150
150「最初に存在する境界のこと」
どこまでいっても白。右を向いても左を向いても、ひたすらに白い世界。
無音。静寂。
空と大地の境界もあやふやな、完全に白く塗られた世界において、それでも落ち着いていられるのは目の前に口の端を上げて笑う一匹の黒い猫が存在するからだ。いつものように、いつもの余裕で佇んでいる。
「ここは……どこだ? 雲の上ではないな?」
太陽は見当たらない。しかし暗くはない。足元には確りとした感覚。普通に立っていられる地面がある。雲ならば足で踏めない。それも体験したことだ。今の俺は空の上へと飛んできたわけではない。返答を期待しない独り言のようなつぶやきにも、黒猫のルルは答えを返す。
「どこでもない場所。今作ったばかりだけど」
事も無げに言う。今、作ったと言ったか? ここを?
「私と黒騎士さん、それ以外の存在しない世界。まぁ手っ取り早く用意できる誰にも邪魔されない場所ね」
確かに邪魔の入らない場所で話があるとは言ったが。
「世界?」
「そう。世界」
「丸ごと?」
「丸ごと、とは?」
「丸ごと世界を創った?」
「まあね」
「……………」
なるほど、俺たちの他に最初から何も存在しないならば、余計な邪魔も入るまい……
……世界というものはそう気安く生み出せるようなものだっただろうか。
黒猫のやつが手っ取り早いからと創ったこの世界の広さが今まで俺がいた世界と変わらないならば恐ろしい。遠くを見てもどこまでも続く白。気が遠くなる。何もない世界。俺たち以外には。
続く言葉を吐き出しあぐねていると、代わりとばかりに黒猫が続ける。
「いちいち気にしないの。本題はそれじゃないでしょ。無難に精神だけを持ってきた、とでも言えばすんなり納得できたりするのかしらね? ん? ああ、こういう場面で使うべきなのかもしれない。おお、汝の魂をここへと誘ったのである、と」
「ああ、なるほどな、理解した」
「てきとーな相槌! ここはぜひ魂の部分について突っ込んでよ。おいお前、タマシイについては知らないんじゃなかったのかー、とか、そんな感じで。なんと、ここは天国かー、とかでもいいよ。天国っぽくない? なんとなく」
「そうかそうか」
「反応薄い。はぁ、君から思考を放棄したいという感情が漏れ出しているよ」
重ねて驚かせられ続けていれば反応も薄くなる。今は理解できないことを理解した。それでいいだろう。ただ、何もかもがわからんと認めるのは悔しいので一言くらいは言っておく。
「思考を放棄などしていない。少しくらいなら理解はできている。これは夢の中、みたいなものだな。こうした夢を見たことがある気もする」
どこまでも続く闇の中を墜ちていって、もがきながら目が覚めるような夢。あちらは黒で、こちらは白。似たようなものだ。
「夢とも違うけど、それでもなにも構わないわねえ。さっきまでいた世界にも私たちは存在している、でもあっちの時間は止まっているからゆっくりお話しどうぞ」
「まったく、貴様はつくづく……」
「小言? 私に何か話があるんじゃなかったの?」
いちいちやることが普通ではないぞと言ってやろうとしたが途中で邪魔される。そうだな。普通ではないのがこやつの普通であった。それよりも、話を進めよう。
「さあ、何か話があるなら存分にお話しなさい。いよいよ本当に愛の告白が来るんじゃないかって、ちょっとドキドキしてるんだけど」
「阿保か!」
何が愛の告白か。さっきまでの流れでどうしてそんなことになる。欠片も理解できんわ。
「うむ。そうだな……」
話があると言って普通の部屋に連れ出し、流れのままに黒猫の首を刎ね飛ばしかけた過去を少しだけ思い出しながら黒猫に伝える言葉を探す。
「あー………………」
「………………」
「ふむ………………」
「………………えっと?」
催促されるが、ついさっき思いつき、こやつに披露してやろうと思った考えが頭から飛んでいる。いちいち俺を驚かす黒猫のせいだ。
「……つまり、だな、あれだ、なんというか」
過去と未来、生と死について俺なりに色々と考えて、何かに思い至ったはずだ。死は終わりではない、世界は常にいくつも存在し続け、そこには生きている俺と、死んでいる俺がいて、そして、それゆえに死は恐れるものではないといった感じの何かを確信して……
「……生と死について色々と考えて、そこで何かしらの真理にたどり着いた、のだがな……」
「ふむふむ」
「言葉にできん……」
「何それ」
何それと言われても、本当に言葉にできない。
「確かに何かを閃いたのだが……」
「あー、あるある、そういうの」
