悪戯好きの妹
カイルは、フィンの家を訪ねた。
ハートウェル家は大通りから少し外れた住宅街にある。
軒先には乾燥した薬草が吊るされ、窓辺には小さな鉢植えが並んでいた。風が吹くたび、細い葉がさらさらと澄んだ音を立てて揺れている。
カイルが扉を叩くと、少ししてフィンが顔を出した。
「あ、カイル。どうしたの?」
「ちょっと遊べるかなと思って」
「うん、いいよ。入って」
フィンが扉を招き入れるように開ける。
その直後――廊下の奥から、パタパタと軽やかで速い足音が近づいてきた。
フィンの顔に、一瞬で「しまった」という緊張が走る。
「……ルーシア! ダメだって言ってるでしょ!」
声も届かないうちに、廊下の角から少女が勢いよく飛び出してきた。
栗色の髪が肩のあたりで跳ねている。片側だけ白いリボンで結ばれているが、少し解けかけていた。
少女は柱を力任せに掴んで急ブレーキをかけると、そのまま大きな青灰色の目をカイルに向けた。
「カイルだー!」
「誰」と言う隙すら与えず、少女は弾むような足取りで距離を詰めてくる。
一歩。
二歩。
鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せてきたので、カイルが咄嗟に身を引くと、ルーシアも全く同じ分だけ前髪を揺らして詰めてきた。
「……近い」
「カイルでしょ! お兄ちゃんが言ってた『変なカイル』!」
「変ってつけるなよ。あと近いって」
「変じゃないもん! 思ってたより全然普通だし!」
「だから近い!」
カイルが手で押し返そうとしても、ルーシアは意に介さずカイルの服の裾を両手で固く掴んだ。
「ルーシア、やめなよ。カイルが困ってるでしょ」
後ろからフィンが手を出して引き離そうとするが、ルーシアはカイルの服を掴んだまま、くるりと身体を捻って兄の手を避けた。布地が引っ張られてギチギチと嫌な音を立てる。
「嫌だもん。カイル、私の部屋来て」
「なんでだよ」
「あそぶの!」
「何して?」
「内緒!」
そう言って、ルーシアはにやりと口元を歪めた。
愛らしさの中に、どこか「他人の都合や限界を一切考慮しない」強引さが透けて見える笑い方だった。両手を後ろに回しているが、袖の裏から小さな瓶のカチャリという音が聞こえる。
フィンが顔を青くした。
「ルーシア……まさかそれ、お母さんの棚から勝手に持ってきたの?」
「持ってきてないし!」
「嘘だ、それ絶対に痺れ薬の試作品でしょ!? やめなよ、カイルにかけたら笑い事じゃないんだから!」
「かけてみないと分からないじゃん!」
「分からないじゃん、じゃない!!」
ルーシアは兄の制止を完全に無視して、カイルの手首をギチギチと強い力で掴んだ。
「大丈夫だよ、死なないから!」
「死なないからでやるな!」
カイルも流石に引きつった顔で手首を振り払おうとしたが、ルーシアは身体全体の体重をかけてしがみついてくる。
「こっち! 早く!」
強引に手を引っ張り、自分の部屋へ向かって小走りになった。
しかし――三歩目を出した瞬間、ルーシアの足がガクッと折れた。
「っ……あ」
カイルの手を掴んだまま、前ぶれもなく膝から床へ崩れ落ちる。
カイルが咄嗟に抱き止めなければ、そのまま顔面から床へ突っ込んでいた勢いだった。
「ルーシア!」
フィンが青ざめて駆け寄ってくる。
ルーシアはカイルの胸元にしがみついたまま、小さく肩を上下させていた。
ゼーゼーと浅い息が漏れる。唇の色が一瞬で白くなり、握られていた手首から伝わる体温が、氷のように冷たくなっていく。
「はぁ……っ、……っ」
「おい、大丈夫かよ……」
カイルが声をかけると、ルーシアはゼーゼーと肩を揺らしながら、カイルの服を掴む手にさらにぎゅっと力を込めた。
苦しいはずなのに、その瞳には怯えも反省もない。
ゆっくりと顔を上げたルーシアは、青白い顔のまま、ニッと狂気すら孕んだ笑顔を作ってみせた。
「……平気だもん」
「全然平気そうに見えないぞ……!」
「平気なの……カイルが……逃げるから……」
喉を鳴らしながら、ルーシアはカイルの袖を決して離そうとしなかった。自分の身体が壊れかけていることすら意に介さず、ただ自分の「やりたいこと」を押し通そうとする執着心。
フィンが泣きそうな顔でルーシアの背中を擦る。
「だから急に動くなって言ったでしょ! もう……すぐお母さん呼んでくるから!」
「嫌! 呼ばないで!」
ルーシアは消えそうな声で叫び、カイルの手を握り直した。
「カイル……あそぶでしょ……?」
冷たく湿った小さな指が、カイルの手を強く締め上げる。
カイルはその指の冷たさと、少女の瞳にある「自分の身体の異常に対する圧倒的な無自覚さ」に、胸の奥がひやりとするのを感じた。
この子は、ただの「元気ないたずらっ子」ではない。
自分の命の限界すら無視して突っ走ってしまう、どこか決定的に狂った部分を抱えているのだと。
「……分かったから、息整えろよ」
カイルは大きな溜め息をつくと、冷え切ったルーシアの身体を支え直した。
「フィン、お母さん呼ぶ前に水持ってきて。あと、動くな」
解けかけていたルーシアのリボンを引き寄せ、細い指で手際よく結び直してやる。
雑に動けばまた息が切れると分かっているから、背中をゆっくりと一定のリズムで叩いてやった。
「……カイル、うまい」
「母さんの診療所で見てただけだ。喋るとまた苦しくなるぞ」
「うん……」
大人しく胸に額を預けてくるルーシアを見下ろし、心の中でため息をつく。
だが、その手を離す気にはどうしてもなれなかった。
その日から、カイルがフィンの家を訪ねると、玄関を開けるより先に廊下の奥から「止める間もない猛ダッシュの足音」が聞こえてくるようになった。




