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母の仕事


昼を少し過ぎた頃、エレナが診療所から戻ってきた。


玄関が開く音がして、階段を下りてきたカイルと鉢合わせになる。

エレナの髪には少し乱れがあり、その表情には隠しきれない疲労が滲んでいた。


「カイル、そこにいたのね」

「うん。父さんの仕事を見てた」

「そう」


エレナは肩に掛けていた使い込まれた革鞄を下ろし、深く息を吐いた。


「お父さん、ちゃんと仕事してた?」

「してたよ」

「珍しいわね」

「聞こえてるぞー」


工房の奥から、トントンと金属を叩く音と共にグレンの大声が飛んできた。

エレナはクスッと笑い、鞄から小さな包みを取り出した。


「お昼に食べようと思っていたんだけど、患者さんが多くてね。少し遅くなっちゃった」

「大変だった?」

「ええ。今日は怪我人が多くて……森で木を切っていた人が二人、それに荷車から落ちてしまった男の子が一人」


カイルは母親の鞄に目を向けた。

小さなガラス瓶や清潔な布、そして使い込まれた金属製の器具が幾つも覗いている。


「母さんも魔道具を使うの?」

「使うわよ。大切な道具だもの」


エレナは鞄の隙間から、細長い銀色の器具を取り出した。

ペンほどの太さで、先端には透明な小さな石が埋め込まれている。表面には細かな刻印が隙間なく彫り込まれていた。


「これは治療用の道具」

「何をするの?」

「傷の状態を見るのよ」


エレナは近くの椅子に腰を下ろすと、優しく手招きをした。


「ちょっと手を出してみて」

「怪我してないよ」

「知ってるわ。でも、説明するにはこれが一番分かりやすいから」


カイルが素直に手を差し出すと、エレナはその小さな手をそっと包み込んだ。

そして銀色の器具を持ち、先端の透明な石をカイルの手の甲へ静かに近づける。


ふわりと、石が淡い緑色の光を帯びた。


「治癒の精霊はね、怪我そのものを消しゴムみたいに消しているわけじゃないの」

「じゃあ……何をしてるの?」

「身体を観察して、どこが傷ついているかを探すの。それから、身体が自分で治ろうとする力を手伝ってあげるのよ」

「精霊が治してるんじゃないの?」

「そういう風に言う人もいるわね。でも、実際に傷を塞いでいるのはカイル自身の身体なの」


エレナは器具をそっと離した。緑色の光が静かに消える。


「だからね、すごく大きな怪我になると、精霊の力だけではどうにもならないことがあるのよ」

「血がいっぱい出たら?」

「まずは傷口を縛って止血するわ。骨が折れていたらまっすぐに固定する。お腹の中に傷があれば、もっと慎重に診ないと危険なの。精霊に頼むだけで助かるなら、お医者さんなんていらないでしょう?」


