日常へ
塔から戻って数日が過ぎた。
カイルたちの生活は、何事もなかったかのように続いていた。
朝になれば母の手伝いをし、時間があれば魔法の練習をする。フィンとルーシアが遊びに来れば、三人で町を歩くこともあった。
ただ、塔の中で見たものは、誰も完全には忘れられずにいた。
「ねえ、カイル。あの小さい精霊、また来ないかな」
ルーシアが道端の石を蹴りながら言った。
「来てほしいのか?」
「だって、面白いところにつれてってくれたじゃん」
「閉じ込められたけどね」
フィンがすかさず口を挟む。
「結果的には出られたでしょ」
「結果論だよ。入口が閉まったとき、君がどれだけ楽しそうにしていたか、僕はよく覚えている」
「楽しそうだった?」
「少なくとも僕にはそう見えた」
「フィンが怖がりすぎなんだよ」
ルーシアは悪びれずに笑った。
カイルは二人のやり取りを聞きながら、左手の指を軽く握った。指輪は服の下に隠してある。あれから何度か調べてみたが、魔力を流しても、指にはめても、目立った変化はなかった。
父に見せることも考えたが、塔の中で起きたことを説明するのが難しい。何より、あの人型の精霊が自分に何をしたのか、カイル自身にも分かっていなかった。
「そういえば、今日は町に隊商が来てるって」
フィンが話題を変えた。
「何を売りに来たの?」
「薬草やら魔道具やら、いろいろらしいよ。父さんが修理の依頼を受けるかもしれないって言っていた」
「じゃあ、見に行こうよ」
「僕は荷物持ちにされるのが嫌だから、遠慮したいな」
「まだ何も頼んでないじゃん」
「頼まないって約束できるのかな?」
ルーシアは答えずに笑いながら先を歩き始めた。
町の広場には、すでに何台かの荷車が並んでいた。商人たちが布を広げ、道具や食料を売っている。普段より人が多く、あちこちで値段を交渉する声が聞こえた。
カイルたちが荷車の間を歩いていると、見覚えのある男がグレンと話しているのを見つけた。父の工房に出入りする商人だった。
「おう、カイル。ちょうどいいところに来たな」
グレンが手を上げた。
「何か用?」
「用がなきゃ呼ばないさ。こっちの荷物を運ぶのを手伝ってくれ」
「やっぱり荷物持ちじゃないか」
フィンが小さく笑った。
商人はグレンに古い魔道具を見せていた。金属製の筒に細かな刻印が施されている。
「これも調子が悪いのか?」
グレンが筒を回しながら尋ねた。
「そうなんだ。前は一度魔力を通せば、しばらく安定して動いていたんだがな。最近は動いたり止まったりで、使い物にならん」
「壊れた場所は?」
「それが分からん。最近は別の町でも似たような話がよくあってな。塔の明かりが弱くなっているとか、井戸の水を引く魔道具が急に止まるとか」
グレンの手が少し止まった。
「塔の明かり?」
「ああ。北の町だ。あそこの塔は夜になると遠くからでも見えるくらい明るかったんだが、最近はずいぶん暗くなったらしい。町の人間は古くなったんだろうと言っていたがな」
「塔の整備は?」
「神殿が調べているそうだ。まあ、俺たち商人には関係のない話だが」
商人は気軽に笑った。
グレンは魔道具を机に置き、刻印の並びを確かめた。
「こいつの不調と塔が関係しているかは分からん。預かって調べてみる」
「助かるよ。直せるなら頼む」
その会話を聞きながら、カイルは塔の中で見た光景を思い出していた。
いくつもの塔のような建物。遠くまで伸びる光の筋。そして、弱々しく明滅する灯り。
あれが過去の記憶なのか、今どこかで起きていることなのか、まだ判断できない。
「カイル?」
ルーシアに袖を引かれた。
「どうしたの?」
「ぼんやりしてたから」
「ちょっと考え事」
「また難しい顔してる。子供らしくないよ」
「ルーシアに言われたくないな」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
二人のやり取りにフィンが口を挟もうとしたとき、広場の向こうから数人の人影が近づいてきた。
神殿の紋章をつけた服を着ている。先頭にいるのは、三十歳ほどの男性だった。落ち着いた身なりで、後ろには年配の女性と若い従者が続いている。
男は広場を見回し、グレンの前で足を止めた。
