ウソ
前回までのあらすじ。
古書祭に赴いた絵奈と結麗。文字通り祭の如く、本を楽しむふたり。そんな中、とある絵本に出逢う。問答と葛藤の末、結麗がその本を買い、好きな時に絵奈がそれを貸してもらう、ということで話は落ち着き、ふたりは仲良く大型書店へと向かったのだが……。
「欲しいなあ」
結麗は小さくそう呟いた。はっきりと聞えたわけではなかったが、無念に歪んだ表情を絵奈は見逃さなかった。
「あ、絵奈」
山のように本を抱えて、結麗がこちらを振り返る。
新しくできたという大型書店は、文字通り大きく、そして広かった。学校のグラウンドほどもあるフロアに本棚がいくつも並び、それが七階まであるのだから、話に聞いていた以上の規模だった。
結麗はその地下一階、漫画の置いてあるフロアにいた。
「それ全部買うの?」
「もちろん。あ、悪いけどさ、これ持っててくれない? ちょっとカゴ取ってくるから」
結麗はそういって本を何冊か渡すと、本棚の向こう側へ消えてしまった。
本を抱えたまま、絵奈は先ほどまで結麗が見ていた本棚に目を向けた。上段の真ん中、黒い背表紙の本に視線が止まる。
たしかあの本だ。
おまたせ、といって結麗が戻ってきた。
「ありがとね。それ、こっちに入れて」
カゴはすぐにいっぱいになった。
「アタシまだ見るものあるけど、一緒に行く?」
「ううん、もうちょっとここにいる」
「そっか。じゃあひと通り見て廻ったらもう一回ここに来るね」
「うん。わかった」
結麗の去った後、しばらくして絵奈は件の本を手に取った。知らない漫画だった。絵柄も古く、表紙には復刻版と記され、裏返すと四〇〇〇円ほどの値がついていた。
有名な漫画なのだろう。絵奈は漫画もあまり読まないからそういった事情はよく知らないし、知っていたからといってどうなるものでもなかった。
結麗が見ていた、というだけで充分だった。
そっと棚に戻す。
欲しいなあ――と、いっていたように思う。あるいは絵奈の聞き間違いかもしれなかったし、そう願ってもいた。けれども、悔しそうに本を見つめる目ははっきりと憶えているし、そんな表情の結麗を見たのも、出逢ってから今までで初めてのことだったから、よけいに印象深かった。
何か、妙な引っかかりを覚えた。
結麗が戻ってきてからも、その引っかかりは拭えなかった。
「うわー、人多いなー」
レジには列ができていた。
「重そうだね。半分持とうか?」
「うん、ありがと」
絵奈はカゴの取っ手を片方手に取った。
「いっぱいあるね」
「漫画ばっかりなんだけどね。これでもけっこう減らしたんだよ?」
「そう……なんだ」
「まあ、新刊はほとんど手に入れたから今日はいいかなって」
「ほとんど? じゃあ全部は買えなかったの?」
「残念だけど、ね。それにほら、これ以上買ったら鞄に入らないし」
結麗は笑ってそういったが、絵奈はその顔をまともに見ることができなかった。
立ち寄った喫茶店は古書祭の会場の一角にあった。
「どうしたの、絵奈。疲れちゃった?」
「ううん、大丈夫」
そう答えた声は、自分でも驚くほどに沈んでいた。
「まあ、ずっと歩き通しだったし、さすがにアタシも疲れたかなー」
片肘をついて、結麗は小さく息をついた。
「今日はどうだった。楽しかった?」
「うん……楽しかったよ」
「そっか。よかった。アタシもすっごく楽しかったよ」
「本当に?」
「うん。こうしていっぱい買えたしね」
そういって歪に膨らんだ鞄を叩いた。結麗は笑っていたが、絵奈にはそれが繕っているようにしか感じられなかった。
あの時見た悔しそうな表情が一瞬過ぎる。
妙な引っかかりは今もまだ拭えていない。むしろ奥深くまで刺さっているようにさえ感じていた。勘違いならそれでいい。思い過ごしであってほしい。そう思った。
けれども、そう思えば思うほど、その妙な引っかかりは奥へ奥へと入り込んでいった。痛かった。苦しかった。
思わず胸に手を当てそうになり、絵奈は慌てて手を引いた。包みにそっと手のひらが触れる。
やっぱりこの絵本のせいで。
何か救いを求めるような思いで結麗を見た絵奈はしかし、その顔を見て息を呑んだ。
結麗は思い悩むように顔を歪めていた。脇には、鞄から取り出した本が積まれている。
「何……してるの、網代さん?」
搾り出すような声だった。
「ちょっとリストをね」
手にしたメモ帳を見たまま、結麗はそう答えた。
「買ったものチェックしておこうかなって。ほら、アタシ、バカみたいに買うからさ、こうやって書いておかないと同じの買っちゃったりするんだよね」
