【38】
イルムヒルデが屋敷の書庫にこもっている間も、シグリやローレンツは東帝国に備えなければならなかった。幸い、ライヒシュタイン辺境伯邸は半分要塞であるし、一度来たことがあるので勝手はわかる。
「追い返せると思うか」
「いえ。すでに戦ってしまった後ですから」
「いや、それについてはすまん」
「状況的に仕方がありません。私も、備えが足りませんでしたから」
ローレンツは窓から外を眺める。かつても、同じように外を眺めたことがある。あの時、ローレンツは自分がいない間に後方を整えたという帝都からの軍吏を呼び出した。呼び出されてやってきたのが、シグリだった。
勝手がわからないかっただろうに、過去の記録を見ただけで状況を整えた女。それがシグリだ。以降、彼女はローレンツの側で幕僚をしている。彼女は優秀だった。彼女のさっくりとした性格も好ましい。先ほどはイルムヒルデを怖がらせないように、と兵たちに通達していた。彼女がやるなと言ったことを起こすと、後が恐ろしいのでみんなちゃんと守る。彼女は規律を重んじる幕僚長だった。だから、現在の帝国軍は統制が取れていると言われる。
おそらく、ローレンツだけでは帝国軍をまとめ上げられなかった。ローレンツは、己が皇帝の甥だからとなめられているのを理解していたし、前任のフォルバッハ公爵ほど厳格になれないのもわかっていた。それらを締め上げたのはシグリである。
彼女自身も、女性であるからとなめれたものだ。だが、彼女はそれを斬りつでまとめ上げた。その中には恐怖的なものも含まれていた気がするが、彼女は彼らを管理する資格を得た。その背後にはローレンツの気配もあったのだろうが、彼だけでは絶対に不可能だった。
自分の向かい側で同じように窓の外を眺めるシグリの頬に触れる。窓の外を見ていた視線はローレンツの方に向き、困ったように微笑まれた。
「どうなさいました?」
「いや、ここでお前に会ったのだな、と思うと感慨深くてな」
そう言うと、シグリも懐かし気に目を細めた。
「そうでございますねぇ……あの頃は、閣下も将軍の一人にすぎませんでしたし、私も補充されてきた外務省の官僚にすぎませんでした」
まがうことなき文官であった彼女は、今ではれっきとした軍人である。戦うのは本職ではない、というが、なめられないために新人訓練を受けてしまうくらいには軍に染まっていた。
二人とも、立場を変えてこの場に戻ってきた。当時より、できることはたくさんある。
「うまく追い返さねばな」
「もちろんですとも」
武力行使は最終手段だ。結果的にそうなってしまうことが多いけれども。
一方の帝都にいるマティアスたちである。こちらはこちらで奔走していた。シグリとイルムヒルデという官僚を戦場に持って行かれてしまったマティアスは、次善策としてフィリベルトとその叔母リーザ・カウニッツ女侯爵を招喚するすることにした。と言っても、リーザは宮殿敷地内の研究所に勤めているが。
「シグリの代理というわけですか。まあ、夫よりは役に立つでしょう」
偏屈なカウニッツ家四姉妹の三女は、皇子に向かってそんなことを言った。マティアスは思わず、「君の叔母は変な人しかいないのかい?」と後から真面目に聞いてしまった。聞くところによると、四姉妹で最も奇人なのが、『旧き友』である次女カヤなのだそうだ。
とりあえず簡単に事情を説明すると、「妹から聞いてます」と答えられたので、シグリが先に手を打っていたらしい。
「まあ、私にはさほど権力はありませんが、大人がいることは悪いことではない」
「……」
本当に偏屈!