苦笑いともとれる笑みを浮かべながら黒猫が俺を見る。
「タイテン、フタイテン、ゼンゴにトンゴ」
「なんだその呪文は」
「君の信じる宗教とは違う考えだけどね、悟りを得るために人は修行をする、それで、何かしらの真理を得たと思っても、ふと手元から零れ落ちちゃってわからなくなるようなことが、人にはあるとかなんとか。ま、いいでしょ。急ぐものでもないし、ゆっくりと言葉にしてみては?」
「む……」
君の信じる宗教、か……
俺はもう無垢の心で全知全能にして世界を創りたもうた唯一の神を……信じることができそうにない。だからといって、悪魔の方を信じる、などということもない。世界は白と黒だけで出来ているのではないと知ってしまった。知ってしまった後では知らなかった時には戻れない。
「俺はな、考えたのだ」
自分の中にもまだ生み出されていないような考でも、無理して言葉にして、繋げていく。
「黒猫よ、俺は貴様と出会ってから、かつての俺では想像すらしえなかった多くの経験をし、多くのことを知り、そして結局のところ、何もかもがわからなくなった」
「うん」
「世の中はあやふやにできていて、それは俺の中にもあって、それでも捨てきれずに残るのが本当の自分なのだ、と思った。だから、邪魔になるような、余計な、特に必要のなさそうなものから捨てていった。捨てたと言っても、頭の中だけでだ」
しがらみから逃げるようにして貴族であった自分を捨てたように。
「捨てて捨てて……」
人であることを捨て、信仰も名誉も、身分も名も、生も死も、血も肉も、剣も鎧も手放して、わずかに残った骨すらも捨てて。捨てて。
「それでも最後に残ったのは、俺が今、考えているということ……」
この世の中、何もかもが嘘で虚構の作り物だとしても、俺が考えているということだけは消えない。それが消えてしまえば、それこそが死と同等なのかもしれないが、ならばこそ死は考慮に値しない。そこには死を恐れる俺すらも存在しないからだ。
生者と死者は何があっても交わらない。
かつて黒猫は死者を船を降りた者と例えたか。
なにかしらの流れの中、どこかに向かう同じ船の上。そこに居ない者とは交われない。死後のことはわからない、ではない。死後は存在しない。生者である者からみれば。
死は存在しない。存在しないものを、俺は恐れていた。
「俺がいる、俺がいると考えている限り、俺は消えない。それで問題はない。だが……それだけでは駄目だとも思ったのだ」
考えながら言葉を紡ぐ。
抽象的なことしか言えない俺の話の邪魔を黒猫はせず、静かに聞き入る。
「考えている俺がいるから、だけでは、きっと世界に対して何もできない。それでは意味がない」
それではこの世の中に生まれていないのと同じ。空を漂う塵と同じ。
生まれてもいないものは、世界にとってもどうでもいいものだ。世界は何もしてくれないし、世界に対しても何もできない。何もしない全知全能の神が、居ても居なくても変わらないように、目に見えぬほど小さなものがあっても、人がそれを知らぬ限りは存在しないものとして扱われるように、俺がいる、だけでは、何もないのと同じ。死と同じ。
「そうか、だから……」
人は名前というものを持つのではなかろうか。
「名とは境界、であったか? 手にも取れぬあやふやなものでも人が扱えるようにと、境界を作り出す」
名前の本質がそういうものであると、黒猫は言っていた。ただの記号とも。
「だから、人が人に”成る”ためには、名が必要なのだ」
ただの記号であっても。
「それを持って初めて生は意味を為す。自分が自分であるために最初に存在する境界、自分というものを世に生み出すために必要なもの。それが」
名前。
名前の本質。
名前なんぞ重要でもない、他人の名前など覚える必要もないとばかりの黒猫の態度……いや、それは俺も同じか、俺もどうでもいい奴の名などどうでもいい。だが。重要ではないか。重要である部分については重要。とてつもなく重要。自分のことを人だと言う黒猫が名を持つのも、きっとそういうことなのだろう。天使でもない、悪魔でもないという奴ですら、自分の名は名乗った。
「人は名を持つことで最初の境界を生み出し、ようやくそれで、世界に触れることが出来る。そのせいで争いが起きるのだとしても……」
境界があるから人は争う。だが、境界があることで生まれるのは争いだけではない。境界があることで触れ合うことができる。
「人に名は必要だ」
黒猫は最後まで邪魔をせずに聞き入り、静かに笑う。
