契機
前回までのあらすじ。
古書祭の最後に立ち寄った大型書店で、結麗の本音をはからずとも耳にする絵奈。気の毒な思いから転じて、結麗を責めてしまい、絵本を廻って結麗と喧嘩になる。ケガこそしなかったものの、結麗の言葉に心に深い傷を負った絵奈は、つい感傷的になって「網代さんなんて、大っっっ嫌いッ!」と、激しい言葉をぶつけてしまう。
法事はつつがなく終了した。一年ぶりに逢った従姉妹らと話すのは楽しかったが、新しい土地にはもう慣れたのだの、友達や彼氏はできたのだのと訊かれた時は辛かった。
あの日から二週間近くが経った。その間絵奈は結麗の顔を一度も見ていない。逢うのが怖くて喫茶店には近寄らなかったし、だから図書館にも行っていない。
連絡も取らなかったし向こうから来ることもなかった。
絵奈は、もうなんども見ては溜息ばかりついて、けれども一向に手放せない紙切れをぼんやりと眺めた。
そしてまた、小さく息をつく。
そこにはふたつの電話番号と、アドレスが書かれている。喫茶店で勉強した時に結麗からもらったものだ。
あれから今日まで、なんど電話をかけようと思ったかわからない。寺でお経を聞いている時でさえ、頭の中にはこの十一桁の番号が浮かんでいた。けれどもいざ電話を目の前にすると、ボタンを押す勇気はついぞ出てこなかった。
もう一度、今度は大きく息をつき、絵奈はベッドの上で膝を抱えて丸くなった。
みぃが足に顔をすり寄せてきた。
「くすぐったいよ、みぃ」
頭を撫でると、みぃはゴロゴロと喉を鳴らした。
「今日はお散歩行かないの?」
「みゃう」
「そっか、今日は暑いもんね」
夏なのだから、暑いのは毎日暑い。連日三〇度を超える気温にうんざりすることもあるが、みぃが苦手なのでクーラーは極力点けないでいた。ないよりはマシだと思って点けていた扇風機も、ついさっき、なんとなく消してしまった。
汗が頬をつたう。
絵奈はみぃを抱き寄せた。
「ねえ、みぃ。絵奈はどうしたらいいかな」
どうしたら結麗と。
「仲直りできるかな?」
「にゃっ」
そう短く鳴くが早いが、みぃは絵奈の手から飛び出してさっさと廊下に消えてしまった。追いかけようと身を乗り出した絵奈はしかし、崩れるようにして倒れこんだ。足に枕が当たっている。疲れた。暑い。
喉も乾いた。
けれども指の一本も動かす気は起きなかった。視線の先には、あの紙切れが落ちている。
やっぱりかけてみようかな。
そう思い手を伸ばしかけた時、外から吹いた生温い風が、紙切れをどこかへ連れ去ってしまった。
カーテンがキュッと鳴る。
力つきたように腕を下ろし、絵奈はそこで寝返った。
天井が高く感じる。
そういえば。
あんなところにまで本があったっけ。
目を閉じて、古本屋で見た本の壁を思い浮かべてみる。立ち寄ったどのお店も、天井まで本で埋め尽くされていた。ホコリを被った本。茶色くヤケた本。積みあげられた本。蒼い大きな本。そして。
二冊のきれいな絵本。
ゆっくりと目を開ける。
蝉の喧騒が、ふいに止んだ。
絵奈は身体を捻るようにしてのろのろと起き上がった。
来るつもりなどなかった、と思う。
本当のところはよくわからない。ただなんとなく家にいるのがイヤだったから外に出ただけだった。
青い看板の喫茶店、マギ。絵奈はその入口を前にして、ただぼんやり立っていた。
何してるんだろう。お財布も持ってないのに。
それに、ここでもしも結麗に逢ってしまったら。
やっぱり帰ろう。
その時ふいにドアが開いた。エプロン姿の、少し年配の男の人と目が合う。
「いらっしゃいませ。おひとり様で?」
「あ、あの」
しかし絵奈が何かをいう前に、
「ああ、君はたしか、網代君の」
といって男は一度店に戻ってしまった。
この場で結麗を呼ばれたらどうしようかと、妙な緊張感に汗が噴き出す。
男は再び顔を現わすや、すまないねと謝った。
「網代君は一昨日から家族で旅行に出かけているみたいでね、だから今日もお休みなんだ。今月末あたりに帰って来るとは聞いていたが」
「そう……ですか」
ほっとしたような、それでいて少しだけ残念なような複雑な気持ちだった。
「何か用でもあったかな?」
「いえ、いいです。ありがとうございました」
絵奈は逃げるようにその場を後にした。どこへ行くとも考えず、ただひたすら走った。
走りながら、マギで話していたことを思い出していた。
行くとしたらお盆を過ぎてからかな。
