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夢の底の僕

 少年のエディは、2年前に足を怪我していた。

 彼は歩くことが出来ず、パン屋の2階の自分の部屋で、外を見上げるのが常だった。


「――やぁ、少年。

 今日も景色を楽しんでいるのかな?」


 突然の声に、エディは心から驚いた。

 急に、しかも家族以外の声。


「うわぁ!? お、お姉さんは誰!?」


 そこに笑顔で立っていたのはアリアだった。

 いつも通り、神職者の服装をしている。


「君が儚い顔で外を眺めているから。気になっちゃって、さ」


 アリアは何とも無しに言うが、エディからすれば堪ったものではない。


「お、お母さん! お母さーん!? 不法侵入の人がー!!」

「おお、難しい言葉を知っているんだね。でも大丈夫、君のお母さんには許可を取ったから。

 そう怖がらずに。ほら、お姉さんは教団の人だよー?」

「た、確かに……? それじゃ本当に、不法侵入の人じゃないんだね……?」

「もちろん! ところで君は、昼間から何をしているのかな?」


 当然のことながら、ベッドに座って窓の外を眺めていたのだが……聞きたいことは、そうではないのだろう。

 そう思ったエディは、あまり言いたくはなかったが、伝えることにした。


「僕……、事故で足が動かなくなって、歩くことができなくて。だから、何もないときはベッドで寝てるの……。

 ほら、1階でパン屋をやってるでしょ? だから、ひとりでお留守番……みたいな」

「なるほど。でも、ずっと家の中にいるのは、身体にも気持ちにも良くないと思うよ。外に出てみない?」

「……外は、友だちがいじめるから」


 足のことよりも、それを辛そうに告げるエディ。

 何となく、アリアの方を見たくはなかった。


「うーん、多感な時期だからねぇ。

 でも結局は、自分で立ち向かっていかないと。逃げるって選択肢も、あるにはあるけど」

「あはは……。逃げられる場所があるなら、それでも良いと思うよ。でも僕は、動けないから、逃げることもできない……」


 ……いや。逃げる場所は、この部屋の、このベッドの上かもしれない。

 そして今、実際に自分はそこにいる。

 ただ、言葉でそれを言ってしまえば、全てが終わりのような気もしてしまった。


「……うん。今は、そうなのかもしれないね」


 アリアは明確に肯定はせず、否定もしなかった。


「――君に勇気があれば、お姉さんが手伝ってあげようか?」

「え?」

「本当に歩くことを望んでいるなら、神様がきっと助けてくれるはず。ね、どうかな?」

「……えっと」


 エディは一旦、言葉を切った。

 自分は子供であることを認識しており、そして相手は親以外の大人である。

 大人と言い切るには少し若いかもしれないが、それでもエディよりは、確実に大人なのだ。

 しかし、何かがあるなら……、何かが変わるなら……。


「……それじゃ、お願いできる?」


 アリアはその言葉に頷き、そっとエディに近付いた。

 ベッドに腰を掛け、優しく彼の額に指を伸ばす。


「――ならば祝福を与えよう。

 汝は神に身を委ね、欲する力を祈るべし――」


 大人よりも大きな存在を身に感じながら、エディは静かに目を閉じた。

 何をされるか分からない、という恐怖。

 何を信じれば良いのか分からない、という不安。

 しかし今は、これを信じておけば良い、という希望。


「――神の祝福はここに在り。

 望みと共に、その魂から発芽せよ――」


 エディは額に一瞬の熱さを感じたあと、そのまま身体から力が抜けていった。

 とても疲れたときに、一気に眠りに落ちるような感覚。頭の中の自分の声が、それこそ付いていけないスピードで――


「君が手に入れたギフト――異能は、『夢の迷宮』だね。

 ……って、もう眠っちゃったの?」


 アリアは軽く、エディの身体を揺らした。

 しかしエディは、安らかな寝息を立てて、起きる気配がしない。


「……結構強い、内向的な異能が出ちゃったねぇ。

 君は……現実を望まなかったのかい?

 これ以上ここにいるのは、時間の無駄かなぁ……」


 アリアはベッドから立ち上がり、一息ついてから、窓の外を眺めた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 エディは夢の中にいた。夢の中であることを、彼は自覚していた。

