を押され、俺は洗面所へと向かう。

 手を洗い、顔を洗う。

 鏡の中の自分は、相変わらず隈がひどい。


 だが、その表情は悪くなかった。


 リビングに戻ると、セラがテーブルに料理を並べていた。

 俺が席に着こうとした、その時だった。


 ふと、セラが鼻をひくつかせた。


「……ん?」


 彼女は、配膳の手を止め、俺の服の袖口あたりに顔を近づけた。

 そして、スンスン、と子犬のように匂いを嗅ぐ。


「どうした? 一応シャワーは浴びてきたが、汗臭いか?」

「ううん、汗の匂いじゃないよ。なんかね……」


 セラは、不思議そうに首をかしげ、それからジトッとした疑いの眼差しを俺に向けた。


「……なんか、甘い匂いがする」

「……は?」


 俺の動きが止まる。


 甘い匂い。

 タルトの匂いか。

 いや、箱はしっかり閉じている。


 俺が首をひねっていると、セラはさらに目を細め、核心を突くように言った。


「お兄ちゃん。この匂い、ギルドの匂いじゃないね。もっとこう、複雑で、でもちょっとツンとしてて……絡みつくような……」


 彼女はそこで言葉を切ると、大げさに口元を手で覆った。


「まさか……女の人!?」

「ぶっ」


 俺は危うく、飲みかけた水を吹き出しそうになった。


「な、何を言ってるんだお前は。俺の職場を知ってるだろ。香水商じゃないんだ。周りにはむさい男と……変な女しかいないぞ」

「怪しい……。お兄ちゃん、最近依頼もまばらな割に、お金払いが良くなってるし……まさか、その変な女の人に貢がれたりしてないよね?!」

「そんなわけあるか。ギルドの匂いじゃないのか。エリフィアとか」

「違いますー。エリフィアさんのはもっとこう……頭のいい感じなの!」


 セラの追及は鋭い。


(頭のいい感じ……)


 俺の脳裏に、あの『ボンキュッボン』という謎のポーズを決める、頭のよくない感じの部下の顔が浮かんだ。


(……あいつか)


 ネムハ。

 あいつが、俺の至近距離で動き回っていたせいか。


 いや、あいつからこんな匂いがした覚えはない。

 そもそも死臭迷彩ですべてかき消されていたはずだ。


 だが、セラの鼻は昔から鋭い。

 もしかすると、俺が気づかないレベルの残り香が、付着していたのかもしれない。


(いや、待てよ)


 そこで、俺は〈鉄の斧〉の2人を思い出す。

 そういえば、あの2人を抱きかかえていたな。


「依頼で若い女性を抱きかかえた。それじゃないか?」


 その一言に、妹が絶句した。


「お……お兄ちゃん」

「なんだ?」

「モテ期?!」

「依頼だといったはずだが……」

「ハグを依頼された?!」

「わざと誤解しているな」


 セラはそこでケラケラと笑ったあと、俺の匂いをもう一度嗅ぐ。


「でも気をつけてよね。お兄ちゃん、根が優しいから、悪い女の人にすぐ騙されそうなんだもん」

「大きなお世話だ」

「あ! 今、目が泳いだ! やっぱり何かあるんだ!」

「ないと言ってるだろ。ほら、冷めるぞ」


 俺は強引に会話を切り上げ、スプーンを手に取る。

 セラは「むー」と唸りながらも、ようやく席につき、いただきますと手を合わせた。


(……甘い匂い、か)


 あの時。

 13階層。


 不協和音。

 幾何学模様。

 そして、死臭迷彩の奥にまで届いた、甘い不思議な匂い。


(いや)


 俺は、頭を振って、思考を追い払う。


 今は、この騒がしくも温かい日常を噛み締めよう。

 妹の、可愛らしい勘違いに感謝しつつ。


 シチューの湯気の向こうで、セラが笑っている。


 俺は何もなかったように、スプーンを取った。

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