そんなことをいっていた気がする。たしか大学生のお兄さんが戻ってくるといっていた。いや、お姉さんだったか。八月までは試験がどうのこうのといっていたし、ならもう帰ってきたのだろう。
たしか、行き先は。
行き先はフィンランド、だったか。
ちゃんと時刻表は持っていったのだろうか。
駅はどっちだっただろうか。
やみくもに走ったために、絵奈はどこに向かっているのかわからなくなっていた。そしてわからないのは場所だけではなかった。朦朧とした意識の中、絵奈はまともな思考ができずにいた。ふらふらと視界は揺らめいて、陽炎の向こうで黒い影がぬうと現われたと思った時、急に目の前が白くなった。
目が覚めて始めて感じたのは匂いだった。
ホコリっぽい。
そう思った。
「あら、気づいたの?」
苔生した岩のような顔が覆い被さるようにして現われ、その口は響くような低音を発していた。
「いきなり倒れちゃったから、んもう、ビックリしちゃったわ」
目の前にいるこの特徴的な人物は、紛れもなく一本堂の店主だった。すると、ここはお店の中なのだろうか。
身体を起こそうとした絵奈に、店主はそっと手をかざした。
「もうちょっと横になってなさい。何か飲む? ちゃんと水分取らないとダメよ」
寝ながらどう飲めばといいのかと思ったが、親切にも長めのストローまで用意して、さらに絵奈が飲んでいる間も、店主はゆっくりと団扇で風を送っていた。
「あの、すいません」
「あら、眠くなっちゃった?」
寝たまま首を振る。
「そうじゃないんですけど。絵奈、その、よく憶えてなくて」
「そうなの? 何も?」
「はい。よくわからない場所を歩いていたところまでは憶えてるんですけど」
「あらやだ、本当に大丈夫? 病院行く?」
「いいえ、本当にもう大丈夫なんですけど」
絵奈は身体を起こし、憶えている限りのことを話した。
「きっと日射病ね。ちゃんと水分取っていなかったでしょ? ダメよぅ」
「ご、ごめんなさい」
「たまたま通りかかったからよかったものの、これが野蛮な男だったら、あなたきっと誘拐されてたわよ」
自分のことを棚に上げて店主は続ける。
「ほら、前にも近くで引ったくりとかあったじゃない? 夜道じゃなくても、人通りの少ないところを小学生がひとりで通っちゃダメよ。もし襲われたらオカマを呼びなさい。すぅぐに飛んで来てあげるから」
「絵奈は……高校生なのにぃ」
「あらやだ、本当に記憶がおかしくなってるわ。どうしたらいいのかしら。そうよ、病院ね病院。救急車は何番だったかしら。ええと、いちいち……そう、一一七よね」
慌てて携帯電話を取り出し耳に押し当てた店主は、時間なんてどうでもいいのよッ! とひとりで勝手に憤慨していた。
「あ、あの、本当です。これでも絵奈は高校生です!」
自分でそう口にした時、絵奈は何かを失ったような、あるいは負けたような気がした。財布を持ってこなかったから学生証はないし、他に証明できるものは何ひとつ持っていない。
なんども高校生ですという絵奈を、店主はしばらく訝しそうな目で見ていたが、
「そうなの」
といってようやく携帯電話をしまった。
「どう見ても小学生にしか見えないけど、まあいいわ。ごめんなさいね、取り乱しちゃって」
「網代さんと同じこといってる……もう、いいです」
絵奈は拗ねたように顔をそらした。視界の先に置いてあったテレビには、高校野球の中継が流れていた。
「網代って、あの網代君?」
「知ってるんですかっ!?」
弾かれたように店主の顔を見る。
「ちょっと前までね、うちの店によく来てた子がいたのよ。けっこうかわいい顔しててね、本を選ぶ時なんかはキリッとしてて男前だったわ。まあ、好みじゃなかったけど。たしか今、大学生じゃなかったかしら。そうそう、ついこの前も帰郷ってきましたなんていって、妹さんと一緒に」
そこまでいって、ああ思い出したわと店主は自分の頬を叩いた。
「あなた、あの時のあの絵本の!」
「そう……です」
絵本という言葉を耳にして、絵奈は力なく頷いた。
「それで、その、網代さんは何か……」
そこまでいって絵奈は小さく首を振り、
「お兄さんとはいつ来ました?」
といい替えた。
「一週間も前ではなかったわねえ。四日ぐらい前かしら? 妹ちゃんは、そうねえ、なんか浮かない顔してたけど」
「そう、ですか」
「そうそう、今のあなたみたいな、そんな悲しい顔。あの子と何かあったの?」
――網代さんなんて、大っっっ嫌いッ!