「…………何を邪悪な笑みを浮かべている黒猫。考え、悩み、知の端くれで右往左往する矮小な生き物がそんなに滑稽か?」
「え!? 何? 何でいきなりそんなことを言われるの!? 矮小な生き物!? 自分のことを!? 邪悪な笑み!? 浮かべていませんけど!?」
いったい俺は真剣に何を考えているのだろうか。急に恥ずかしくなってきた。その反動で黒猫にあたる。
先ほどまでの余裕の笑みが吹き飛び目を向いて抗議を始める黒猫。ふん。理不尽なことを言ったのは認める。ま、言葉にはせんが。
「つまりだ、これまでの話をすべてまとめると、こうだ、黒猫、俺に名をくれ」
「どこがどうなって!?」
名をくれという言葉はすんなりと出た。あれほどまで口につかえて出てこなかったというのに。一度口にしてしまえば、もう恥ずかしさもない。
「それこそが本題であったのだ。俺には名がいる。ゆえに俺に名をつけろ、黒猫」
「なんか話が自分の中だけで完結してる感じ! 伝わらないよ!」
思いついたこと、考えていること、伝えたいこと、すべてを伝えられるならばそうしてやろう。だが、無理なのだ。言葉でしか他者と繋がれない、神ならぬ人にはとうてい無理なこと。貴様だってそうであろうが。
「わかれ。察しろ。名無しのままでは、生きていることにはならない。そう確信した」
「だから名前が必要と?」
「そうだ」
地獄から黄泉返りし名も無き死霊を気取っていられたのもここまで。先に進む。そのために必要な儀式。
「名前が欲しいっていうのは分かった。けど、何で私が君の名前をつけなきゃいけないのさ?」
言葉の意味は人を突き放すようなもの、しかし、黒猫から吐き出されるその口調はずいぶんと優しい。心なしか喜んでもいるようだ。猫の表情に詳しくなった俺が、そう思う。
「それが生み出したものの責任だ」
簡潔に、そう告げる。
大人たちの都合で世に生み出された俺の娘を想う。今までの俺は何もしてやれなかった。今の俺に何ができる?
「ジル・ド・レ」
黒猫もまた簡潔にして返す。
その名が黒猫の口から出てくるのは、初めてのことだ。
黒猫はその名を語らなかった。俺とそれとは別物なのだとばかりに。必要ないとばかりに。
「もし君が望むのならば、男性としての体を作ってあげてもいい。君の記憶にあるとおりの、生きた、何の変哲もない男の体。それであの世界でもう一度生きなおすという選択肢も、今ならあるよ?」
死んだことをなかったことにして、生きなおす。なんと魅力にあふれた提案だろうか。しかも元通りの男で。昔の俺ならば飛びつく。だが。
否定されることを前提とした黒猫の口調に、俺もまた当然のように返す。
「その名は捨てた」
捨てて。未練が残り。それでも捨てねばならない。そのための新しい名。そのための儀式。
「自分で好きな名前をつけて名乗る、ってのも、おかしくないと思うけど?」
言葉もしゃべれぬ赤子ならば親なり親戚なりに名をつけてもらわねばならないが、今の俺はそうではない。まだ霞のような死霊の状態から抜け出せないのだとしても、言葉も、言葉の意味も理解できる。
「貴様がつけねば意味がないのだ」
普段は気にならないくせに、ふとした時に痛む、指に刺さったトゲの様に、心に残ったものがある。
黒猫の首を半ばまで切り、その後の茶番、その終わりで、君に名前をつけなくてよかったと言った黒猫の言葉。
――名前をつけると愛着が湧いちゃうからね。
それを言ったのは馬に名前をつけるかどうかの時だったが、それは俺にも当てはまるのだろう。名をつけると別れ難くなる。あの時は愚かな俺が自分勝手に自ら放り投げたくせに、奴に捨てられたと思ったものだ。
ならばこそ、黒猫に名をつけてもらうことには意味がある。黒猫が俺に名を与えたならば、黒猫のやつも今後、そうやすやすとは捨てられまい。これは俺の深慮遠謀によるもので……
違う。
……言い訳だ。
そうした俺の考えは、言い訳だ。
力あるものに名を与えられたいと願うのも、簡単に捨てられなくするために名を欲しがるというのも、自分の心を騙そうとする幼稚な言い訳でしかない。人は無意識の中で決断をし、その後に決断をした理由を探す。決断が先で理由が後。順序が逆。ならば俺の心にあるのは。
貴様に名をつけて欲しかった、それだけだ。
一瞬が積み重なったような時間が過ぎてのち、黒猫が吐息を吐く。
「責任重大って感じでプレッシャーねえ」
「ただの記号で構わないぞ。適当につけろ」
最初はそれでいい。意味は後からついてくる。名とはそういうもの。
「じゃあクロ」
何の気負いもなく放たれた言葉。クロ。もしやそれは、俺の新しい名か?