「それ、いっぱいあるの?」
「うん、まあけっこう」
絵奈はうつむいた。何かが胸の奥で膨らんだような気がした。
「本当は欲しい本、もっといっぱいあったんだよね?」
「欲しい本? そりゃあ、数えれないほどあるけど」
「そうじゃないの。買いたかった本って、いえばいいのかな。ううん、買う予定だった本。でも」
でも結麗は。
「お金がなくて買えなかったんだよね?」
その声は、自分でも驚くほど震えていた。
「ちょっと待って絵奈、なんの話? アタシ、買う予定だった本はこうして買えたよ」
そこで少しばかり逡巡して、
「そりゃあ買えなかった本はあるけどさ」
とつけ加えた。
「ほら、やっぱり」
「やっぱりって。絵奈、あのさ、何か勘違いしてない?」
「してないよ。絵奈、見たんだから」
「見たって、何を?」
とそこで、お待たせしました――とウェイターが割って入った。ジュースがふたつ、音もなく置かれる。
結麗が何かをいう前に、絵奈は口を開いた。
「網代さんはさ、いったよね? やらなくて後悔するよりやって後悔したほうがいいって」
「うん? アタシそんなこといったっけ?」
絵奈は答えず続けた。
「でも、絵奈のために網代さんが後悔して欲しくない」
「もしかしてまだその絵本のこと気にしてるの?」
「気にしてないよ」
「ウソ。してるじゃない」
「してないもん」
「してる」
「してない」
「じゃあ、なんでそれ見てるの?」
そういわれて初めて、絵本の入った包みを見ているのに気がついた。
「アタシが貸すってことで納得したと思ったのにさ、どうして今さら蒸し返すの?」
「蒸し返してなんかないよ。網代さんが……網代さんが、ウソついてるからいけないんだよ」
「ウソ? アタシがいつウソいったって?」
「さっき、本屋さんで」
黒い背表紙の本。悔しさに歪んだ顔。
欲しいなあ。
胸を締めつけられるような痛みに、絵奈は思わずそばの包みを手に取って抱き寄せた。
「ほら、何もないじゃない」
結麗は吐き捨てるようにいった。
「どっちがウソつきよ」
「違う! 絵奈はウソなんてついてないもん」
「はいはい。ウソつきは泥棒の始まりだなんていうけど、本当だね」
「それ……どういう意味?」
結麗は無視していった。
「アタシ、ウソつく人って嫌いなんだけど」
「だから、絵奈はウソなんか」
「もういい。聞きたくないっ!」
そこで一拍置いて、
「いいよ、もう。小口さんがそういう人だってわかったから」
と低くそういった。
結麗の言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。包みを握る手に、力がこもる。
「網代さんがこの本買うっていった時、絵奈、本当はすごく嬉しかったんだよ。貸してくれるなんていってたけど、本当は絵奈のために買ってくれたことぐらい、絵奈だってわかってる。でも、網代さんが我慢してまでこの本買って欲しくなかった。そこまでしてこの本買ってだなんて、絵奈ひと言もいってない!」
「じゃあその本いらないんだ」
結麗の冷たい視線が絵奈を捕える。
「いらないなら返してよ。アタシが買ったんだから、返してよ!」
身を乗り出し、本を取り上げようとする結麗に、絵奈は両腕に力を込めて抵抗した。なおも引く結麗に、今度は身体を丸めて取られまいと必死でもがいた。徐々に身体が浮いていき、体勢を整えようと思った、その時。
一瞬、力が抜けてしまった。
「きゃっ!」
包みが抜き取られた反動で、絵奈は弾かれたように仰け反り、背中を椅子に打ちつけた。横転した椅子に投げ出されるようにして転げ落ちた絵奈は、テーブルの脚に自らの足を思い切り打ちつけてしまった。
大きな音を立ててテーブルは揺れ、何かが倒れるような音が聞こえたかと思うと、小さな衝撃と共に冷たいものが頭を覆った。
濡れた絨毯の上を、氷が滑っていく。
「絵奈っ!」
短く叫んで、結麗は絵奈に駆け寄った。
「だ、大丈夫? ごめん、アタシ、その」
「……らい」
絵奈はゆっくりと立ち上がり、結麗を睨みつけた。それまで膨らみ続けていた何かが。
そこで一気に弾けた。
「網代さんなんて、大っっっ嫌いッ!」
鞄を手にするが早いか、絵奈はそのまま店を飛び出していった。視界はぼやけてよく見えなかったが、それが被ったジュースのせいなのかは、絵奈にもよくわからなかった。
ただ、とても胸が痛かった。




