外へ
人型の精霊が消えた後も、カイルはしばらくその場を動けなかった。
掌には、黒銀の指輪が残されている。
細い溝が刻まれた表面は、石壁に埋め込まれた青い石の光を受けて、鈍く輝いていた。
「それ、何か分かった?」
フィンが尋ねた。
「何も。どうして僕に渡したのかも分からない」
「そっか。頭の中を勝手に調べて、説明もなしに指輪を渡してくる。ずいぶん迷惑な精霊だね」
「でも、くれたんだよ」
「だから何?」
「……いや、何でもない」
カイルは指輪を握り込んだ。
ルーシアは、精霊が消えた場所をじっと見つめている。胸元から漏れていた光は、いつの間にか落ち着いていた。
「もういないのかな」
「さあね。少なくとも、今は見えない」
フィンは周囲を警戒しながら答えた。
「それより、帰り道を探そう。ここで一晩過ごすのは嫌だからね」
「僕も嫌だよ」
カイルが立ち上がったとき、掌の指輪がわずかに震えた。
正確には、指輪が震えたというより、指先に細かな振動が伝わったようだった。
同時に、正面の壁に刻まれた紋様が淡く光り始める。
「また何か始まったよ」
フィンが一歩下がった。
壁の円形紋様を中心に、細い光が石の継ぎ目を伝って左右へ広がっていく。やがて、三人が通ってきた階段の方向へ流れ始めた。
「こっちに行けってことかな」
ルーシアが光を追いかけようとする。
「待って。さっきみたいに床が動くかもしれない」
カイルは足元を確認した。青い石の一つが点滅している。しばらく見ていると、その隣の石も光り、さらに奥へと順番に反応が続いた。
以前と同じ仕組みに見える。
ただ、今度は光が入口の方へ向かっていた。
「道を開けてくれているのかもしれない」
「それを信じるの?」
「ほかに手掛かりもないし」
フィンは少し考えた後、ため息をついた。
「分かった。ただし、先頭は僕が行く。何かあったらすぐ止まること。ルーシア、勝手に触らない」
「分かってるってば」
三人は光の続く通路へ戻った。
先ほど通った場所の壁には、ところどころ暗くなった青い石が残っていた。カイルは足を止め、いくつかを見比べる。
「これ、さっきは光ってたよね」
「そうだったと思う。全部じゃないけど」
フィンも壁に目を向けた。
「消耗したのかな。ずっと使っていた明かりが切れたようにも見える」
「精霊がいなくなったから?」
「分からないね。そもそも、ここが何のための場所なのかも分かっていないんだから」
フィンの言葉には、いつもの皮肉が少し足りなかった。
カイルは壁に手を近づけた。指輪の表面が、かすかに温かくなる。
その瞬間、頭の中に短い映像が浮かんだ。
縦に伸びる光の列。
その向こうに、よく似た構造の建物がいくつも並んでいる。
しかし、どの建物も光が弱く、ところどころ暗く沈んでいた。
映像はすぐに消えた。
「カイル?」
「……何でもない。ちょっと、頭に何か浮かんだだけ」
「またあの精霊に何かされた?」
「たぶん、指輪が反応したんだと思う」
カイルは指輪を見つめた。
何が見えたのか、説明できるほど鮮明ではない。
けれど、さっきの塔とは違う場所が映っていた気がする。
フィンに話そうか迷ったが、今は確かめようがなかった。
「とにかく、外に出よう」
三人は歩き続けた。
やがて、最初に入ってきた広い通路へ戻る。壁の円形紋様が再び光り、今度は石壁の一部が音を立てて横へ動いた。
隙間から、外の空気が流れ込んでくる。
「開いた!」
ルーシアが声を上げた。
フィンはすぐに彼女の肩を押さえた。
「走らない。外に出るまで何があるか分からないだろ」
「分かってるよ!」
「君の分かってるは信用できないんだ」
「ひどい!」
二人のやり取りを聞きながら、カイルは先に外を確認した。
見慣れた塔の裏手だった。
木々の間から、町の建物が見える。遠くでは人々が行き交い、荷車の音や子供たちの声も聞こえてきた。
何も変わっていない。
三人は慎重に外へ出た。
石壁が元の位置に戻り、隠し扉は跡形もなく閉じた。
カイルは振り返って塔を見上げた。
高い位置にある光の一部が、以前より弱く見える。目を凝らしても、はっきりとは分からなかった。
