本の秘密
前回までのあらすじ。
結麗と喧嘩をしてから二週間後が経ち、いまだ仲直りできずにいる絵奈。無意識にマギへと向かうも結麗は不在。複雑な思いでマギを後にした絵奈は、その途中で気を失ってしまう。気づくと絵奈は一本堂にいた。絵奈からこれまでの経緯を聞いた店主は、絵奈にある提案をする。
束になった本が次から次へと足もとに運ばれてきた。
「これで全部よ」
「はい。分類は地方史ですか?」
「民俗でいいわ。あ、こっちはバラだから注意してね」
ローズの提案は、一本堂でのアルバイトだった。アルバイトといっても目録製作の手伝いをするだけで、仕事もパソコンに題名やら出版社名やらを打ち込んでいくだけの簡単なものだった。時給七〇〇円と薄給だが、一日三時間働けば二日で四二〇〇円稼ぐ計算になる。
これなら目的の本は買える――というのがローズの算段だった。
絵奈はアルバイト自体初めての経験ということもあってか、慣れないうちは要領も姿勢も悪く、少々肩が凝りはしたものの、一時間もすればスムーズに打鍵できるようになった。
「やっぱり若いわね。飲み込みが早いわ」
「そんな、ただ打ってるだけですし。あの、これって全部でいくらなんですか?」
「そっちは二一〇〇〇円。バラは五〇〇円でいいわ。青いシールが貼ってあるのは四〇〇円ね」
「そっちは何か違うんですか?」
「地図がないのよ。だから少しだけ安いの」
じゃあよろしくといってローズは帳場に座り、自らもパソコンのディスプレイに向き合った。
順調に作業を進めていく中、何気なく手に取ったその本に、絵奈は気になるものを見つけた。
「あの、ローズさん」
なぁにと、ローズはディスプレイを見たまま答えた。
「この本の裏に、名前と住所が書いてあるんですけど」
「あら、時々あるのよね、そういうの。きっと前の持ち主のものだわ。ちょっと貸してごらんなさい」
本を受け取り、ローズはしげしげと眺めた。
「やだわ、《けんいち》だなんて。同じ名前じゃない。まあいいわ。適当に備考欄に書いておいて」
「わかりました。あの、ひとつ質問なんですけど」
「はいはい、なんでもどうぞ」
「検印ってなんですか? さっき見た本に、検印廃止って書いてあったんですけど」
「そのまんま印のことよ。そうねえ、ちょっと待ってなさい」
ローズは店の棚から何冊か本を抜き取り、中を調べて、やがてそのうちの一冊を手に持って戻ってきた。
渡された本の奥付には、判子の押してある小さな紙が貼ってあった。
「検印紙っていってね、これを貼った枚数に応じて著者にお金が支払われてたの。いわゆる印税ね。紙じゃなくて単に印影が印刷されたものもあったけど、役割は同じ。絵奈ちゃんが見た検印廃止なんて文句も、最近じゃあんまり見かけないかもしれないわね」
絵奈はその検印のとなり、著者名の下に書かれていた住所に目を止めた。
「あの、ここに載ってる住所って」
「もちろん書いた人のよ。昔はこんな感じで、どの本にも書いてあったの」
「それって、たとえばファンレターとかのために載せたりしてたんですか?」
「というより、ほとんど習慣ね。それこそ大昔は、今みたいに出版社が著者を管理してるわけじゃなかったし、電話も置いてないのが普通だったから、仕事の連絡も兼ねてたんじゃないかしら。それに、もともと義務だったのよ」
「ってことは、今は違うんですか?」
「戦後になって出版法が廃止されてからは、ね。奥付だって、実をいえば決まった書式はないの。それに、そういうものを好んで集めているマニアも結構いるのよ?」
マニアという言葉に、絵奈は古い時刻表を思い出した。
「検印マニア、誤植マニア、初版マニアなんかがそうね。他にも発禁本マニア、珍本稀覯本マニア、豆本マニアに直筆原稿マニアと、挙げ出したらキリがないわ。そうそう。さっきの本のように、持ち主の証明を集めてるマニアもいるの。単に住所が書かれてるだけじゃなんの価値もないけど、蔵書票が貼ってある本はまた違うのよ」
「なんですか、その蔵書票って」