「失礼。アーデン工房のグレン殿でしょうか」
「そうだが」
「私は神殿から参りました、エドガーと申します。」
「神殿が俺に何の用だ?」
「先日、こちらの町で体調を崩していた子供が、急に元気になったという話を聞きました」
グレンの表情がわずかに変わった。
エドガーはその反応を見ても、穏やかな笑みを崩さなかった。
「そちらの、ルーシア・ハートウェルというお嬢さんです。少しお話を伺いたいことがありまして」
「俺に確認をとる必要はないが、理由をうかがっても?」
「はい。ご本人と、ご家族にお心当たりを伺えればと思っています。もちろん、無理にとは申しません。神殿としては、健康を取り戻されたことを喜ばしく思っていますし、今後の生活に不安がないか確認したいだけです」
その言葉に、フィンが一歩前に出た。
「妹に何か問題でも?」
「いいえ。むしろ、問題がないか確かめたいのです。長く体調を崩していたと聞いていますから」
「今は元気ですよ。母も医師も確認しています」
「それは何よりです」
エドガーはフィンに向けて丁寧にうなずいた。それから、ルーシアの方へ視線を移す。
「あなたがルーシアさんですね」
「そうだけど」
「お会いできて光栄です。お身体の具合はいかがですか?」
「元気だよ。走っても平気だし、前よりずっと動けるようになったの」
「それは素晴らしいことですね」
エドガーは嬉しそうに微笑んだ。
「ところで、最近、光の精霊があなたの周りにいるという話を耳にしました。何か変わったことはありませんか?」
ルーシアが首を傾げた。
「精霊ならいるよ」
「いつ頃からですか?」
「ずっと前から……かな。気づいたらいたんだよ」
「その精霊は、あなたの身体に触れることがありますか?」
「あるよ。胸のあたりが温かくなったり、光ったりするの」
フィンがルーシアの前に立った。
「それを聞いて、どうするんですか?」
「特別なことをするつもりはありません。ただ、精霊との結びつきは、人によって大きく異なります。特に強い精霊と結びついた場合、本人が気づかないうちに身体へ影響が出ることもあります」
「それは危険なんですか?」
「必ずしもそうではありません。むしろ、良い影響を与えることもあります」
エドガーはルーシアの胸元に視線を落とした。
「その精霊は、あなたの心臓を守っているのでしょうか」
その場の空気が少し変わった。
ルーシアは目を瞬かせ、フィンは眉を寄せた。
「どうして心臓のことを知っているんですか?」
「以前、神殿に記録が残っていたのです。幼い頃から身体が弱く、胸の音に異常があったと」
「そんなことまで調べたんですか」
「神殿には各地の医療記録が集まります。珍しい事例であれば、記録に残ることもあります」
エドガーの説明は自然だった。声も態度も落ち着いている。ルーシアを怖がらせようという様子もなかった。
それでも、カイルは気になった。
彼は最初からルーシアの精霊について知っていた。体調が回復したという噂だけを聞いて訪ねてきた人間なら、ここまで具体的な質問はしないだろう。
「精霊が心臓を守っているって、どういうことですか?」
カイルが尋ねると、エドガーは初めて彼に視線を向けた。
「君は?」
「カイル。友達だよ」
「そうですか。精霊の働きについて興味があるのですね」
「身体に影響が出るって言ったから。どうして分かるのかなと思って」
「精霊は人間の身体に干渉することがあります。傷を癒やしたり、魔力の流れを整えたりすることもある。ですが、どこまで影響を及ぼしているかを外から判断するのは難しいのです」
「じゃあ、ルーシアの精霊が何をしているかも分からない?」
「ええ。だからこそ、一度きちんと調べたいのです」
「調べるって、どうやって?」
「神殿には精霊との結びつきを確認するための道具があります。痛みを伴うものではありません。ご家族の許可をいただいたうえで、簡単な検査をするだけです」
フィンはすぐには答えなかった。
ルーシアはエドガーの顔を見て、それから兄の方を向いた。
「どうする?」
「今ここで決める必要はないよ」
フィンはそう言ってから、エドガーに向き直った。
「両親と相談します。妹のことなので、僕たちだけでは決められません」
