年齢
翌朝。カイルは朝食を食べながら、昨夜のことを考えていた。
パンを小さくちぎり、スープに浸す。
母が作ったスープはいつも通りだった。具だくさんの野菜と肉、少し強めの塩気。向かいではグレンが煙草をくわえ、昨日持ち込まれた魔道具の愚痴を叩いている。
いつもの、何一つ変わらない平和な朝。
それなのに、カイルの頭の中には一つの問いが冷たく居座り続けていた。
――老人がいない。
昨夜はただ、理由の分からない恐怖に背筋を凍らせた。
だが陽が昇り、頭が冷えてくると、別の考えが浮かんできた。
本当にいないのか。それとも、自分がまだ狭い世界しか知らず、見落としているだけなのか。
「カイル、食べないの?」
向かいからエレナが覗き込んできた。
カイルは手元のスープ皿に視線を戻す。
「食べてるよ」
「パンしか減ってないじゃない」
「……ちょっと、考え事」
「あら、なにを?」
エレナが微笑む。カイルは一瞬躊躇した。
「この町には老人がいない」とストレートに口にするのは、なぜかためらわれた。
「町に、どれくらい年上の人がいるのかなって」
「年上?」
「父さんや母さんより、ずっと上の人」
エレナは少し考えてから首をかしげた。
「たくさんいると思うけれど……どうして急に?」
「昨日、父さんに聞いたら、おじいちゃんが四十八歳で死んだって言ってたから」
「そうね」
エレナの表情には、悲しみも驚きもなかった。
「長生きした方だわ」
その淡々とした一言に、カイルの手がピタリと止まった。
やっぱりだ。
「……四十八で?」
「ええ」
エレナは手際よくパンを切り分けながら答える。
「グレンのお父さんなら、ずいぶん昔の話だもの。私の両親だって、もういないわ」
「……何歳だったの?」
「父は四十六。母は四十九だったかしら」
三人。
自分が知る限りの上の世代が、一人残らず五十歳を迎える前に物言わぬ存在になっている。
そして何より恐ろしいのは、母がそれを「そういうものだ」として、ごく自然に受け入れていることだった。
「母さんは……何歳?」
「私?」
エレナが眉をひそめ、少し可笑しそうに笑った。
「三十二よ」
「父さんは?」
「三十三だ」
グレンが横から煙草の煙を吐き出しながら口を挟んだ。
「なんだ、昨日から急に年齢ばっかり気にしやがって」
「……別に」
カイルはスープを一口口に含んだ。
熱い。舌の先が微かに痺れる。その痛みが、いま生きている現実を嫌でも突きつけてくる。
三十二歳と三十三歳。
そして四十八歳は長生き。
この世界では、それが「命の尺尺」なのだ。
*
朝食を終えると、カイルは一人で外に出た。
目的はひとつ。
自分の目で、老人を探すこと。
馬鹿げた調査だとは分かっていた。だが、一度芽生えた疑問を放置したまま笑って過ごせるほど、自分の中の「前世の常識」は消えてくれていなかった。
向かったのは、町で一番人が集まる市場だ。
朝の市場は熱気に包まれていた。採れたての野菜を並べる声、肉を切り分ける包丁の音、焼きたてパンの香ばしい匂い。その合間を人々が賑やかに行き交っている。
カイルはすれ違う人々の顔を、一つひとつじっと盗み見た。
若い。
あまりにも、若い。
二十代、三十代の男女が圧倒的多数を占めている。
白髪が混じり始めた四十代らしき姿もちらほら見える。
探せば、五十歳前後に見えなくもない人物もわずかに存在した。
だが――その先がない。
カイルは精肉店の前で足を止めた。
丸太のような腕で包丁を振るう店主は、頭髪半分に白いものが混ざっている。
「おじさん」
「ん? なんだ坊主」
店主が顔を上げた。
「何歳?」
「……は?」
店主はポカンと目を丸くした。カイルは自分でも不躾だと理解しつつ、言葉を重ねた。
「ごめん。ちょっと知りたくて」
「なんだ急に。俺か? 五十一だ」
胸が少しだけ軽くなる。
「五十一……! 五十一歳って、町では年寄りなの?」
「俺が年寄りだと!?」
男は大声で豪快に笑い飛ばした。
「冗談言うな、まだまだ現役で肉を切ってるわ!」
「じゃあ……もっと年上の人もいる?」
「そりゃいるだろ。隣の通りの薬屋の婆さんなんか、たしか五十六だったはずだぞ」
いる。
やはり自分の勘違いだったのだ。カイルは心の中で小さく息を吐いた。
「六十歳くらいの人もいる?」
「六十?」
店主は包丁をトントンとまな板に当てながら、少し首をひねった。
「どうだったかな……昔ならいたかもしれんがね」
「今は?」
「さあな、いちいち全員の歳を聞いて回っちゃいねえよ」
男は笑って作業に戻った。
