目覚め
目を覚ましたとき、自分の名前が分からなかった。
何をするべきかも分からず、ただ天井を見つめていた。
白く塗られた板が整然と並んでいる。ところどころに細い線が走っていたが、木材の継ぎ目とはどこか違っていた。表面はなめらかで、差し込む朝の光をぼんやりと反射している。
部屋にある窓はひとつ。
薄い布のカーテンが揺れ、その向こうからやわらかな光が差し込んでいた。風が抜けるたびに布がふわりと舞い、窓枠の隙間から小さな鳥のさえずりが届く。
少年は起き上がろうとした。
――体が、重い。
力が入らず、両手を床についてゆっくりと上半身を起こす。
自分の手を見つめた。小さい。指も腕も細く、手首など少し強く捻れば簡単に折れてしまいそうだった。
「……俺?」
声を出してみる。
甲高い、幼い声。自分が思い描いていた声とは、まるで違っていた。
少年は困惑したように眉をひそめ、自身の喉元にそっと触れた。
寝ぼけているわけではない。じわじわと焦りが胸を焼く。
何歳なのかも分からない。
ここがどこなのかも分からない。
そして、自分が何者なのかすら――分からない。
恐怖があった。
だがそれ以上に、奇妙な違和感が頭を離さなかった。
部屋にあるものの名前や用途が、なぜか自然と理解できるのだ。
ベッド、窓、棚、衣服、机。
そして、壁際に置かれた水差し。
少年は水差しに視線を向けた。
丸い胴体に細い首、横には持ちやすい取っ手。白磁の表面に青いラインが描かれている。
水を入れるための道具――ここまではいい。
だが次の瞬間、まったく別の「知識」が頭に浮かんだ。
――水の精霊が宿っている。
――放っておけば、中の水が少しずつ湧き出して補充される。
「……?」
首を傾げる。
何かがおかしい。
水差しは水を入れる容器だ。それは理解できる。だが「水が勝手に湧く」とはどういうことだ? そんな現象が、当たり前のように存在していいのか?
井戸から桶で汲んでくるものじゃないのか?
……いや、待て。自分は「井戸」というものを知っている。
その一方で、「精霊に頼めば水が出る」という仕組みも知っている。
どちらの感覚が「正解」なのか、判断がつかない。
「……なんなんだ、これ」
頭を押さえた。痛みはない。
ただ、自分のものではない「誰かの記憶」が無理やり詰め込まれているような、奇妙な圧迫感があった。
そっと目を閉じる。
脳裏に暗い部屋の光景が浮かんだ。
真っ白な壁。大きなガラス窓。見知らぬ大人たち。誰かが何かを囁いている。
『接続を――』
聞こえたのは、そこまでだった。
声の主も、何に「接続」しようとしていたのかも分からない。
目を開けても、素朴な部屋の風景は変わらなかった。
少年はしばらくじっと沈黙したあと、ベッドから足を下ろした。
床に足裏が触れた瞬間、ひんやりとした冷たさが伝わる。
「冷た……」
床は石でも、荒い木板でもない。滑らかで薄い灰色の素材。
少年は壁に手を預け、ふらつく足取りで部屋の中を見回した。
棚の上に、小さな丸い石のような置物がある。
そのすぐ上に、淡い青色の光がぽっかりと浮かんでいた。
足が止まる。
「……精霊?」
自然と口をついて出た言葉。
光が微かに揺れた。まるで少年視線に気づいたかのように。
顔や体があるわけではない。ただの丸い光の塊が、空気中をゆらゆらと漂っている。
恐怖から、少年は思わず一歩後退した。
すると、光も同じ分だけすっと下がる。
「……ついてくるのか?」
もう一歩。
光も同じ距離を保ってついてくる。
少年は眉を寄せた。知っている。これは「精霊」だ。
人間に寄り添い、魔法を使うときに力を貸してくれる存在。
水なら水の精霊、火なら火の精霊。
なぜそんな知識があるのかは分からない。
少年は再び水差しに目を向けた。
「じゃあ……あの中にもいるのか?」
水差しは当然、何も答えない。
近づいて取っ手を握ると、ズッシリとした重みがあった。
持ち上げて覗き込む。揺れる水面。
「……ただの水だ」
つぶやいてから、また首をかしげる。
「ただの水」とは何だ? 水に普通も特殊もないはずなのに、なぜかそんな言葉が出てきた。
そのとき――廊下から足音が近づいてきた。
軽い子供の足音ではない。大人の足音だ。
少年は咄嗟に水差しを棚に戻した。
パタリと扉が開く。
「あ、起きたの?」
顔を出したのは、一人の女性だった。
茶色の髪を後ろでまとめ、白い服の上に薄手のカーディガンを羽織っている。片手には拭き掃除用の布を持っていた。
少年と目が合うと、彼女は柔らかく目を細めた。
「体の具合はどう?」
少年は言葉を詰まらせた。
目の前の女性が誰なのか分からない。けれど、不思議と警戒心は湧いてこなかった。
女性は少年の固まった表情を見て、少し困ったように笑う。
「ふふ、まだ頭がぼーっとしてる?」
小さく頷く少年。
「……ここ、どこ?」
「あなたの家よ」
女性は優しく答えると、少年の様子をじっと伺うように見つめた。
「自分の名前……言える?」
少年は黙り込んだ。
言おうとすると、喉の奥で何かが引っかかる。
名前。あったはずだ。もっと前から、ずっと長く呼ばれ続けていた自分の名前。
なのに、手を伸ばしても絶対に届かないほど遠くにある。
「……分からない」
女性の表情が揺れた。驚きと動揺。
けれど彼女はすぐに少年の元へ歩み寄ると、その場に膝をついた。
「そう……」
静かに答えると、少年の頭にそっと手を添えた。手のひらが温かい。
「じゃあ、ゆっくり思い出していけばいいわ」
少年は女性の顔を見上げた。
知らない人のはずなのに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「起きたか?」
廊下の奥から、太い男の声が響いた。
女性が振り返る。
「ええ、起きたわ。でも……名前を忘れてしまっているみたい」
「名前を?」
足音が近づき、部屋に入ってきた男は少年よりはるかに大きかった。
ボサボサの髪に、顎に生えた薄い無精ひげ。作業着には油や煤の汚れがついていた。
男は少年をじっと見つめ、一拍置いてから呟いた。
「……まあ、生きてるなら万々歳か」
「ちょっと、あなたねえ……」
「だってそうだろ、こうして起きたんだ」
呆れる女性をよそに、男は少年の前にしゃがみ込んだ。
「俺が誰だか分かるか?」
少年は男の顔を見つめる。
記憶にはない。それなのに、胸の奥で小さな結び目がキュッと締め付けられるような感覚があった。
――この人を知っている。
根拠はない。けれど、直感がそう告げていた。
少年が小さく首を横に振ると、男は少しだけ困ったように眉を下げた。
「そうか」
そして大きな手で、少年の頭をごしごしと撫で回した。
「じゃあ、俺から名乗るか」
男はニッと笑った。
「俺はグレン。お前の父親だ」
『父親』。
その言葉の持つ意味だけは、驚くほどはっきりと理解できた。
少年はグレンの顔を見上げた。
そしてもう一度、自分の本当の名前を探そうと記憶の暗闇に意識を向けた。
やはり、名前は出てこない。
ただ……遠い遠い記憶の残響の中で、誰かが自分を呼ぶ声だけが、かすかに響いていた。