その語り口はとても淡々としていた。

けれどカイルには、母親が命を扱う自分の仕事をどれほど重く、誠実にとらえているかが痛いほど伝わってきた。


「じゃあ……すごく強い精霊がいたら、何でも治せるの?」

「いいえ」


エレナは迷いなく首を振った。


「精霊にも、できることとできないことがあるのよ」

「父さんも同じこと言ってた」

「ふふ、そうでしょうね」


エレナは手元の器具を大事そうに鞄へ戻した。


「火の精霊に『水を頂戴』って頼んでも困っちゃうでしょう?」

「うん」

「治癒の精霊も同じ。得意なことと、苦手なことがあるの」

「じゃあ……精霊にも種類があるんだ」

「ええ。火、水、風、土……それ以外にも、目に見えないくらい小さな精霊がたくさんいるわ」

「どれが一番強いの?」


カイルの無邪気な問いに、エレナは少し困ったように目を細めた。


「『強い』っていう言い方は、すごく難しいわね」

「どうして?」

「水の精霊と火の精霊を比べて、どっちが偉いか決めても意味がないでしょう? お料理で火が欲しいときに、水を出されたら困ってしまうもの」

「……たしかに」

「だから『どれが一番か』じゃなくて、『何が得意か』で考えるのが一番いいのよ」


エレナは立ち上がり、台所へと向かった。


「それにね……同じ種類の精霊でも、一匹ずつ性格や特徴が違うのよ」

「違うの?」

「もちろん。人間だって、一人ひとり得意なことが違うでしょう?」


母親は棚から白磁の水差しを取り出した。

昨日も見た、ごく普通の水差しだ。


中に水の精霊が宿っており、放っておいても少しずつ水が湧き出して補充される。


「これ、毎日井戸から汲んでこなくていいんだよね」

「そう。だからすごく助かっているの」


エレナが蓋を開けると、中には半分ほどの水が溜まっていた。


「でもね、どんな水差しでも同じように水が湧くわけじゃないのよ」

「なんで?」

「使う人と、精霊との『相性』があるから」


カイルは水差しを見つめた。

その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥で小さな歯車がカチリと音を立てた。


相性。


――波長の同期率。

――適合係数。


まただ。知らないはずの言葉が、脳裏を掠めていく。

火、水、風、土。人と精霊の間には適合性(相性)が存在する。

それはこの世界で生きる人間にとって、ごく当たり前の知識だ。

……少なくとも、自分にとっては「当然知っていること」として頭の中に存在していた。


「カイル?」

「……え?」

「ぼんやりして、どうしたの? 体調でも悪い?」

「ううん、大丈夫」


カイルは慌てて水差しから目を逸らした。


「……人によって、使いやすい精霊が違うんだよね」

「そうよ。火が得意な人もいれば、風と仲良くなりやすい人もいるわ」

「それって、どうやって調べるの?」

「大きくなったら、教会や学校で測定してもらえるわ。簡単なものなら、家でも分かるけれどね」

「僕も調べられる?」

「もちろん」


エレナは水差しを机に置いた。


「もう少し大きくなったらね。まだ身体が小さいと、精霊との繋がりが安定しないの」

「ふうん……」


カイルは自分の両手を見つめた。

幼く、小さく、指も短い。

この身体が五歳の子供のものであるという現実には、もうすっかり慣れたつもりだった。


けれど――自分自身が一体どんな精霊と「適合」するのか。

それだけは、自分の中の謎の記憶を辿っても答えが出てこなかった。


「母さん」

「なあに?」

「僕って……どの精霊が得意そう?」


エレナは少しだけ首をかしげ、カイルの顔をじっと見つめた。


「うーん……まだ分からないわね」

「母さんでも分からないの?」

「お母さんだって万能じゃないもの」


その答えを聞いて、カイルはほっと胸を撫で下ろした。

母親なら自分のすべてを見抜いているような気がしていたが、分からないこともあるのだと知って、少しだけ気が楽になった。


エレナは優しく笑うと、カイルの髪をくしゃくしゃと撫でた。


「焦らなくていいのよ。大きくなってから、ゆっくり知っていけばいいんだから」

「うん」


工房の方から、キンと高く澄んだ金属音が響いた。

グレンが本格的に作業を再開したらしい。


カイルはその規則的な音を聞きながら、ふと窓の外に目を向けた。


通りを行き交う人々。

木材を積んだ荷車。

店先で淡く光る魔灯。

水桶を抱えて歩く主婦。


その営みのすべての隙間に、目に見える光や、目に見えない精霊たちが寄り添っている。

誰もそれを奇妙だとは思わない。


精霊が存在すること。

魔法を使うこと。

道具に力を借りて暮らすこと。


この町では、それが息をするのと同じくらい当たり前の日常だった。

カイルだって、その光景を素直に受け入れつつある。


ただ――ときどき、無性に分からなくなるのだ。


自分はなぜ、最初からこの世界の仕組みを「知っていた」のだろうか。

そして、なぜその仕組みの裏側にある「冷たい記号や概念」まで理解できてしまうのだろうか。


「カイル?」

「ん?」

「お腹空いたでしょう。お昼ご飯にしましょうか」

「……うん、食べる」


思考の糸はそこでプツリと切れた。

カイルは小さく首を振り、温かい匂いが漂う台所へと母親の後を追った。

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