「東帝国の件ですが、妹が言うのならほぼ間違いないでしょう」
マティアスたちもそうだが、リーザも妹シグリの判断を信用しているようだ。
「殿下の見解も、おおむね正しい。彼なら、自分で戦争を起こして自分で収めることなどたやすい。何しろ、宰相なのですから」
そりゃそうだ。宰相というのは、行政の長だ。あるいは皇帝よりも政について知り尽くしている。そうであらねばならない。次期皇帝とみなされているマティアスが官僚を探すのは、そう言った理由もある。
「別に帝位を簒奪しようなどと考えているわけではありませんから、基本的には無害ですね。面倒くさいだけで。しかし、ヴェルナー大公にとってはそうはいかない。宰相にとって、ヴェルナー大公は自分の地位を脅かす存在になりえる」
「ローレンツが宰相に成り代われるということ? 無理だと思うけど」
マティアスが自分の年の離れた従兄を思い浮かべて言った。頭のいい人であると思うが、宰相の代わりになれるかと言われると疑問が残る。
「大公ではありません。うちの妹です」
「あー……」
マティアス、フィリベルト、ハーラルトの三人が納得の声を上げた。それならわかる。リーザは何でもないように言うが、それはシグリがローレンツを裏切らないことを前提としている。そして、どれは事実だ。その事実は、宰相たちだってわかっている。
ローレンツでは無理だが、シグリなら宰相と同じことができる。つまりこれは、間に多数のものをはさんだ、シュトランツ宰相対カウニッツ幕僚長の戦いなのだ。
「マティアス殿下、どうせ、妹から何か聞いているのでしょう」
「……ああ」
マティアスはうなずいた。うなずいたが、正直上の空だった。彼の父である皇帝は、あえてローレンツとシグリを引き離したのだろうか。シグリに官僚の能力があることを知っていて、シュトランツ公爵と挿げ替えようと考えてはいないか。食えないところのある父だ。ありえなくはない。
この時点で、マティアスは確信した。この件の背後にいるのは父だ。シュトランツ宰相は、自分がいいように操っていると思っているのだろうが、その実、皇帝にいいようにされている。父は宰相を切り捨てたのだ。
なら、どうあがいても宰相は排除されるだろう。必要以上に政に関与してこない皇帝だが、無能なわけではない。わかっているからこそ、手を出してこないタイプなのだ。
話を戻す。シュトランツ宰相についてだ。リーザが言うように、マティアスは事前にシグリと情報のすり合わせを行っていた。
――シュトランツ宰相が裏で手をまわしているのは確かでしょう。
マティアスの話を聞いて、シグリはそう言った。だから、その前提で動く。しかし。
ですが、宰相は慎重です。自分が行ったことの証拠など、残していないでしょう。ないものを証明するのは難しいものです。
イルムヒルデの時と同じだ。あの時、なかなかアイクラー前公爵は尻尾を出さなかった。だから、無理やり出させた。今回も同じだ。
策があります。わたくし共に戦場はお任せください。絶対に負けません。ですから、殿下には宰相をお願いしたく存じます。
姉が力を貸してくれるでしょう、と彼女は言った。これはすでに内乱の様相を呈している。
シグリが策を持たせたと言っても、宮殿とフリューアではやることが別だ。互いを補完しあう必要はない、と彼女は言った。
正確には戦場と宮殿では、起きていることが別ですので、二つは切り離して考えましょう。ですが、殿下には必ずやっていただきたいことがございます。
今から考えると、学園で言われたシグリの言葉は恐ろしい。どこまで読んでいたのだろう。官僚を探していたマティアスだが、イルムヒルデがシグリのようになったらちょっと怖い。ローレンツのように笑って扱える気がしない。
教育省の不可侵であるはずの学園への干渉、財務省の公金横領、商工省の武器の横流し。マティアスはシグリやリーザに言われた通り、次々と不祥事を明らかにしていったが、宰相府だけはまっさらだった。フォルバッハ公爵が長官の軍務省、さらにはシグリが綱紀により締め上げているはずの元帥府ですら、糧食の横流しがあった。なのに、まっさらなのは不自然だ。
「今までもそうでしょうが、宰相は自分に不要なものを順次切り捨ててきました。一つずつ、順番に」
だからこれまでばれなかったのだろうと、リーザは言う。ばれない処理の仕方ってどうするのだ、とフィリベルトがリーザに尋ねていた。
今回、すべてを切り捨てるのは無理だろう。これだけ摘発すれば、シュトランツ公爵家が絡んでいるものもいくつかあるはずだ。さらに、マティアスは経済封鎖を行った。本来なら、諸外国との物流を切るのが望ましかったのだが、できない場合は商工省の物流を止めるように言われていた。その理由は、なんとなくわかる。武器などの流出を止めるためだ。大義名分もあるので、それほど難しくはなかった。
「なるほど。東帝国の帝都より、こちらから物資を運んだほうが早いということか」
フィリベルトが今更納得したように言った。やっぱり頭はいいが、官僚には向かないな、とマティアスは思った。
妹に巻き込まれた形のリーザであるが、彼女が所長である魔法技術研究所もかかわることなので、同意したという背景がある。研究所の魔法が流出しているかもしれない、と言われて黙っていられるリーザではない。そんな雑な管理はしていない! と妹に言いきったこともある彼女だが、優秀な幕僚たる彼女に言わせると、物事に絶対はないのだ。
帝都ではかなりスムーズに事態は運んでいるが、戦場ではさすがにそうはいかなかった。
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