川沿いにて
午後になると、カイルは母親に頼まれて買い物に出た。
町の中心を抜けて、川沿いの道まで歩く。昼を過ぎた通りには荷車が増えていて、商店の前では店員が忙しそうに木箱を運んでいた。道端の水路には細い水が流れ、その途中に置かれた石の器から、時折り水の精霊がぷかりと顔を出す。
カイルはそれを眺めながら歩いた。
以前なら、精霊を見ても何も思わなかった。
今は少し違う。
父親の工房で仕組みを見せてもらい、母親からも話を聞いたことで、精霊がこの町のいたるところで働いていることが分かってきた。
街灯にもいる。
水路にもいる。
店の冷却箱にもいる。
パン屋では火の精霊が窯を温めているし、鍛冶屋では風の精霊が炉へ空気を送っている。
それでも、町の人間はそんなものをいちいち気にしていない。
精霊がそこにいて力を貸してくれることは、井戸から水が出ることと同じくらい当たり前なのだ。
「あ……カイル?」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、フィンが立ち止まり、片手に抱えた小さな布袋を持ち直しているところだった。
「どこ行くの?」
「母さんに頼まれた買い物。フィンは?」
「僕も買い物だよ。家の薬が切れたんだって」
フィンは重そうに袋を持ち上げて見せた。
「でも、これ……結構重いんだよね。さっきから手が痛くなっちゃってさ」
「貸そうか?」
「ううん、いいよ。そこまでじゃない……かな」
そう言った直後、フィンは袋を抱え直した。
持ち方を変えたせいで袋の底が少し傾き、中からカチャリと小さな瓶がぶつかる音が響く。
フィンが慌てて両手で抱え直した。
「だから貸すって言ったのに」
「カイルに持たせたら……今度は僕が怒られるよ。『薬を落としたらどうするの』って」
フィンは弱り顔で笑った。
二人は肩を並べて歩き始める。
しばらくして、川沿いの小さな広場までやってきた。
ここは町の子供たちがよく集まる場所だ。
川幅はそれほど広くない。
浅い場所なら大人の膝くらいまでしかないが、流れは見た目以上に速い。川底には丸い石が転がっていて、水面には昼の光が細かく跳ねていた。
フィンが足を止めた。
「ねえ……少し休んでもいい?」
「いいよ」
フィンは川沿いの平らな石に腰を下ろした。
袋を足元へそっと置き、長く息を吐く。
「やっぱり重かった……かな」
「だから言ったのに」
「それを今言う……?」
フィンは苦笑しながらカイルを見上げた。
「カイルって……前よりそういうこと言うようになったよね」
「そう?」
「うん。前はもっと……黙ってたじゃない」
カイルは返事をせず、流れる水に目を向けた。
確かにそうだった。
母親に連れられて町を歩くようになった頃も、フィンと初めて会った頃も、あまり自分から喋らなかった。
何を話せばいいのか分からなかったからだ。
最近は少し違う。
分からないことがあれば聞く。
気になったことがあれば言う。
自分が言葉を出したときに相手がどう思うのかを、前ほど気にしなくなった。
「フィンがずっと喋るからじゃない?」
「えっ……僕のせいなの?」
フィンが目を丸くした。
「だって、黙ってても話しかけてくるじゃん」
「それは……まあ、そうだけどさ」
フィンは少し考えてから、ぽつりと呟いた。
「だって……カイルが何も言わないと、寂しいじゃない」
その言葉は妙に素直で、カイルは思わずフィンの横顔を見た。
「じゃあ、喋るよ」
「急に言われても困るよ……」
フィンが困ったように笑う。その笑顔は、どこか少し照れているようだった。
川の中で、小さな青い光がすっと動いた。
二人の前を水の精霊が横切っていく。
フィンはそれを羨ましそうに目で追った。
「カイルは……精霊、よく見かけるよね」
「そう?」
「うん。僕はあんまり……寄ってきてくれないからさ」
フィンは少し肩を落として言った。
「家でも、お母さんが使ってる精霊ばっかりなんだ。僕が近くに行くと……逃げちゃうこともあるし」
「嫌われてるの?」
「そこまで言わなくてもいいじゃない……」
苦笑したフィンは、また川へ視線を戻した。
「たぶん……相性が悪いんだと思う」
カイルは返事をせず、川の中の精霊を見つめた。
水の精霊はフィンには近づかず、少し離れた安全な場所を漂っている。
カイルには、それがなんとなく不思議だった。
精霊は命令されれば動く「システム」のようなものだと思っていた。
けれど、父親も母親も言っていた。
精霊にも個体差がある。
相性もある。
それなら、精霊は単なる道具とは違うのだろうか。
「カイル?」
顔を覗き込んできたフィンの声で、ハッと我に返る。
「……また、変な顔してる」
「変な顔って何だよ」
カイルが自分の頬に手を当てると、フィンが思わず吹き出した。
「ふふ、そういうところだよ」
「何が?」
「分からないなら、いいよ」
フィンは笑いながら立ち上がった。
その拍子に、足元の濡れた石がズルッと動く。
「うわっ……!」
身体が大きく傾いた。
カイルが反射的に手を伸ばし、フィンの袖を強く掴む。
フィンは川へ落ちる直前でピタリと止まった。
「あ、危なかった……」
青ざめた顔で川を見下ろすフィン。
カイルも腕を離さないまま、フィンの足元を確かめた。
濡れた石の上に、うっすらと青い苔が生えている。
「ここ、すべるよ」
「先に言ってよ……」
「今気づいたんだよ」
カイルが素気なく言うと、フィンは一瞬だけ口をぽかんと開けた。
それから、降参したように笑った。
「……そういうところなんだよね」
「何が?」
「ううん、やっぱりなんでもない」
今度はすべらない安全な場所へ移動するフィン。カイルも後ろからついていく。
二人が再び歩き出すと、川の上を風の精霊がひとむれ、ふわりと通り抜けていった。
フィンがそれを見上げる。
「僕も……ああいうのと仲良くできたら、よかったんだけどな」
「風の精霊?」
「うん。……飛べたら、楽しそうじゃない?」
フィンは笑っていた。
けれど、その声の端には隠しきれない寂しさが混ざっている。
カイルは何か言おうとして、口を閉ざした。
『頑張れば仲良くなれるよ』と言うのは簡単だった。
でも、それが本当かどうかは分からない。
母親も父親も言っていた。精霊には相性がある。
だとしたら、努力だけでは届かない領域がこの世界には存在するのだ。
「……いつか、仲良くなれるといいな」
カイルが静かにそう言うと、フィンは少し驚いたように目を見開いた。
それから、恥ずかしそうに川の方へ向き直る。
「……うん。そうだね」
今度の返事は短かった。
けれど、それ以上の言葉を無理に重ねる必要はなかった。
そのまま二人は川沿いを歩いた。
母親に頼まれていた買い物のことを思い出したのは、町の中央まで戻ってきてからだった。




