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152「開幕」
焼け落ちたノートルダムの大聖堂を背景に少女が吼える。
その口から吐き出される言葉は、力強くはあっても、どこか拙く、言論を生業にする者からみれば支離滅裂にも聞こえるだろう。だが、本心からくるのであろう言葉たちは、大地に零れ落ちる前に人の心に届く。
戦うのは嫌だ。傷つけ合うのは駄目だ。戦争、嫌い。駄目。
場の喧噪さを圧する反戦への思い。少女の真正面からの言葉を受けて、老いた司教がよろめく。
しかし。
戦争は向こうから来るのです、と、尊厳のため戦わねばならない時もあるのです、と、泣きじゃくる子供を諭すように、いくらか顔色を取り戻した老司教も言葉を連ねる。
でも駄目。駄目ったら駄目。
少女の反論に理はなく、ただの感情。こちらに戦う意思はなくとも、相手から争いを仕掛けられたならば、こちらも相応の行動を起こさねばならない、そんな当たり前の理論も今の少女に通じない。
「……黒猫よ」
自分の喉から出た女の声に驚く。そういえば女のままだったな。
老司教の周囲にいる者たちは息をのみ、ことの成り行きを見守る。
大元帥リッシュモンが、いつにも増した眼光でローマからの使者を睨みつける。
偽ジャンヌと処刑人ジョフロワ、寄り添いたいのに触れ合ってはならぬとばかりに身を離す。
シャルル王は始終困惑し、上目遣いの怯えた様子で周囲を見回し、ランスの町より共に行動してきたアンドレに視線を合わす。アンドレは無視。
騎士のジェルマンが二人の幼い従騎士とともに、盲目の――かつて盲目であった女の身を案じる。
大聖堂前。急ごしらえで作られた舞台を前に、見知った者たち大勢がいる中で、俺たちは透明な人間となっている。
舞台の外側にいる。観客のように。
雨はもうすぐに止む。今は降っているのかどうかもわからないほど。暗雲ではなく、空の一面には薄い雲が広がる。
「黒猫」
劇の鑑賞には飽きて、いざ舞台に飛び込まんと意気込むかのようであった黒猫に、待ったをかけるように俺は問いかける。
「もっと詳しく状況を教えてくれ。見ていたのだろう?」
人より少しだけ遠くのものに手が届き、人より少しだけ遠くのものを見れる、それだけ。そんなことを言った黒猫は、実際にはもっと多くのことができ、多くのものを見ることができる。全知全能ではなくとも、全知全能ではないのか、そう思わせるくらいには。
「ローマから調査に来たとか言ったか」
縛られて、今は少女リュミエラに守られるようになっている男に目を向ける。
いくらか傷ついてはいるが、きつく縛られた男の瞳におびえた様子はない。こういう奴は、己の信じるもののために命を懸けることができる。そういう者の目だ。
「俺の知らぬ間に、なにやら急に切羽詰まった状況に見えるが……」
「んー、そうねぇ」
転移で一緒に連れてきた少女クレアの腕から逃れて、地面を歩く黒猫がようやくこちらを向く。
「急にというか、そういう流れはずっとあって、ちょっとした……あー、ちょっとばかり巨大な? 適した言葉は難しいわねえ、ま、世界中を巻き込んだ宗教戦争が始まってしまってる感じ?」
「世界中を巻き込んだ……」
宗教戦争。
「ちょっと時期が悪かったのもあるかもしれない」
続けて黒猫。
「時期が?」
「ちょっと前にローマ教皇さんが代替わりしたばかりみたいね。新しい教皇さんになった途端の、このごたごた、でしょ。だから」
「だからどうだと……」
「責任とか、神の意志がどうこうだとかで、情報が錯綜しまくって、何が何やらわからなくなって、混乱。で。わからないものを人は恐れる。恐れるものを排除したい。そういう感情がちょっとずつ集まって、ちょっとばかり物騒なことになっている、と。うん、全体の流れとしては、そんなところ」
人は感情の生き物。わからないものを恐れて排除したがる人の習性は、学んだことだ。
「噂は噂を呼ぶもの……噂をもとに別の噂が作られて、連絡網に乗って世界中へと広がっていく。今や神様の扱いを巡ってあちらこちらで大騒動みたい。神の奇跡は本当にあるのか、とか、あるなら自分たちはどういう立ち位置なんだ、自分たちの信仰は正しいのかどうか、とかで、皆が不安になる」
疫病のように、噂も広がる。それは実際の疫病の広がる速度を凌駕するほどに早い。
