精霊
朝食が終わると、グレンは食器を片づけるよりも先に一本の煙草をくわえた。
エレナがそれを見て、あきれたように息を吐く。
「また、食後にすぐ吸うの?」
「仕事前の一本だ」
「昨日も仕事前に吸ってたじゃない」
「昨日のは、昨日の一本だ」
グレンは悪びれもせずに火をつけた。紫煙がふわリと天井へ上っていく。
カイルは二人のやり取りを黙って眺めていた。この家で過ごすうちに、父親がこういう人間なのだと分かってきた。仕事には真面目だが、それ以外の日常的なことになると途端に適当で大雑把になるのだ。
グレンは煙を深く吐き出すと、そのまま立ち上がった。
「カイル。工房に来るか」
「いいの?」
「見るだけならな。……ただし、工具には勝手に触るなよ」
「分かった」
「返事だけは素直だな」
グレンはニッと笑い、階段を下りて一階へ向かった。
一階の工房は、二階の住居とはまったく違う匂いが満ちていた。
削られた木材と機械油、それに金属を研いだときの香ばしく乾いた匂いが混ざり合っている。壁には大小さまざまな工具が整然と並び、中央の作業台の上には分解された魔道具のパーツが幾つも転がっていた。
カイルは邪魔にならないよう、作業台から一歩引いた場所に立った。
作業台の真ん中に置かれているのは、手のひらほどの金属製の箱だ。
その側面からは、細い金属管が一本だけ不自然に伸びている。
グレンは煙草を灰皿に置くと、腕まくりをした。
「今日はこれを直す」
「なにそれ?」
「水を出す道具だ」
グレンが工具を使って箱の蓋を開けた。
内部には複雑に交差する細い金属線と、規則的に配置された小さな石が幾つも組み込まれている。そして中央には、ひときわ澄んだ透明な魔石がひとつ置かれ、その周囲を細かな溝が幾重にも取り囲んでいた。
目にした瞬間、カイルの頭の中に答えが浮かんだ。
――水の精霊を呼び込み、制御するための回路。
思考よりも早く知識が提示される。なぜそう思ったのかは、やはり分からない。
グレンが箱の中を指差し、横から顔を覗き込んできた。
「これが何か分かるか?」
「水を出すやつ」
「まあ、そこまでは見れば分かるか」
グレンは可笑しそうに笑った。
「じゃあ、どうやって水を出してると思う?」
「……精霊?」
「そうだ」
グレンは細い金属線の一本をピンセットで示した。
「こいつが、精霊を呼ぶための『道』になる。水の精霊が来ると、この石を通って水が出る仕組みだ」
「石から直接、水が出てるの?」
「石そのものから湧いてるわけじゃない。精霊が水を作って、ここから押し出してるんだ」
グレンは箱の横についた小さな弁を指先で開いた。
刻印に触れた瞬間、作業台の上の箱の中で、淡い青色の光がふわりと揺らめいた。
光は一瞬だけ小さな人影のようにも見えたが、すぐに溶けるように箱の内部へと吸い込まれていく。
次の瞬間、管の先からサーッと澄んだ水が流れ出した。
カイルは目を丸くして、その様子を見つめた。
「……これが、精霊?」
「今のが水の精霊だな。まあ、かなり小さいやつだ」
「しゃべったりするの?」
「こいつはしゃべらない」
「じゃあ……何か考えてるのかな」
グレンは少し顎をさすり、言葉を選んだ。
「たぶん、そんなに難しいことは考えてないと思うぞ」
「たぶん?」
「俺だって精霊の頭の中を覗いたわけじゃないからな」
グレンは肩をすくめて苦笑した。
「人間みたいに何でも考えてると思わない方がいい。呼ばれたら来る。水を出せと言われたら出す。危ない場所なら逃げる。そういう本能みたいなものはある。けど『自分が何者か』とか『明日どうするか』なんてことは考えてないはずだ」
「……動物みたいな感じ?」
「それに近いかもな。ただ、こっちの言葉や命令は分かる」
「全部?」
「全部じゃない。決まった『命令の形』になってるものが伝わりやすいんだ」