「ねえ、あそこ」
ルーシアも同じ場所を見ていた。
「光が小さくなってない?」
「気のせいかもしれない。塔の光なんて、いつも同じように見ているわけじゃないからね」
フィンはそう言ったが、視線はしばらく塔から離れなかった。
「帰ろう。暗くなる前に」
カイルは指輪をポケットにしまった。
三人は町へ戻った。
***
家に着くと、最初に待っていたのはエレナだった。
「どこへ行っていたの?」
いつもと変わらない落ち着いた声だったが、玄関に立つ彼女の表情は硬かった。
カイルはフィンとルーシアを見た。
二人もこちらを見ている。
どう説明するか、三人とも考えていなかった。
「ちょっと、塔の近くを調べていて……」
「塔の近く?」
「うん。裏の方に、変なところがあって」
エレナはカイルの服についた埃や、膝の汚れを確認した。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「本当」
エレナは三人の顔を順番に見た。ルーシアの胸元にも目を向けたが、特に異常は見つけられなかったらしい。
「詳しい話は中で聞くわ。フィンとルーシアも、今日はうちで食べていきなさい」
「ありがとうございます」
フィンが素直に頭を下げた。
その後、グレンも帰宅し、三人は大人たちに塔で起きたことを説明することになった。
ただし、人型の精霊や指輪のことを、どこまで話すべきかはカイルにも判断がつかなかった。
結局、隠し通路を見つけたこと、内部で不思議な仕掛けが動いたこと、そして出口が閉じてしまったことを中心に話した。
「よく無事だったな」
グレンは腕を組み、カイルの話を聞いていた。
「塔の内部にそんな場所が残っていたとは知らなかった。俺も見たことがない」
「お父さんでも?」
「塔の修理に入ったことはあるが、あそこは管理者の許可がないと入れない場所も多い。勝手に入っていいところじゃないぞ」
「ごめんなさい」
「謝るなら、次からは勝手に行くな」
グレンはそう言ってから、カイルの頭を軽く撫でた。
「まあ、無事に帰ってきたならいい。今度は俺に話を通せ。調べるなら一緒に行く」
「うん」
その言葉に、カイルは少し安心した。
食事の途中、グレンがふと思い出したように話を始めた。
「そういえば、先週来た商人が言っていたんだが、北の方の町で精霊塔の調子が悪いらしい」
エレナが顔を上げる。
「故障?」
「詳しくは知らん。水の供給が不安定になったとか、塔の光が弱くなったとか。そんな話だったな」
「修理は?」
「専門の人間が調べているそうだ。ああいうものは簡単に直せないからな」
カイルは手を止めた。
先ほど頭に浮かんだ映像を思い出す。
光の弱い建物が、いくつも並んでいた。
「ほかの町でも、塔の光が弱くなることがあるの?」
「古い塔ならな。何百年も使っているんだ。多少の不調くらいはある」
グレンは特に気にしていない様子だった。
「ただ、最近は修理の依頼が増えているらしい。俺のところにも、大型の魔道具の調整を頼む話が来ている」
「この町の塔も?」
「今のところは問題ない。少なくとも、町の人間が困るようなことは起きていないな」
カイルは黙って食事を続けた。
指輪はポケットの中で静かだった。
***
その夜、カイルは寝床に入る前に指輪を取り出した。
窓から差し込む月明かりにかざすと、表面の細い溝がわずかに浮かび上がる。
指にはめてみたが、特別な反応はない。
魔力を流しても、何も起こらなかった。
「何なんだろうな、これ」
答えるものはいない。
カイルは指輪を枕元に置いた。
目を閉じると、塔の中で見た光景が頭に浮かんだ。
見知らぬ建物が並んでいた。どれも精霊塔によく似ていた。
そのうちの一つは、光がほとんど消えていた。
あれは過去の記録なのか。それとも、今どこかにある塔なのか。
考えても答えは出なかった。
ただ、カイルは初めて、自分たちの町にある塔も、いつか同じようになるのではないかと思った。
その考えを確かめる方法は、まだ見つかっていない。




