知らない家
父親だと言われた男は、カイルがしばらく黙っているのをじっと見つめていた。
グレン・アーデン。
名前を聞いても、やはり記憶は戻らなかった。
ただ、その顔を見ていると妙な安心感があった。理由は分からない。
大きな身体に作業着を引っ掛け、短く刈った髪と無精髭。頬には細かな傷があり、無骨な右手の指には火傷の跡が幾つも残っている。
朝だというのに、かすかに酒の匂いがした。
(朝から……?)
カイルは心の中で呟き、そんな疑問を抱いた自分に少し驚いた。
「……父さん?」
試しに声に出してみる。
「おう」
グレンはそれだけ答えた。
「父さん」
「二回呼ばなくても聞こえてる」
「……本当に父さん?」
「疑うなよ」
グレンは困ったように頭をごしごしと掻いた。
「まあ、そのうち良くなるんだろ」
そこへ、先ほどの女性が戻ってきた。
背が高い。カイルの目には、父親と同じくらい大きく見えた。
肩幅も広く、白い服の上からでも身体つきがしっかりしているのが分かる。長い髪を後ろでまとめており、その顔立ちは穏やかだった。
「グレン」
「ん?」
「その子、まだ混乱してるでしょう」
「してるな」
「なら、余計なことを言わないで」
「俺、何か言ったか?」
「今のやり取り全部よ」
グレンが苦笑いして口を閉じた。
女性はカイルの前まで来ると、ベッドの脇にそっと腰を下ろした。
「ごめんなさいね。びっくりしたでしょう」
カイルは少し考えてから頷いた。
「うん」
「気分は悪くない?」
「大丈夫」
「頭は?」
「痛くない」
「手足は動かせる?」
言われて、カイルは両手を動かした。指を開いて、閉じる。足先も動かしてみる。
「動く」
「見える?」
「うん」
「声は聞こえてるのね?」
「聞こえる」
女性は小さく安堵の息を吐いた。
「よかった」
それから、カイルの髪を優しく撫でた。
大きな手だった。父親よりも柔らかい。けれど、手のひらには仕事でできた硬いタコがある。
「私はエレナ。あなたのお母さんよ」
「……母さん」
「そう」
エレナが微笑んだ。
その笑い方を見た瞬間、カイルの胸の奥で何かがじんわりと温かくなった。
暖かい。そう思った。
けれど、記憶の引き出しが開くわけではなかった。顔を見た記憶も、声を聞いた記憶もない。
それなのに、この人が母親なのだということだけは、なぜかすんなりと受け入れられた。
「お腹は?」
「……少し空いた」
「それなら食べられそうね」
「何がある?」
グレンが横から口を挟む。
「あなたはさっき食べたでしょう」
「食ったっけ?」
「食べたわよ」
「そうか」
カイルは二人交互に見つめた。夫婦なのだろう。
自分の家なのに、初めて来る場所のような妙な心地だった。
*
食事は一階の奥にある小さな部屋で取った。
家は二階建てだった。
一階には広い工房があり、その奥に台所と食堂がある。二階は寝室になっているらしい。
工房には金属と煤の匂いが充満していた。
壁には無数の工具が並び、作業台の上には金属片や小さな魔石、細い導線のようなものが乱然と置かれている。
見たこともない道具ばかりだったが、不思議と「何に使うものか」がある程度頭に浮かんできた。
もちろん、分からないものも多い。むしろその方が圧倒的に多い。
それなのに、見た瞬間に勝手に用途が分かってしまうものがあるのだ。
例えば、棚の端に置かれた小さな金属筒。
カイルはそれを見た瞬間、――火精霊への接続を安定させるための部品だ、と直感した。
しかし、なぜ自分がそんな知識を持っているのかはさっぱり分からない。
「なんでも触るなよ」
グレンが声をかけた。
「それは熱い」
カイルは慌てて手を引っ込めた。
「火が入ってる?」
「今は入ってないが、曲がると面倒だ」
「何に使うの?」
「魔灯」
「魔灯……」
カイルは金属筒を見つめた。
聞いたことのない言葉だったが、明かりに関する道具なのだろう。
中途半端に理解できてしまう自分の脳が気味悪かった。
「変なの」
思わず呟く。
「何が?」
エレナが尋ねる。
「分からない」
「そう」
エレナはそれ以上追及しなかった。それが今はありがたかった。
運ばれてきた食事は、パンと煮込んだ野菜、それから肉。
そして、昨日も見かけた白磁の水差しだった。
カイルは水差しをじっと見つめた。
ごく普通の陶器に見える。けれど、この中には水の精霊が潜んでいる。
ただ水を蓄えるだけの容器ではないのだ。
エレナが水差しを持ち上げ、三人の杯に水を注いでいく。
最後の一杯を注ぎ終えると、水差しの中身はほとんど空になった。エレナはそれを机の端に戻す。
カイルは目を離さなかった。