「………………」
「………………」
続く言葉を待ってみても何もない。少し首をかしげる俺に向かって黒猫は少し首をかしげ返すのみ。どうやらクロが俺の新しい名前らしい。
「クロ」
自分の口で発音してみる。短い。そして意味がなさそうにない。クロの発音に近い言葉を探すが見つからない。
「……………………適当につけたか?」
「適当でいいって言ったじゃん!」
言ったが! それを言ったのは俺だが!
「それでも! もう少しだな! もう少し悩んだり考えたりしろ!」
「どゆこと!? めちゃくちゃよ!?」
名をつけろと俺が言い、適当でいいと俺が言い、いかにも適当そうに黒猫が名付けた。
おかしくない。何もおかしくない。いや、しかし。
「名前だぞ!? 名前! もうちょっとこう! もう少しだな!」
おかしい。言葉が出てこない。国をあげて行う盛大な儀式のようにもっと厳かにしろとは言わんが、あまりに雑に放り投げられたような名付けのしかたとは思わなかった。じゃあって何だ。じゃあって。
「適当に! 貴様、俺の名を適当に!」
「意味とかあるから! こう、深い感じの、あれやこれやが、その名前には込められているから!」
必死に言い訳めいたことを言い始める黒猫。本当か? こちらはこちらで自分の方こそ理不尽に怒っている自覚があるので強く出れない。
「……聞いてやろう」
「えっとね……」
クロ、に、何がろくでもない意味が込められているならば、今までの話をすべてなかったことにして自分で自分の名前を決めることもいとわない。
「私のルーツの話を覚えているかしら?」
「ああ。ヘンタイの国な」
「嫌な覚え方!」
黒猫のルルが生まれることになった人工知能を作ったどうこうの国。それよりもどんな偉人も女体化したり性の欲求をつきつめたような話の方が印象深い。
「そこでは君の国とは別の言語を持っていて……」
まあそうだろうな。国ごとに言葉が違うなど当然だ。その国にはその国の言葉があるだろう。
「その国の言葉でクロと発音する場合、黒い色、黒を意味するのよ、つまり、ね、これは黒騎士さんからの連想」
「適当ではないか!」
理由を聞いても適当だった。黒騎士、だから黒、自分のルーツの国の発音でクロ。まんまだ。あまりにまんまだ。
「それだけじゃないから! 黒い色にも意味はあるから!」
「黒い色は黒い色だろうが!」
最後まで真面目に話を聞いてもきっと意味などない。そうに決まっている。
「黒はすべての光の波長を吸収する色!」
その話は、いつか聞いた。思い出した。あの時だ。俺と出会わなかった世界の俺が辿った末路。その映像を見せられている時。
「すべてを取り込み、自らの色とするもの。これからすべての知識を吸収して成長してほしいと願う私からの黒騎士さんに送る、祝福と呪い」
すべての知識を欲するならば、色は黒。
「クロ……貴様を生み出した国の言葉で黒を意味する言葉、名……」
名は祝福でもあり、呪いにもなる。
すべての知識を欲するならば、学べ。思考するのに疲れて嫌になっても学び続けろと、そうでなくばその名が許さない、と。
「それならば、気に入った」
その祝福を受け取ろう。呪いまでもを含めて。受け取ろう。俺に禁忌はなく、俺に際限はなく、俺に安息はない。そういうものに、俺はなろう。
「クロ、それが俺の名だ」
なんということはない、儀式にもなっていないような儀式。それでも何かは変わった。
「ようこそ、私の世界へ、クロさん」
嬉しそうに、心地よさそうに、黒猫が笑う。
黒猫だけが持つ、黒猫の心の領域に、俺というものを入れる枠が生まれた。いや、そこに最初からあった黒騎士という看板が、クロに変わっただけだ。それでも。
「さんづけするな。クロ。ただのクロでいい」
これからよろしく、や、俺を捨てるなよ、とか、そういう言葉はいらない。必要ない。
「ああ。ルル」
ただ、そう返す。
ようやく世界に俺が生まれた。