 明晰夢という言葉は知らないが、同じような夢を見た経験がエディにはあった。

 しかしそのときよりも、全てがずっと、存在感を持っている。

 触れるものには現実以上に滑らかな感触があり、目に入るもの、耳に入るものが、全て澄んでいた。


 しかし、最も現実と違うところは――


「僕、歩けてる!!」


 昔のように、歩くことが出来ている。さらに、走り回ることだって出来てしまう。

 現実では進まなかった足が、今は思う以上に、昔のように進んでくれる。

 進むことを忘れた足が、しっかり進んでくれる。


 それだけではない。突然現れた家族が、いつものように優しくしてくれる。

 しばらく見ていなかった友達が、優しく接してくれる。


 ……夢であることは分かっている。何となく、現実に戻る方法も分かっている。

 しかし、今この世界で感じた多幸感が、エディの中で快楽となって駆け巡っていた。


「ここは……夢の世界。

 でも、元に戻ったらまた歩けなくなっちゃう……?」


 幸せの絶頂で、それを手放すのは勇気がいることだ。

 彼は走るのが得意だった。だからこそ、人一倍、この現状を手放したくなかった。

 ……そもそも小さな子供にとって、このような幸せは、簡単に手放すこと自体が難しい。


「……さっき、お姉さんが言ってた。『神様がきっと助けてくれるはず』って……。

 だから僕は、ここにずっといても良いんだ。……神様が、そう言ってるんだ!」


 エディが遠くを見ると、美しい川沿いに自分の家が建っていた。

 彼の母親と父親が、静かに手を振っている。

 現実とは違い、街の中ではなく、何もないところに建っているが――

 ……むしろそれが、何の束縛も無く、強制も無く、穏やかな存在として、エディの目には映ってしまった。


「お母さん、お父さん! 今、そっちに行くよ――」


 エディは走り出した。

 急がないと、逃げてしまうかもしれない。

 自分の描く幸せは、急がないと手に入らない気がしていた。



 ――だが、男の子はバランスを崩して転び、膝をすりむいてしまった。

 そこで少しだけ、……我に返った気がした。


「何か、忘れてるような……?」


 世界を築く集中力が、少し途切れたような。

 幸せばかりに向かって気持ちがはやっていたが、怪我をしたせいで、思いがけず立ち止まれてしまったような――


「……そうだ。……あのお姉さんは――」


 『本当に歩くことを望んでいるなら、神様がきっと助けてくれるはず』


 ……『本当に歩くことを望んでいるなら』


 ……『本当に歩くこと』


 ……『本当に』


「僕の望みは――歩くこと?

 ……うん、歩きたいよ。僕は歩きたい……それに、走りたい」


 美しい川沿いに建つ、自分の家。

 そこでは変わらず、母親と父親が笑顔で手を振っている。


「――でも。

 僕が歩いたり走ったりしたいのは、こんな夢の中じゃなくて――」


 ……現実で。現実の世界で。

 現実のお母さんと、お父さんの前で。

 願わくば、昔は仲の良かった友達の前で。


 ――僕は、走りたい。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 エディは突然の苦しさを覚えた。

 逃げようのない苦痛から逃れるようにもがいていると、やがてようやく、苦しさが引いてきた。

 ……現実に戻ることができたようだ。

 目の前には――眠る前に出会った、見知らぬお姉さんの姿があった。


「――……ただいま」

「お帰りなさい。よく戻って来られたね」


 何とか振り絞った声に、アリアは嬉しそうに声を掛けた。

 エディの額には薄っすらと汗が滲んでいたが、アリアが彼女のハンカチで優しく拭い取ってくれる。


「……お姉さんの祝福って、きっついねぇ?」


 何とも言えない顔で、エディはアリアにそう言った。

 アリアもエディに、何とも言えない顔で返事をする。


「あははっ。そうみたいだねぇ♪」


 雰囲気は和やかになり、ふたりは幾つかの言葉を交わしていく。

 そんな中、ふと、エディの言葉に決心が宿った。


「――僕、逃げないで頑張るよ。

 夢の中で、歩く感覚を思い出したんだ!」


 エディはベッドの上で姿勢を変えて、床に足を付けた。

 そして、力を入れる。

 入れた力は立つものには変わらず、しばらくは震える力になるのみだった。

 しかし、十分な時間を使うと、やがて力は足へと伝わっていき――


「「歩けた!!」」


 エディとアリアの言葉が重なった。

 エディの目には涙が浮かび、アリアはその様子を受け入れている。


「――やったね! やれば出来るじゃん!!」

「えへへ……♪

 これも、お姉さんのおかげだよ――……うわっ!?」


 エディの足からは急に、立つ力が抜けていき、震える力に戻っていった。


「まぁまぁ、1回上手くいけば、この後だって、きっと大丈夫だよ!」

「うん、そうだね!」


 エディはベッドに腰を下ろして、自分の足を確かめるように触っていった。

 今までは力が上手く入らなかったこの足。すぐには無理だろうけど、今からでも頑張れば――


「……あれ?」


 そこでエディは、自分の膝に何かの痕が付いているのに気が付いた。

 何となく見覚えがある……。

 友だちから嫌がらせを受けたときに、よく付けられた痕。

 でも最近は、友だちとは全然会ったことがない。それなら何で、今こんなものが付いているのか――


 ――ガチャ


 突然、その音と共に、エディの母親が部屋に入ってきた。


「エディ、おやつの時間よ~♪

 ――……? きゃー!!? あなたは誰ですか!!?」


 エディの母親は、アリアを見て大きな声を上げた。

 それを見て、エディも一緒に驚く。


「え? ……えーっ!?

 お姉さん、やっぱり不法侵入の人だったの!?」

「あはは、やっばーい!

 じゃぁね、少年! 元気でね!!」


 アリアは窓の縁に手を掛けて、開け放たれた窓から、軽やかに去っていった。


「……え? ここ2階だけど……!?

 エディ!? 今の人は、どんな人だったの!?」


 母親の慌てた口振りに、むしろエディの心は落ち着いてしまった。


「えぇっと……何て言うのかな……。

 ――うん。名前も知らない、怪しくて、優しいお姉さんだったよ――」


 思えば、自分の名前も教えていなかった。

 母親の心配そうな顔を余所に、エディは空を見上げた。


 まだすぐに走り回れるわけではないが、一歩ずつ進んで行けば――

 まずは一歩。その次は、それから。


 ……きっといつか。

 僕はまた、あの空の下を走りまわれるようになるだろう。

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