しばらくすると、水差しの底から小さな泡がぽつりと浮かんだ。
ほんの少しずつ、水が増えていく。
「……」
カイルは黙ってそれを見つめた。
水の精霊が水を作り出している。この世界では、それが当然の現象なのだ。
「母さん」
「なに?」
「水って、こういうもの?」
「どういうもの?」
「なくなっても、また勝手に出てくるの?」
「この水差しならね」
「普通?」
「普通よ」
「全部の水差しがそうなの?」
「全部じゃないわ」
エレナは水差しを指差した。
「水の精霊が宿っているものだけよ」
「……そう」
カイルは水差しから目をそらした。
「やっぱり変だ」
「あなた、さっきからそればっかりね」
グレンが可笑しそうに笑う。
「変じゃないの?」
「俺に聞くな。俺は水差しを作ったことはあるが、水の精霊そのものじゃない」
「父さんは精霊じゃないの?」
「見えないか?」
グレンが両手を大きく広げて見せた。
「どう見てもただの人間だろ」
カイルは父親を上から下まで眺めた。
「……大きい人間」
「そこかよ」
エレナが吹き出した。グレンは少し眉をひそめたが、怒る様子はない。
「お前もそのうち大きくなる」
「どれくらい?」
「俺くらい」
「嫌だ」
「なんでだ」
「天井に頭ぶつけそうだから」
「……まあ、それは確かにそうだな」
グレンは真面目な顔で腕を組んだ。
「じゃあ、母さんくらいにしとけ」
「私だって大きいわよ」
「知ってる」
「何が?」
「いや」
グレンは誤魔化すようにパンを口に押し込んだ。エレナが呆れたように息を吐く。
カイルはそんな二人のやり取りを静かに眺めていた。
*
食事が終わると、エレナはカイルを外へ連れ出した。
家の前には細い石畳の道があり、その先には賑やかな町が広がっていた。
朝の町は思っていた以上に活気に溢れている。
荷車が走り、馬が歩いている。
だが、それだけではなかった。
荷車の後方には小さな風の精霊が揺らめいて車輪を押し、火の精霊を宿した街灯は、朝になっても淡い光を灯し続けている。
屋根の上に止まった鳥の横を、青白い光の塊がふわふわと漂っていた。
誰もそれを気に留めない。
精霊がいること。それが、この町では空気のように当たり前なのだ。
「ここがあなたの町よ」
エレナが優しく言った。
「リュネル」
「リュネル……」
「そう」
町の中央には、ひときわ高い塔がそびえ立っていた。
白い石で組み上げられた美しい塔だ。その最上部では、深みのある青い光が脈動するようにゆっくりと流れている。
カイルは足を止めた。
見た記憶はない。なのに、視線が釘付けになる。
「あれは……?」
「精霊塔よ」
「何をしてるの?」
「町に精霊の力を送っているの」
「どうやって……?」
エレナは少し困ったように眉を下げた。
「難しい仕組みは、私にも分からないの」
その答えを聞いて、カイルは妙に納得した。
分からない。大人も、母さんも分からない。
それが普通なのだ。なら、自分の頭にある違和感や混乱も、あまり気にしなくていいのかもしれない。
そう思いかけた――その時だった。
精霊塔の青い光が、ほんの一瞬だけ激しく明滅した。
光がすっと弱まり、何事もなかったかのように元に戻る。
行き交う町の人々は誰一人として気づかない。
けれど、カイルだけは塔を見上げたまま動けなくなっていた。
胸の奥を、冷たい異物感が突き抜ける。
懐かしい。そう思った。
同時に、ひどく不快で嫌な予感が全身を駆け巡る。
何が嫌なのかは分からない。
ただ、あの塔の明滅を見た瞬間、頭の奥底から見知らぬ概念が溢れ出してきた。
――『接続』。
――『認証』。
――『同期』。
カイルは強く眉を寄せた。
「どうしたの?」
エレナが顔を覗き込んでくる。
「……分からない」
「また?」
「うん」
カイルは塔を見つめたまま呟いた。
「でも、あれ……いつもあんな風に光が揺れるの?」
エレナも塔に視線を向けた。
「そうね、特におかしなところはないみたいだけど」
「そう……?」
「ええ」
「……そっか」
カイルはそれ以上口を開かなかった。
精霊塔は何事もなかったかのように、美しい青い光を町に注ぎ続けている。
荷車が通り過ぎる。子供たちの歓声が聞こえる。パン屋から焼きたての甘い匂いが漂ってくる。
いつもの、穏やかな朝の光景。
しかし、カイルにとってはすべてが初めて見る世界だった。
それなのに――どこかで、この景色も、このシステムの仕組みも知っているような気がしてならない。
それが奪われた記憶なのか、それともまったく別の『何か』なのか。
五歳のカイルには、まだ知る由もなかった。




