三人
それから三週間ほどが過ぎた。
カイルは以前よりも、フィンの家へ行くことが増えていた。
最初は老人のことや街の違和感について探るのが目的だったが、今ではそれだけではない。
フィンと話していると、自分が知らない世界の話が次々と出てくる。
町の外にある別の街のこと。学校で使う魔法道具のこと。カイルがふと漏らした素朴な疑問や変な呟きも、フィンは笑わずに「どうしてだろうね」と一緒に考えてくれた。
そして、もう一人。
「カイルだー!」
扉を開けた瞬間に飛び出してくるルーシアだ。
彼女がいると、静かに話をしている時間など五分と続かない。
その日も朝からしとしとと雨が降っていた。
細い雨が屋根を叩き、窓ガラスを流れていく。川沿いに遊びに行くこともできず、家の中で過ごすしかない天気だった。
カイルがハートウェル家の扉を叩くと、すぐには返事がなかった。
もう一度叩く。
ガタン、と中で何かが倒れる大きな音が響いた。
「待って、今は開けちゃ駄目ー!」
奥からルーシアの切羽詰まった声が飛んでくる。
カイルは扉の前で呆れて息を吐いた。
「今の時点で、もう何かやってるだろ」
中が一瞬静まり返り、少しして扉が細く開いた。
隙間からルーシアが顔を出す。栗色の髪は今日、左右二つにまとめられ、赤いリボンが揺れていた。
「声が大きいよ。お兄ちゃんに聞こえちゃうでしょ」
「聞こえたら困ることしてんの?」
「それは……まだナイショ!」
そう言ったくせに、口元が隠しきれずにニヤついている。
「入っていい?」
「もちろんだよ! カイルなら大歓迎!」
急に扉が大きく開かれ、ルーシアがカイルの腕を両手で掴んで引っ張り込んだ。
「ちょっと、引っ張るなって」
「早く早く! 今いいところなんだから!」
「何がだよ」
「見たら分かるってば!」
半ば引きずられるように廊下を進み、居間の前でルーシアが急に立ち止まった。
口元に人差し指を立ててみせる。
「ここからは静かにね」
「……だから何してるんだよ」
「お兄ちゃんの本を隠したの」
カイルは思わず天を仰ぎかけた。
「……なんで?」
「雨で外に行けないから暇だったんだもん。お兄ちゃんがずっと本ばかり読んでるから、ちょっとくらい私と遊んでくれてもいいでしょ?」
悪びれた様子は一切ない。むしろ自分の完璧な作戦に満足しているようで、目がキラキラと輝いている。
「だから本を隠したのか?」
「そう! 見つけるまで私と遊んでもらうの」
「それ、怒られて終わりじゃないか?」
「大丈夫だよ。本がないとお兄ちゃん、何もできないんだから」
「謎の自信だな……」
ルーシアが胸を張った直後、廊下の向こうからパタパタと足音が近づいてきた。
「来た!」
ルーシアはカイルの袖を掴み、背の低い棚の陰へ強引に引っ張り込んだ。
「こっち!」
「隠れる必要あるか?」
「あるよ! もう共犯なんだから」
「俺、何もしてないんだけど」
「私と一緒に秘密を知ったから共犯なの!」
「見つかったら全部ルーシアのせいにするからな」
「ひどい! お兄ちゃんとの友情はどうなってるの?」
「それは俺とフィンの友情であって、ルーシアは関係ないだろ」
「細かいなあ」
ルーシアが笑いを殺しながら肩を揺らす。
その時、居間の入口にフィンが現れた。手には何も持っておらず、困ったように眉を下げている。
「ルーシア……僕の本、知らない?」
ルーシアはカイルの顔を一瞬だけ見上げると、何事もなかったかのように堂々と棚の陰から出て行った。
「知らないよ?」
「……本当に?」
「うん。今日はなにもしてないよ」
カイルは棚の陰でそっと額を押さえた。あまりにも怪しすぎる。
フィンも当然見抜いたようで、妹を見つめたまま深く息を吐いた。
「ルーシア……その言い方するときは、大体何か隠してるよね」