まあ知らないわよねと、店主はいった。
「本の見返しに貼る小紙片のことなんだけど、最近じゃ検印以上に見かけない代物かもしれないわ」
「そんなに珍しいものなんですか?」
「そうねえ。蔵書印ならよくあるんだけど。あ、待って。一冊持ってるわ」
そういって店主は二階に上がり、しばらくして黒い本を持って現われた。見てごらんなさい、といわれるままに本を開くと、見返しにはハガキよりもふた周りほど小さい紙が貼られていた。そこには西洋風らしい屋敷の絵が描かれ、その手前に立てられた木戸のなかには、持ち主と思しき名前も記してある。
店主の私物というその本は、一世紀近く前の洋書だった。表紙には青い字で『THE BISHOP MURDER CASE』と書かれている。
「もともとは海外のものなの蔵書票は。エクスリブリスだとか、単にブックプレートなんて呼ばれたりもしてて、まあ、多くはそんな風に、家の紋章だとかその人を象徴する絵だとかが描いてある中に、持ち主の名前も書かれてるのよ。絵も有名な画家に頼んで作らせることも多かったりしてね、どちらかといえば、本としてじゃなく美術品としての価値のほうが高いの」
「じゃあこれも?」
「どうかしらね。きっと持ち主自身が描いたものだと思うわ」
絵奈はもう一度本に目を落とした。蔵書票の存在を聞いたのも見たのも初めてだが、持ち主が作ったにしては、とてもよくできていると思う。花や草に色をつけて、そこだけ絵本のように華やかだった。
「気に入っちゃったかしら?」
「はい。その、少しだけ……ですけど」
そっと手で触れる。
「なんか不思議ですね。うまくいえないですけど、さっきの本とは違う感じがして。どっちも名前が書いてあるんですけど」
「わかるわ。ましてや海外のだもの。それを貼った本人だって、何十年も後に、海を渡ってこうして絵奈ちゃんに見てもらえるだなんて、夢にも思わなかったでしょうね」
「絵奈、本とか読んでも児童小説とか絵本とかばかりだから、こういうのとか全然知らなくて。パソコンに入力してる時も思ってたんですけど、本当にいろんな本があるんだなあって。本って、その、面白いんですね」
「そうね。きっと面白くない本なんてないのよ。絵奈ちゃんは、本は好き?」
「はい」
「好きな作家とかはいるの?」
「いろいろですけど、児童文学なら宮沢賢治とかは、すごく好きです」
「いいわね賢治。やっぱり名作はいつの時代も、色褪せないわね」
ローズはどこか独言するように続ける。
「作家を好きになるってことは、人を好きになるってこと。人を好きになるってことは、自分を好きになるってこと。絵奈ちゃんは、自分は好き?」
少しだけ考えて、
「イヤだなって思う時は……あります」
とだけ答えた。
「そう。いいのよ別に。嫌いでも好きでも、イヤでもね。みんながみんな、自分のことを好きになんてなれないわ」
でもね絵奈ちゃんと、ローズはいった。
「絵奈ちゃんが本を好きでいてくれるなら、本はずっと絵奈ちゃんのことを好きでいてくれるわ。たとえ絵奈ちゃんが自分のことをイヤだと思ってもね、本は絵奈ちゃんのことをそんな風に思ったりはしないの。本は、いつだって読者の味方なんだから」
「味方……ですか」
「そう、味方。この店の本だって、みんな絵奈ちゃんの味方よ?」
「あの、どういう意味ですか?」
「そうねえ、聞くより見たほうが早いかもしれないわね。特別に本の秘密を教えてあげるわ」
そういって店主は棚のあちこちから本を取り出し、帳場の上にそれらを積み上げた。
「あの、ローズさん」
何をするのかと問う前に、まあ見てなさいといってローズは得意気な顔をした。
「まずは絵奈ちゃんの好きな宮沢賢治から」
手にしたのは『注文の多い料理店』の絵本だった。
「知っての通り賢治は東北の生まれ、岩手県出身の童話作家よ。この『注文の多い料理店』の他にも、『銀河鉄道の夜』とか『風の又三郎』とか数多くの作品を書いてるわ。ところで絵奈はちゃんは『グスコーブドリの伝記』は知ってるかしら?」
