違和
その夜、カイルは眠れなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを打つ。目を閉じれば今にも眠れそうなのに、頭のどこかで小さな棘が引っかかり、どうしても意識を覚醒させてしまう。
(何か……忘れてるような)
昼間に母と町を歩いていたときから抱いていた、得体の知れない違和感。
カイルは毛布を押しのけて起き上がった。
まだ五歳の小さな身体では、ベッドから降りるだけでも少し不便だ。床に足裏がつくと、ひんやりとした木板の冷たさが伝わってきた。
窓際へ歩み寄り、爪先立ちで外を覗き込む。
夜の町は静まり返っていた。
通りには火の精霊を宿した街灯が淡い橙色の光を灯し、ごく稀に夜道を急ぐ人の影が横切っていく。
そのまま、ふと見上げて夜空に目を向けた。
雲のない空に、びっしりと星が広がっている。
カイルはしばらく眺めてから、微かに首をかしげた。
「……多くないか?」
小さく呟く。
前世(地球)の星空を鮮明に覚えているわけではない。けれど、知識として知っている。
星座があり、季節ごとに見える位置が変わり、北の空には方角を示す星があった。
だが、今見上げている空は明らかに異質だった。
星の数が多すぎる。
それに、ただ白いだけではない。青、赤、黄色といった光が交じり合い、まるで光の粒を撒き散らしたようだ。
さらに凝視していると、その中に一つ、おかしな動きをする光を見つけた。
ひとつの光が、滑らかな速度で一定の軌道を描きながら空を横切っていく。
(星が……動いてる?)
閃光でも流星でもない。明滅もせず、淡々と同じ速さで夜空を横断していく光。
――人工衛星。
脳裏にその単語が浮かび、すぐに霧のように霧散した。
結局、ここが地球なのか別の惑星なのかも分からない。
「……やっぱり、違うのかな」
窓枠に手を預け、眉をひそめる。
これまでは魔法や精霊、魔道具といったファンタジー的な要素ばかりに目を奪われ、「地球とは違う異世界」なのだと納得しようとしていた。
だが、もっと根底にある「生活の当たり前」から比較してみたらどうだろう。
ベッドに戻り、小さく息を吐いて胡坐をかく。
水道はない。代わりに精霊の入った水差しがある。
電気はない。明かりはすべて精霊だ。
車はない。荷車か馬車。
電話もない。
そこまではいい。文明レベルの違いで説明がつく。
だが、昼間に父の工房で見せてもらった『地図』は違った。
大きめの紙に描かれていたのは、この町と周辺の街道、近くの山や川だけ。
「世界地図」と呼べるような広域のものは存在しなかった。単純に手に入らないだけなのか、それとも誰も世界の形を知らないのか。
(……分からないことが多すぎる)
頭を振って思考を切り替えようとしたとき、ふと別の疑問が脳裏を掠めた。
――そういえば、祖父母はどうしているのだろう。
父親のグレン。お母さんのエレナ。
自分の両親の存在は知っている。では、二人の親は?
自分はこの家に来てから一度も、おじいちゃんやおばあちゃんという存在の話題を聞いたことがなかった。手紙が届いたことも、訪ねてくる気配もない。
カイルはベッドを降り、静かに部屋を出た。
薄暗い廊下を通り、階段を下りる。
一階の工房から、漏れ出た黄色い明かりとカンカンと小さな金属音が聞こえていた。
「父さん?」
「ん? 起きてたのか」
作業台に向かっていたグレンが顔を上げた。煙草をくわえたまま、手元には分解された小さな魔道具がある。
「まだ仕事?」
「客が『明日の朝までに頼む』って泣きついてきてな。まったく、夜中に持ち込むなっつーの」
グレンは不満そうに吐き捨てたが、その手つきは丁寧だった。
カイルは工房の入り口の段差に腰を下ろし、父親の作業をぼんやりと眺めた。
そして、世間話の延長のような体で口を開いた。
「ねえ、父さん。……父さんのお父さんって、どんな人だったの?」
グレンの手が一瞬ピタリと止まった。
「……なんだ急に」
「なんとなく。会ったことないなって」
「そりゃそうだ。俺が若い頃に死んじまってる」
「そうなんだ。……おばあちゃんは?」
「親父より前に死んだよ」
淡々とした返答だった。
「お母さんの方も?」
「エレナの親か? そっちはエレナに直接聞け。俺から勝手に話すことじゃねえよ」
グレンはそれ以上追及させないように、視線を分解された魔道具へと戻した。
カイルは少し間を置いてから、重ねて尋ねた。
「父さんのお父さんって、何歳で死んだの?」
「たしか……四十八だったかな」
「四十八……」
「当時にしちゃあ長生きな方だったさ」
グレンは何気なく言った。
しかし、カイルの胸の奥で冷たい重石が落ちるような感覚があった。
四十八歳で「長生き」。
「何だ? 急に家族の歴史に興味でも湧いたか」
「ううん、なんでもない。お邪魔しました」
「おう。早く寝ろよ」
カイルは二階の部屋に戻り、布団に潜り込んだ。
四十八で長生き。祖父母はすでにいない。
母の両親のことは分からないが、少なくとも父の口ぶりからすれば「もういない」可能性が高い。
それだけなら、ただの偶然や時代の衛生環境・寿命の違いとして片付けられるかもしれない。
けれど――カイルは布団の中で目を見開いた。
町を歩いていたときの記憶を必死に手繰り寄せる。
工房、診療所、市場、広場、川沿い、商店街。
一人。二人。
……いや、思い出せない。
この町で、「老人」と呼ばれる姿の人間を見た記憶が一度もないのだ。
三十代、四十代の大人はたくさんいる。
少し白髪が混ざった五十代らしき人もいる。
だが、それ以上の「年老いた人間」の姿を、カイルは町の中で一人たりとも見かけていなかった。
(なんで……?)
ゾクリと背筋に冷や汗が伝う。
老人がいない。
父の親も、母の親もいない。五十代の先が存在しない。
ただの人口構成の偏りなのか。
それとも、この世界の人間は「それ以上の年齢」になる前に姿を消しているのか――?
カイルは布団の中で身体を小さく丸めた。
理由の分からない恐怖が、ゆっくりと全身を侵食していく。
毎日見ていた穏やかな町。
優しく笑う両親や、仲良くなったフィン。
当たり前に存在する精霊たち。
そのすべてが、急に不気味な作り物のように思えてきた。
窓の外では、街灯の精霊が静かに揺れている。
そしてそのはるか上空を、星に紛れた人工的な光が、規則正しく横切っていった。
初めて、この世界そのものが恐ろしいと感じながら、カイルは眠れない夜を過ごした。