カイルは礼を言い、教えられた隣の通りへと向かった。
薬屋はすぐに見つかった。
軒先に乾燥した薬草が吊るされ、奥のカウンターには髪が真っ白になった女性が立っていた。顔には深い皺が刻まれている。
カイルが知っている「お婆さん」に近い姿だ。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい」
女性は優しく目を細めた。
「お使いかしら?」
「ううん。……ちょっと、聞きたいことがあって」
「なに? なんでも聞きなさい」
「おばあちゃん、何歳?」
女性が一瞬、きょとんと動きを止めた。
それから、ころころと鈴を転がすように笑い出した。
「まあ、子供って本当に遠慮がないのね」
「ごめんなさい……」
「いいのよ。五十七よ」
五十七。
カイルは言葉を呑み込んだ。
「もっと……上の人っている?」
「もっと?」
「六十歳とか……それ以上」
女性の顔から、柔らかい笑みがゆっくりと失われていった。
「……六十?」
しばらくの沈黙。女性は手元の薬草を静かに束ねながら、どこか遠くを見るような目をした。
「話には聞くけれど……この町では見かけないわねぇ」
胸の奥に、氷を押し当てられたような冷たさが広がっていく。
「昔は……いたの?」
「さあねぇ……私がまだほんの小さかった頃、もっと年上の人がいたような気もするけれど。私の祖父が五十九、祖母が六十一まで生きたと聞いたくらいかしら」
六十一。
それが、この町で語り継がれる「伝説的な長寿」の限界点だった。
「どうかしたの、坊や?」
不思議そうに顔を覗き込んでくる女性に、カイルは首を振ることしかできなかった。
「……ううん。なんでもない」
逃げるように薬屋をあとにした。
石畳の通りを歩く。
すれ違う人々の顔が、急に歪んで見えた。
若い。
若い。
どこを見ても若い。
五十歳前後の人は確かにいる。白髪の人も、皺のある人もいる。
けれど、その先が「存在しない」。
カイルは広場の端にある木製ベンチにへたり込んだ。
日差しの下で、子供たちがはしゃぎ回っている。
若い母親たちが笑顔で喋り立ち、買い出し中の商人が荷車を引いていく。
どこからどう見ても、平和で豊かな日常の光景だ。
それなのに――カイルの目には、この町が致命的な欠陥を抱えた「異様なカゴ」に見えて仕方がなかった。
医療はある。精霊の治療器具もある。
飢餓もない。清潔な水もある。凶悪な病気が蔓延している様子もない。
それなのに、人間だけが五十歳前後で綺麗に姿を消していく。
「……なんでだよ」
膝の上で小さな拳を強く握りしめた。
命が不自然に切り揃えられている。
「カイル?」
不意に声をかけられ、顔を上げるとフィンが立っていた。
肩から小さな鞄を下げ、心配そうに顔を覗き込んできた。
「そんなところで何してるの? 顔、すごく青いよ」
「……ちょっと、休んでた」
「本当に大丈夫? 具合悪いんじゃない?」
フィンが隣に腰を下ろす。
カイルは迷った。この恐ろしい違和感を打ち明けてしまおうか、と。
けれど、フィンの顔を見て思い直した。言ったところで何になる。この世界で生まれ育ったフィンにとって、それが「当たり前」なのだから。
「……フィンは、おじいちゃんとかいる?」
「え? うん、いるよ」
カイルはハッとしてフィンを見た。
「何歳!?」
「えっ……あ、ええと……」
勢いに押されたフィンは、少し考えてから静かに答えた。
「たしか四十九……かな。去年、死んじゃったけど」
「……死んだんだ」
「うん。病気じゃなくて『大往生だ』ってお父さんが言ってた。歳だったからね」
フィンの声には悲痛さも怒りもなかった。
「寿命を全うして大往生した」という、当然の受け入れだけがあった。
四十八。四十九。五十七。
そして六十一という「昔話」。
カイルはゆっくりと見上げた。
雲ひとつない青空の中央に、真っ白な精霊塔が不気味なほど美しくそびえ立っている。
昨夜見た、星空を横切る人工の光。
世界の形すら描かれていない雑な地図。
そして、老人が存在しないこの町。
怖かった。
自分以外のすべての人々が、この「歪んだ寿命」を温かい日常として疑いもなく愛しているという事実が、何よりも恐ろしかった。
「帰ろう」
「えっ、もういいの?」
「うん」
カイルは立ち上がり、振り返ることなく歩き出した。
後ろをついてくるフィンの足音を聞きながら、中央の精霊塔をもう一度だけ見据える。
自分の知らない「世界のルール」が、すでにこの首元に刃を突きつけているような気がしてならなかった。