広がる噂の中で人は翻弄され、その各々が信仰心を試される。
「不安になって、けど不安のままでは過ごせないので、なんとかしようと色々と行動してて、ここで劇をやるとか言って怪しげな集会を始めるっぽいし、やめて解散しろっていっても皆は言うこと聞かないし、無理に連行しようとして怪我させちゃうし、で、なんか、討伐の軍勢が組まれようとしている、らしいよ、そこの人によると」
黒猫の視線につられて俺もローマからの使者を見る。
「ま、あちらにとっては、わけのわからない考えを持つわけのわからない集団が出来上がりそうだから、さあ大変、急いでなんとかしましょう、と、そんな反応になってるわけね。ふふ、過剰反応」
黒猫は他人事の様にそう評して口をつぐみ、再び渦中の者たちを見る。
俺たちの視界の中、少女リュミエラと老司教マロ―との会話を遮るようにして、男も必死に叫びをあげている。
「神の意志に沿うのならば、今すぐに私を開放し、この集会を解散をせよ! ローマの意向に従うべし! ローマにおわす新たな教皇こそ神の意向と共にあり! 神の奇跡を見たという者たちは、それぞれ個別の取り調べを受けることだろう! 邪悪な企みをしていないのならば、悪いようにはしない。それまで何もするな! 聖女を自称する者たちはそれぞれ、ローマへの速やかな出頭を命じる。そこで嘘か誠か、善か悪かは問われ、結果が出る。それだけだ!」
「この……っ!」
冷静さを取り戻していたマロ―司教の顔が再び赤く染まる。実際に奇跡を自分で目撃し、銀の聖女プリュエルを信奉するマロ―司教には、この男の言うことのすべてが侮辱に聞こえることだろう。
場は再び喧噪に包まれる。
かつてベッドフォード公に言われた言葉がよみがえる。
ただのお家騒動に宗教を持ち出したのはお前たちだ、これで世界がお前たちを認めないのならば、神を頂きにおく世界のすべてがお前たちの敵になるだろう、と、そんなようなことを言われた。
ベッドフォード公は骨のまま動く俺のことを何やら最先端の錬金術で生み出された存在だと思っていた。神に逆らった存在であると知れたときこそ、お前たちの終わりだと。
「どうして……いや」
どうしてこんなことになるのか、とは言わない。心当たりはいくらでも。
ジャンヌ。
ジャンヌ・ダルク。
彼女の登場が、長きにわたるフランスの地の継承権争いに別の意味を与えた。
神からの預言を携えて奇跡の勝利を重ねた彼女はシャルル王太子を王の地位につかせて、それが正当なる神の祝福によるものだとし、それを決して認められなかったイングランドが彼女を火刑にした。
それで終わるはずだった。
神は現れず、奇跡は起きず、世の中は、争いはあっても従来通りの普通さでもって歴史を重ねていたのだろう。
が。
「俺たちのせい、か」
俺たちが現れた。
どうやら奇跡はあるらしい、それを知った人は……知ってしまった人は、奇跡があることを前提で行動し始める。知ったならばそちらに寄る、それが人の習性。抗えない人の性。
そこに神の意志があるのならば、神の意志に沿うように動く、それが、人が勝手に創り上げた神の意志であっても。
そうだ。人は勝手に神の意志を語る。――騙る。
各々が信じる神の意志を各々の争いに利用するのは当然のこと。人の理。
各々が信じる正しさと別の正しさが争うのに、時間はかからない。
俺たちはルーアンとパリ、それからランスくらいにしか立ち寄っていないが、俺たちを起点とした騒動は、水面に浮かぶ波の様に各地に広がっていく。その水面を揺らす波は、それぞれの騒動となって再び返ってくる。そういうものであることを、知っている。
それでも。その影響の力を、まだまだ俺は甘く見ていたらしい。
「宗教をめぐる、争い……世界的な」
フランスの地に収まるだけではない。揺らされたのは、あらゆる地域に住む人の信仰の心。
「……どこまで」
知っていたのか。
この状況になることを。
その質問は最後まで言えず、しかしその言葉にならない俺の問いを黒猫の金色の瞳は逃さなかった。
「どこまでこんな状況になることを知っていたか、って? 知らないわよ? そして」
猫の金の瞳が歪む。
「今、知ることが出来た。楽しいよね?」
楽し気に。歪む。
全知でないがゆえに、すべてを知ることを望み、学び、行動する怪物が、笑う。




