階段
壁の円形紋様から伸びた光は、階段の上へ向かって細く続いていた。
カイルは光の先を見上げ、それから背後の壁を振り返った。入口が閉じてから、もう何度も出口を探している。押しても叩いても、石壁は何の反応も示さなかった。
「上に行くしかないか」
「賛成。ここに残っていても、お腹が減るだけだからね」
フィンが肩をすくめた。
「お腹の心配するところ?」
「大事だよ。閉じ込められた場所で空腹になったら、ルーシアが真っ先に騒ぎ出すだろ」
「フィンだって騒ぐじゃん!」
「僕は体力を温存するために、必要なときだけ騒ぐんだ」
「それ、ただの面倒くさがりでしょ!」
二人の言い合いを聞きながら、カイルは階段に足をかけた。
光は、彼らが近づいても消えなかった。
三人は壁に手を添え、足元を確かめながら上っていく。石段は緩やかに曲がり、やがて広い踊り場へとつながっていた。壁には細かな紋様が刻まれ、ところどころに埋め込まれた青い石が淡く光っている。
その先に、何かが立っていた。
人の形をしている。
背丈はカイルよりずっと高く、輪郭は薄い光でできていた。顔にあたる部分には目や鼻らしいものが見えるものの、細部は霞んでいる。足元は床からわずかに浮き、身体の輪郭が水面の反射のように揺れていた。
「あれ……」
ルーシアが息を潜める。
フィンは彼女の腕をつかみ、カイルの前に半歩出た。
「動くなよ。向こうが何をするか分からない」
人型の精霊は、三人に気づいているようだった。
しばらく彼らを眺めたあと、ゆっくりと首を傾ける。
その視線が、ルーシアの胸元へ向いた。
彼女の服の内側で、光が一瞬だけ強まる。
人型の精霊は、何かを確かめるように身を乗り出した。するとルーシアの精霊も反応し、胸元から淡い光が漏れ出す。
二つの光が、互いを牽制するように揺れた。
「……なんか、あたしの精霊と喧嘩してない?」
「君はどうして、そんな他人事みたいな言い方ができるんだ」
フィンが呆れた声を出した。
そのとき、人型の精霊がカイルを見た。
首が傾く。
まるで、見慣れない物を前にした子供が、どこから眺めればいいのか考えているような動きだった。
カイルは思わずフィンを見て、自分の胸を指さした。
「……僕?」
精霊は、さらに首を傾けた。
次の瞬間、姿が消えた。
「えっ?」
気づいたときには、目の前にいた。
カイルが後ずさるより早く、精霊の両手が伸びてきた。冷たさも重さも感じない手が、彼の頬を左右から挟み込む。
逃げようとしたカイルの身体が硬直した。
精霊は顔を近づけ、まじまじと彼の目をのぞき込んだ。
そして、両目から光が流れ込んだ。
「う、あっ……!」
視界が真っ白に染まる。
カイルは目を閉じようとした。
けれど、まぶたを動かしている感覚さえ曖昧になった。光は目の奥から頭の中へ入り込み、何かを探るように広がっていく。
記憶が引きずり出される。
知らない文字。見覚えのない建物。見慣れたはずの手の動き。紙に書きつけた数式。
それらが次々に浮かび、形を保つ間もなく崩れていった。
頭蓋骨の内側を、無数の指でかき混ぜられているようだった。
「カイル!」
フィンの声が遠くから響く。
ルーシアが何か叫んでいる。精霊を引き離そうとしているのかもしれない。
カイルは答えようとしたが、声が出なかった。
意識の奥に、見知らぬ光景がちらつく。
白い壁。薄く光る板。誰かの手。自分のものに思える筆跡。
どれも、今まで夢の断片のように曖昧だったものだ。
それらが一瞬だけ、はっきりと輪郭を持った。
けれど、意味を理解するより先に、光景は遠ざかっていく。
やがて精霊は、すっと両手を離した。
カイルはその場に膝をつき、荒い息を吐いた。
「おい、カイル! 聞こえるか?」
フィンが肩を支える。
「……聞こえる。頭が、変な感じがする」
「変な感じで済ませていい顔色じゃないよ。何をされた?」
「分からない。でも……頭の中を、調べられたような」
カイルは額を押さえた。
痛みは少しずつ引いていた。しかし、頭の奥には何かが残っている。今まで遠くに沈んでいた記憶の欠片が、薄い膜の向こうで形を取り始めているような感覚だった。
人型の精霊は、そんな彼をじっと見下ろしていた。
先ほどまでの不思議そうな仕草は消えている。何かを確かめ終えたようにも、まだ判断を続けているようにも見えた。
やがて精霊は、周囲へ手を伸ばした。
壁に刻まれた紋様が淡く輝く。
床の青い石から細かな光が浮かび、壁の表面を走る。石の一部が砂のように崩れたかと思うと、その粒子まで光に包まれ、精霊の手元へ集まり始めた。
「何をしてるの……?」
ルーシアが呟く。
カイルにも分からなかった。
集まった光は、精霊の両手の間で細くまとまり、少しずつ輪の形を作っていく。光の中で素材が組み替えられ、表面に細かな溝が刻まれた。
やがて光が収まったとき、精霊の手には一本の指輪が残されていた。
黒に近い銀色の輪だった。
宝石はなく、幅はわずか数ミリほど。表面には、目を凝らさなければ見落としそうな細い溝が幾重にも走っている。
精霊はそれを眺め、次にカイルを見た。
そして、指輪を差し出した。
「……僕に?」
精霊は答えない。
ただ、カイルの顔と指輪を交互に見ている。
フィンが警戒した声で言った。
「受け取るの? さっき、骨が透けるぐらい光らされたばかりだよ」
「分かってる」
カイルは指輪を見つめた。
怖かった。さっきの感覚を思い出すだけで、頭の奥がざわつく。
それでも、この精霊が自分を調べた理由も、指輪を作った理由も知りたかった。
カイルはゆっくりと手を伸ばした。
指輪が掌に触れた瞬間、精霊の輪郭が淡く揺れた。
まるで、ようやく探していたものを見つけたかのように。
その仕草の意味を、カイルはまだ知らなかった。
指輪を握りしめたとき、頭の奥で、消えかけた光景がもう一度だけ浮かんだ。
見たことのない部屋。
並んだ記録装置。
そして、自分の手が何かを書き込んでいる光景。
カイルが顔を上げたとき、人型の精霊はすでに踊り場の奥へと移動していた。
三人を振り返りながら、薄い輪郭を揺らしている。
「……待って!」
カイルが声を上げる。
精霊は一瞬だけ動きを止めた。
それから、光の粒子となって静かにほどけていった。
残されたのは、石造りの踊り場と、カイルの掌にある黒銀の指輪だけだった。