「はい、読みました。そのもとになったネネムのほうも、一応」
「あら、本当に好きなのね」
店主は驚いた様子だった。
「じゃあ話が早いわ。そのネネムの話に出てくる妖怪の中で、座敷童子がいたのは知ってるわよね。今でこそ有名な座敷童子だけど、もともとは主に岩手で伝わっていたお話なの。いわゆる民話の類ね。そんな民話を集めて研究してた人が岩手にはいて、佐々木喜善もそのひとり。喜善は同じ岩手県の遠野出身でね、賢治の生まれた地域とも近くて、わりと親交があったそうよ。そんな喜善が語った遠野の昔話をもとに作られたのが、この『遠野物語』という本」
掲げられた本には柳田國男と書かれていた。
「柳田は民俗学の父と呼ばれるほど有名な人でね、今日打ち込んでもらった民俗学の本を書いた人たちも、みんなこの柳田の本を一度は読んでるわ。とくにこの『遠野物語』は有名よ。ここにさっきの座敷童子の話ももちろん載ってるわ。実は柳田は民俗学者の他に詩人の顔も持っていてね、若い頃は文芸雑誌に詩を投稿してたりもしたの。それは実兄の井上通泰の影響もあったんだけど、そんな兄を通じて知り合い、柳田と同じ雑誌に作品を投稿していたのが」
この森鴎外――といって次に手にしたのは『舞姫』の文庫本だった。
「絵奈ちゃんは読んだことあるかしら?」
「あります。教科書にも載ってますし。そういえばさっきも、ヒロインのモデルは誰なのかみたいな本を見かけましたよ?」
絵奈は積み上がった本の中から、それを抜き取った。
「最近出た本みたいですけど」
「そうね。そうやって今でも研究されるくらい『舞姫』はとっても魅力的な作品なの。明治の文学はここから始まったなんていわれたりして、まあ読んでなくとも名前ぐらいは誰でも知ってるわよね。でもこのお話、もとはゲーテの『ファウスト』が下敷きにあるっていわれてるのは知ってるかしら?」
「そうなんですか? 『ファウスト』を翻訳してるのは、一応知ってますけど」
もちろん、読んだことはない。ライオンの絵本なら、図書館で読んだことはある。
「その『ファウスト』以外にも鴎外が翻訳した作品はもいっぱいあって、その分野もオペラに小説と多岐にわたってるわ。その中の一つに『病院横町の殺人犯』というのがあるの。今日では『モルグ街の殺人』のほうが一般的かしら」
「あ、それは知ってます。ポーですよね? 絵奈も『黄金虫』とか『黒猫』は読んだことあります」
「そう、推理小説の祖ともいわれるエドガー・アラン・ポーその人。そしてこのポーに影響されて、のちに最も有名な名探偵を生み出した人物が、このコナン・ドイル」
ローズが最後に手にしたのは、シャーロック・ホームズだった。
「いまさらこの作家と名探偵に解説はいらないわね。シャーロック・ホームズ以降、優れた名探偵が世界中で登場して、難事件を見事に解決して見せたわ。そんな探偵をここで挙げたらキリがないけど、あえて挙げるなら、そうねえ、博識で多趣味な素人探偵ファイロ・ヴァンスかしら。彼が活躍するシリーズの中で、一位、二位を争うほどの名作に『僧正殺人事件』っていう推理小説があるんだけど」
そこで絵奈を見て、
「実はね、ちょうど今絵奈ちゃんが持っているその黒い本が、今いった推理小説の原作なの」
と結んだ。
絵奈は持っていた本に目を落とした。題名の下には、小さく『S.S.VAN DINE』と記されている。
「作者はアメリカの作家ヴァン・ダイン。その正体は美術評論家だったらしいわ。だからなのかは知らないけど、わりと知識は豊富なのよね。衒学的小説だなんていわれたりもするけど、それもまた面白いところだったりするのよ」
そんなことよりも、とローズは仕切り直すようにいった。
「どう、絵奈ちゃん? 今までの話を聞いて」
「なんか……すご過ぎてよくわかんなかったです」
絵奈は帳場の上に並べられた本を見た。宮沢賢治、柳田國男、森鴎外、コナン・ドイル、そして手にはヴァン・ダインを持っている。
それぞれに繋がりがなさそうに見えて、実は繋がっていたのだ。
「ちょっと強引だったかもしれないわね」