「もちろんです。急ぐ必要はありませんから」
エドガーは懐から小さな紙片を取り出し、グレンに渡した。神殿の連絡先と、自分の名前が記されている。
「近いうちに、改めてご家族のもとへ伺います。ルーシアさんが健康で過ごせることを、私たちも願っています」
「ありがとうございます」
ルーシアは素直に礼を言った。
神殿関係者はそれ以上質問せず、広場の人混みへ戻っていった。
彼らの姿が見えなくなると、グレンは手元の紙片を眺めた。
「神殿が子供の健康を気にするなんて、珍しい話じゃない。だが、少し気になるな」
「気になるって?」
フィンが尋ねた。
「ルーシアの体調が良くなった話は聞いているかもしれんが、あの質問は少し詳しすぎる」
「私、何か悪いことしたのかな」
ルーシアが不安そうに言った。
「悪いことなんかしてないよ」
フィンは妹の頭に手を置いた。
「ただ、知らない人に何でも話す必要はない。今度から気をつけよう」
「分かってるって」
「本当に?」
「分かってるよ!」
ルーシアが頬を膨らませる。フィンはそれ以上言わず、彼女の頭から手を離した。
カイルは神殿関係者が消えた方を見ていた。
塔の中で、ルーシアの胸元の光が反応したことを思い出す。あの人型の精霊も、最初に彼女を見ていた。
神殿の男は、あの精霊のことをどこまで知っているのだろう。
*
夜。
カイルは寝台の上で、指輪を手のひらに乗せていた。
窓の外からは、夜風に揺れる木の葉の音が聞こえる。家の中は静かで、隣の部屋から両親の話し声がかすかに響いていた。
指輪は黒銀色の細い輪だった。表面には細かな溝が刻まれている。光にかざしても、ただの金属のように見える。
カイルは指先で溝をなぞった。
塔から持ち帰って以来、何度も試している。魔力を流してみたり、指にはめてみたり、布で磨いてみたりしたが、何も起きなかった。
「やっぱり、ただの飾りなのかな」
そうつぶやいて、指輪を窓辺の月明かりにかざした。
そのとき、表面の溝に細い光が走った。
カイルは手を止めた。
光は一瞬だけ指輪の全周を巡り、すぐに消えた。見間違いかと思い、角度を変えて確かめる。すると、今度は指輪の内側に小さな文字のようなものが浮かび上がった。
見たことのない形だった。
文字の並びを目で追おうとした瞬間、頭の奥に映像が流れ込んできた。
白い壁。
天井から伸びた細い照明。
机の上に並ぶ透明な板。
その向こうに、いくつもの文字や図形が浮かんでいる。
カイルは息を止めた。
知らない場所のはずなのに、どこに何があるのか分かる気がした。机の端に置かれた小さな容器。壁際に並んだ機器。光る板の上を動く自分の手。
自分の手が、何かを書いている。
そこには文字が並んでいた。今の世界で使われている文字とは違う。それでも、カイルにはその意味が分かりかけていた。
――接続状態。
――認証。
――記録領域。
断片的な言葉が頭の中に浮かぶ。
その奥で、誰かの声が聞こえた。
『……まだ、応答がある』
声の主は分からない。
次の瞬間、映像は途切れた。
カイルは指輪を握ったまま、しばらく動けなかった。胸が少し速く動いている。怖いというより、何かを思い出しかけたときの、落ち着かない感覚に近かった。
今の光景は何だったのか。
自分はあの場所を知っているのか。
指輪が見せたのか、それとも自分の中に残っていた記憶が勝手に浮かび上がったのか。
どちらにしても、これまでの記憶とは違っていた。
これまでは、白い部屋や光る板の断片が浮かぶだけだった。今回は、そこに何が置かれていたのか、何をしていたのかが少し分かった。
カイルは指輪をもう一度見た。
溝の光は消えている。文字も浮かんでいない。
「認証……」
口に出してみても、何も起きなかった。
指輪は静かに手のひらに収まっている。
カイルは寝台に横になった。眠るにはまだ早かったが、これ以上調べても何も分からない気がした。
神殿の男がルーシアに尋ねたこと。
そして、指輪が見せた知らない場所の記憶。
カイルは指輪を枕元に置いた。
塔で見た、光の列が頭に浮かぶ。
あれは昔の記憶だったのだろうか。それとも、今もどこかで起きていることなのだろうか。
答えを知るには、まだ何もかも足りなかった。