グレンが金属線を一本、ピンセットで外した。
途端に青い光が弱まり、流れていた水がピタリと止まる。
「ほらな」
「止まった」
「道が切れたからな」
グレンは外した線を見せた。
「精霊に働いてもらうには、精霊まで正しく道を作ってやらなきゃいけない。魔法も、基本的にはこれと同じだ」
「魔法も……精霊がやってるの?」
「そういうものが多いな」
「全部じゃないの?」
「全部じゃない」
グレンは線を元の位置に戻した。
再び青い光が灯り、静かな水音が戻ってくる。
「火を出すなら火の精霊。水なら水、風なら風、土なら土だ。身体の傷を治す魔法なら、組織の状態を見て修復するのが得意な精霊を使う」
「光は?」
「光の精霊もいる」
カイルは腕を組み、小さく首をかしげた。
「じゃあ……精霊がいないと、魔法は使えないの?」
「普通の人間が使う魔法なら、ほぼそうだな」
その言葉に、カイルの胸の奥で小さな引っかかりが生じた。
『ほぼ』。
なぜその例外が存在するのか。その一言だけが、妙に引っかかって離れない。
「……ほぼって?」
「昔の話まで含めると、俺にはよく分からん」
グレンはあっさりと言い切った。
「古代魔法なんてのは、専門の学者でも分からんことだらけだ。俺は魔道具を直す職人だからな。学者じゃない」
それから、グレンは箱の中を指で叩いた。
「けど、こっちなら分かる。壊れたところを見つけて、直して、ちゃんと動くようにする。それで飯を食う。……シンプルだろ?」
「精霊って、どこから来るの?」
「近くにいるやつが来たり、遠くから呼ばれて来たりだな」
「どこから?」
「精霊のいる場所からだ」
カイルは黙り込んだ。
分かった気もするが、核心には届かない。
精霊はどこにでもいる。
町にも、森にも、川にも、家の中にも、小さな水差しの中にすらいる。
それなのに、見えるときと見えないときがあるのはなぜなのだろう。
グレンは難しい顔をするカイルの頭を、ポンと叩いた。
「そんな難しい顔をするな。五歳が全部分かるような話じゃない」
「でも……知りたい」
「そういうしつこいところは、お前らしいな」
グレンは灰皿から煙草を取り直し、再び紫煙をくわえた。
「精霊ってのはな、便利な存在だ。人間の代わりに火を起こし、水を作り、傷を治してくれる。だから昔から人間は、精霊と一緒に暮らしてきたんだ」
「昔から……」
「ああ。俺たちが生まれる、ずっとずっと前からだ」
――ずっとずっと前から。
その言葉を聞いた瞬間、カイルの脳裏に激しいフラッシュバックが走った。
白い壁。
無機質な高い天井。
誰かの囁く声。
耳慣れない、機械的な言葉の羅列――。
(『プロトコル・アクセス』……?)
脈絡のない単語が頭をよぎり、次の瞬間には霧のように消え去った。
カイルは思わず息を呑み、何度も目を瞬かせた。
「……カイル? どうした?」
グレンが手をとめ、顔を覗き込んでくる。
「……なんでもない」
「気分でも悪いか?」
「ううん、大丈夫」
グレンは少しだけ心配そうにカイルの顔を見つめたが、無理に理由を問い詰めることはしなかった。
再び作業台に向き直り、小さなドライバーを手にとる。
「まあ、今はこれだけ覚えておけばいい。精霊は人間の手助けをしてくれる。魔法は精霊の力を借りるもの。で、魔道具はそのための橋渡しをする道具だ」
「うん……分かった」
「本当に分かったか?」
「……たぶん」
「はは、俺より素直で結構」
グレンが快活に笑う。
その時、修理を終えた金属箱の中で、青い光がひと際強く揺らめいた。
細い管から、清らかな水が静かに流れ出していく。
カイルはその美しい光を見つめながら、胸の奥で静かに呟いた。
精霊は、ずっと昔から人間のそばにいた。
その「事実」だけは、なぜか忘れてはいけないことのように、カイルの心に深く刻まれていた。




