友達
カイルがリュネルの町を歩くようになって、何日かが過ぎた。
記憶は相変わらず戻らない。
名前を聞かれれば自分の名も、両親の名も答えられる。家への帰り道や、どこにどんな店があるのかも少しずつ覚えてきた。
ただ、「以前の自分」について尋ねられると、どうしても言葉が詰まる。
何をしていたのか。どんなものが好きだったのか。誰と遊んでいたのか。
そうした過去に繋がる問いには、頭の中にただ白いモヤが広がるだけだった。
それでも、狭い部屋でじっとしているのは退屈だ。
母エレナから外出の許可をもらってからは、昼過ぎになると自然と足が外へ向くようになっていた。
リュネルは、中央を流れる大きな川を中心に栄えた町だ。
川沿いには積荷を載せた荷車が列をなし、少し離れた通りには木材を扱う店や鍛冶場が立ち並ぶ。通りを歩けば、当たり前のように精霊を宿した魔道具が目に入った。
カイルはそれらを眺めて歩くのが好きだった。
見慣れぬものばかりのはずなのに、なぜか見ていると妙に心が落ち着くのだ。
「あ……カイル!」
町の中央へ向かって歩いていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、見覚えのある少年が立ち止まり、膝に手を当てて肩を揺らしていた。
フィン・ハートウェル。
近所に住む少年で、数日前、道の向こうから手を振られたことで知り合った。その時は名前が出てこず、後で母に教えてもらったのだ。
フィンはカイルより少し小柄で、腕も脚も線が細い。同年代の子供に比べてどこか華奢で、少し走っただけで息を切らしてしまう。
「お前……走ってきたのか?」
「走っては……ないよ。ちょっと、急ぎ足だっただけ……かな」
フィンは荒い息を整えながら、申し訳なさそうに眉を下げた。
「最近ね、少し歩くようにしてるんだ。お母さんに『ずっと部屋にこもってちゃダメ』って怒られちゃってさ」
「じゃあ、走ればいいじゃん」
「それができたら……苦労してないと思う、かな」
情けなさそうに苦笑いするフィンの顔を見て、カイルも思わず笑ってしまった。
二人は肩を並べて歩き始める。
「今日はどこ行くの?」
「別に決めてない。父さんの工房にいても邪魔になるから、町を見てたんだ」
「そっか。じゃあ……川の方に行ってみない?」
「何かあるの?」
「うん、魚がいるんだよ」
「魚なら市場で見られるだろ」
「泳いでる生きた魚だよ? 干物を見ても、あんまり面白くないじゃない」
「それ、面白いの?」
「面白いに決まってるよ。……カイルは、泳いでる魚見たことない?」
「……ないかも」
「でしょ? 行こうよ」
フィンが嬉しそうに先を歩く。カイルもその後を追った。
川沿いに出ると、昼の眩しい光が水面でキラキラと跳ねていた。
川幅はそれほど広くないが、流れは見た目以上に速い。水面近くでは、親指ほどもない小さな精霊たちが、青い尾を引いてゆらゆらと踊り、時折水の中へ飛び込んでは跳ね上がっていた。
カイルは足を止め、その様子をじっと見つめた。
「……何してるんだろ」
「魚を探してるんじゃ……ないかな」
「精霊が? 魚を食べるのか?」
「どうだろ。なんにでも宿るのが好きらしいから……気になってるだけかもね」
フィンは川岸まで降りると、膝を折って静かに水面を覗き込んだ。
「ほら……あそこ」
指差す先、透き通った水底を小さな魚の群れがすばしっこく泳ぎ去っていく。
カイルもしゃがみ込み、水面を見つめた。
「本当だ」
「この場所、昼になるとよく集まるんだよ」
「フィン、よく来るの?」
「うん。家にいても、暇だからね」
「俺と同じじゃん」
「でも、カイルの家には大きな工房があるじゃない。ちょっとうらやましいな」
「父さんに『触るな』って言われるから見るだけだけどね。変な道具がたくさんあって、見てるのは楽しい」
フィンは膝を抱え、少しの間を置いてから尋ねた。
「カイルって……魔法、使ったことある?」
「魔法?」
「うん」
「たぶん、ない」
「たぶん?」
「母さんに聞いたら、まだ小さいから無理だって言われた」
「そっか……」
「フィンはあるのか?」
「僕は……何回か、試してみたことはあるよ」
「へえ、何ができるの?」
「水を少し揺らしたり……ちいさな火をつけたりするくらい」
「すごいじゃん」
「全然だよ。すぐに頭が痛くなって、疲れちゃうんだ」
フィンは困ったように息を吐いた。
「精霊もね……あんまり僕の近くには来てくれないみたいだし」
「来ないの?」
「うん。……カイルは?」
「俺?」
「まだ試してないのかな」
「……分からない」
カイルは流れる水から目を逸らさずに答えた。
「たぶん、使ったことはないと思う」
「じゃあ……一緒だね」
「何が?」
「僕も、あんまり精霊に好かれてないみたいだからさ」