「そんなことないよ! お兄ちゃん、私のこと信用しなさすぎ!」
「じゃあ、その机の下見てもいい?」
「そこは駄目!」
「なんで?」
「そこは私の領域だから!」
「余計に怪しいよ……」
押し問答の末、ルーシアは頬をふくらませて白状した。
「だって暇なんだもん! 雨は降ってるし、外に行けないし、お兄ちゃんは本ばっかり見てるし……ちょっとくらい困らせてもいいでしょ?」
最後の語尾だけ少し小さくなる。
フィンは呆れ顔だったが、すぐに表情を和らげて苦笑した。
「困るのは僕なんだけどな……」
「じゃあ遊んでくれるの?」
「……それと本を隠すのは別の話だよ」
「でも、今こうして私と喋ってるじゃん!」
ルーシアがニカッと笑う。
フィンは何か言い返そうとして、結局降参したように肩をすくめた。
「分かった、遊ぶよ。だから本は返して」
「やったー!」
ルーシアが両手を高く突き上げた。
その勢いのまま、身体がグラリと傾く。
カイルが反射的に手を伸ばし、倒れかける肩を掴んで支えた。
「おい」
「へいき、へいき……」
ルーシアはすぐに笑ってみせたが、今度は誤魔化しきれなかった。
顔色が一気に白くなり、唇の赤みが失われていく。
フィンも慌てて駆け寄ってきた。
「だから……急に動くなって言っただろ!」
「……だって、久しぶりに三人で遊べると思ったんだもん」
「久しぶりって、昨日も会ったじゃないか」
「昨日はお兄ちゃんが途中で寝ちゃったじゃん……」
「僕は……体調が悪かったんだよ」
「だから、今日のほうがいいの……」
ルーシアはカイルの手をそっと離すと、自分からゆっくり椅子へ向かって歩いた。
「……ちょっと座れば平気だから」
椅子に深々と腰を下ろし、背もたれに身体を預ける。
さっきまでの嵐のような勢いが嘘のように消え、まぶたが重そうに垂れていた。
それでもルーシアは、カイルを見上げてふざけるように笑った。
「ねえ、カイル」
「なんだよ」
「今日も帰らないでね」
「まだ昼だろ」
「そうだけど……雨の日って、家の中が静かになるから嫌いなの」
ルーシアは窓の外に目を向けた。
ガラスを細い水滴が流れていく。
「みんな家の中で静かにしてるし、外にも行けないし……だから、誰かが来てくれると嬉しいんだ」
その呟きだけは、悪戯をしている時の明るさとは違う、等身大の本音だった。
フィンが妹を静かに見つめる。
何か言おうとしたフィンより先に、ルーシアが小さく笑って手を振った。
「……いまのは忘れて。ちょっと恥ずかしいから」
「無理」
カイルが即答すると、ルーシアは目を丸くした。
「なんでよ!」
「言ったろ」
「何を?」
「秘密は守らないって」
「さっき自分で共犯って言ったのにー!」
ルーシアが笑いながら手元のクッションを投げてくる。カイルはそれを難なく受け止めた。
「全然効かない」
「じゃあ、もう一個!」
「やめとけって、また息が切れるぞ」
カイルはクッションを抱え直すと、ルーシアの足元に転がっていた本――最初から棚の目立つ場所に置かれていたフィンの本を拾い上げ、フィンに手渡した。
「最初からここにあったぞ」
「うん……僕の目の前だね」
「だって、お兄ちゃんって難しく考えすぎるんだもん」
「君が分かりやすく隠すからだよ……」
フィンがため息をつきながら本を受け取る。
ルーシアは楽しそうに笑い、抱え込んだクッションに顔を埋めた。
窓の外では、まだ静かな雨が降り続いていた。
けれど、部屋の中には三人分の温かい声が響いている。
ルーシアはクッションの中で、誰にも気づかれないようにそっと深く息を吐いた。
身体はだるく、少し疲れてしまった。
けれど、今日はまだ眠りたくない。
カイルがいる。
お兄ちゃんもいる。
だから、もう少しだけ、この温かい時間の中にいたかった。