喫茶店でいい放った自分の言葉を思い出し、目頭が熱くなる。堪えきれず、涙は一気に溢れ出てきた。
「あらあらあらあら、どうしちゃったの?」
そういって店主はティッシュ箱をさし出した。
「かわいい顔が台なしよ? よかったらこのローズに話してごらんなさい」
「ろ、ろーじゅ?」
鼻がつまってうまくしゃべれなかった。
「私のことよ。誰がいったかは知らないけど、みんなこの店のことを薔薇の古書肆と呼ぶの。だからローズ」
ひと通り泣いた後、落ち着きを取り戻した絵奈は、自己紹介も含めてローズにこれまでの経緯を話した。
結麗と出逢った日のこと。図書館で話したこと。
喫茶店で一緒に勉強したこと。
一緒に古本祭に行ったこと。
喧嘩したこと。
そして今日まで謝れずにいたこと。
すべて話し終えるまで、ローズは黙って聞いていた。
「ふうん、そういうことがあったの。それで、絵奈ちゃんはどうしたいの?」
「絵奈は……絵奈は、網代さんと仲直りしたい、です」
「だったら話は早いわね。電話でもなんでもして、すぐに謝らなきゃ」
「でも、なんていえばいいかわからなくて。それに」
「それに?」
「大嫌いなんていっちゃったから、その、網代さん、もう絵奈のこと嫌いになっちゃったかもしれないし……」
再び視界がぼやけてきた。
「大丈夫よ。絵奈ちゃんのこと嫌いだなんて、そんなこと絶対思ってないわよ」
「本当に? 本当にそう思う?」
「当たり前よ。それに絵本の一冊や二冊で喧嘩できるなんて、うらやましいくらいだわ」
いいこと教えてあげると、店主は指を立てた。
「怒髪は天を衝いてもね、オカマは決してウソはつかない生きものなの」
ウソという言葉に、涙はまたぼろぼろと零れ落ちてきた。
「ごめんなさい、ごめん……うぅ、絵奈が悪いの。ごめんね、ごめんね網代さん。ごめんね」
絵奈はなんども、ごめんね、といい続けた。
「ほらほら、ちゃんといえるじゃないの。その言葉、あの娘にちゃんと伝えなきゃ、ね?」
だから泣いてばかりいちゃダメよと、ローズはいった。
「仲直りしたいのなら勇気を持たなきゃ。いつだって勇気は最高の武器なの」
勇気。勇ましい意気。
絵奈はでも、その勇気を持つ勇気が欲しかった。契機といってもいい。たとえそれが些細なことだったとしても、今の絵奈にとっては、それはとても大きなもののように感じられた。
わがままだとは思う。甘えてるといわれても仕方がない。でも、何か勇気を持つ勇気が、契機が欲しかった。
ふいにアナウンサーの叫ぶ声が聞えた。
「あらやだ、ホームラン入っちゃったわ。これで同点ね。まあ、かわいい顔して。やあねえ、応援団なんてどうでもいいのよ。ランナーを映しなさい、ランナーを。あら、アレはどこいったのかしら?」
ローズはそこらに積み重なった雑誌や本を退けたり持ち上げたりして、ないないといいながらアレと呼ばれるものを探していた。
ふと部屋を見渡すと、そこかしこに本が積まれていることに気がついた。今までなんとも思わなかったが、目覚めた時に感じたホコリっぽい匂いはこれだったのかと、絵奈はようやくそこで理解した。
アレとはきっとリモコンのことだろうと、探すつもりでそれとなく目を走らせると、見覚えのある名前が視界に飛び込んできた。
作品名こそよく知らないものの、その作者名は知っていた。なぜならその作者の漫画を結麗も買っていたのだ。あの日、カゴを持った時たまたま一番上に置いてあったために、なんとなく記憶に残っていた。
どんな漫画なのかはよく知らない。きっと有名なのだろう。
そこまで考えて、
「あっ」
と、絵奈は間抜けな声を上げた。
「どうしたの?」
無事リモコンを見つけたらしい店主は、それを指先でクルクルと器用に回しながら、不思議そうに絵奈を見た。
「ローズさん、あの漫画ありませんか?」
絵奈は大型書店での出来事を、先ほどより細かくローズに話した。
「そういえば最近復刻されてたわね、それ。お兄さんに似て妹ちゃんもけっこうマニアックなのね。でも、ごめんなさいね。ウチには置いてないの。それで、その漫画がどうしたの?」
絵奈は返事に窮した。実際その漫画をどうするまでは考えていなかった。ただ何かの契機にならないかと、そう思って口にしただけである。
絵奈はつらつらとそういった旨を述べた。
「じゃあその漫画をプレゼントして仲直りするっていうのはどうかしら? まあ相手も気をつかっちゃうかもしれないけれど、悪くないアイディアだと思うわよ?」
「でも、絵奈のお小遣いじゃ、その、高くて買えないし」
「そうよねえ」
「ごめんなさい」
「別に謝らなくていいわよ」
そこでローズは突然何かに気づいたような顔になり、ぐるりと部屋を見渡した。
「おっかしいわ。アレがないわね」
もうリモコンを失くしたのかと思ったが、そうではなかった。
「やあねえ、どこやっちゃったのかしら。たしか昨日あっちに」
そういって廊下に消え、でもすぐに何かを握りしめて戻ってきた。ブツブツいいながら手にしたそれを指で弄り、やがてローズは満足気に頷いた。
持っていたのは電卓だった。
「ねえ、絵奈ちゃん。ちょっと提案なんだけど」
それはとても魅力的な提案だった。不安もなくはなかったが、それ以上に面白そうだと思った。
「じゃあ、明日からお願いね」
「はい。明日の二時に」