フィンは冗談めかして言ったが、その声の端に小さな寂しさが混ざっているのをカイルは聞き逃さなかった。
どう言葉を返せばいいのか分からず、カイルは拾った小石を川へ投げ入れた。ポチャンと小さな音を立てて水面が波紋を描く。
「精霊が来たら、何か楽になるのか?」
「うん。体も楽になるし……できることも増えると思う」
「じゃあ、来た方がいいな」
「うん……僕もそう思う」
フィンが横顔で微笑む。その素直でどこか遠慮がちな様子が、カイルには少し眩しかった。
自分は「精霊」と聞くと、どうにも胸の奥がざわつくのだ。
便利で役立つ存在だとは理解できる。家でも町でも、精霊のおかげで暮らしが成り立っている。
なのに、どこかで割り切れない違和感が残る。
迷いなく「もっと使いたい」と言えるフィンが、少し羨ましかった。
「カイルは……使いたくないの?」
「……使えたら、便利だとは思う」
「じゃあ、使いたいんじゃないの?」
「そういうことになるのかな」
カイルは眉をひそめ、言葉を探した。
「でも、まだよく分からないんだ。精霊って、本当はどこまでできるのかなって」
「どこまで?」
「水を出したり火をつけたりするだけじゃなくて……もっと、別のこともできるんじゃないかって」
「うーん……僕たちが知らないだけで、すごいことができるのかもしれないね」
フィンの言葉に、カイルは深く頷いた。
その答えだけは、妙に胸にしっくりと落ちた。
分からないなら、見てみればいい。これから知っていけばいいのだ。
二人が川沿いを下っていくと、少し先の草むらに何かを見つけた。
「あ……カイル、あれ」
「ん?」
川岸の湿った土の上に、小さな箱が転がっていた。
木製で、すっかり古びて角が丸くなっている。
「誰かの落とし物……かな」
「開けてみようぜ」
「えっ、勝手に開けたら怒られない……?」
「持ち主がいないなら、中身を見てから探せばいいだろ」
「絶対後から怒られるやつだって、それ……」
「じゃあ俺が開ける」
「なんで僕に聞いたのさ……」
困り顔のフィンをよそに、カイルは箱を拾い上げた。
木肌は湿気を含んで重く、蓋は固く噛み合って動かない。
「……硬いな。壊れてるのか?」
「貸して。二人で引っ張ってみようよ」
二人で指を掛け、せーので力を込める。
パキッと小さな音を立てて、ようやく蓋が外れた。
だが、中は空っぽだった。
「なんだ、ただの空箱じゃん」
「だから言ったのに……」
「フィンは『開けるな』って言ったんだろ。『空箱だ』とは言ってない」
「言おうとしたの!」
「言ってないね」
言い合いながら笑っていると、川面から不意に強い風が吹き抜けた。
箱の底に張り付いていた古ぼけた紙切れが、ふわりと持ち上がる。
そこに書かれていたのは、見たこともない奇妙な記号の羅列だった。
文字の形すら知らない。教わった記憶も当然ない。
――なのに。
目にした瞬間、意味だけが頭の中に直接流れ込んできた。
『初期化シーケンス/外部接続の制限……』
息が止まった。
意味は理解できる。間違いなく内容が頭に響く。
だが、「なぜ理解できるのか」が一切解明できない。
手足の先からスーッと血の気が引いていくような、気味の悪い冷たさが走った。
「……カイル?」
顔を覗き込んできたフィンの声が、やけに遠く聞こえる。
「どうしたの……? 顔色、すごく悪いよ」
「……これ」
「え?」
「この文字……読める」
「えぇ……? 僕には全然読めないよ。ただの傷か、模様に見えるけど……」
カイルは答えることができなかった。
紙の上の記号を目で追うたび、頭の奥で硬いカチリという音が鳴るような感覚がある。
水差しを見たときと同じだ。
見たこともないはずなのに、自分の中の「誰か」が最初から答えを知っている。
カイルは逃げるように紙を箱へ押し戻した。
「……やっぱり俺、どこかおかしいのかな」
呟いたカイルに、フィンは少しだけ首をかしげ、それから優しく笑った。
「変でも……カイルは、カイルでしょ」
カイルはハッとしてフィンを見た。
照れくさくなったのか、フィンはそっぽを向いて歩き出す。
「ほら、帰ろう? 遅くなると怒られるよ」
「フィン家で?」
「僕も怒られるし、カイルも怒られると思うな」
「なんで俺まで怒られるんだよ」
「一緒に出てきたんだから……道連れだよ」
「それ理由になってないぞ!」
フィンを追いかけながら、カイルは小さく吹き出した。
夕暮れの光が石畳を橙色に染めていく。
空には精霊たちが淡い光を放ちながら飛び交い、町はいつも通りの穏やかな夜を迎えようとしていた。
何も変わらない日常。
けれどカイルの胸の中には、ひとつだけ確かな温もりが残っていた。
友達ができた。
それだけのことが、壊れかけた自分の世界を少しだけ繋ぎ止めてくれた気がした。