「ううん、そうじゃなくて。なんていうんだろう、その」
「ビックリした?」
「はい。それに、その、やっぱり不思議です」
「でも、考えてみればなんの不思議もないのよ? どんな本の作者だって、みんな初めは読者だったんだもの。本と本を繋ぐのは人なの。人は誰でも、本を通して人と話ができるんだわ。さっき読者の味方っていったのはね、そこなのよ絵奈ちゃん。本と本を繋ぐのが人なら、人と人を繋ぐのも、やっぱり本なの」
絵奈は本を開いて、そこに貼られた蔵書票をもう一度眺めた。先ほどは幽かにしか感じられなかった持ち主の息吹が、今ははっきりと感じられた。
不思議だと思っていたのは、まさにそこだった。初めてこの本を手に取って開いた時、絵奈は本ではない、何か別のものを見ているような気がして落ち着かなかったのだ。それはきっと、この本の持ち主こそを見ていたのだろう。
作者と読者ではなく、人と人を繋ぐと店主がいったところに、絵奈はとても意味があるように感じた。
「気に入ったのなら貸すわよ? 売り物じゃないし」
「いえ、いいです。ありがとうございました」
絵奈は本を返した。
「どうも。でもね、本当に感謝すべきは」
とそこまでいって、
「まあいいわ」
と店主は首を振った。
「さあ、おしゃべりはおしまいよ。そっちの本を打ち込んでもらったら、今度は奥にある雑誌をお願いするんだから。もちろん、明日もみっちり働いてもらうわよ? ウチにはホコリ以上に本があるんだから」
こうして二日間はあっという間に過ぎていった。
「あの、ここにあった本は」
「あ、少々お待ちください。今在庫見てきます」
しかし在庫は一冊も残っていなかった。取り寄せには一週間以上かかると、店員は申しわけなさそうな顔でそういった。
その頃にはもう、夏休みは終わってしまっている。間に合わない。
労うようにお礼を述べると、失礼しましたといって店員は去っていった。
絵奈は本棚を見上げた。きれいに並んだ本の間、そこだけ穴が空いたようにぽっかりと隙間ができている。
どうしたらいいのか、まるでわからなかった。
そばにあった椅子に力なく腰かける。それは椅子ではなく台座だったのだが、今の絵奈にはどうでもよかった。ショックのあまり立っていられなかったのだ。
あの時結麗はどう思っていたのだろう。目の前に欲しい本があるのに買えないという事実を目の当たりにして。それは反対の立場にいる今の自分より辛かったのだろうか。買えるのに、買いたい本がない。
その本だけがない。
そのうちローズに対して、絵奈は何か申しわけないような気持ちを抱くようになった。それは間違っている――というより、絵奈が気に病むようなことではないことぐらいわかってはいたが、わかっていてもどうにもできなかった。
もう仲直りできないのかな。
項垂れるように下を向いた絵奈に追い討ちをかけるように、背中の壁に貼ってあったポスターが頭上に落ちて来た。そのまま目の前をするすると滑っていく。
少しだけビックリしたが、抵抗する気も拾う気も起きなかった。それは最近発売されたらしい恋愛小説の宣伝だった。なんとなくそのままにしておくのはいけないような気がして、結局それを手に取った。
どこに貼ってあったんだろうと振り向いた時、絵奈はとあるポスターに目を止めた。そこには時々図書館で読む、大好きな絵本の絵が描かれていた。
ご飯を食べている絵。
つまみ食いをして得意気な絵。
母親が子供に何かをいっている絵。
どれも愛くるしい、すてきな絵だった。
持っていたポスターを貼るのも忘れてその絵に見入っていた絵奈は、突然頭の中で何かが小さく弾けたような、爽快な気分を味わった。
そうだ、と思った時にはすでに計算を終えていた。迷いはなかったし、時間もなかった。
絵奈はポスターを投げ出すと、書店を駆け出して一本堂に向かった。
「ローズさん!」
「いらっしゃ……あら絵奈ちゃん、どうしたの怖い顔して?」
「もう三日」
大きく息を吸っていう。
「もう三日だけ、働かせてくださいっ!」




